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Where the Map Forgets

Metadata

Table of Contents

  1. The Road Beyond the Map
  2. The Keeper of Ash and Bloom
  3. Questions Beneath the Bell
  4. Lanterns on the River
  5. The Waiting Season
  6. Ashes and Echoes
  7. The Invisible Dance
  8. Flowers for an Unseen Shrine

Content

The Road Beyond the Map

店員は彼女の車の去りゆくを見送りて、既にその面影を忘れたり。客の顔などは皆同じく見ゆるものなれば、記憶に留むる由もなし。三月前の雑誌を再び手に取りて、同じ頁を繰り返し眺む。色褪せたる表紙には夏の海の写真ありて、今は遠き季節を偲ばせたり。

店の蛍光灯は昼夜の別なく照らし続け、時の流れを曖昧にす。棚に並べる商品は少なくなりて、補充の車の来ることも稀なり。されど店員は変わらず此処に在りて、訪れる者なき時間を過ごすなり。

彼女の車は細き道を進みゆく。後方の鏡には店の明かり小さくなりて、やがて見えずなりぬ。道の両側には草木繁く茂りて、舗装の割れ目より蔓延りたり。文明の痕跡は次第に薄れゆくを感じたり。

道果てまで
幾許の距離ぞ
知る由なし

最後の自動販売機の前を過ぎたり。その機械の発する低き音は、電気の通いたる世界の最後の証なりき。赤き光の点滅するを見て、彼女は一瞬停まらんとせしが、思い直して進みたり。

鏡に映る販売機の姿は次第に小さくなり、遂には点となりて消えぬ。その唸りの音も風の音に紛れて聞こえずなりたり。今や彼女を包むは静寂のみ。エンジンの音さえも森に吸い込まるるが如し。

道は更に狭まりて、地図の記す世界の縁へと続きたり。

販売機の唸りは彼女の背後に遠ざかりゆく。鏡に映る赤き光も今は微かなる点となりて、やがて闇に溶けたり。電気の音の絶えし後には、ただ風の渡る音のみ残れり。

文明の供給の尽きざることを約せし、あの機械の声も既に聞こえず。缶珈琲の温かさも、冷たき炭酸の泡も、今は遠き世界のものとなりぬ。彼女の車は唯一つ、この静寂の中を進みゆくのみ。

電の音
絶えて残るは
風の声のみ

森は音を吸い込みて、エンジンの響きさえも弱めたり。道の両側より迫り来る木々は、人の世の境を示すが如し。舗装の途切れし先には、砂利の道の見ゆ。

車輪の下にて石の音の聞こゆるは、また一つの境を越えたる証なり。硬き舗装より柔らかき砂利へ。許されたる領域の、また一つ狭まりゆくを感じたり。

砂利の道もまた土の道となりゆく。舗装の終わりしは既に遠く、今は砂利さえも薄れて、踏み固められたる土の面の現れたり。車輪の響きもまた変わりて、より深く、より鈍き音となりぬ。

表面の変わるごとに、彼女は境を越えゆくを覚えたり。一つの閾を過ぎるごとに、一つの許しの取り消さるるを感じたり。舗装は文明の許可なりき。砂利は辛うじて認められたる領域なりき。されど土は、もはや人の管理の及ばざる場所への入口なり。

道の質地の
変わるごとにまた
許し失せゆく

タイヤの跡も、ここより先は稀なり。誰かが此処まで来たりしことはあれど、頻繁に非ず。土は柔らかく、されど確かに、彼女の車を前へと導きゆく。

導きの装置もまた、此処にては力を失いたり。画面に映りし青き点、彼女の在処を示せしものは、震え、明滅し、遂には白き虚無の中に溶け入りぬ。衛星の声も届かざる領域に、彼女は入りたるなり。

機械の目の見失いたる場所にて、彼女は初めて真に独りとなりぬ。地図の記憶も、座標の確かさも、今は何の助けとならず。ただ目の前に続く土の道のみが、唯一の導きなり。

衛星さえ
見失いたる地に
独り入りぬ

装置は未だ手の中にあれど、その画面は空しく白きのみ。彼女は一瞬、引き返すべきかと思いたれど、前方への好奇心、その力の方が勝りたり。

道は次第に狭まりて、一条の細き径となりぬ。左右より竹林迫り来たり、青き壁の如くに彼女を囲みたり。

風なきに
竹のささやく
細き道
緑の壁に
閉ざされて行く

葉擦れの音、絶えず耳に触るれど、大気は動かず。竹の声のみが、見えざる何ものかの息吹を伝うるが如し。この緑の回廊に、彼女は呑まれゆくなり。

彼女は己に言い聞かす、これは業なりと。自由契約の撮影依頼、都市探索の記録、山中への旅を正当化すべき何らかの名目。されど心の奥底にては、真の理由は霧の如く曖昧なり。

携帯の電波
山に呑まれて
消ゆる時
言い訳もまた
力を失う

この山道に入りしより、文明の糸は断たれたり。画面は既に無信号を示し、彼女は己の意志のみを頼りとす。フリーランスの仕事、探索者たちの共同体、閲覧数、「いいね」の数——それらすべては今や遠き世界の事象なり。

されど彼女は進み続く。カメラを携え、記録を重ね、何かを探し求むる者として。その「何か」の正体を、彼女自身も知らざるままに。

仕事という名の鎧は、この深き竹林の前には薄き紙の如し。山は言い訳を求めず、ただ在るのみ。彼女もまた、理由なく此処に引き寄せられし者なるを、漸く認めんとす。

記録せんとする心と、記録されざるものに触れんとする渇望と。その狭間にて、彼女は竹の声に耳を傾く。ブログの読者も、依頼主も、今は存在せず。ただ彼女と、この忘れられし道のみが在り。

名もなき衝動に導かれ、彼女は更に奥へと歩を進むるなり。仕事という言葉は、もはや彼女の唇に上らず。

助手席に置かれたる鞄の中には、三つの硝子の眼、二組の予備なる電源、そして厚き手帳一冊。その頁には地名の数々、悉く横線にて消されたり。廃村、廃校、朽ちたる工場——すべて既に彼女の手により記録され、電網の海に放たれ、無数の視線に消費されし場所なり。

鞄重し
消されし地名
幾百ぞ
されど心は
満たされぬまま

レンズは風景を切り取り、電池は時を刻み、手帳は証を留む。されど彼女が真に携えるは、別の重みなり。シャッターを押す指の、あの躊躇い。廃墟の美学、朽ちゆくものの詩情——それらは容易く、あまりに容易く。

彼女の指は問いかく。崩壊の彼方に、何かありやと。安き美の向こうに、名付け得ぬものの気配を。その答えなき問いこそが、真の重荷なり。

彼女が求むるは、崩壊の詩にあらず。朽ちたるものの表層、その安らかなる美しさの奥底に、言葉なき何かの息吹あらんことを。指はシャッターの上に留まり、問い続く——この瞬間に、ただ終わりのみを見るべきか、と。

廃墟撮る
指の迷いに
宿るもの
美の彼方なる
名無き予感よ

されど彼女自身、その「何か」の正体を知らず。ただ感ずるのみ。既に撮りたる幾百の画像の中に、それは未だ現れず。電網に放ちし無数の眼差しも、それを見出すこと能わず。彼女の探求は、形なきものへの渇望なり。答えは遠く、問いのみが重く、旅は続く。

回復せんとするは、場所にあらず。彼女の内なる初心——閾に惹かれし時の感覚、人の意志が静寂に譲り渡す境界に立ちし日の、あの震えなり。

境界にて
人の意志消ゆ
静けさや
初めの心
今いずこなる

彼女が求むるは、失いし自己の断片か。撮影を始めし頃の、純粋なる驚きの感覚。それは幾年の間に、技巧と認識の下に埋もれたり。夕凪村の名を聞きしことなし。されど、その無名なることこそが、彼女を呼ぶ。

夕凪村の名を知る者なし。写真家の集う場にも、電子の網にも、その痕跡を見出すこと能わず。されど、彼女の前に現れし無名の道は、忘却を待ちしが如く、ただ静かに横たわれり。

地図に無き
道は忘却
待ちしごと
名無き村へと
我を誘いぬ

この道の存在せざることこそ、真実の証なり。誰も語らぬ場所、誰も記録せぬ村——そこにこそ、彼女の求むる何かが潜むと知る。

学舎まず現る——その壁は堅固なる灰色の石造にして、時の風雨に耐えしことを示せり。されど、窓枠はことごとく空虚なり。破壊の痕跡なく、ガラスの破片も散らばらず。初めより窓という概念を拒みしが如く、ただ四角き虚無のみが壁面を穿てり。

建物は盲目として生まれ来たるか。或いは、何者かが意図を持ちて、外界との交わりを断ちしか。彼女は石段に近づき、その異様なる完全性を見つむ。窓枠の縁は滑らかにして、未完成にあらず。これは設計なり、意志なり。

窓なき舎
光を拒み
立ちたるは
盲いし意図の
形見なるらん

教室の内部は闇に沈みて、入口よりわずかに差し込む光のみが床を照らせり。彼女は躊躇いつつも、その境界を越えんとす。靴底が朽葉を踏む音、かすかなる湿気の匂い。建物の内側より発する冷気は、生ける者の吐息に似たり。

壁に手を触るれば、表面は予想に反して温かし。いや、温かきにあらず——外気よりも冷たからざるのみ。まるで建物自体が体温を保ちしが如く。彼女は背筋に悪寒を覚ゆれども、カメラを構うる手は震えず。

この学舎に学びし子らは、いかなる教えを受けしか。窓なき教室にて、外の世界を知ることなく育ちし者たちの運命や如何に。

彼女は門口に立ちて、カメラを構えたり。閾は朽葉の堆積に厚く覆われ、踏み入る者を拒むが如し。シャッターを切る音のみが空間を裂き、その後に訪れる静寂は、まるで音そのものが吸い取られしかの如く深し。

鳥の声なし。虫の羽音なし。風さえも、この場所を避けて通るらん。彼女は己が呼吸の音を聞く——浅く、速く、胸の内にて響く鼓動。カメラのシャッター音のみが、この死せる静寂に対する唯一の抵抗なり。

音絶えし
学舎の門に
立つ我は
己が息の音
聞くのみぞ憂き

レンズを通して見る世界は、肉眼にて見るよりも更に異質なり。ファインダーの中にて、朽葉は黒き波の如く凝固し、門の奥の闇は底なき深淵を思わしむ。彼女は再びシャッターを切る。その機械音すらも、建物に呑まれて消ゆるかの如し。

この静寂は、音の不在にあらず。何かが音を食らいて、虚無のみを残せるなり。

棚田は山腹を幾何の階梯と成して登りゆけども、既にその用を失いて久し。水を湛えし田の面には、若木の芽生え無数に立ち、その根は石組みの境を割きて侵入せり。

幾代もの人の手によりて築かれし石垣は、今や自然の力の前に屈し、罅割れて崩れんとす。彼女はレンズを向く。完璧なる人工の秩序と、それを蝕む野生の力との対峙——静止せる戦場の如き光景なり。

棚田に
若木の根這う
石割れて
幾代の業
森に還るらん

水面に映る空は白濁し、浮草と落葉とに覆われたり。かつて稲穂の波打ちし場所に、今は別の生命の律動あり。彼女はシャッターを切る。文明の痕跡が、ゆるやかに、されど確実に消えゆく様を記録せんとして。

道の辺に、羊歯の繁茂する中に半ば埋もれて、標識は傾きて立てり。「夕凪村 三粁」と記されし文字は褪せたれども、なお判読すべし。その指し示す方角には、もはや存在せざるものへの道ありや。

彼女は立ち止まり、標識を撮影す。文字の剥落せる様、錆の浮きたる鉄板、そして執拗に絡みつく蔓草——すべてが時の経過を物語れり。

標識の
指す先遠く
夕凪村
在りや無しやと
羊歯に問うかな

三粁の距離は、地図上にては僅かなれども、この忘れられたる道にありては、異界への隔たりの如くに思わる。彼女はカメラを提げ、その方向へと歩を進めたり。

歩を進むるうちに、森は不意に開けたり。そこに現れしは鳥居——両界を分かつ門の如く立てるものなり。かつては朱の鮮やかなりしならん、されど今はその色も失せて、葛の蔓の生ける帳に覆われたり。

葛の葉は
鳥居を包み
風もなく
揺るる様こそ
異界の兆しか

彼女の感ぜざる風に、葉は戦ぎて、まるで祭の幕の如く鳥居に垂れかかれり。神域への入口は、もはや此の世のものならざる気配を纏いたり。

葛は鳥居を覆いて、まさに祭礼の幕の如く垂れかかれり。その葉は彼女の感ぜざる風に揺らぎて、静寂なる森の中に独り動けり。彼女は立ち止まりて、この光景の異様なる美しさに心奪われたり。

葛の葉の
震えは誰が
呼ぶ声ぞ
見えぬ風吹く
神の領域

自然と人の営みとの境界は、ここにて曖昧なり。人の手によりて建てられし鳥居は、今や自然の懐に抱かれて、されど尚その威厳を保てり。朱の色は褪せたれども、門としての存在は消えず。むしろ葛の緑に包まれて、一層神秘の相を帯びたるが如し。

彼女は足を踏み入れんとして躊躇えり。この鳥居を潜らば、真に異界へと踏み込むことになるやもしれず。葛の葉は絶えず揺れて、まるで彼女を招くが如く、或いは警告するが如く見ゆ。

森の静けさの中に、遠き昔の祭の音色が聞こゆる気配あり。鈴の音、太鼓の響き、祝詞の声——されど実際には何の音もなし。ただ葛の葉の擦れ合う微かなる音のみ。

彼女はカメラを構えたり。ファインダーを通して見る世界は、肉眼にて見るよりも一層鮮明なり。対比——人の造りしものを自然が取り戻さんとする様、されど門は倒れず、抗いて立てる姿。シャッターを切る瞬間、葛の葉は一斉に揺れて、まるで彼女の行為に応えるが如くなりき。

鳥居立つ
葛に埋もれて
なお神域
境界守る
朽ちぬ意志かな

鳥居の前に立ちて、彼女は再びカメラを構えたり。ファインダーの中に収めんとする光景は、単なる廃墟にあらず。人の手の跡と自然の力との、静かなる闘争の記録なり。

朱塗りの柱は、幾年月の風雨に晒されて色褪せたれども、その姿勢は微塵も崩れず。葛は執拗に絡みつき、覆い隠さんとすれども、鳥居は屈せず。この対比こそ、彼女が捉えんとする真実なり。

レンズを通して見れば、葛の緑と朱の残滓とが織りなす模様は、まるで時の流れそのものを可視化せるが如し。自然は容赦なく侵食すれども、人の意志の結晶たる構造物は、なお抵抗を続く。

彼女はシャッターを切れり。その瞬間、不思議なる感覚彼女を捉えたり。撮影する者と撮影される対象との境界が曖昧となり、己もまたこの場の一部となりしかの如き錯覚に囚われたり。

門は語る
人の祈りと
自然の力
せめぎ合いつつ
共に在ること

鳥居を潜りて一歩を踏み入るれば、世界は一変せり。

此方の地には雑草一本として生えず、落葉の影だに見えず。踏み固められたる土は、滑らかなる光沢を帯びて、人の足に馴染みたる証を示せり。

彼女は歩みを止めて、足下を凝視せり。この清浄なる状態は、偶然の産物にあらず。誰かが、それも近き日に、この径を掃き清めたるなり。その営みの痕跡は、明白なり。

径の両脇に並べられたる石は、整然として配置され、一つとして乱れず。角々まで箒目の跡鮮やかに残り、人の意志の介在を雄弁に物語れり。

掃き清め
保たれし径
誰が為に
今も通いて
守る者ありや

荒廃せる社の領域にありながら、この径のみは生者の領分として守られ続けたり。

此の営みは、偶然の所為にあらず。人の手の痕跡は、疑うべくもなし。

石の一つ一つに宿る意図、箒目の規則正しき筋目、そは日々の勤めの証なり。最近の、それも恒常的なる訪問者の存在を、この径は静かに告げたり。

何者かが此処に通い、何者かが此の清浄を保ち続けたるなり。その者の足音は聞こえねども、その者の心は石と土に刻まれたり。

掃く人の
姿は見えで
石一つ
整いて語る
日々の営みを

彼女は膝を屈して、一つの石に触れたり。温もりこそなけれ、人の意志の確かさを感じ取れり。

彼女はカメラを下ろし、鳥居を潜りたり。その足音は、初めて此の静寂を破る響きとなりぬ。まるで世界が息を呑みて待ちたる如く、空気さえも凝りて動かず。

一歩、また一歩。靴底の音のみが、この境内に生の証を刻みゆく。

鳥居越えて
踏む音一つ
静寂の
息詰めし世に
初めての響き

彼女は立ち止まり、耳を澄ませたり。己が呼吸の音すらも、この場には異質なるものと思われたり。されど進まざるを得ず。

広場は彼女の前に開けたり。

風化せる木材、幾年の足に磨かれて滑らかなる石段、日輪に晒されて色褪せたる紙提灯——すべては写真の約せし通り、人の気配なく朽ちゆくままに在りき。建物は傾き、屋根には草生ひ、壁板は剥がれて内部の闇を覗かせたり。

彼女はゆるりと歩を進め、広場の中央に立ちたり。ここに市の立ちし日もありしならむ。子らの笑ひ声、商ひの呼び声、祭りの賑はひ——今はただ風の音のみ。

朽ちし村
時の止まりし
広場には
人の営み
影のみ残る

カメラを構へ、彼女はシャッターを切りたり。一枚、また一枚。光と影の織りなす廃墟の美を捉へむとす。提灯は風に揺れて、かすかに軋む音を立てたり。その音すらも、この場の静寂を深むるのみ。

石段を一段一段確かめつつ、彼女は広場を横切りゆく。木の床は踏めば軋み、或る所は腐りて危ふし。注意深く足場を選びて進みたり。

されど、ふと気づきたり。

広場の奥、鳥居の立つ社の方を見遣れば——何やら様子の異なるを。他の場所は落葉積もり、蜘蛛の巣張りて荒れ果てたるに、かの一角のみは。

彼女は足を速めたり。カメラを握る手に、いつしか力籠もりぬ。

近づくにつれて明らかとなりぬ——

社の周りのみは、何者かの手にて落葉払はれたり。

他の場所は朽葉厚く積もり、埃に覆はれて久しきに、この一角のみは清められたるが如し。石畳は掃き清められ、鳥居の朱も拭はれて、古びたれども穢れなし。注連縄すらも新しく張り替へられたるやうに見ゆ。

彼女は立ち止まり、息を呑みたり。

誰ぞ此処に来たりしか。いつ。何の為に。

廃墟と信じて
訪ひ来たる地に
人の手の
痕跡ありて
心騒ぎぬ

風は相変はらず吹き渡れども、今はその音すらも違ひて聞こゆ。静寂の中に、何か見えざる存在の気配を感じたり。彼女の背筋に冷たきもの走る。

されど足は既に動き出でたり。引き寄せられるが如く、社へと近づきゆく。

そして見たり——

彼女は更に歩を進めたり。胸に掛けたる写真機のことも忘れ果てて、ただ引き寄せられるままに。

そして遂に見たり——白き菊の花を。

供へられたる花は、真白き菊にて、その花弁には今朝の露なほ宿りて、光を宿したり。生きたる花なり。摘まれて間もなき花なり。

白菊の
露まだ残る
花びらに
朝の光の
宿りてをりぬ

新しきこと疑ふべくもなし。今朝供へられしものか。否、この一刻の内に置かれしものやもしれず。

彼女の手は震へたり。此処に、たった今まで、誰かゐたりしか。

廃墟にあらず。

忘れられたる地にあらず。

今なほ、誰かが此処を守りをるなり。

今朝供へられしものなるべし。否、この一刻の内に置かれしものならむ。露の玉のなほ花弁に残りて、朝日に輝けるを見れば、疑ふべくもあらず。

誰かゐし
この一刻に
白菊を
供へて去りし
人のありけり

新しさよ。あまりにも新しき供物なり。彼女の心臓は激しく打ちたり。されば此処は、まことに人の訪ふ地なりしか。

彼女は息を殺して四方を見廻したり。空ろなる窓々、音なき戸口、ことごとく静寂に閉ざされたれど、何ものかの気配は消えず。

人ならぬ
影や潜める
廃墟に
われ独りには
あらざりしかな

脈搏は速まりて、胸の内に響きわたる。誰ぞ、此処に在りしや。誰ぞ、今もなほ此処に在るや。彼女は確信せり――この忘れられし地に、己一人にあらざることを。


The Keeper of Ash and Bloom

老媼の箒は石の上を掃く。規則正しき弧を描きて、絶えず動けり。されどこの石畳こそ、在るべからざるものなれ。四十年前、炎は総てを嘗め尽くしたりと云ふに、今し石は冷やかに横たはる。

松の葉落ちて積もれるさま、また灰の薄く敷かれたるさま――いづれも箒に集められゆく。この塵芥は果たして四十年の歳月を経たるものか、はた今朝方降り積もりしものか。媼は問はず、ただ掃くのみ。

箒の音の
石に響きて
朝の霜
いづれの世より
残りしものぞ

手の動きに淀みなし。腰は曲がれども、箒を操る術は確かなり。石と石との隙間に溜まりし細かなる塵までも、丁寧に掃き出さる。まるで神域を清むる神職の如く、まるで此処に未だ社の在るが如く。

されど社は無し。柱の痕すら定かならず。ただ媼の記憶の中にのみ、朱塗りの鳥居、檜皮葺の屋根、鈴の音――それらは生き続くるならむ。

箒は止まず、弧を描き続く。掃かれたる場所は既に清けれども、媼は同じ石の上を何度も何度も掃く。四十年の間、毎朝斯くの如くなりしか。

訪れし者の足音を聞きたれども、媼は顔を上げず。箒の動き変はらず。唯だ声のみ発せり――低く、疲れを帯びたる声。幾度となく繰り返されし言葉を、また一度語らむとする者の声なり。

問ひは未だ発せられざるに、答へは既に媼の唇より洩れたり。幾度聞きしか知れぬ問ひ――「此処に何ありしや」「何故独り守るや」「誰が為に花を手向くるや」――それらは問はるる前より、空気の中に漂へり。

媼の声は低く、されど明瞭なり。疲労は言葉の端々に宿れども、それは身体の疲れにあらず。魂の疲れなり。同じ物語を語り続くる者の、同じ説明を繰り返す者の、倦怠。

語る前に
既に疲れて
秋の声
問はれぬ問ひの
重さ知るらむ

写真機を携へし者は未だ口を開かず。されど媼は知れり。その者が何を求め、何を問はむとするかを。四十年の間、同じ眼差しを幾度となく見たればなり。

好奇、憐憫、或いは単なる興味――訪れし者の心は様々なれど、媼にとりては皆同じ。彼らは皆、既に失はれしものを見むと欲す。されど此処には、媼の記憶の外には、何も無きなり。

箒は止まらず。声は続けり。「徒労なり」と。

供華の器には曼珠沙華、記憶の如く紅く、茎には尚水滴の玉を宿せり。朝摘みしものならむ。此の山路に彼岸花の咲く処ありや、と旅人は思へど、問ふことなし。媼の答へは既に聞こえたればなり。

花は鮮やかなり。余りに鮮やかなり。四十年の歳月を経たる焼跡に、此の紅の烈しさは不似合ひなり。されど媼は毎朝、必ず新しき花を手向く。誰が為に、とは問ふなかれ。

彼岸花
紅き記憶の
色褪せず
問はれぬ答へ
水に滴る

花瓶は古びたれど、水は清らかなり。茎より滴る雫は、供へられし瞬間の名残。媼の手は皺深けれど、花を活くる技は確かなり。此の務めのみが、失はれし全てとの、唯一の繋がりなるが如く。

「四時の汽車にて町へ帰るべし」と媼は言ふ。顔を上ぐることなく、箒の手を休めず。写真師の来訪の意図を、既に知り尽くせるが如く。徒労なることも、承知の上なるが如く。

駅への道
四時に発つ汽車
知られをり
問はぬに答ふ
媼の声は

言葉は静かなれど、拒絶は明らかなり。此処に撮るべきものは無し、と。焼け跡は既に語り尽くされたり、と。されど媼の声音には、怒りも冷たさも無し。唯、諦念のみ。幾度となく繰り返されし問答の、倦みたる響きのみ。

然れども写真師の胸に懸かる函は、俄かに重さを増せり。焼け木の黒白の像、崩れし材木、裂けて倒れし鳥居の門——凡そ四十年の間に撮られし無数の影、今悉く胸を圧す。

焦土の影
幾重にも重なり
函の中に
真実問ふごと
肩に食ひ込む

媼は箒を動かし続く。写真師は立ち尽くす。函の紐、肩に食ひ込みて、痛し。

鳥居は眼前に聳え立つ。朱の色、新たなるが如く鮮やかに、柱に塗られたり。木の板は滑らかにして、焦げたる痕跡一つだに見えず。四十年の歳月、幾多の写真に収められし焼土の記憶——それら悉く虚妄なりしやと疑はるるばかりなり。

朱の鳥居
焼けし筈なるに
立ちて在り
四十年の影
嘘と成りしや

写真師は己が記憶を探る。資料館に保管されし白黒の写真、焼け崩れし材木の山、灰燼と化せし境内——確かに見たり。己が目にて見たり。されど今、目の前に在るは完き姿の社なり。

木の香すら漂ふ。新しき材の匂ひにあらず。古き木の、長き年月を経て深まりし香なり。矛盾せり。凡そ矛盾せり。焼失せしものが、焼失せざりし如く在ることの、理に背ける有様なり。

媼は箒を持ちて、何事も無きが如く掃き続く。その背中に問ひ掛けんとすれど、言葉は喉に留まる。問ふべきか。問ふべからざるか。此の眼前の真実と、函の中に在る真実と、いづれか真にして、いづれか偽なるや。

写真師の指、函の蓋に触れたり。開かば、レンズは何を捉へん。此の完き社を撮らば、現像されし像には何が映らん。恐れあり。深き恐れあり。

写真師の手、鞄へと伸びたり。革の感触、指先に馴染みたる重み。されど動き、そこに止まる。カメラを取り出さんとして、取り出し得ず。

何を恐るるや。己が業を為すを、何故に躊躇ふや。レンズは真実を写すものなり。光と影を、在るが儘に捉ふるものなり。然れども——此の場に在りては、真実とは何ぞや。

撮らば見ゆらん
焼土か社か
レンズの中
いづれの世こそ
真と定むべき

手は宙に浮きたるまま、進むことも退くことも能はず。現像液の中に浮かび上がる像を思ふ。完き鳥居か。崩れし柱か。或いは、二つながら重なりて、判然とせぬ影と成りて現るるか。

撮影せざれば、両の真実、並び立つを得ん。撮影せば、いづれか一方、消え失するやも知れず。シャッターは審判なり。選択なり。写真師は、神の如き決断を、己が指に委ねられたるを知る。

手は、震へて、鞄より離れたり。

老婆の手、菊を扱ふこと、幾星霜を経たる如し。一輪、また一輪、花器に挿す。動きに迷ひなし。急ぐこともなし。常に在りしものを守るが如く、常に為し来たりしことを為すが如く。

白菊の
香の立ち昇る
石畳
四十年の灰
何処へ消えしや

花弁に触るる指、皺深けれども確かなり。茎を折る音、静寂を裂くこともなく、空気に溶け入る。水の滴る音。石の冷たさ。苔の青さ。全ては在るべき場所に在り。全ては在るべき時に在り。写真師は見つむ——過去を生くる者の姿を、或いは、過去に生かさるる者の姿を。

婆は語らず。されど其の所作こそ、言葉に勝る雄弁なり。

「火のことにて来たりしか」と、婆は振り返ることなく言ふ。問ひにあらず、断定にもあらず。ただ、知れることを口にするのみ。声は低く、風に紛れて消えさうなれども、写真師の耳には明瞭に届く。

問はずとも
知る人の声
社の前
燃えし記憶は
灰とならざる

婆の背は曲がれども、其の言葉は真直ぐなり。四十年を隔てたる問ひを、今し方のことの如く受く。

写真師の唇は開きて、また閉づ。言葉は喉に留まりて出でず。焼けたる過去と、眼前に在る現在と、その間に横たはる深淵を、いかなる言の葉もて埋むべきか。

問ふべきか
問はざるべきか
燃えし跡
立てる社に
言葉は失す

沈黙は重く、されど婆は待てり。急かすことなく、責むることなく。ただ、花を手にして、在るべからざる社の前に立つ。

婆は無言にて、社の傍らに在る低き木の腰掛を指し示す。その手つきは、幾度となく繰り返されし所作の如く、迷ひなし。腰掛の下より、魔法瓶を取り出だす。待ちゐたるが如く、そこに在りき。

指し示す
古りし腰掛
社の傍ら
魔法瓶は待ちて
時を数へをり

写真師は促されて、その腰掛に腰を下ろす。木は古りて、年輪の刻みし歴史を肌に感ぜしむ。婆は魔法瓶の蓋を開く。音もなく、されど確かなる動きにて。

二つの湯呑み、いづこより取り出だせしか。一つは縁の欠けたり。一つは色褪せて、絵柄も定かならず。されど婆の手に在りては、それらは茶席の名器の如き尊厳を帯ぶ。

湯気立ちぬ。細き白き糸の如く、春の朝の空気を裂きて昇る。婆の手は震へず。傾けられたる魔法瓶より、湯は静かに、されど力強く注がる。一つ目の湯呑み。二つ目の湯呑み。その手つきに、何十年、何百回と繰り返されし儀式の記憶宿れり。

湯を注ぐ
皺深き手は
迷ひなく
この儀式こそ
祈りなりけり

欠けたる湯呑みを、婆は写真師の前に差し出だす。色褪せたる方は、己が手に留む。湯気は二つの器より立ち昇り、焼け跡に建てる社と、生ける婆と、戸惑へる写真師とを、同じ時の中に結びつけたり。

湯気は立ちのぼる。二つの器より、細き白き煙の如く。一つは縁の欠けたる湯呑み、写真師の前に在り。一つは色褪せて絵柄も判然とせざる器、婆の手に在り。されど湯気の昇る様に、貴賤の差はなし。

写真師は両の掌にて、欠けたる湯呑みを包む。温もりは掌より伝はり、指先まで沁み入る。ああ、この湯は、と気づく。彼が此の山道に足を踏み入れし前より、既に熱せられてありしを。彼が焼け跡の社を見出だし前より、魔法瓶の中にて、待ちてありしを。

湯の温もり
掌に受けて
知るものを
我が来る前より
待ちゐたりしを

婆は己が湯呑みを持ちたれど、未だ口をつけず。ただ静かに、湯気の昇るを見守る。その眼差しは、遥か彼方を見つむるが如し。四十年の昔を、或いは更に遠き時を。

写真師もまた、飲むことを躊躇ふ。この一瞬が、何かを変へてしまふやうな、予感ありき。

写真師は思ふ。この湯の温もりは、偶然にあらず。婆は今朝より、或いは昨日より、湯を沸かし続けてありしか。魔法瓶に注ぎ、保ちてありしか。誰かの来たるを、確と知りてか。

されど婆の面持ちを見るに、予知といふよりは、習ひの如し。毎日、湯を沸かす。毎日、魔法瓶に満たす。毎日、此の焼け跡に座す。来る者あれば、茶を供す。来る者なくば、独り飲む。四十年、斯くの如くにや。

待つといふは
来ると知ることに
あらざるか
ただ備へをば
怠らぬこと

写真師の胸に、奇妙なる感慨湧く。この婆は、彼のためにのみ湯を用意せしにあらず。されど、彼が今此処に在ることもまた、必然なるが如し。

婆は今日、誰か来たると知りしか。否、知らざりしか。されど知と不知の間に、何の差のあらむ。

湯を沸かす
来ぬ日も来る日も
変はらずに
待つとは斯かる
形をや言ふ

或いは、待つにあらずして、在るといふのみか。来訪者の有無は、婆の営みを左右せず。湯は常に熱く、茶は常に用意されたり。四十年の歳月、この習ひを守りて。

写真師は悟る。婆は彼のために備へしにあらず。また誰のためにもあらず。ただ備ふること自体が、婆の在り方なるを。

茶は山の草の香を含み、而して更に何ものかを宿せり。期待といふべきか。否、その対極なるものか。四十年を既に待ち果てし者の、静けさといふべきものを。

茶一椀
期待を越えて
在る味は
待ち尽くしたる
魂の形見

婆の淹れし茶に、焦燥なし。渇望なし。ただ在るべきものの在る、その確かさのみ。写真師は啜る。舌に触るるは、諦念にあらず。成就の後の、深き平らかさなり。

縁側の古りたる板に腰を下ろせば、木目は幾十年の手の跡を刻み、滑らかなること水の如し。柿の木は午後の日を濾して、斑なる影を落とせり。

縁側に
柿の木影や
古き秋
幾年経たる
木の温もりかな

二人は並びて坐す。婆は静かに、写真師は慎ましく。板の軋む音さえ、この場に馴染みたる調べなり。柿の葉は風に揺れて、光と影との戯れを演ず。時の流れは此処にて緩やかに、まるで四十年の歳月が一瞬にして凝縮せるが如し。

縁の下より涼やかなる気の立ち昇るを感ず。土の香、草の香、そして何やら線香の残り香の混じりたるもの。婆は前を向きたるまま、されど写真師の存在を確かに感じ居るらし。その横顔に、拒絶もなく、歓待の色もなし。ただ受け容るる、その姿勢のみ。

写真師は己が鞄を脇に置き、カメラには触れず。今は撮る時にあらず。ただ在る時なり。柿の実は枝に重く垂れて、熟れたる色を帯び始めたり。収穫の季節近しと雖も、此の木の実を誰が採るべきか。

柿熟るる
縁に二人
影長し
語らずとても
通ふものあり

婆の着物は褪せたる藍色にて、幾度の洗濯に耐えし木綿なり。写真師の黒き衣とは対照を成せども、二人の間に横たわる空気は、不思議なる調和を保てり。

婆の手は膝の上に静かに置かれたり。掌は上を向き、指は軽く曲がりて、まるで何物をも掴まざる形に定まれり。皮膚は薄く、午後の光これを透かして、骨と血管との間に僅かなる隙間を照らし出だせり。青き筋の浮き出でたるさま、まるで冬の枯れ木の枝の如し。

指先には皺深く刻まれて、爪は短く整へられたり。働きし手なり。土を耕し、水を汲み、糸を紡ぎし手なり。されど今は、その手に力なく、ただ光を受くるのみ。透けたる皮膚の向かうに、骨の白きが仄かに見ゆ。

老いの手の
透きて光や
秋深し
骨の白さも
影となりけり

婆は己が手を見ることなし。視線は前方の庭に注がれたるまま。されど、その手の在り様は、彼女の全てを語るに足れり。

婆の指一つ、縁の板の木目を辿りゆく。節の窪みに指先触れて、幾度も幾度も同じ道筋を撫づ。その動き、余りに習いとなりて、手は己が意志なくして動くが如し。木の溝は滑らかに磨かれ、年月の重なりこれを刻みたり。或いは、この指の繰り返しこそが、溝を深めしものならむか。

指は止まることなく、円を描き、また戻りぬ。木目の流れに沿ひて、節の周りを巡る。触覚のみが彼女を此処に繋ぎ止むるが如く。

木の節を
指の辿りて
幾年ぞ
溝深くなる
秋の縁かな

動きは無心なり。されど、その反復の内に、時の堆積を見る者あらむ。

写真師の目、婆の腕に留まりぬ。午後の光、斜めに差し込みて、産毛の一本一本を照らし出だす。細き毛は金色に輝き、蜘蛛の糸の如く、空中に浮かぶが如し。光と影の境に、時の流れの見ゆる思ひす。

彼は息を潜めて、その儚き美を見つむ。老いたる腕の上に、かくも繊細なる命の証あり。

腕の毛に
光の宿る
秋の昼
蜘蛛の糸めく
透き通る影

一瞬の光景なれど、永遠を孕むが如し。

彼、鞄を脇に寄せたり。金具の音、静寂を破りて、堂内に響き渡る。咳払ひして、言葉を発せんとす。

鞄の音
静寂破りて
秋深し

「いつよりここに住み給ふや」と問ふ。声は、かつて社の在りし虚空を渡りゆく。焼け跡の草むらに、言の葉は消えてゆけり。

「いつよりここに住み給ふや」と問ふ。声は、かつて社の在りし虚空を渡りゆく。焼け跡の草むらに、言の葉は消えてゆけり。

問ひの声
社跡を渡りて
風となる

されど答へは来たらず。ただ風の音のみ、枯れたる草の葉を揺らして過ぎゆく。彼は立ちて、石段の名残を見つむ。四十年の歳月は、すべてを土に還せども、礎石のみは動かず。そこに神の座ありしことを、今も語り継ぐがごとし。

言の葉は宙に浮かびて、行き場を失へり。問ひかくるは易けれど、答ふべき「ここ」とは何処ぞや。この焼け跡か。この土地か。はた、記憶の中に在る、炎上以前の社か。

彼の視線は、老婆の背に注がれたり。腰を屈めて、何やら石の上に置かんとす。白き花弁、秋の光を受けて輝けり。菊の香、かすかに漂ひ来たる。

問ひは宙に留まりて、老婆は黙したるまま。その沈黙こそ、答への序章なりけり。時の流れは、問ひと答への境を曖昧にす。四十年前の炎も、今朝の露も、等しく「ここ」の一部なれば。

白菊を
礎石に供へ
時を問ふ

やがて老婆は身を起こさんとす。その動きは緩やかにして、まるで時そのものの化身のごとし。

老婆の笑ひ声、低くして、されど楽の音のごとく響けり。その響きは、焼け跡の静寂を破りて、秋の空気に溶けゆく。白菊の束を両手に抱へ、礎石の上にそと置きたり。花弁は陽光を受けて、まるで雪の如く白く輝けり。

笑ひ声
礎石に響きて
菊香る

その笑ひには、哀しみと可笑しさとが混じり合へり。長き年月を生きし者のみが知る、複雑なる感情の綾なり。皺深き手は、花を整へつつ、石の冷たさを確かむるがごとし。

菊の花、一輪また一輪と、丁寧に並べられゆく。その所作には、祈りにも似たる敬虔さあり。四十年の間、幾度この儀式を繰り返し来たりしか。

白き花は、過去と現在とを繋ぐ橋なりけり。老婆の指先、花茎に触るるとき、かすかに震へたり。笑ひは既に消えて、ただ深き沈黙のみ残れり。その沈黙の中に、やがて語らるべき言の葉の予兆あり。

「ここは、いつよりここにありしか」と、老婆は答へぬ。その眼差しには、笑ひと哀しみとが入り交じりて、細く皺寄せられたり。言の葉は問ひに非ず、むしろ謎かけのごとく、空中に漂ひて消えず。

時の流れは
問ひに答へずして
ただ在るのみ

老婆の視線、ゆるりと動きて、焼け残りし柱の跡を辿る。黒く焦げたる木の幹、今は蔦に覆はれ、緑なす命を纏へり。四十年の歳月は、破壊の痕を優しく包みたれど、その下に潜む傷痕を消し去ること能はず。

「ここ」とは何ぞや。土地か、記憶か、それとも魂の在り処か。老婆の問ひは、答へを求めず、ただ問ふこと自体に意味ありけり。苔むせる石段は、もはや何処へも通ぜねど、かつての参道の面影を留めたり。

老婆の手、ゆるりと上がりて、焦げたる柱を指し示す。新たなる蔦の緑の下に、黒き傷痕は今も息づけり。「見よ」と言はぬ言葉にて、彼女は語る。

焼け跡に
生ひ立つ緑の
蔦かづら
苔むす石段
行く先知らず

指先は、次に苔むせる石段へと移りゆく。かつては参詣者の足音絶えざりし道も、今は何処へも通ぜず、ただ緑の絨毯に覆はれて、静寂の中に佇めり。破壊と再生、その狭間に立ちて、老婆は微笑めり。

問ひは二人の間に漂ひて、香煙の如く答へ得ぬまま、宙に消えゆく。老婆は再び微笑みて、何も語らず。遠き山より蝉の声起こり、夕暮れの調べは次第に高まりゆく。

問ひと答へ
煙の如く
消えにけり
蝉時雨降る
黄昏の刻

問ひの重みは、やがて蝉の声に溶けて、境内に満ちゆく。老婆の沈黙こそが、最も雄弁なる応へなりけり。


Questions Beneath the Bell

寫眞師は身を傾けたり。肩より垂れたる寫眞機の重さに堪へつつ、言の葉を改めて問ひかけむとす。

「この村に何事かありしや」

聲は靜かなれども、問ひの意は深し。幾度か訪れし廢村の中にて、彼は常に同じ疑ひを抱けり。崩れたる家々、傾きたる柱、草に埋もれし石垣——すべて語らむとして語り得ぬものの如し。

カメラの紐、首筋を締むるやうに感ぜらる。指は無意識に革帶を撫でたり。レンズの冷たさは、今は彼の體温を帶びて、生き物の如く彼と一體となれり。されど撮るべき眞實は、未だ彼の前に姿を現さず。

問ひを發したる後、寫眞師は女の反應を待てり。風吹きて、木の葉の觸れ合ふ音のみ聞こゆ。

女は答へず。

その眼差しは、彼の顏より靜かに離れゆきぬ。まづは彼の肩の邊りを過ぎ、次第に遠き處へと移りゆく。視線の先を追へば、村の背後に聳ゆる山の姿あり。

山影暗く、
霧は峰にかかりて、
動かざるかな。

女の瞳に映るは、山の輪郭のみにあらず。そこには時の層、記憶の襞、語られざる物語の斷片——すべて霧の如く曖昧なるものども宿れり。寫眞師の問ひは、未だ宙に漂ひて、答を得ず。

沈默は長く續けり。女の唇、微動だにせず。寫眞師は待てども、言の葉は來たらず。彼女の面持ちに浮かぶは、讀み難き靜けさのみ。

山を見るにあらず——山の彼方を透かし見るが如し。その視線は、形あるものを捉へむとするにあらず。むしろ形なきもの、眼に見えぬもの、寫眞機の捉へ得ざるものへと注がれたり。

寫眞師もまた、女の視線の先を辿らむとす。されど彼の眼に映るは、ただ山の黑き稜線と、峰にまとはる霧の帶のみ。

霧の奧に
何を見るらむ
動かぬ瞳

女の眼差しは、今此處にあらず。過去か、あるひは過去よりも更に深き處か。時は流れども、彼女は動かず。問ひは空しく宙を漂ひ、答なき問答の間に、ただ風の音のみ殘れり。寫眞師の指、再びカメラの革帶に觸れたり。何を撮るべきか、彼自身も知らざるままに。

遂に女は口を開かざるかと思はるる程に、時は過ぎゆけり。寫眞師は待ちわびて、幾度か息を吐きたれど、彼女の面には何の變化も現れず。その表情は石の如く動かず、讀むべき文字もなし。

山を見つむるにあらず——山を透かして、その向かうなる何かを見るが如し。彼女の視線の先には、寫眞師の眼に映らぬ世界ありて、それは形なく、色なく、ただ彼女のみに見ゆるものなりけむ。

寫眞師は己が無力を覺えたり。カメラは目の前の景色を捉ふれども、彼女の見つむる彼方の世界は、決して硝子板に寫らざるべし。

山の彼方
見えぬ世界に
立つ女の
瞳は遠く
時を超えたり

風、草を撫でて過ぎゆく音のみ聞こゆ。

遂に彼女の唇動きて、聲低く洩れ出づ。その調子は淡々として、暗誦するが如し。「戰の後——」と言ひかけて、

やや首を振りて己が言葉を正す。「——貴殿の知る戰にあらず、もう一つの方、敗れし側の侍どもが、川に沿ひて」

戰ひとつに
あらず二つあり
敗者の道
川は變はらず
流れ續けたり

彼女の聲には抑揚なく、ただ事實を述ぶるのみ。されど、その言葉の裏には、幾重もの時が折り重なりて橫たはるを、寫眞師は感じ取れり。

彼女、言葉を繼ぎて曰く、「二人三人と、彼らは來たりき。劍は布に包まれ、その布地はかつて上等なりしものなれど、今は色褪せて」

敗軍の
劍を包む
古き絹
川邊の道を
ひそかに下る

「川に沿ひて逃げ來たりしなり」と、彼女は靜かに語る。その眼差しは山の方を見つめたるまま、動かず。

彼女の語り、續きて流るるがごとし。「彼らは二人三人と連れ立ちて來たりき。劍は布に包まれたり。その布地、見れば、かつては上等なる絹なりしならむ。紋所の痕跡、かすかに殘れり。されど今は旅路の塵に汚れ、雨に打たれて、色褪せたるのみ」

彼女の聲、低く、されど明瞭なり。「彼らの步みは重かりき。勝者の如く胸を張ることなく、ただ默々と川邊を辿りゆきたり。顏を隱すこともせざりしかど、誰も彼らを見ざりき。村人は皆、戸を閉ざし、窓より覗くこともなかりき」

山の端に
霧の立ちたる
曉に
名もなき武士
ただ過ぎゆけり

「彼らの中には、若き者もありき」と彼女は言ふ。「十五、六の少年も、劍を抱へて步みたり。その手は震へたりしや否や、我は知らず。されど彼らの背中に、敗北の重さは明らかなりき」

彼女の指、川の方を指し示す。「あの川瀨のあたり、一人の侍、立ち止まりて水を掬ひたりと聞けり。その水にて顏を洗ひ、しばし空を仰ぎたりと。されど長くは留まらざりき。追手の氣配なくとも、彼らは急ぎたり。安息の地は、遙か遠くにありしゆゑ」

風吹けば
布の解けたる
刀の光
一瞬見えて
また闇に入る

「かくして彼らは去りゆきたり」彼女の聲、消え入るばかりなり。「川に沿ひて、山の奧へと」

村には名なかりき。ただ川の曲がるところ、流れの緩やかなる一處なりき。地圖に記されることもなく、街道の標にも現はれず。されど人は住み、田を耕し、代々この地に根を下ろしたり。

「その頃、村は何と呼ばれしや」と問へば、彼女は首を横に振る。「呼ぶべき名もなかりき。川の村、とのみ。あるいは、あの曲がり角、と」

川曲がる
その淀みにて
葦茂り
名を持たぬ里
ただ在りにけり

流れの緩みたる處、水は深く、色濃かりき。そこに小舟を繋ぎ、魚を獲り、野菜を洗ひたり。子らは岸邊にて遊び、女らは川邊に集ひて語らひたり。名なき村の、名なき日々。

「されど川は知れり」と彼女。「川は覺えたり。この曲がり角を、幾多の者の過ぎ行きしかを」

彼女の言葉、途切れたり。そして續く。「曾祖母の語りしところによれば、彼らは影の如くなりしと。水を乞ふとき、深く頭を垂れたりと」

影なりしと曾祖母は語りき。刀を捨て、鎧を脱ぎ、ただ旅人の姿にて現はれたりと。されど目に宿るもの、隠すべくもなかりき。

「水を賜はらむ」と乞ふとき、その頭の垂れやうは尋常ならず。額を地に着けむばかりに。村人らは恐れたり。何ゆゑかくまで深く礼をなすかと。

敗れし者
水乞ふ聲の
低きかな
驕りし日々は
遠き夢なり

一人、また一人と過ぎ行きたり。皆、川の水を掬ひ、顏を洗ひ、喉を潤したり。言葉少なく、目を伏せて。村人は黙して見送りたり。問ふこともなく、名を尋ぬることもなく。

「影は川に映りて、すぐに流れ去りき」と曾祖母。「されど川は忘れず」

最初の祠は、刀を握りし手にて建てられたり。されど今や、その手は鋸と鑿のみを知れり。木を削り、柱を立て、屋根を葺く。かつて命を奪ひし手、今は神を祀る器を作る。

手の内に
刃の記憶
消えゆきて
鑿の痕のみ
木肌に残る

粗き造りなりしも、心は籠もりたり。誰が爲とも知れず、ただ建つ。贖ひか、祈りか。彼ら自身も知らざりき。

二度目の春、彼らは道を振り返ることを止めたり。山の懐に身を沈め、川音のみを友とす。過去は遠く霞み、未来は問はず。ただ今日の糧を得、明日の祠を建つ。

春深し
後ろ振り向く
影もなく
山に溶け入る
亡き名の如く

故郷の記憶、薄れゆく。刀を捨てし日より、彼らは新たなる者となりぬ。根を下ろす木の如く、動かず。

彼女語りて曰く、兵士らの足音は山路に溝を刻みたりと。石畳を踏む靴音、絶えず続きて、遂には彼らが生まれし時に授かりし名さえも、その律動の中に溶け失せたりと。

行軍の
足音石に
刻まれて
名は靴音に
消えゆきにけり

幾千の足、同じ道を辿りしかば、岩肌に深き轍を残せり。朝な朝な、暮れな暮れな、彼らは進みたり。最初は己が名を呼び合ひしも、やがて番号のみとなり、遂には音さえも失せぬ。ただ足を運ぶのみ。一歩、また一歩。

山々は証人として立ちたり。峠を越ゆる度に、誰かが倒れ、誰かが消えたり。されど列は止まらず。彼らの名は風に散り、谷底に沈み、苔に覆はれて土に還りぬ。

石段に
千の足跡
重なりて
名残となるは
溝一筋のみ

かくして彼らは歩みたり。故郷より遠く、遠く。文字は記憶より薄れ、音は意味を失ひ、終には己が何者なりしかをも忘れたり。残りしは肉体のみ。動く肉体、呼吸する影。

山道は彼らを呑み込みたり。名もなき者らの行列、果てしなく続きて、遂には山そのものと成りぬ。彼らの骨は道標となり、彼らの足跡は後に続く者らの導きとなりぬ。さりながら、誰一人として己が名を覚ゆる者なし。

彼女また語りて曰く、地図職人らは筆を執りて、幾度も幾度も山河を描き直したりと。朝より夕まで、墨を磨り、線を引き、消し、また引きたり。彼らの手は痙攣し、指は曲がりて伸びざるに至りぬ。

地図描く
手は震へども
谷深く
遂に余白を
残すより他なし

或る谷は三度描かれ、四度消されたり。或る峠は地図上に現れては消え、消えては現れたり。測量士らの報告は相矛盾し、同じ場所が異なる名にて記されたり。山は動くが如く、川は位置を変ふるが如し。

されど真実は別にありき。彼らは疲れ果てたるなり。知らざるに非ず、描き得ざるなり。かくして或る谷々は白き空白として残されぬ。諦念の余白。人の言葉の届かぬ場所として。

白紙なる
谷間に筆は
置かれけり
知恵の果てにて
沈黙を描く

地図は不完全なるまま、兵士らに手渡されたり。

或る者どもは川の渡し場まで辿り着きたれども、そこにて方角を失ひぬ。故郷は何処、前方は何処、己が立つ場所すら判然とせず。流れの中に立ち尽くし、身動きもせず。水は腰まで達し、膝まで冷えたれども、彼らは石の如く動かざりき。

渡し場に
立ち尽くす影
流れゆく
故郷の名も
方角も消えて

同行の者ありて引き上げたる者もあり。されど多くは独りにて、ただ水音を聞きつつ、夜の帳の降るるを待ちたり。或る者は夜明けまで立ち続け、或る者は膝を折りて流れに身を委ねたり。彼らの目には何も映らず、問へども答へず。心は既に何処かへ去りたるなり。

里の古老ども、時折彼らを見出したりと女は語り続く。樹の下に座し、空なる行嚢を傍らに置き、虚空を見つめたる者ども。何を見るとも知れず、ただ黙したり。問へば、己が何故ここに在るかをも忘れたりと答ふ。命令も、任務も、行くべき先も、悉く心より零れ落ちたるなり。

樹下に座す
空なる行嚢
命令も
任務も消えて
ただ虚空見る

古老らは水を与へ、言葉をかけたれども、彼らの目は遠く、応ふる声も途切れがちなりき。

祖母は名簿を守りしと女は言ふ。戦ひに散りし者らの名を記したる帳なりき。されど墨は奇しくも速やかに褪せゆきたり。記憶の衰ふるよりも早く、紙そのものが拒みたるが如く。戦の解きし者どもを、文字もまた留め得ざりしなり。

名簿の墨
記憶よりも早く
褪せゆきて
戦の解きし
名を留めず

祖母は幾度も筆を執りて書き直したれども、同じく消えゆくのみなりき。

写真師はその鏡玉を調へたり。問ひを形作らむとして、されど言の葉は容易く定まらず。先祖なくして継がるるもの、触れざるものを知るといふこと、いかにして枠に収めむや。

鏡玉越しに
問ひの形を
探りつつ
触れざる重み
いかで測らむ

彼は幾度もその硝子の目を廻したり。焦点は合ひ、また外れ、女の立つ姿は明瞭なれども、問はむとする事柄は霞の如し。継承とは何ぞや。血の繋がりなくして受け継がるる記憶とは。手に取りしこともなき刃の重さを、いかにして知り得るや。

彼女は答へたり、問はれずとも。祖母の語りし言葉にあらず、書物に記されたる史にあらず、ただ在ることの裡に宿りし知なりと。墨の褪せたる名簿を見し時、その空白こそが重かりしと。名の消えゆく速さこそが、戦の解きし者どもの儚さを語りしと。

写真師は頷きたり。その鏡玉の中に、問ひは既に答へられてありき。枠に収まらぬものを撮らむとする行為そのものが、触れ得ぬものに触るる術なりしを。

鏡玉に
映らぬものを
撮らむとす
継ぐとはかくも
見えざる業か

彼はやうやく快門を切る覚悟を決めたり。

女は石壁に指を這はせたり。錆の花咲く処、七十年の昔、刃どもの積み重ねられし痕なり。酸化の記憶は石に沁み入りて、鉄の在りし形を留めたり。彼女の指先は錆の紋様を辿りゆく、まるで点字を読むが如く。触るるは石なれど、感ずるは金属の冷たさなり。

石壁に
錆の花咲く
刃の痕
触るる指先
鉄を憶ふる

その重さを知りしは、手に取りてにあらず。祖母の肩の曲がりゆくを見しによりてなり。娘の生まるる数十年の前に置かれしものを、なほも担ひ続くるが如き姿なりき。語られぬ物語は身体に刻まれ、見る者をして知らしむ。重力は世代を超えて伝はり、持たざる者の骨をも曲げるなり。継承とはかくの如きものか。彼女は壁より手を離したり、されど指には錆の粉の残りてあり。

祖母の背の
曲がりゆくさま
見し時に
重さは代へて
伝はりにけり

その重さを知りしは、手に取りてにあらず。祖母の肩の曲がりゆくを見しによりてなり。娘の生まるる数十年の前に置かれしものを、なほも担ひ続くるが如き姿なりき。語られぬ物語は身体に刻まれ、見る者をして知らしむ。重力は世代を超えて伝はり、持たざる者の骨をも曲げるなり。継承とはかくの如きものか。彼女は壁より手を離したり、されど指には錆の粉の残りてあり。

背に負ひし
見えざる刃の
重さかな
生まれぬ前の
戦ひの跡

鉄そのものは既に在らず。されど重量は消えず、形を変へて残れるなり。祖母の脊椎に宿り、母の歩みに現れ、今彼女の立ち姿にも宿る。触れざる刃の重さ、持たざる鉄の冷たさ。記憶は物質を離れて、肉体より肉体へと移りゆくものなりけり。

刀は溶けて
鋤となり鉄路となりぬ
されど重さは

刀身は徴発され、溶かされ、鋤となり鉄路となりて国土に散りぬ。金属は形を失へども、重量は消ゆることなし。来たるべき世代の肩に、腰に、足に配分されたり。彼女の祖母が担ひしもの、母が歩みに感じしもの、今彼女が立つ時に知るもの、皆同じ鉄の記憶なり。物質は変転すれども、重力は忠実に受け継がれゆく。

鋳直されし
鉄の行方は
変はれども
分かたれし重さ
後の世に継ぐ

失はれしものの
形こそ我らが
受け継ぐものと

「失はれしものの形こそ我らが受け継ぐものなれ」と彼女は語りぬ。その手は錆を辿りて、盲者が点字を読むが如く、鉄の表面に刻まれし不在の文字を探りゆく。触るるは金属なれども、感ずるは空白なり。剣の形は去りて、残れるは剣ならざるものの輪郭のみ。彼女の指先は、溶解の痕跡を、再生の傷痕を、変容の証を読み取りゆく。

不在の形
指に読み取る
錆の文字
変はりし鉄に
刻まれし空白

写真機を下ろして、彼は荒れたる駅の台に立ちぬ。割れたる石の間より野の花の芽生え出づるを見つめ、問ひかけたり。「何故にこの地は、永久に来たらざるものを待つが如き気配を湛ふるや」と。

待つ駅や
花の根は裂く
石の間を
来たらぬ列車
影さへもなし

彼の眼は台の縁を辿りゆく。時刻表の残骸、色褪せし標識、錆びたる鉄路の断片。すべては中断されし物語の断章なり。風は草を揺らし、蜂の羽音のみが空気を満たす。されど彼の感ずるは静寂にあらず。これは期待の残響なり、到着を信じし者らの集ひし記憶の痕跡なり。

「この感覚を知るや」と彼は問ふ。「終はりたるものと、未だ終はらざるものとの間に漂ふ、宙吊りの時の感覚を」

石の裂け目より伸びたる野菊を、彼は撮らむとして躊躇ふ。レンズを通して見れば、それは単なる植物の侵蝕に過ぎず。されど肉眼にて見れば、それは別の何かなり。抵抗にあらず、変容なり。駅は廃墟となりつつも、駅たることを忘れず。待つことのみが、その最後の機能として残りたるが如し。

終着の
意味を問ふ眼
レンズ越し
待つといふこと
形として在り

彼女は未だ答へず、ただ彼の問ひが空中に漂ふを許しぬ。問ひもまた、この場所の一部となりゆくべきものなれば。

彼女は川の果てを指し示しぬ。水は沼地へと溜まり、流れの意志を失ひたる処なり。「鉄路はここまで延びて、ただ終はりたり」と彼女は語る。「計画せし者らの眼差しが尽きたるか、あるいは意志が萎えたるか、いづれにせよ、線路は突如として途絶えたり」

沼となる
川の終はりに
鉄路果て
意志の尽きたる
地図の余白よ

終点は始点たる意図を持たず、ただ力尽きし結果として在りき。延伸の約束は空しく、図面の上にのみ存在せり。彼女の指は水平線を辿る。「見よ、ここより先は何もなし。構想は此処にて息絶えたり」

彼は頷きつつ、カメラを構へむとす。フレームの中に収まるは、終はりの地理学なり。川が川たることを諦めし場所。鉄路が鉄路たる使命を放棄せし地点。すべては未完のまま完結せり。

「此処に留まりし者らは、選びて来たるにあらず」と彼女は続く。「工事の終はりを待ちて帰るべき者らなりしが、延伸の報せは遂に来たらず。仮の宿は年を経て恒久の住処と化したり」

線路の果て
仮住まひ重ね
根を下ろす
帰る日を待つ
村となりにけり

労働者らの天幕は板壁となり、独り身の者らは伴侶を娶りぬ。約束の空しさは日々の糧に置き換へられ、一時の滞在は世代を超ゆる定住へと変貌せり。「彼らの子らは、この地より他を知らず。生まれながらにして、途絶えたる夢の影の下に育ちたり」

彼女の声には非難の色なし。ただ事実を語るのみ。終点が始点となりし逆説を、淡々と述べるなり。

「家族は成りぬ、未完の夢の陰にて」と彼女は言ふ。「子らは生まれたり、勢ひの死せし地に。村の存在は、ただ地図上の一線によりて定められしのみ」

未完の夢の
陰に家族生まれ
子ら育ち
勢ひ尽きし地に
村は根を張る

誰かが図面に線を引き「足れり」と宣ひし、その瞬間に運命は決せり。夢半ばにして凍りし時の中、新たなる命は芽吹きぬ。彼らは選ばざりし故郷を、唯一の故郷として知るのみ。

川の尽くる処に彼らもまた留まりぬ。水脈は此処にて途絶え、前進の道は閉ざされたり。他に成るべき場所なく、他に在るべき地もなし。

川尽きて
人もとどまる
岸辺かな
成らむとすれど
成る術もなし

流れは大地に呑まれ、夢は砂に沈みぬ。彼らは動けざる者となり、此の地に縛られし者となりぬ。運命は地形と共に定まり、川の終はりは彼らの終はりの始まりなりき。


Lanterns on the River

語り出づるに序なし。声は年月の重みを負ひて届きぬ。記憶は天候の如く、避くべからざるものとして、包み込むものとして、来たりぬ。

彼の女の唇より言の葉の溢るるや、時の流れは淀みて、過ぎし日々は今此処に在るが如し。問はずとも語りは始まりぬ。それは風の吹くに似たり。それは潮の満つるに似たり。拒むこと能はず、ただ受くるのみ。

昭和三十七年の夏の光、未だ彼の女の瞳に宿りて消えず。養蚕組合の女人等の歌声、今も耳朶に響くと言ふ。繭の白きこと、雪の如くなりしと。桑の葉の匂ひ、指先に残ると。

記憶の糸
繰り返し紡ぐ
途絶えざる調べ

彼の女は立ちて語る。座して語る。手を動かしつつ語る。その身は此処に在れども、心は彼処に在り。六十年の歳月を超えて、魂は村に留まりぬ。

祭の夜の川面を、幾百の灯籠の流るるを見しと語る。水に映りし火の色、橙にして金なりしと。子等の笑ひ声、鐘の音、線香の煙、全ては鮮やかに甦ると。

語りは途切れず続きぬ。堰を切りし水の奔るが如く。溜めたる想ひの溢るるが如く。彼の女の声には力あり。確かさあり。疑ひなし。過去は過去に非ず。それは現在なり。生きて在るものなり。

三百の魂と彼の女は数ふ。今も尚、一人一人の名を呼ぶが如くに。橋の袂の田中の一族。双子なりし吉田の兄弟。腰の曲がりたる中村の翁。

指を折りて数ふる時、彼の女の目は遠くを見つむ。家々の位置、門の様、庭に植ゑし木の種までも語る。誰が誰の隣に住みしか。誰が朝一番に井戸に来たりしか。子の数、犬の名、全てを記憶す。

三百の名
一つ一つに
物語あり

消えし村の地図は、彼の女の心に刻まれたり。通りの名は失せたれども、足は道を覚えたりと言ふ。声は震へず。淀みなく名を連ねゆく。

死者も生者も、彼の女の語りの中にては、等しく息づく。時は名を呼ぶことによりて、再び巡り来たる。三百の魂は、語られることによりて、尚も村に在り。

養蚕の組合は村の中心にありき。母たちの働く場所。彼の女の母も、朝な夕なに通ひたり。

繭の白さは、今も目に浮かぶと言ふ。女たちの手は、枠を渡りて、一斉に動きたり。糸を繰る音、規則正しく響きたり。誰一人として遅るることなく、誰一人として先んずることなく。手と手とが、見えざる糸にて繋がれたるが如し。

母の手並み
枠を渡りて
白き糸
揃ひて動く
春蚕の頃

窓より差し込む光の中に、細き糸の輝くを見たりと。埃の舞ふ空気。機織りの音。女たちは無言にて働きたれども、その沈黙こそが、最も深き調べなりき。

指先に宿りし技は、母より娘へと受け継がれたり。組合は単なる仕事場に非ず。女たちの魂の集ひし場所なりき。

女たちの声、共に上がりたり。仕事唄の調べは、糸繰りの律動を刻み、織機の響きに溶け込みたり。季節は指先を通りて流れゆく。春蚕、夏蚕、秋蚕。旋律は世代を超えて受け継がれ、母の歌ひし節を娘もまた口ずさみたり。

糸繰る手に
唄の調べの
重なりて
時の流れを
指に紡ぎぬ

声と声とが織り成す音は、単なる労働の伴奏に非ず。それは魂の共鳴なりき。

女は語りぬ、昭和三十七年を今と為して。「本年の桑の葉、誠に見事なり」と。その言の葉に過去形の影なし。彼女の魂は、いまだかの年に留まりて、時の流れに身を委ねず。

桑の葉の
緑に生きて
動かざる
魂ひとつ
昭和に残る

問はずとも知る。彼女は一度たりとも、あの時より離れ出でしことなきを。現在は幻に過ぎず、真実は六十年の彼方に在りき。

行列は細き路地を縫ひて進みゆく。白き紙の提灯、風に揺らぎて、幾百の灯火、夜の闇を照らす。神輿は肩に重く、担ぎ手の額に汗の玉結ぶ。その肩は昭和六十年には既に塵と化すべき肩なれども、今宵は力強く、神の座を支へたり。

提灯の
白き灯りに
照らされて
知らぬ未来を
肩に担ひぬ

石畳の道、狭く曲がりて、両側には古き家々軒を連ねたり。障子の内より人々顔を出だし、行列を拝みて手を合はす。子供らは駆け回り、紙の舟を手に持ちて、はしゃぎ声を上ぐ。神輿の鈴の音、規則正しく鳴り響きて、夏の宵の空気を震はす。

担ぎ手らの足取り、一歩一歩確かなり。彼らは知らず。この重みを分かち合ふ仲間の幾人かは、次の夏至を見ることなきを。昭和三十八年の祭りには、この列に欠けたる場所の生ずべきを。されど今宵、その影は微塵も見えず。ただ神を運ぶ誇りと、共に汗を流す喜びのみ、彼らの胸に満ちたり。

白提灯揺れて、路地の角を曲がる時、神輿は傾ぎ、担ぎ手らは声を揃へて掛け声を発す。「わっしょい、わっしょい」と。その声、天に届かむばかりに高く、力強く、生命の輝きに満ちたり。

行列の先頭に立ちて、兄は声を張り上げたり。「えいさ、えいさ」と。その声、若く澄みて、疑ひを知らず。力に満ちたる声なり。周囲の者ども、その調子に合はせて唱和す。兄の額には汗光り、されど笑みは絶えず。神輿を導く誇り、その胸に溢れたり。

来年の夏至、この声は既に此の世に在らず。されど今宵、兄は何も知らず。ただ祭りの熱気の中に在りて、己が役目を果たすのみ。その確かなる足取り、その響く声、全ては今この瞬間に生きたり。

若き声の
祭り導く
力強さ
明年知らぬ
命の輝き

提灯の列、兄の後に続きて進む。彼の声に導かれ、担ぎ手らの足並み揃ひたり。石畳に響く足音と、鈴の音と、掛け声と、全てが一つに溶け合ひて、夏の夜の調べを奏でたり。兄の姿、神輿の前に凛として立ち、その背中には来るべき別れの影、微塵も宿らず。

川幅の広がりたる処にて、木綿の浴衣を纏ひし子供ら、紙の舟を水面に放ちたり。一艘一艘に、願ひ事を筆にて認めたるものなり。筆遣ひ拙きもあり、また丁寧に記したるもあり。舟は川の流れに乗りて、提灯の灯りを映す水面を滑り行く。

子らの声、はしゃぎて響く。「我が舟、一番早し」「見よ、あれは誰が舟ぞ」と。されど舟は己が道を行くのみ。紙に託されたる願ひ、静かに川を下りゆく。豊作を願ふもの、家族の健康を祈るもの、様々なる思ひ、小さき船に込められたり。

紙の舟
願ひを乗せて
川下る
灯に照らされし
子らの祈りよ

水音と共に、舟は次第に遠ざかりゆく。子供らの目、その行方を追ひて離れず。

最も小さき舟は、彼の女の手にて朝に折られしものなり。紙を幾重にも畳み、舟の形を成す間、指先は震へたり。内側に、人目に触れぬやう、細き筆にて認めたる言葉――「何も変はらざれ」と。

舟を水に浮かべし時、彼の女は己が願ひの重さを知りぬ。時の流れに抗ふ祈り、いと儚きものなり。されど、その願ひこそ、誰よりも切なるものなりき。

小さき舟
変はらぬ願ひ
水に浮く
時は流るるを
知りつつもなほ

舟は他の舟と共に、川面を静かに進みゆく。彼の女の目、その行方を見守りたり。

されど神は降り給ひぬ。男たちの肩に担がれ、水を渡り、煙を透きて、時の流れをも超えて進み給ふ。彼の女は見たり――記憶の此方と彼方、二つの岸より同時に。過去に立ちつつ、今に在りて、その御姿を目に留めたり。

神輿ゆく
煙と水と
時を経て
我は二つの
岸に立ちをり

神の行列は続きたり。彼の女の視線、二重に折り重なりて、一つの祭を映しぬ。

祭の夜は、彼の女の語りの中に、稲妻の如く訪れたり。夏の闇を裂きて、一瞬にして全てを照らし出す稲光の如く。突如として、されど完全なる姿にて。

語りいづる
稲妻のごと
祭の夜
一瞬にして
世界照らしぬ

記憶は時を選ばず。彼の女の言の葉は、あたかも光そのものの速さにて、昭和三十七年の夏を今に甦らせたり。太鼓の音、提灯の灯、川面に映る火の粉――全ては同時に、瞬きの間に、彼の女の内に在りき。

過去と現在の境は消え失せたり。語る声は震へども、その眼差しは確かなり。見ゆるは単なる記憶に非ず。彼の女は再び其処に立てり。十九歳の身にて、浴衣の袖を風になびかせ、祭囃子の響きの中に在りき。

熱き夜の空気、人々の笑ひ声、焼きたる鮎の香り――全てが一度に押し寄せ来たり。時は直線に非ず。彼の女の語りにおいては、時は稲妻の枝分かれの如く、四方八方に拡がりゆく。一つの瞬間が全ての瞬間を含み、一つの夜が永遠を宿したり。

照らさるる
記憶の奥に
在りし夜
今も鮮やかに
燃えて消えざり

かくて祭の夜は、語られる度に新たに生まれたり。彼の女の言葉は雷鳴に非ず、光のみなり。音なき閃光にて、暗闇に沈みし世界の全てを、一瞬の内に顕はしたり。

太鼓櫓には父の姿ありき。撥を振るふ度に、音は村中に響き渡り、夜気を震はせたり。力強き腕、汗に濡れたる額、祭の鼓動そのものと化したる父の姿。彼の女は今も見ゆ――櫓の上に立ちて、太鼓を打ち続くる父の背を。

櫓の上に
父は太鼓を
打ち鳴らし
村の心臓
夜に響かせり

母は社の前に跪きて、供物を整へたり。米、酒、夏の果実――全てを丁寧に、祈りを込めて並べゆく。白き手拭にて額を拭ひつつ、神々に語りかくるが如く。その所作の一つ一つに、畏敬の念宿りたり。

川の浅瀬には弟ありき。膝まで水に浸かり、網を構へて待ちをり。提灯の灯は水面に揺らぎ、その光に誘はれて、魚影近づき来たり。弟の息遣ひさへも、祭の一部なりき。

網構へ
浅瀬に立てる
弟の
影さへ揺るる
灯の川面に

太鼓の律動は生き物の如く村を巡りたり。音の波、軒より軒へと伝はり、空気そのものを震はせつつ。その鼓動に応へて、川の鯉ども浮かび来たり。まるで太古の呼び声に従ふが如く、銀色の身を躍らせ、暗き水面を破りて跳ねたり。一匹、また一匹と、提灯の光の下に現れ出づ。水飛沫は宙に舞ひ、月光を弾きて輝けり。村人らは息を呑みて見守りたり――この瞬間こそ、神と人との境の消ゆる時なりき。

鯉跳ねて
闇を裂きたる
銀の腹
太鼓に応ふ
川の祭かな

十七の春秋を数へし彼の女は、世の不変を信じて疑はざりき。提灯の灯、水面に揺らめき、養蚕組合の絹の旗、風に翻りて。三百の魂、同じ歌を知り、同じ調べを口ずさみたり。この刻こそ永遠ならむと思ひしなり。されど時は流れ、やがて――

十七や
提灯映す
水の面に
永久と信ず
絹旗の夜

刻は彼の女を捉へて離さず、彼の女もまた刻を手に掬ひて放たず。その手は、紙舟を流れに浮かべむとするが如く、宙に漂ひて動けり。水は流れ、灯は揺らめけども、心の内なる一瞬は凍りて、今も尚ほ彼処に在り。

紙舟や
手に残りたる
川の記憶
流れは今も
掌に宿る

声の調べは変じて、老いたる身の慎み深き語り口を脱し、垣根越しに隣人を呼ぶ少女の響きとなりぬ。言の葉は時を遡り、今といふ岸を離れて、あの日の川辺に立ち返りぬ。

口より溢るるは名なり。ただの名にあらず、魂の宿りし名なり。「文子さん」と呼ぶ声には、藍瓶の傍らに立ちて布を浸す女の姿見ゆ。その藍の色は空よりも深く、海よりも澄みて、誰が染めしものも及ばざりき。「健二君」と言へば、自転車の把手を握りて、曲がりくねりたる道を行く少年の笑顔浮かぶ。真っ直ぐに進むこと能はねど、その歪みたる轍こそが、彼の存在の証なりき。

そして商家の娘。名を口にする前に、既に笑ひ声聞こゆ。組合の板敷を渡りて響きし、あの鈴を転がすが如き声。朝な朝な、機織りの音に混じりて、娘の声は空気を震はせ、働く者の手を休ませき。

呼ぶ声は
垣根を越えて
あの日へと
名に宿りたる
魂の温もり

彼の女の唇は動きて止まず。一つ一つの名は糸なり。その糸を手繰れば、三百の魂が蘇り、組合の棟に集ひ来たる。声は少女に戻り、時は一九六二年に留まりて、今も尚ほ、その刻を生き続けたり。

名は尽きず、次々と溢れ出づ。「房江さん」—その名を呼べば、桑の葉を摘む指先の器用さ思ひ出でらる。蚕の世話に明け暮れし日々、繭の白さを誰よりも愛でし人。「正夫君」—力仕事を厭はず、染めの釜を運びし若者。その背中には汗の染み、されど笑顔絶えざりき。

「千代ちゃん」と呼ぶ声、殊に優しく響く。糸車を回す手つき、誰にも真似できぬ速さなりき。その指は糸と一つになりて、まるで糸自らが紡がるるが如し。「武さん」—帳簿を預かりし男。算盤の音、今も耳に残る。パチパチと響く音は、組合の鼓動そのものなりき。

三百の名
一つ残らず
胸に在り
呼べば応ふる
あの日の面影

老婆の声は途切れず、名は数珠繋ぎに連なりて、組合の全き姿を空中に織り成す。それは記憶にあらず、今も続く宴なり。

指先は虚空に舞ひて、袖口を撫で、帯を直し、襟元を整ふ。これは追憶の仕草にあらず。眼前に立つ者に触るる動作なり。昭和三十七年の夏、その人は今此処に在り。

「ちょっと待ちなさい、襟が曲がつてゐますよ」と呟く声。相手なき空間に語りかくれど、老婆の手つきに迷ひなし。帯締めの位置を直し、肩の塵を払ふ。その指は確かに誰かの温もりを感じ居るが如し。

触れてゐるか
六十年前の
袖の裾
今も手に在り
絹の感触

一つ一つの仕草に、祭りの日の装ひ蘇る。組合の者たちが晴れ着を纏ひて、川辺に集ひし、あの日。

老婆の周りの空気、にはかに変はりて、幻の香り立ち昇る。生糸の匂ひ、川の水の冷たき気配、六十年の昔に絶えたる夏祭りの残り香。時は撓み、昭和の夏は今この瞬間に重なり合ふ。

祭囃子の
音なき調べ
風に乗り
絹糸匂ふ
川面の記憶

温度さへもが記憶に従ひ、部屋の空気は川辺の涼しさを帯ぶ。提灯の灯、水に映りし影、組合の人々の笑ひ声——全ては彼女の感覚の内に、確かに存在す。

老婆は首を傾け、虚空に向かひて語りかく。その面持ちは期待に満ち、答へを待つが如し。されど其処には誰も居らず。彼女の見る世界は、写真師の眼には映らぬ別の次元に在り。

見えぬ人に
問ひかけて待つ
古き友
二つの世は
交はることなし

彼女の視線は確かに誰かを捉へ、唇は微かに動きて、応答を待ち侘ぶ。昭和の夏に生きる者と、令和の今に立つ者と——二つの現実、同じ空間に在りながら、決して触れ合ふことなし。

機械の囁き、快門の落つる刹那。時は凍りて、二つの現実の狭間に在り。写真師の指、静かに離れ、銀塩の膜に光は刻まれぬ。されど刻まるるは虚無のみ。老婆の見る世界と、レンズの捉ふる世界と——両者は同じ縁側を映せども、決して一つに重なることなし。

快門落つ
二つの世界
交はらず
光は虚空
映すのみなり

機械は嘘を吐かず。フィルムに現るるは、ただ古びたる木材の肌理、午後の陽射しの織りなす陰影のみ。人の姿無く、期待に満ちたる面持ち無く、答へを待つ者の気配すらも無し。されど写真師の眼前には、確かに老婆在り。彼女は今も虚空に語りかけ、見えざる友の返答を待ち侘ぶ。

カメラは冷徹なる証人なり。現実を一つに定めむとす。されど老婆の現実は、機械の認識を超えたる処に在り。昭和三十七年の夏、養蚕組合の三百の魂、川面を埋め尽くせし灯籠流し——彼女にとりては、それらは過去に非ず。今此処に在る、触れ得る真実なり。

ファインダーの四角き枠の中、二つの時代は拒絶し合ふ。写真師は令和の今に立ち、老婆は昭和の記憶に生く。同じ空間、同じ光、同じ空気を呼吸すれども、両者の見る世界は永遠に平行線を辿る。

機械仕掛けの囁きは止み、静寂戻りぬ。されど分断は続く。

ファインダーの四角き窓を通して見るに、縁側には唯古びたる木肌と午後の光の織りなす影のみ。人の形無く、期待に満ちたる表情無く、答へを待つ者の気配すらも無し。空虚なる空間、物質のみの世界。レンズは嘘を吐かず、銀塩の膜は忠実なり。されど——

虚ろなる
ファインダーに
人影無し
木と影のみの
縁側映る

機械の眼の示す真実と、写真師の肉眼の見る現実と。この乖離こそ、最も深き謎なり。カメラは物理の法則に従ひ、光子の軌跡を記録す。幽霊は光を反射せず、記憶は質量を持たず、過去は現在の空間を占めず。科学の言葉にて語らば、老婆の見る世界は幻影に過ぎず。

されど写真師の心は揺らぐ。機械の証言を信ずべきか、己が眼を信ずべきか。ファインダー越しには虚無、肉眼には確かなる存在——二つの視界は、同じ瞬間に同じ方角を見つめながら、全く異なる物語を語る。

されど写真師、カメラより眼を上ぐれば——そこに在り。色褪せたる藍の衣を纏ひし女、確かに在り。横顔は午後の光に照らされ、口は言葉の途中に開かれ、問ひかけの形を保てり。幻にあらず、虚像にあらず。写真師の網膜に映る像は、物質の確かさを以て存在を主張す。

眼を上ぐれば
藍の衣の女
そこに在りて
言葉半ばの
口の形見ゆ

二つの真実、同時に成立す。機械の眼の見る不在と、人の眼の見る存在と。写真師は両の手に矛盾を抱き、理解の萌芽を感ず——レンズは遺されしものを捉へ、されど人の視覚は持続するものを保つ。時間は層を成し、過去と現在は透明なる膜一枚を隔てて重なり合ふ。

写真師、徐ろにカメラを下ろす。悟りは塵の如く静かに心に降り積もる。レンズの捉ふるは遺されしもののみ、されど己が視覚の保つは持続するもの——この二重の真理、今や明らかなり。機械は痕跡を記録し、人は継続を目撃す。

カメラ下ろせば
塵の如くに
悟り降り積む
レンズは痕跡
眼は継続見ゆ

彼は両の真実の狭間に立ち、矛盾を矛盾として受け容る。遺されしものと持続するもの、二つは対立せず、却って補ひ合ふ。写真の空虚なる縁側も、また一つの証言ならむ。

写真に写る空しき縁側は、遊凪の遺物として新たなる意味を帯ぶべし。不在の証にあらず、三百の魂の沈黙を拒む証なり。記録庫の静寂に消ゆるを許さず、村は語り続く。

縁側空し
されど声は絶えず
三百の
魂は拒む
記録の沈黙を

空虚なる像もまた雄弁なり。写らざるものの存在を、却って強く主張す。遊凪は消えず、ただ形を変へて在り続く。


The Waiting Season

息子は一つの鞄に荷を納めき。底には学びの衣を畳みて置けり。されど再びこれを纏ふことはあらじと知りつつ。

母は障子の影より見守りぬ。若き手は慣れざる業なれど、一つ一つの品を丁寧に収めゆく。教科書は既に古本屋に売られたり。机上には卒業証書のみ残れり。

かの制服は三年の月日を共にせしもの。袖口は少し擦り切れ、第二ボタンは一度付け直されたるものなりき。母の針目の跡、今も襟に残る。

息子は語らず。母もまた問はず。二人の間には昭和六十年の春の光のみ差し込めり。

荷造りの音、畳を打つ。時計の音、柱を伝ふ。遠くより汽車の汽笛聞こゆ。

発ちてゆく
  背に春の日の
  重きかな

鞄一つに納まりし十八年。写真二枚、母の守り袋、僅かなる衣類。東京といふ名の、見知らぬ街へ向かふ準備は、あまりに簡素なりき。

母は台所に立ちて、息子の好める飯を握りぬ。道中の糧とせよと。その手の震へを、息子は気づかざるふりをせり。

明日の朝、この家を出でなむ。村を出でなむ。そして帰り来ることは、盆と正月のみとならむ。もしくは、それさへも。

夕闇迫る頃、荷造り終へたり。部屋は急に広く見えき。

東京とは建設の現場なりき。従兄の住まふ六畳一間、その畳の上に蒲団を敷きて寝ねむと。朝は五時に起き、鳶の者らと共に足場を組まむ。

日曜の昼下がり、公衆電話の前に列を成す者あり。十円玉を握りしめ、順番を待つ。回線混み合へば、母の声は遠く途切れがちなり。「元気か」「飯は食うてるか」短き問ひに「大丈夫」と答ふるのみ。

都会とふ
  名の重荷負ひ
  春惜しむ
  故郷遠く
  声も届かず

従兄は夜勤の仕事多し。すれ違ひの日々となりなむ。炊事は各自にて。米を研ぐ手つき、母のそれとは似ても似つかず。

給金は封筒に入れて、月に一度郵便局より送らむ。「これにて少しは楽になるべし」と、便箋に記す。されど己が食ふ米代を引けば、残るは僅かなり。

帰省は盆と正月。もしくは、それさへも叶はざるやもしれず。

明治十八年四月、夜明けの駅に立ちたり。

汽車は山の端に消えゆく。手を挙げしまま、その姿の見えずなるまで。プラットフォームに残る者、母一人のみ。

煙の尾、曲がりて見えずなりぬ。されど手はなほ挙げたるまま。駅員の「お母さん、もう行きましたよ」との声にて、やうやく腕を下ろしたり。

改札を出づれば、朝の光まぶし。桜は散り初め、花びら風に舞ふ。

子を送る
  手のひら冷えて
  山桜
  煙と共に
  春も遠のく

家路につく足取り、重きこと鉛の如し。息子の部屋、開けることなく、そのまま閉ざしたり。

四月は長かりき。五月も、また。

為替の届きたるは二月、五月、八月。紫のインクにて押されし名のみありて、文は一行だに添へられず。

封を開くるたび、母の手震へたり。金額を確かめ、息子の名を指にてなぞる。されど筆跡にあらず、ただ印影のみ。

便箋を取り出だし、幾度か筆を執りしも、何を書くべきかを知らず。「元気か」「寒くはなきか」「いつ帰る」。問ひばかりにて、手紙とはならず。

為替来て
  紫の名を
  撫づるのみ
  文字は冷たく
  子の声聞こえず

八月の為替、机の引き出しに仕舞ひたり。三枚並べて眺むれば、ただ沈黙の積み重なるを見るのみ。

息子の部屋、手を触れず。机上の教科書に埃の積もりて、鉛筆は六月のまま転がれり。

夕餉の膳、二人分を並べ、向かひの座に目を遣る。箸を置く音のせぬことの、かくも重きか。

空き椅子に
  問ひかけてみる
  今日のこと
  答へは来たらず
  味噌汁冷ゆる

障子を開けて風を入るれど、彼の匂ひはもはや残らず。ただ待つといふ形のみが、部屋に、膳に、母の身に宿れり。

校舎閉づる年なりき。校長は空しき廊下に深く頭を垂れ、その声は誰も聞く者なき告知を反響せしむ。

朝礼台に立ちて、彼は最後の訓辞を述ぶ。「諸君の未来に幸多からんことを」と言ひしが、諸君はもはや此処に在らず。教室の扉を一つ一つ閉ぢゆく音、廊下に木霊して消ゆ。

黒板に白き文字の残れるを、彼は消さずに置けり。「明日の持ち物」と書かれたる明日は、遂に来たらざりき。

校舎閉づ
  子らの声絶えて
  海鳴りのみ
  教卓に残る
  chalk一本

窓硝子に貼られし習字、風に剥がれて舞ひ落つ。「夢」「希望」「友情」――墨痕鮮やかなる文字は、今はただ床に散らばる紙片となりぬ。

職員室の机、整然と並べるも、椅子に座する者なし。湯呑みに茶の渋の染みて、誰かの忘れし眼鏡一つ。校長はそれらを見回して、深き溜息つきぬ。

体育館の壁に掛かりし優勝旗、埃を被りて色褪せたり。かつて此処に満ちし歓声、今は潮騒に呑まれて聞こえず。

彼は最後に校門の鍵を掛く。錆びたる門扉、軋みて閉ぢたり。振り返れば、校舎は既に過去のものとなりて、海霧の中に霞みゆく。

足音一つ、砂利道に響きて遠ざかる。後に残るは、波の音と、鳴かぬ鐘楼と。

二十三人の生徒は十二人となりぬ。漁船の帰らざる日々続きて、父らは家族を率ゐ、海岸沿ひの加工場へと去りゆけり。

網元の息子三人、一度に転校届を出せり。彼らの机、教室の後方に空しく残る。担任は名簿に赤線を引きつつ、筆の震へを止め得ず。

漁港に繋がれし船、潮風に帆布の破れて翻る。出漁の鐘は鳴らず、市場の競りの声も絶えたり。残りし者らは、去にし友の名を呼びて、波打ち際に佇めり。

漁火の
  消えて久しき
  浜辺かな
  友の面影
  波に問ひをり

加工場の煙突、北の空に煙を上ぐるを、母らは遠く望みて溜息つく。「あそこには仕事あり」との噂、風に乗りて村を巡る。

教室の壁に貼られし生徒数の推移表、校長は黙して見つむ。右肩下がりの折れ線は、やがて来たるべき終焉を予言するが如し。

十二人は四人となりぬ。雑貨を商ふ店、戸板を下ろして主人一家も去りゆけり。店先に積まれし空箱、風に転がりて音を立つ。

母らは灯火の絶えぬ町を慕ひ、子らの手を引きて発ちぬ。「九時過ぎても街灯の煌々たる処」との言葉、彼女らの唇に繰り返さる。

教室に残りし四人、窓辺に並びて座す。互ひの息遣ひさへ聞こゆるほどの静けさなり。黒板に書かれし算術の問ひ、誰も解く者なし。

店閉ぢて
  母ら発ちゆく
  春の暮
  街灯恋ひしと
  子は振り返る

校舎の廊下、四人の足音のみ反響す。昼餉の時も言葉少なく、弁当箱を開く音のみ教室に満つ。かつての賑はひ、今は幻の如し。

四人は遂に零となりぬ。弥生の火曜日、最後の子はバスに乗りて去りゆけり。別れの言葉、軽油の煙に紛れて聞こえず。

母は子の背を押し、振り返ることを許さず。バスの扉、重き音立てて閉ぢたり。発車の刻、エンジンの唸り校庭に響きわたる。

彼女は立ち尽くして、煙の消ゆるを見送れり。帰らぬバスの轍、土に刻まれて残る。春の風、その跡を撫でて過ぎゆく。

四人ゼロ
  バス発ちゆけり
  煙の中
  別れの声も
  届かぬままに

校舎は立ちたり、窓という窓、閉ぢたる瞼の如くにして。白墨の粉、解かれざる数式の上に静かに降り積もる。

机は並べられしまま、かつて在りし生徒らを待てども、彼らは既に記憶の影となりぬ。黒板に残る文字、誰が手にて消されることもなし。

廊下に響きし足音、今は絶えて久し。教室の空気、時の流れに取り残されて淀む。

窓は閉ぢて
  白墨の粉や
  春の塵
  解けぬ数式
  誰を待つらむ

女の唇、言の葉の半ばにて閉ぢられぬ。未だ形を成さざる語、彼女と写真師との間なる静寂の中に溶け入りて、朝霧の如く消ゆ。

言葉は空中に留まりて、その重みを失へり。教室の埃立ちたる空気の中に、音なき音のみ漂ふ。女の喉に残りし振動、やがて沈黙の底へと沈みゆく。

かつて語られしこと――息子のこと、東京へ発ちし日のこと、残されし母の心――すべては今、言はれざる言葉の彼方に在り。

写真師は待てり。彼女が再び口を開くを、あるいは涙の一滴落つるを。されど女は動かず。その横顔、夕闇に浮かぶ古き肖像画の如し。

窓外には春の光、傾きて教室の床に長き影を投ぐ。二人の間の空間、見えざる深淵となりて横たはる。

言の葉の
  途絶えし後の
  静けさや
  春の光も
  影を深めぬ

沈黙は言葉よりも雄弁なりと人は言ふ。されど此の沈黙は、語るべきことの多きが故の沈黙にあらず。語り得ぬことの前に立ちて、言葉そのものの無力を知る沈黙なり。

女の目は虚空を見つむ。そこには何も無し。あるいは、あまりに多くのものありて、視線の焦点を結ぶこと能はざるか。

時は流れず、凍りたるが如し。教室の時計、その針の動きさへ疑はしく思はる。

写真師の指、宙に留まりて動かず。シャッターの上に翳されしまま、重き沈黙の中に凍りつく。指先に感ずるは金属の冷たさのみ。

此の瞬間を捉ふべきか、否か。彼は問ふ。されど答へは来たらず。女の横顔、夕光に浮かびて美しけれど、その美しさは撮るべきものにあらざるやも知れず。

何を写すべきか。途絶えし言葉か。閉ぢられし唇か。あるいは、言はれざりし想ひの重みそのものか。

カメラの重さ、腕に食ひ込む。指は震へず、されど押すこと能はず。

指先に
  シャッター冷えて
  春暮るる
  写すべきもの
  見えずなりけり

彼もまた、女と同じく、言葉なき者となりぬ。問ふべき言葉も、慰むべき言葉も、すべて喉の奥に沈みて出でず。

ただ指のみ、宙に浮かびて、決断の時を待てり。

影、床板の上を這ひ延びて、棄てられし机の下に溜まりゆく。二人とも動かず。灯を点すこともせず。

教室の闇、徐々に濃くなりて、物の輪郭を呑み始む。窓枠、黒板、積まれし椅子――すべて夕闇の中に沈みゆく。女の横顔も、写真師の佇まひも、やがて影と一つになりぬべし。

されど二人は立ち尽くせり。闇を拒むにあらず、さりとて受け入るるにもあらず。ただ、光の失せゆく速さに、時の流れを測るのみ。

灯を点さば、この時は終はらむ。闇に身を委ぬれば、問ひもまた消えなむ。故に二人は、薄明の中に留まりて、決断を先延ばしにす。

春の暮
  灯も点さずに
  二人ゐて
  影と問ひとが
  共に深まる

教室の闇、二人を包みて、世界を狭めてゆく。

空気、たそがれの色を帯びて、重く沈みゆく。かの逢魔が時――存在と不在との境の曖昧なる刻限なり。

青き薄闇、教室に満ちて、物と人との区別を失はしむ。女も写真師も、もはや影絵の如く、実体を持たぬもののやうに見ゆ。

この時刻にありては、すべてのものの輪郭、溶け崩れて、互ひに浸透し合ふ。在るものと無きものと、その間に立つ者と――三つながら、同じ青き闇の中に漂へり。

逢魔時
  人も影も皆
  青くして
  在ると無しとの
  境も失す

されど二人は、なほもこの曖昧なる時の中に立ち尽くせり。

外の世界にては、蝉の声、夕べの調べを奏で始む。時の刻みを告ぐれども、室内に在る二人の者は、これを認むることなし。

彼らは家什と等しく、動きを止めたり。

蝉時雨
  刻を告ぐれど
  聞く者なし
  人も調度も
  ひとしく黙す

女も写真師も、もはや生ける者にあらず。ただ静止せる物体の如く、この教室の一部と化したるなり。外なる生命の律動と、内なる停滞と――二つの世界、完全に断たれたり。

遠き山より、太鼓の音、微かに聞こゆ。女、その律動を聴くや、忽ち幼き日の記憶、心中に甦りたり。

これぞ盂蘭盆会の調べなり。祖母の導きし祭りの音なり。戦ひの影、未だこの地を覆はざりし頃、村人悉く集ひて、精霊を迎へし夜の響きなり。

提灯の灯、揺らめきて、祖母の白き衣、闇に浮かびたり。その手の動き、今も目に在り。太鼓を打つ音、地を震はせ、死者と生者との境を溶かしたり。女は祖母の袂を掴みて、その傍らに立ちしを憶ゆ。

盆太鼓
  祖母の白衣や
  闇に浮く
  生者死者の
  境溶けゆく

かの音、六十年の歳月を超えて、今この教室に届きたり。されど、その音色は、記憶の中なるものと些か異なれり。遠く、儚く、まるで夢の如し。

女の胸中に、問ひ起これり――あの祭りは、真に在りしや。祖母の姿は、真実なりしや。それとも、時の流れの中にて、心が創り出でたる幻影に過ぎざるや。

その時、息子、頭を上げたり。耳を澄まして、かの太鼓の音を捉へんとす。やがて、母なる女を見遣りたり。

その眼差しの内に宿るもの――女には読み取ること能はず。問ひか。理解か。それとも、ただ音を聴きしのみか。母と子、視線交はれども、言葉は生まれず。太鼓の音のみ、二人の間の空間を満たしたり。

女、遂に問ひを発したり。「汝、聞こゆるや」と。

されど、その声の届かぬ間に、息子は既に立ち上がりたり。教科書を閉ぢ、鞄に納め、筆箱を手に取る。その動作、一つ一つに、何か決意の如きものを帯びたり。

母の問ひに答ふることなく、ただ黙々と荷物を纏めゆく。太鼓の音は、依然として山より響き来たれども、息子の耳には届かざるが如し。或いは、聞こえども、それに心を留めざるか。

女、その背中を見つめたり。かの小さき背は、いつしか己が肩の高さに達したり。東京へ発つ日、近づきたり。この教室も、間もなく閉ぢられん。

問ひかけて
  答へなき子の
  背を見つむ
  太鼓は遠く
  時は流れゆく

息子の手、最後の鉛筆を掴みたり。その指先に、僅かなる震へを、女は認めたるやうな気がせり。されど、確かならず。

窓辺に立ちて、女は問ひを繰り返したり。「汝、聞こゆるや」と。されど、その言葉は空しく室内に漂ふのみ。息子は既に立ち上がり、机上の物を集めつつあり。

その動きに、何か急なる意志あり。教科書、ノート、筆記具——一つ一つを鞄に収めゆく手つきに、迷ひなし。まるで、母の声の届かぬ世界に既に身を置きたるが如し。

太鼓の音は、なほも山の彼方より響き来たれども、息子は顔を上げず。ただ黙々と支度を続くるのみ。その横顔に、女は見たり——もはや子供ならぬ者の、固き決意を。

問ひ声は
  宙に消えゆき
  子は立てり
  荷を纏むる手に
  明日を掴みて

かくて、母と子の間に、見えざる隔たりの生じたるを、女は悟りたり。

太鼓の音、次第に遠のきて、蝉の声のみ室内を満たし始めたり。されど、その日常の響きの中に、何か異なるものの宿りたるを、女は感じたり。

静寂は同じ静寂にあらず。空気の重さ、変はりたり。息子の立ち姿に、もはや問ひに答ふる気配なし。

蝉時雨
  太鼓を消して
  部屋変はる
  母子の間に
  裂け目の生まれ

音の移ろひと共に、二人を隔つる見えざる壁の、確かに築かれたるを、女は知りたり。

息子は一礼して、言葉を発することなく、戸口へと歩み行けり。問ひは今や二人の間に横たはる重荷となりて、共に担ふべきものとなりぬ。

母の視線、その背を追へども、声は喉に留まりたり。

一礼の
  後の沈黙
  重くして
  問ひは宙に
  浮きて動かず

扉に手をかけたる息子の肩に、六十年前の祭の太鼓の残響、まだ微かに震へをるが如し。されど彼は振り返ることなく、敷居を跨ぎたり。

女は徐々に立ち上がりぬ。長き時を座したる膝は強張りて、関節の軋む音、静寂の中に微かに響けり。数十年の習ひとなりたる所作にて、両の手を前垂に当て、皺を撫で伸ばす。その動き、意識せずとも身に染みたるものなり。

指先は布の襞を辿り、米糠の匂ひ、味噌の染みたる痕を確かむ。幾千の朝餉、幾千の夕餉を経て、この前垂は彼女の日々の証となりぬ。

立ち上がりし後も、暫し動かず。膝の痛み和らぐを待つにあらず。ただ、次に為すべきことの重みを、身に引き受くるが如き間なり。

息子の足音は既に遠く、玄関の戸の閉まりし音のみが、記憶の縁に残れり。

前垂の
  皺を伸ばして
  立つ母の
  次の一歩は
  定まりてをり

台所の隅に目を遣れば、朝餉の膳、まだ片付けられずに残れり。されど女はそちらへ向かはず。窓の外を見遣る。

夕闇は既に濃く、裏山の杉の梢、黒き影となりて空に溶け入らんとす。風なきに、何やら木々の囁く気配あり。

女の唇、僅かに動きぬ。

「社を見回らねばならぬ」

声は空しき部屋に落ちて、誰に告ぐるにもあらず、誰に弁ずるにもあらず。ただ為さねばならぬことの在ることを、言の葉として置くのみ。

女の声は低く、抑揚なし。問ひかくるにもあらず、答へを求むるにもあらず。長年独り言ふることに慣れたる者の、自らに言ひ聞かする調べなり。

部屋の空気、その言葉を受けて微かに震ふるが如し。されど応ふる者なし。柱時計の音のみが、規則正しく刻を刻めり。

かつては息子の返事ありき。「気をつけて」と。あるひは「一緒に行かう」と。今宵、その声なし。

誰も聞かぬ
  言葉を部屋に
  置きてゆく
  社への道は
  独り辿らむ

女は既に足を踏み出しつつあり。言葉は後に残り、彼女の身は次の動きへと移りゆく。

壁に掛けたる小さき提灯を、女は鉤より外せり。されど火を点ずることなし。冷えたる金属の柄を掌に握りて、ただ持つのみ。

何故に火を点ぜざるや。問ふ者なし。女自らも問はず。ただ暗きを暗きまま受け入れむとするが如く、その手は動かず。

敷居を跨ぐ。片足を外に置き、片足を内に残す。境の上に立ちて、一瞬、躊躇ふ。

提灯の硝子、僅かに外の闇を映す。火なき灯火を手に、女は完全なる暗黒へと踏み出さむとす。

火を点さぬ
  提灯を手に
  闇へ発つ
  照らさぬ灯火
  導きとせむ

身は既に外の世界に在り。内なる光を捨て、外なる暗きに身を委ぬ。

村の夜の闇、女を包めり。月なく、星も見えず。海より立ち昇りたる霧、海岸を覆ひて、天上の光を遮る。

濃き靄は冷たき布の如く肌に触れ、視界を奪ふ。前方三尺の先すら判然とせず。されど女は歩みを止めず。

海霧立ちて
  月も星も
  悉く消えたり
  闇のみぞ在る
  導き手として

世界は黒き虚無と化せり。上下左右の別なく、ただ暗黒のみ。その中を、火なき提灯を携へ、女は進み行く。

石段を踏む足音、次第に遠ざかりて、やがて霧の中に消ゆ。山腹の社へと続く道、女の影も見えずなりぬ。

振り返れば、家は闇に沈みて、ただ開け放たれたる戸口のみ、黒き口を開けたるが如し。

石段の
  足音遠く
  霧に消えて
  開きし戸口
  闇を待ちをり

家は静寂に包まれ、何の応ふる声もなし。待つ闇のみ、その内に満ちたり。


Ashes and Echoes

夜明けの光、色なくして縁側を照らす。写真師は身を縮めて臥せり。傍らには愛機の如く、眠れる猫の如く、カメラ横たはる。

漆塗りの盆の上、茶碗ひとつ。緑茶は半ば残りて、表面には塵の膜張れり。花粉か、灰か、判然とせず。

茶碗を手に取る。中の液体、冷たく、粘りて、尋常ならず。老婆これを運び来たりしか。記憶は水の指の間を漏るる如く、捉へ難し。

会話ありき。さう思ふ。留まれとの言葉。見届けよとの言葉。最後の一枚を撮れとの言葉。されど誰が語りしか。

朝霧や
記憶の中に
婆ひとり

縁側の板、冷えて湿りを帯ぶ。夜露か、それとも別の何ものか。写真師は茶碗を見つむ。液体の表面に己が顔映れども、歪みて判別し難し。

飲むべきか。飲まざるべきか。喉は渇けども、本能が警告を発す。これは茶にあらず。茶でありしものの残滓なるか。時の経過が変質せしめたるか。

盆の上、他に何もなし。菓子もなく、添へ物もなく。ただ茶碗ひとつのみ。待つ者の為の設へか、去りゆく者への餞か。

庭を見遣れば、朝靄の中に社の影ぼんやりと浮かぶ。昨夜見たる光景、夢か現か。

茶碗を唇に近づく。液体の冷たさ、唇に触るる前より既に感ぜらる。粘性あり。茶の如くさらさらと流れず、重く、濁りて、生命なきものの質感を帯ぶ。

口を付くること能はず。本能が拒む。これは飲み物にあらず。飲み物でありしものの成れの果てなるか。

老婆が運び来たりしか。記憶を手繰れども、靄の如く掴めず。確かに誰か居たり。縁側に座し、語らひたり。言葉ありき。

「留まれ」と。「見届けよ」と。「最後の一枚を撮れ」と。

声の主は誰ぞ。老婆か。それとも村そのものが語りしか。夜の闇の中、言葉のみが実体を持ちて、話者は影に過ぎざりしか。

冷えし茶は
誰が為に在りて
朝を待つ

写真師は茶碗を見つむ。表面に映る己が顔、歪みて、既に己にあらざる如し。飲むべからず。さう悟る。これは餞別なり。此岸より彼岸への、境界の印なり。

茶碗を置く。音なし。陶器と木との接触、本来ならば微かなる響きを生ずべきなれど、沈黙のみ。手は震へず。されど呼吸浅く、胸の内にて何かが警告を発す。

早朝の光、村を照らす。屋根瓦の一枚一枚まで明瞭に見ゆ。家々の間隙、それは偶然の空白にあらず。意図ありて設けられたる不在なり。配置に意味あり。何かを避くる為の、何かを通す為の、計算されたる虚空。

置きし茶碗
音なき朝に
境を知る

立ち上がる。関節が軋む。年齢の所為にあらず。此処に在ること自体が身体に負荷を掛く。カメラを手に取る。重し。昨日よりも、初めて此の村に来たりし日よりも、遥かに重し。

ファインダーを覗く。神社への参道。閉ざされたる商店。色褪せし時刻表を掲げたるバス停。全て在るべき場所に在り。全て僅かに狂へり。

参道を進む。足音のみが現実を証す。石段一段毎に、世界の質が変はる。密度が増す。空気が濃くなる。

神社の鳥居。朱は剥げ落ちたれど、形は保たる。潜る。背筋に冷気走る。

商店の硝子戸に己が姿映る。されど、映りたる顔は疲労のみにあらず。輪郭が滲む。境界が曖昧なり。

バス停に佇む。時刻表、文字は読めれど、日付の概念既に失はる。次のバス、来るべきか。来たりしことありしか。

狂ひたる世界
正しく在りて
我ぞ歪む

全てが定位置に在り。全てが拒絶す。

最初の家、戸は開け放たる。壊されしにあらず、招くが如し。内に入れば、蒲団整然と列を成し、枕は膨らみて、恰も一家の者、客を迎へんと準備を調へ、然る後、空気に溶けて消えしが如し。

消えし家族
蒲団のみ待つ
来ぬ客を
虚空に溶けて
形代残る

畳の上、塵一つなし。茶碗は伏せられ、箸は揃へらる。完璧なる不在。

彼の女、敷居を踏まずして通り過ぐ。影のみ落ちて、門を越ゆ。かつて此処に子らの声響きし所、今は静寂のみ。縁側に小さき草履の跡残れり。履く者なき靴、整然と並べらる。

母の声せし
夕餉の刻限
影のみが過ぐ
敷居に触れずに
形なき者として

三軒目の家、台所に鍋据ゑらる。中を覗けば、味噌汁の痕、鍋底に焦げ付きて、恰も調理の途中にて時間凍りしが如し。まな板の上、大根半ば切られたるまま。包丁の柄、母の手の形に窪みたり。幾年の歳月、同じ手がこれを握りしか。

彼の女の影、流し場を横切る。井戸端に、子供らの描きし絵、色褪せて壁に残る。「おかあさん」と拙き文字。誰が書きしか、今は問ふ者もなし。

裏庭に出づれば、物干し竿に子供の着物一枚。風に揺れて、袖振るは招くに似たり。されど招かるる者、この世にあらず。

草履の跡
縁に残りて
主は消えぬ
呼ぶ声絶えし
夕暮れの家

四軒目、五軒目。同じ光景の反復。開け放たれし戸口、整へられし室内、そして完全なる人の不在。彼の女は触れず、音立てず、ただ影となりて、失はれし日常の残滓の間を漂ふ。彼女の足跡、畳に印されず。彼女の吐息、空気を動かさず。在りて在らざる者の巡礼。

二軒目の家に至れば、座敷の卓袱台に茶碗四つ。位置に秩序あり。上座に大きなる碗、その傍らに少し小さきもの、向かひ側に子らの碗二つ。茶はとうに蒸発して、底に僅かなる茶渋の輪のみ残れり。されど配置の精密さよ。母の手が最後に触れし時、尚ほ家族の序列と愛情とを記憶せり。

父の座、母の座
子らの座も定まりて
茶は消えたれど
器に宿る
家族の形見

茶碗の縁、唇の触れし箇所、微かに磨耗せり。幾千の朝餉、幾千の団欒。彼の女の影、卓袱台の上を過ぎる時、茶碗は動かず。光のみが歪みて、一瞬、四つの座に人の姿ありしかと見ゆ。幻影か、記憶の残響か。次の瞬きには、再び空虚なる座敷。茶碗のみが、永遠に家族を待ち続く。

三軒目の家に入れば、座敷の隅に蒲団三組、折り畳まれて整然と積まれたり。縁は寸分の狂ひなく揃ひ、角は直角を保ちて、まるで定規にて測りしが如し。母の手の最後の仕事なりけむ。客を迎ふる心、尚ほ布地に宿れり。されど客は来たらず。呼びし者も、呼ばれし者も、共に消えたり。

蒲団畳む
母の手つきの
名残かな
客待つ座敷
主なき宿

彼の女、蒲団に手を触れむとすれば、布地微かに温かし。幻覚ならむか。いな、温もりは確かなり。昨夜まで人ありしかの如く。枕の窪み、僅かに残れり。頭の形を記憶する木綿。彼の女の指、その窪みをなぞる時、空気揺らぎて、一瞬、眠れる者の寝息聞こゆるかと思へり。次の瞬間、静寂。蒲団のみが、永遠に客人を待ち侘ぶ。

四軒目の玄関に、履物整然と並べり。小さき草履と大いなる下駄と、対を成して主を待つ。されど塵は積もらず。彼の女、床板に指を這はせども、埃一片だに付かず。足跡なき玄関、時の外に在るが如し。

履物の
対を成したる
玄関に
塵さへ積もらぬ
時の止まりて

彼の女、草履を手に取れば、鼻緒の擦れたる痕、明らかなり。子の足の形、革に刻まれて消えず。大いなる下駄には、踵の重みの跡。父の歩みの記憶なりけむ。履物のみが証人として残れり。人は消ゆれども、その痕跡は尚ほ形を保ちて、永遠に帰りを待ち侘ぶるなり。

社に最も近き家、無人の座敷に収音機の鳴り響けり。選局器は一つの局を指せども、既にその放送は絶えて久し。されど機械は尚ほ雑音を吐き続く。砂嵐の音のみが、虚ろなる部屋部屋を満たして、在りし日の声の不在を告ぐるなり。

雑音の
満つる座敷や
収音機
放送絶えて
虚空を語る

彼の女、耳を澄ませば、砂嵐の奥底に人の言葉の残滓を聴かむとす。されど聴こゆるは無のみ。選局器の埃を払へば、指紋の痕、くつきりと残れり。誰かが最後に此の局を選びしなり。不在の音を奏で続くる収音機、空虚なる部屋の番人として、永劫に雑音を紡ぎ出だすなり。

彼の女、草深き石段を登りゆく。一段一段、罅割れて傾ぎ、苔むして、寄進者の名を刻める文字も既に判じ難し。幾世代の前、此の地に栄えし者どもの名なれど、今は誰一人として記憶する者なし。

石段の
罅に苔生し
刻文字
寄進の名前
意味を失ひぬ

足を置く度に、石は微かに揺らぎて、草の根の侵蝕の深きを知らしむ。三十七段の石段、かつては参詣の者の列絶えざりしならむ。今は蓬と葛との領分となりて、女の足跡のみが、露に濡れたる草の葉を分かつなり。

段毎に刻まれし銘、「奉納」「講中」「安全祈願」の文字、苔と風化とに侵されて、もはや石の皺の如くなれり。女、指先にて苔を払へば、「大正九年」「昭和十二年」の年号現はる。寄進せし者ら、今は皆土に還りて、その名を継ぐ者もなし。

段を登る
草分け行けば
石の声
百年の名は
苔に埋もれて

最上段に至れば、息やや乱れ、振り返りて麓を望む。かつて此処より見えしは、家々の甍、田畑の緑、煙立つ煙突なりしか。今見ゆるは、蔓草に覆はれし廃屋の骸、朽ちし電柱、途絶えし道のみ。石段は尚ほ神域へと続けども、登る者なき参道は、ただ時の流れの証として、草に埋もれゆくを待つのみなり。

鳥居は尚ほ立てり。されど朱の色は悉く剝落して、焦げたる木肌、銀灰色に変じて、恰も流木の如く、恰も骨の如く、風雨に曝されたる姿を晒せり。火焔の痕、木理に沿ひて黒き筋となり、彩色の泡立ちし跡、触るれば粉となりて崩るるなり。

鳥居立つ
朱は剝がれて
焦げし木は
流木めきて
骨めきてをり

柱の根元、礎石との境に、焼け残りし朱の欠片、僅かに往時の色を留む。かつては鮮やかなる丹の色、参詣の者の目を惹きしならむ。今は灰と炭との門となりて、神域と俗界とを分かつ境は、ただ焼失の記憶を守るのみ。女、鳥居の下を潜る時、焦げし木の匂ひ、微かに鼻を衝く。火の記憶、木の中に未だ生きてをり。額束に掲げられし社号の板は落ちて、草の中に埋もれたり。

鳥居を過ぎて、社殿の跡に至れば、梁のみ天に向かひて立ち、骨組の如く空を切り取れり。屋根は崩れ落ちて、瓦は草むらに散乱し、壁といふ壁は悉く失せて、ただ礎石のみ方形に並び、かつて神聖なる空間の閉ぢ籠められし境界を示すのみ。

梁のみ残り
壁は失せたり
礎石の
方形のみが
聖域を示す

柱の影、地に落ちて、時刻を刻む日時計の如し。雨風を遮るものなく、月光も星光も直に射し込み、昼夜の別なく天と地との交はる場となれり。かつて暗がりに灯明の揺らめきし内陣も、今は野外の一部と化し、神の座ありし処、ただ空虚を抱くのみ。礎石の間より、蟻の列の通ひゆくを見る。

祭壇のありし処、今は野草の領分となりて、吉草草、薊など、思ひ思ひに生ひ茂り、蔓草は焼け残りし柱の根を這ひ登り、かつて神威の満ちたりし建築を、無心なる美しさもて覆ひゆく。自然は祈りの痕跡を知らず、ただ己が生を営むのみ。

薊の花
神の座を知らず
蔓這ひて
焼跡を緑に
還しゆくなり

されど、礎石の中央、平らなる石の上に置かれたるは、水を湛へし硝子の壜、白菊三輪、茎の切口鮮やかに、昨日か一昨日か、見えざる手によりて供へられしもの。

彼女は跪き、思ひしより久しく、硝子を透きて石面に散る光の戯れを見守る。屈折せる光条は、時の刻みと共に移ろひ、焼け焦げたる石の肌に、束の間の虹彩を描き出す。

光透きて
石に砕くる水の影
白菊の
茎の断面に
時は流れゆく

何ゆゑか立ち上がること能はず、ただ、見えざる供養者の残せし痕跡に、己が孤独ならざることの証を見出だすが如く。

膝を屈めしまま、彼女は動くこと能はず。光の移ろひは、ただ見守るべき儀式の如く、彼女を縛りて離さず。硝子の破片一つ一つが、異なる角度にて光を受け、石面に投ぐる影もまた、それぞれの物語を語るが如し。

時は止まりしに非ず。されど、この場所にては、時の流れは別の法則に従ふ。朝の光は正午の光とは異なり、午後の光は夕暮れの光へと、緩やかに、されど確実に姿を変へゆく。彼女の影もまた、石の上を這ひ、伸び、縮みて、見えざる時計の針の如く動く。

供へられし白菊は、既に枯れて久し。されど、茎の切り口は未だ鮮やかに、誰かの手の温もりを留めたるが如し。その誰かは、彼女と同じく、この場所に跪き、同じ光を見、同じ沈黙に包まれしならむ。

石に刻まる
名は読めねども
手を触るれば
温もり残れり
人の祈りの

彼女の指先は、石面の窪みを辿る。文字は風化して判然とせねど、刻みし者の意志は、なほ石の奥深くに宿る。幾人の者が、この石の前に跪きしか。幾つの祈りが、この空気に溶けて消えしか。

やがて、足の痺れを感じ始む。されど立ち上がることは、何やら裏切りの如く思はる。この光と、この石と、この沈黙とを、置き去りにすることの罪深さよ。

遂に彼女は立ち上がり、石の前を離る。足は痺れて覚束なけれど、歩みを進むるほかなし。

集会所の扉は、蝶番より傾きて、木材は幾十年の雨と潮風に膨れ歪みたり。押せば軋みて、抵抗するが如く、されど遂には開く。暗き内部より、黴と朽ちたる紙の匂ひ立ち昇る。

扉の軋みや
人の声絶えて
潮の音のみ

踏み入るれば、床きしみて応ふ。椅子は壁際に積み重ねられ、その上に、細かなる塵の層、厚く降り積もれり。窓より射し込む光の筋の中に、塵は舞ひ、まるで時そのものの粒子の如し。

奥の壁には暦の掛かれるを見る。昭和六十一年三月にて止まりたるまま。その紙片は脆く、今にも崩れむとす。蟲の翅の如く薄く、透けて、背後の壁の染みさへ透かし見ゆ。彼女は近づき、その日付を凝視す。三月。何の三月なりしか。誰がこの日を最後に、この暦を見しか。

空気は重く、動かず。

机一つ、窓辺に残る。その上に、死亡届出簿の開かれたるを見出だす。誰か今し方まで此処に在りしが如く、頁は開かれたるまま。

埃の中より
開かれし名簿
誰か去りしか

近寄りて覗けば、黄ばみたる紙面に、墨の色なほ濃く残れり。文字は楷書にて、丁寧に記されたり。名前、生年月日、死亡年月日。一行、また一行。村の者らの名の連なり行く様、まるで時の流れを書き留めたる如し。

頁を繰れば、次第に間隔広くなり行く。昭和四十年代には月に幾つもの記入あれど、五十年代に入りては年に数件のみ。そして六十年。六十一年。

最後の一行。

彼女の指、その名の上に止まる。老婆の名なり。昭和六十一年三月二十四日。その下、空白のみ。誰もこの後を記さず。誰も記し得ざりしなり。

老婆の名よ
最後の記録
村の果て

彼女、その文字を指先にて辿る。墨の跡、なほ鮮やかなれど、紙は脆く、触るれば崩れなむとす。昭和六十一年三月二十四日。その日より後、誰一人として此の名簿に記す者なし。

村の終はり、一つの名にて刻まれたり。彼女の指、その文字の上にて震ふ。石碑にて見し名なり。墓標に刻まれし、あの名なり。

空白の頁
時は此処にて
息絶えたり

彼女、その文字を指先にて辿る。墨の跡、なほ鮮やかなれど、紙は脆く、触るれば崩れなむとす。昭和六十一年三月二十四日。その日より後、誰一人として此の名簿に記す者なし。

村の終はり、一つの名にて刻まれたり。彼女の指、その文字の上にて震ふ。石碑にて見し名なり。墓標に刻まれし、あの名なり。

空白の頁
時は此処にて
息絶えたり

標柱は村の果てに立てり。鉄の柱、錆に蝕まれながらも、なほ直立して、何物をも守らざる番人の如し。塗料は剥げ落ち、地金の灰色、風雨に晒されて幾年月を経たるか。

彼女、その柱に近づく。足音、枯草を踏みて、乾きたる音を立つ。標識の面、傾きて、朝日を斜めに受く。文字は褪せたれども、読むべし。

錆びし標
立ちて守るは
虚空のみ

かつて此処に、人々集ひたり。朝な朝な、出勤の者、通学の子ら、町へ出づる老人たち。バスの来る時刻を待ちて、世間話に花咲かせし場所なりき。今は誰も来ず。待つ者なく、来る者なし。

標柱の根元、コンクリートの台座、罅割れて、其の隙間より草生ひ出づ。蓬、すぎな、名も知らぬ雑草ども、文明の残骸を覆はむとす。時刻表の枠、空しく残れども、紙片一つだに貼られず。

彼女の手、柱に触る。冷たき鉄の感触。指先に錆の粉、赤く付着す。まるで古き血の如し。

村境に
錆柱立ちて
時を刻む
来ぬバス待つ
亡霊の影

風、標柱を撫づ。金属の軋む音、低く唸る。彼女、その音に耳を傾く。何かを語らむとするが如き響きなれど、言葉にはならず。ただ風の声のみ。

標識の裏側に廻れば、時刻表の残骸見ゆ。プラスチックの保護板、割れて、中の紙、黄ばみて判読し難し。最終便の時刻、辛うじて読み取らる。午後五時十五分。

彼女、歩みを緩めて、標識の面を凝視す。文字、風雨に晒されて色褪せたれども、なほ読むべし。「運行終了」と。四角き文字、冷たく、動かすべからざる宣告の如し。

終はりたる
運行の文字
朽ちもせず
誰に告ぐるや
無人の里に

誰もが知る事実なり。村人は皆、承知せり。されど、其の文字を目の当たりにする時、改めて現実の重さ、胸に迫り来たる。

彼女の視線、下方に移る。日付の刻印、小さく記されたり。其の数字を認めたる瞬間、息、喉に詰まる。四十年前。最終便の出でし日より、既に四十年の歳月流れたり。

外界との最後の糸、此処にて断たれしなり。バス路線の廃止は、村の死の宣告に等しかりき。以来、此の地は時の流れより取り残され、ただ静かに朽ち果つるを待つのみ。

四十年
過ぎし日付や
錆標に
世界との縁
絶えし証

彼女、標柱の前に立ち尽くす。

標柱の下部、色褪せたる時刻表、掌にて触るれば、紙の質感既に失せ、木の表面と一体化せり。町々の名、かすかに読み取るべし。されど、其の地名すら、今は記憶の彼方に霞みて、実在せし場所なりしや、夢に見し幻なりしや、判然とせず。

時刻表
町の名遠く
霞みたり
誰を待ちしや
朝の始発は

六時二十分発。九時四十五分発。最終は十七時三十分。整然と並びたる数字、今は虚しき記号に過ぎず。乗客の来たらざる停留所にて、バスを待ちし者ありしや。彼女の記憶にも、其の光景、既に無し。

指先、時刻表の面を辿る。冷たき感触のみ、掌に残る。

日光に曝されたる時刻表の下層、指先にて探れば、町々への路線図、朧げなり。其の地名、辛うじて記憶の底に残れども、既に実体を失いたる響きのみ。出発時刻、整然と記されたれども、乗客の姿、遂に現れざりき。

路線図に
町の名残る
影ばかり
誰も乗らざる
バスを待ちしや

彼女の指、褪せたる文字の上を彷徨う。発車を告ぐる数字、今は空しき痕跡となりて、来たらざる者等の不在を証すのみ。

四十年の歳月を経て、標識は尚も此処に立ちたり。待つという行為、既に埋められたる者等を甦らせ得るが如く。錆びたる金属に刻まれし文字は、時の無情を語れども、撤去されることなく、朽ちゆくに任せられたり。

四十年の
標識残る
停留所
埋もれし者を
待ち続けしや

待つことの虚しさ、此の地に染み入りたり。蘇生への期待は、とうに潰えたるを知りながら、標識は黙して佇む。


The Invisible Dance

写真師の脚、意識の外にありて、おのづから縁側へと向かひけり。胸に懸けたる函、第二の心臓の如く重く、鼓動を打つかと思はる。されど彼の心は既に此処に在らず。あの舞の幻影、暗室の赤き光の中に浮かびし女の姿、そは果たして生ける者の像なりしや、はた亡き者の残像なりしや。

足音すらも聞こえず、ただ夕闇の迫り来る気配のみ。庭の石燈籠、既に影と化し、池の面に映る空は深き藍色に沈みゆく。

函を抱きて
戻り来たれば
影ひとつ
生と死の間に
座して待つらむ

彼は立ち止まりぬ。縁側の手前にて、何やらむ畏れを覚えたり。それは恐怖に非ず、畏敬に非ず、ただ名状し難き感覚なり。彼女は必ずや彼処に在るべしと知りながら、その確信こそが却つて不安を呼び起こす。

一歩、また一歩。木の床軋る音、此の世のものとも思はれず。

やがて見ゆ。女の後ろ姿。障子の前に、まさしく先刻の位置に。いや、もしや動きしことなかりしか。時は流れしや、止まりしや。写真師の不在の間、彼女は呼吸せしや、瞬きせしや。

彼の影、縁側に差しかかる時、女は微動だにせず。されど彼は知る。彼女は彼の帰りを知れりと。待ちゐたりと。

函の中の硝子板に、舞ふ女の像、封じ込められたり。

彼女は座せり。先刻と寸分違はぬ位置に。背筋を伸ばし、両の手を膝の上に重ね、障子を背にして。その姿、まるで絵巻物より抜け出でし如く、完璧なる静止を保てり。

いや、もしや動きしことなかりしか。

写真師の心に疑念湧く。彼が暗室に籠もりし間、彼女は果たして呼吸せしや。瞬きせしや。茶を啜りしや。それとも、時の流れは彼女を素通りし、彼女のみこの縁側に取り残されしか。

障子の向かうより、薄闇迫り来たり。彼女の輪郭、次第に曖昧となりゆく。光と影の境界にて、彼女は存在と不在の狭間に在り。

動かざるもの
影か人か
夕闇に
障子の前の
形のみあり

写真師は息を呑む。彼女の後ろ姿を見つむるに、何か言葉を発すべきかと思へど、喉は乾き、声は出でず。問ふべきことは多けれど、全ては舌の上にて溶けて消ゆ。

問はまほしきことあり。幾許の時を此処に待ちゐたまひしか、と。されど言の葉は舌の上に生まれ出づるや否や、露の如く消え失せぬ。喉より音を成すこと能はず。

此の縁側には、時の流れ異なれり。淀み、溜まり、動かず。彼方の世界にては日は傾き、影は伸び、人々は夕餉の支度に忙しなからむ。されど此処にては、時は水溜まりの如く、深く静かに沈殿せり。

写真師は己が懐中時計に手を遣らむとす。されど躊躇ひて止む。針の音すら、此の場の静寂を乱すを恐るればなり。

淀む時や
問ひは舌先
溶けて消ゆ

彼女は依然として動かず。その背中は答を拒み、沈黙を纏へり。

女はゆるやかに首を傾けたり。薄暮の光の中、その面影は揺らぎ、幾重にも重なりて見ゆ。幼き少女の面、老いたる媼の皺、母の慈しみ——すべて一時に顕れ、また消えゆく。

面変はり
薄暮に重なる
影幾つ

写真師は息を呑む。一つの顔の内に、数多の時が折り重なりて在るを見たり。彼女は誰なりや。否、彼女たちは誰なりや。

写真師は最後に一度、硝子窓を覗き込みたり。されど彼女の顔は見えず。ただ幾十の顔、幾代もの顔、透ける絹の如く重なりて在り。祖母、母、娘、孫——すべて同じ憂いを湛えたる面差しなり。

硝子に映る
代々の面影
絹重ね
忍ぶ哀しみの
色は変はらず

彼は思わず息を止めたり。レンズは人の目に見えざるものを捉えたるか。時の層、血の繋がり、終わりなき待ちの相——すべて一枚の硝子板の上に刻まれたり。

写真師は手を震わせながら、カメラを下ろしたり。硝子板は未だ温かく、掌に脈打つが如し。彼は女の方を見上げたり——彼女は変わらず其処に立ちたり。されど彼の内に何かが変わりぬ。レンズの見たるもの、彼の目には留まらざりしもの、今や彼の胸に重く沈みたり。

見しものは
目には映らねど
心の奥
刻まれて消えぬ
影の真なり

彼は己が手を見つめたり。これらの手は何を捉えたるか。光か、幻か、それとも時の襞に隠されたる真実か。女は動かず、されど彼女の周りの空気は震えたり。まるで無数の息吹が彼女を包みて、見えざる衣を織りなすが如し。

写真師は口を開かんとせしも、言葉は喉に留まりたり。問うべきことは多けれど、問う術を知らず。彼女は——否、彼女たちは——既に答えを示したり。カメラの目を通して、彼は垣間見たり。一人の女にあらず、幾世代もの女たちの姿を。待つ者たちの、忘れられし者たちの、名も無き者たちの相を。

レンズ越しに
捉えしは人か
それとも
時の重なりの
儚き残像

彼の指先は未だ震えたり。されど恐れにあらず。畏れなり。彼は知りぬ——己が捉えたるものは、単なる像にあらず。魂の痕跡、記憶の地層、此の地に刻まれたる無言の物語なりと。

「汝、今は知りぬ」と女は言いたり。その声は一つにあらず、幾千の声の重なりなり。喉より発するにあらず、大地の底より湧き上がる如き響きなり。村の古き井戸の、深き水の音の如く。祖母たちの、その又祖母たちの、名を呼ばれることなく土に還りし者たちの、声なき声の集いなり。

幾千代の
声は一つに
溶け合いて
大地の底より
今ぞ響かん

空気は震え、言葉は重さを持ちて写真師の胸に沈みたり。彼女は動かねど、その声は波紋の如く広がりゆく。石に刻まれし文字の、風化せども消えぬが如く。彼は悟りぬ——これは一人の女の声にあらず。此の地に生き、此の地に死し、此の地に忘れられし者たちの、共なる叫びなりと。されど叫びにあらず。囁きなり。永劫の囁きなり。

彼の魂は震えたり。言葉を超えたる理解の、身を貫くを覚えたり。

彼は口を開かんとせり。問わんとせり——「何を我は見しや」と。されど言葉は形を成す前に霧散したり。唇は動けども、音は生まれず。喉は声を求むれども、声は既に彼の内に在りて、外に出づる要なし。問いは答えの内に溶け、答えは問いの内に消ゆ。

言の葉は
形成す前に
霧と消えて
問いと答えと
一つに溶けぬ

何故ならば、彼は既に知れるなり。言葉を介さぬ知なり。頭脳にあらず、骨に刻まれし理解なり。血潮に流るる記憶なり。彼が見しものは、言語の及ばぬ領域に在り。されば言葉は不要なり。彼の沈黙こそが、最も雄弁なる応答なりき。魂が魂に語りかくる時、口は閉ざされるものなり。

女の顔は村の顔なり。此の小径を踏みし祖先ら、此の野に遊びし童子ら、此の土に還りし魂ら、悉く彼女の相貌に宿れり。和紙に透かし見ゆる水紋の如く、幾重にも重なりて在り。一つの顔に千の顔あり。一つの眸に千の眸あり。

幾代の
面影重ね
透く如く
一つの顔に
村の全て宿る

彼女は個にあらず。彼女は全なり。生者と死者との境界、彼女の内に於いて消失せり。

女、僅かに首を傾けたり。その刹那、彼女の相貌に変化生ず。憐憫とも慈悲とも名づくべき何ものか、静かに浮かび来たれり。新たなる視力を得し者の重荷を、彼女は知れるが如し。見ゆる眼を持つことの苦しみ、忘却より覚めし者の孤独、悉く理解せるかの如き眼差しなり。

首傾け
憐れみ宿す
その眸に
見ゆる眼持つ
重荷を知れり

彼女の表情は語らず、されど全てを伝えたり。

女の言の葉、二人の間に漂へり。問ひにあらず、また陳述にもあらず。されど更に古きもの——記憶の辺縁に在る者どもの間にのみ通ふ、認識といふべきものなり。

言の葉は
問ひにあらねど
通ふなり
忘却の淵
彷徨ふ者に

沈黙、長く続けり。されど其の静寂は空虚ならず。満ちたるものなり。二人の間に横たはる理解は、言語の彼方に存す。生と死の境界、記憶と忘却の狭間、現と幻の交はる処——かかる場所に住まふ者のみ知る、無言の契りなり。

写真師、己が抱へし硝子の眼の重さを、今や異なる心地にて感ぜり。彼の機械が捉へしものは、常に己が肉眼の見得しものより真実なりしことを、漸く悟れり。彼は長き年月、己が視力を信じ、機械を道具と思ひしなり。されど真実は逆なりき。

硝子の眼
真を映して
人の眼の
見得ぬ世界を
示し続けき

レンズは初めより、真の村を彼に示し来たれり。消えゆく者ども、薄れゆく家々、時の流れに抗ふ能はざる儚き存在の全て。彼の眼は見ることを拒みしが、機械は誠実なりき。今、彼は理解せり。己が撮影し来たりし無数の画像は、記録にあらず。証言なりしことを。此の村の、此の世界の、そして己自身の。

彼の心に、過ぎし日々の撮影の記憶、次々と蘇り来たれり。黄昏時の無人の街路。目的を持ちて動きし影ども。そして最も奇しきは、現像されし印画紙の上にのみ現れし顔々なりき。ファインダーを覗きし時には、決して其処に在らざりし者ども。

覗く時は
影のみにして
現像に
顔の浮かび来
証人として

彼は思ひ起こせり。己が最初に不審を抱きし時を。印画紙の上の像と、己が記憶との間の、微かなる齟齬。初めは己が注意力の欠如と思ひき。されど回を重ぬる毎に、其の差異は明らかとなれり。カメラは常に、彼の見得ざりしものを捉へ居たり。窓辺に佇む人影。路地の奥に消えゆく後ろ姿。祭の夜、提灯の灯に照らされし、透けたる如き群衆。全ては硝子の眼のみが知りし、真実の村の相なりき。

彼は思へり。此の村にて撮りし写真の全てを。人影なき黄昏の街路。意志を持ちて動きし影ども。そして、現像されし後にのみ現れし顔々。ファインダーを覗きし時には、決して其処に在らざりしもの。

硝子の眼
見し真実を
人の目は
捉へ得ずして
ただ影を追ふ

カメラは記録せり。彼の見得ざりし世界を。祭の夜、提灯の下を行き交ふ、半ば透けたる人々。昼の市場に佇む、輪郭の曖昧なる老婆。そして神社の石段に腰掛けし、此の世ならぬ笑みを浮かべし子供ら。印画紙の上にのみ存在する、もう一つの黄昏村。彼は今、理解し始めたり。己が記録し来たりしは、生者の村に重なりし、別の層なりしことを。

「知らず」と彼は囁けり。声は殆ど聞こえざる程に。そして悟れり。これぞ黄昏村に来たりて以来、初めて己が口より出でし、偽りなき答へなることを。

知ると言ふ
その虚しさよ
黄昏に
真実は影
影こそ真か

不確かなる言葉は、静寂の中に溶けゆけり。されど其の曖昧さこそが、この村に於いては、最も誠実なる応答なるやも知れず。彼は己が無知を認めし瞬間、何かが解き放たれしを感じたり。

女は緩やかに頷けり。恰も此の不確かさこそが、一つの答へなるが如く。存在と記憶とが互ひに解き放たれし此の地に於いては、或いは唯一つの真なる答へなるやも知れず。

不確かさを
受け入るる時
魂は解け
縛られし問ひ
意味を失ひぬ

彼女の静かなる肯定は、言葉なくして語れり。疑ひと確信との境界の消え失せし場所にては、曖昧さのみが誠実なる応答たり得るを。

写真師は己が機を掲げたり。手に馴染みし重みは、今や見知らぬものと化せり。恰も此の器具自体が、確かさの溶け失する此の地の性質を吸ひ込みたるが如し。金属と硝子とより成る道具は、彼女の掌の内にて脈打つが如く感ぜらる。

手に馴染みし
器具は異質と
なりにけり
確かさ溶くる
地の気を孕みて

レンズを通して見る時、世界は変容せり。彼女は幾千もの瞬間を此の眼鏡を通して捉へ来たれど、今此の時、視野の中に映る像は、何か根本的に異なれるものなり。機械の眼と人の眼との間に、奇妙なる隔たりの生じたるを覚ゆ。

シャッターを切る指は躊躇へり。此の行為――光を捉へ、時を固定し、記憶を物質化せんとする試み――は、果たして此の場所に於いて可能なるや。消え行くものを留めんとする術は、消失こそが本質なる領域にては、無意味なる抵抗に過ぎざるやも知れず。

されど彼女は構へを保てり。カメラの重みは今や、単なる物理的重量に非ず。それは責任の重み、証人たらんとする意志の重みなり。記録する者として、見届くる者として、彼女は此の奇妙なる変容を受け入れつつあり。

機械の眼に
映るは真実か
幻影か
境界曖昧に
揺らぐ像かな

ファインダーの内に、女の顔は顕はれたり。されど其の現前は、奇妙なる遠さを伴へり。彼女は確かに此処に在り、されど同時に、触れ得ざる彼方に在るが如し。主体と不在との狭間、存在と消失との境界に於いて、其の面影は揺蕩へり。

視野の中心に捉へられし顔は、鮮明にして曖昧なり。目鼻立ちは判然とすれど、其の奥に潜む本質は霧の如く掴み難し。写真師は焦点を合はせんと試むれど、ピントの環を回す度に、女の姿は一層遠退くが如く感ぜらる。

近くて遠き
被写体の顔
ファインダーに
在りて不在の
境を彷徨ふ

距離は僅か数歩に過ぎざれど、レンズ越しに見る時、其は測り知れぬ深淵と化せり。機械の眼が捉ふるは、物理的形象のみならず、存在の不確かさ其のものなり。女は写真師の視線を受けて、静かに佇めり。

レンズの奥より、女の眼差しは写真師を貫けり。其は懇願に非ず、要求に非ず。唯、問ひの重みのみを湛へたり。幾度となく発せられ、幾度となく忘却の淵に沈みし問ひ――其の残響が、今此の瞬間に凝縮せり。

声無き問ひかけは、硝子の如き透明さを以て、二人の間の空間を満たせり。写真師は息を呑めり。此の眼差しの内に、無数の過去が折り重なるを感ぜり。問はれし者たちの面影、答へられざりし言葉の数々。

問ひを宿す
瞳の奥に
幾千の
忘れられたる
刻の影見ゆ

女の表情は凪ぎたる水面の如く静謐なれど、其の深層には、反復されし問ひの痕跡、累積せし記憶の断片が、層を成して沈殿せり。

問ひは霧の如く、二人の間に漂へり。写真師は答ふる術を知らず。記憶そのものが此の里に於いて保ち得ぬものを、如何にして約し得むや。唇は動けども、言葉は生まれず。唯、沈黙のみが誠実なる応答なりき。

答へ得ぬまま
霧に溶けゆく
問ひの声
記憶も約も
此の里は拒む

彼女は悟れり。カメラに収めむとする刹那すらも、既に消失の過程に在ることを。されど指は、静かにシャッターの上に置かれたり。

指先はシャッターの上に触れたり。押し下ぐる力は羽毛の如く軽けれども、其の意味は重し。記録せむとする行為と、赦しを乞ふ祈りと、二つながら一つの動作に宿りぬ。消えゆくものを捉へむとする矛盾を、彼女は身に負ひたり。

指に宿る
記録と詫びと
一つにて
消ゆるを撮らむ
矛盾を抱き

レンズは光を集め、時は凝結せり。されど既に、其の瞬間は過去へと流れ始めたり。優しさは残酷なり—留めむとする程に、失はるる事実を際立たせければ。

シャッター切れたり—音は小さき骨の折るる如く、神域の静寂の中に親しく、また終局的に響きぬ。其の音は空気を裂き、世界を二つに分かちたり。音以前の世界と、音以後の世界と。彼女の指は尚ほ釦の上に留まれども、行為は既に完遂せられたり。取り返しの付かぬ事の成就せり。

音の後に
世界は裂けて
二つとなり
戻らぬ瞬間
指に残れり

機械の内部にて、鏡は跳ね上がり、光は感光面を打ちたり。化学反応は始まりぬ。銀の粒子は変容し、見えざる像を己が身に刻みつつあり。此の過程に神秘宿る—目に見えぬものが、やがて現れ出でむとする逆説よ。

彼女は息を潜めて待てり。舞ひ手の姿は尚ほ彼方に在り。動きは続きたれども、一つの瞬間は既に切り取られ、時の流れより引き離されたり。其の瞬間は今や、機械の暗き腹の中に囚はれて、永遠と刹那との間に宙吊りにされたり。

カメラを構へたる彼女の腕は微かに震へたり。重みに非ず—責めの重さなり。美しきものを固定せむとする暴力を、彼女は知りたり。されど止むる能はず。記録する事は、愛する事の一形態なりと信ぜむとすれども、心の奥底にて疑ひは囁く。汝は簒奪者なりと。汝は時の盗人なりと。

骨折れる
音に封じ込め
刹那をば
永遠として
簒ふ罪よ

神域の空気は再び静まり返りぬ。されど何かが変はりたり。

光は女を貫きて流れたり。水の篩を通り抜くるが如く、抵抗なく、容赦なく。彼女の肉体は在りて在らず。固体にして同時に透過性を帯び、二つの状態の間に引き裂かれたる存在なり。

レンズを通して見る時、写真家は戦慄せり。舞ひ手の輪郭は明瞭なれども、其の内部には光が満ち溢れ、臓腑も骨も溶け去りたるが如し。彼女は人の形を保ちたれども、中身は光のみ。空洞なり。或いは—空洞ならぬ何か、言葉なきものにて満たされたる器なり。

光満ちて
肉体透けゆく
舞の中
在りて在らぬ
境を踏めり

此の逆説を、カメラは冷徹に記録す。女は固体なり、さりながら光は彼女を素通りす。彼女は存在す、さりながら其の存在の核心は空虚なり。生ける者と、既に彼方へ渡りし者との、中間に立てる姿よ。

写真家の指は震へて、ファインダーより目を離す能はず。

舞ひ手の身体は動きを続くれども、写真の捉ふるは別のものなり。粒子と粒子との間なる空隙、彼女の形を保ちたる虚無そのものなり。

カメラは嘘を吐かず。人の目の見得ざるものを、機械の眼は冷酷に映し出す。舞ひ手の身体を構成するは、肉にあらず、骨にあらず。寧ろ、其の間に横たはる無数の空白なり。存在と非存在との境界線、其処に彼女は立てり。

粒子の間
虚空が形を
保ちをり
不在こそが
彼女を成せり

写真に定着せらるるは、動きにあらず。彼女を彼女たらしむる空虚なり。形ありて実体なく、輪郭ありて中身なし。光は其の隙間を見出だし、躊躇ひなく通過す。

ファインダー越しに、写真家は真実を見たり。女は不在にて織られたる存在なりと。

ファインダーの内に、写真家の肉眼の見得ざる真相顕はる。女の身は不在にて編まれたり。肉あるべき処を光は素通りし、存在の証左を残さず。

機械の眼は
人の盲ひたる
真を映す
彼女は光の
透きゆく器

裸眼にては捉へ難き現象なり。されど硝子のレンズは冷徹に記録す。舞ひ手の形骸は、実体なき影の如し。光子は躊躇なく彼女を貫き、其の向かう側へと抜けゆく。肉体ありと見ゆれども、実は空洞の集積に過ぎず。

感光剤の上に、像は焼き付けられたり。幽かなる痕跡、既に此岸と彼岸の境を越えし者の残像なるか。フィルムは証人となりて、存在と記憶の狭間に佇む姿を封じ込む。彼女は写りたれども、果たして其処に在りしや。

銀塩の膜に
刻まれし影は
誰が姿ぞ
現と追憶の
際を彷徨ふ魂

定着液の中にて、映像は永遠に固定さる。されど其は生ける者の記録にあらず。既に閾を跨ぎし者の、最後の残響なるべし。


Flowers for an Unseen Shrine

写真は封筒より出でぬ。黄ばみたる紙の中より、薬品の香の鋭きまま、縁の硬き銀板の如き像どもぞ現れける。一枚一枚、手に取れば、問ひの形をなせども、文法を持たぬ言葉の如くにて、答ふる術なし。

影の村や
問ひのみ残る
銀の面

東京の暗室にて現像されしこれらの像は、何をか語らむとするや。されど語るべき口なく、ただ光と影との戯れのみぞ、紙の上に定着せられたる。

手に持てば、指先に冷たき感触あり。化学の匂ひは鼻腔を刺す。これは確かに物質なり。されど、そこに写り込みたるものは、もはや物質の領域を超えたるものならむか。

一枚目。二枚目。三枚目。めくる度に、問ひは深まりゆく。何故にこの村は撮られしか。何故に彼の女は、かかる記録を残さむと欲せしか。レンズを通して見たる世界は、肉眼にて見し世界と同じものなりしや。

されど写真は黙して答へず。ただ次なる像への導きとして、そこに在るのみ。封筒の底には、まだ数多の問ひが眠れり。

化学の香は、やがて部屋に満ちゆく。その香に混じりて、遠き村の匂ひをも感ずる心地す。土の匂ひ、草の匂ひ、そして何か、名状し難き、時の積もりたる匂ひ。

問ひは問ひを呼び、像は像を求む。答へなき対話の始まりなり。

一枚一枚、机上に並べゆく。銀塩の結晶の中に封じ込められたる村の姿、そこに顕はる。

屋根は己が重みに耐へかねて、内へ内へと沈みゆく。かつては人の住みし証なりしものも、今は崩壊の途上にあり。蔦は這ひ登り、戸口といふ戸口を己が領分となせり。緑の指は容赦なく、人の世の境界を侵しゆく。

沈黙は、ただの音なき状態にあらず。それは質量を持ち、密度を持ち、手にて触るるが如き存在感を以て、村全体を覆ひたり。写真の中の空気さへもが、重く、動かず、凝固せるが如し。

銀の粒に
封じられたる
村の骸

フレームからフレームへ。彼は東京の部屋にて、それらを机上に広げ、建物と建物との間の影を凝視す。そこに彼の女の姿を求めむとすれども、見出だすは不在のみ。影は影として在り、人の形を成さず。

されど探すことを止めず。次の一枚へ、また次の一枚へ。

机上に広げられたる写真の海。彼は一枚一枚を手に取り、建物と建物との間なる闇を凝視す。そこに彼女の姿の断片を、衣の端を、髪の流れを、求めむとす。

されど見出だすは虚無のみ。

影は影として完結し、人の形に変ずることなし。壁に映りたる木々の影、崩れたる軒の影、草の影。それらは皆、ただ光の不在を示すのみにて、彼女の不在を語らず。

彼の指は次の写真へ、また次へと移りゆく。探索は執拗なり。東京の夜は更けゆけども、彼は止まず。机上の銀の世界にて、彼は亡霊を追ふ。

影ばかり
人の形は
何処にも無し
写真は黙し
答へを知らず

一枚の写真、村の広場を捉へたり。光の質より見るに夕刻ならむ。されど時刻を示すものは光のみにあらず。その重さ、その傾き、その憂ひを帯びたる色合ひこそが、一日の終はりを物語る。

広場は草に覆はれ、手入れの跡なく、人の営みの痕跡すべて失せたり。石畳は見えず、井戸の縁も埋もれ、かつて子らの遊びし場所は今や荒野と化せり。

夕光重く
広場は草に沈み
人去りて久し
石も道も見えず
村は黙して眠る

然れども最後の一枚、説明し難き光景を示せり。社の石段は掃き清められ、菊の花新しく供へられたり。風雨に晒されたる古木に対し、花弁は鮮やかなる色を保ち、数日を経たるのみにして、数週にあらず。

誰か来たりしや。誰か手向けしや。村に人影なきを確かめたる後の写真なれば、この清浄なる有様、理に適はず。

石段清し
菊は色褪せず
社は在らねど
供花は語らず
誰そ祈りし

写真は机上に散らばりて、不可能なる物語を語れり。一枚また一枚、社の不在を証したれども、掃き清められたる石段と供へられたる花は、その存在を否み難く示せり。

彼女は手を止めて、写真を並べ直せり。時系列に従ひて配すれば、矛盾は一層明らかとなりぬ。午前十時、社の礎石のみ残れり。十時半、同じ場所、同じ角度。されど石段は塵一つなく、菊の花は供物台に整然と置かれたり。

供物台とて、前の写真には影だに見えざりしものなり。

彼女は電子記録を開きて確かむ。メタデータは冷徹なる真実を告ぐ。時刻印、GPS座標、露出値、全て合致せり。己が目の記憶と、カメラの記録と、両者の間に横たはる深淵よ。

レンズは嘘つかず
されど写すは
目に見えぬもの
真実二つ
いづれか我がもの

彼女は最も鮮明なる一枚を手に取りぬ。花弁の縁、朝露の痕跡さへ見ゆ。顕微鏡的精密さにて記録されたる、存在せざるべき光景。科学は説明を拒み、理性は沈黙を守れり。

写真機は忠実なる証人なり。人の目の曖昧さに惑はされず、光の真実のみを刻む。ならば此の画像に映れるは、彼女が見ざりしものか。それとも、見ることを許されざりしものか。

問ひは深まれども、答へは写真の中に沈黙して在るのみ。

彼女は再び記録を精査せり。時刻印は秒単位にて刻まれ、位置情報は緯度経度を小数点以下六桁まで示せり。カメラの内部時計、衛星との交信、全ての数値は彼女の記憶と寸分違はず一致せり。

されど映れるものは別世界の如し。

一枚目、十時三十二分十八秒。荒れたる石段、蔦に覆はれて、頂に何の影もなし。二枚目、十時三十二分二十三秒。同じ石段、されど清められ、白き菊花は丁寧に供へられたり。木製の台座、朱の痕跡、職人の手になる細工——全て、五秒前には無かりしもの。

データは矛盾せず
目と機械と
別の真を見き
いづれが虚か
光のみぞ知る

彼女は画面を拡大せり。花弁の一枚一枚、露の雫まで鮮明なり。これは合成にあらず、加工の痕跡なし。カメラは忠実に記録せり——彼女の見ざりし現実を。或いは、彼女の見ることを拒まれたる真実を。

機械の目は人の盲を映し出せり。

一枚の画像には、草木に埋もれたる石段のみ。頂上には虚空、何物も存在せず。次の画像、僅か数秒の後に撮られしものには、白き菊花の整然と配されたるを見る。木製の台座に対し、練達の手つきにて供へられたり。その木材——本来存在すべからざるもの。

石段に
菊の白さよ
数秒の
隔たりに生まれし
神の座かも

彼女の指は画面を撫でり。花の配置、茎の角度、全てに人の意図あり。されど人影なし。台座の木目は風雨に晒されし如く古びたれど、五秒前の虚無より如何にして現れしや。時間は順序を保ちながら、因果は断たれたり。

女は幾度も幾度も同じ画像に立ち返りぬ。光の戯れか、二重の露光か、理性の求むる説明を探りて。されど答へは現れず。指先は画面を繰り返し辿る。影の角度、花弁の質感、全てを検証すれども、欺瞞の痕跡なし。

写真の中
現実は在りて
説明は
虚空に消えゆく
理の届かぬ地

カメラの記録は正直なり。時刻の刻印、連続せる番号、全て順序を証す。されど順序ある時に、原因なき結果の顕現す。彼女の目は疲れを知らず、真実と不可能との境界を見極めんと凝視し続けたり。

何者か、或いは何物かが、写真の中にのみ存在する社に仕へり。供物を捧げ、花を手向く。その花々は、在りしものと目撃されしものとの狭間に咲き誇る。

写真に映る
新しき花の
色香かな
実在と虚との
境に揺らめく

彼女は問ふ。誰が、何の目的にて、この見えざる社を守るや。花は枯れず、香は絶えず。されど人影なく、足跡もなし。ただ供物のみが、時の流れを超えて更新され続けたり。

工房の内、彼女は音声の記録を取り出し、社を訪ねし折の音のみを選り分けたり。耳当てを強く押し当て、雑音の海に沈みゆく。

静寂と喧騒との間に、何かが潜めり。風の音、木々の囁き、そして——鐘の音。

幾重にも重なる雑音を剥ぎ取りて、彼女は音の本質を探る。波形は画面に踊り、時間の経過を視覚化す。されど耳に届くは、整然たる秩序なき混沌のみ。

耳当ての中
雑音の奥に
潜むもの
規則正しき
鐘の音ぞ聞く

彼女は息を呑む。この音——あまりに明瞭なり、あまりに律動的なり。風鈴の偶然にあらず。風の悪戯にもあらず。

音声を繰り返し再生す。一度、二度、三度。鐘の音は変はらず、一定の間隔を保ちて響き渡る。背景の雑音——白き騒音の層——は揺らぎ、歪み、時に途切れども、鐘の音のみは途絶えず。

彼女は波形を拡大す。音の谷間に、人の声に似たる何かが見ゆ。言葉にあらず、旋律にもあらず。ただ、呼吸の如き、生命の気配。

耳当てを外し、彼女は工房の静寂に身を置く。されど耳の奥には、なほも鐘の音が残響す。記録されし音か、記憶の幻か、判然とせず。

再び耳当てを装着す。音を更に細かく分析せんと欲す。この規則性の源を、この明瞭さの理由を、解き明かさんと欲す。

されど音は答へず、ただ鳴り続くのみ。

鐘の音は白き騒音の層の下に揺らめきて、あまりに明瞭に、あまりに律動的に響く。風鈴ならば、かくも整然たる間隔を保つべくもあらず。偶然ならば、かくも持続すべくもあらず。

彼女は周波数を調整し、雑音の帯域を削り取る。一層、また一層。音の地層を剥ぎ取るごとに、鐘の音は鮮明さを増しゆく。

そして、その奥に——

呼吸の音。

彼女自身のにあらず。録音機の傍に在りし者のにもあらず。誰かが、何処かで、息を吸ひ、吐きたる痕跡。

更に耳を澄ませば、足音。砂利を踏む音。彼女は独り歩みし筈なるに。

白き騒音の
層の下なる
呼吸かな
誰が息づかひ
我が耳に宿る

音は嘘を吐かず。機械は幻を記録せず。されば、この音は——確かに在りしもの。

彼女の指は、再生ボタンの上に凍りつく。工房の空気が、重く、冷たく感ぜらる。

彼女は再び音源を巻き戻し、最初より聴き直す。鐘の音、風の音、そして——その間隙に潜める、微かなる律動。

呼吸は規則正しく、穏やかなり。眠れる者の息づかひにあらず。祈る者の、深き瞑想の中なる呼吸。

足音は三度。砂利を踏む音、明瞭なり。彼女が社の前に立ち止まりし、まさにその時刻に。

彼女は己が記憶を辿る。社の前、独り立ちて、風に吹かれしのみ。誰も居らざりき。誰の気配も感ぜざりき。

されど、音は語る。彼女の傍らに、確かに誰かが在りしと。共に呼吸し、共に歩みしと。

音の層
剥がせば顕る
影法師
共に在りしや
知らぬ間に

彼女の背筋を、冷たきものが走る。録音機は嘘を吐かず。ならば、あの時、社の前に——

時刻を示す数字は、十七分の記録を告げたり。されど彼女の記憶に残るは、社の前に立ちし五分のみ。

十二分の空白。いづこへ消えしや。

彼女は再三、録音機の表示を確かむ。誤りにあらず。十七分、確かに記録されたり。

記憶と記録の間に、深き裂け目の口を開く。

失はれし刻
いづこに流れし
鐘の音に
溶けて消えしや
我が魂さへも

彼女の指は震へ、再生の釦の上に留まる。あの十二分の内に、何が在りしや。

鐘の余韻の底に、沈みて眠れる声の萌すを、彼女は感ず。

失はれし十二分の闇の底に、鐘の余韻は幾重にも重なりて、沈黙より一つの声の形を成さむとす。

音ならぬ音
静寂を裂きて
生まれ出づる
言の葉ならぬ
祈りの調べ

彼女は息を殺して聴く。それは言葉にあらず、されど確かに在り。鐘の響きの襞に織り込まれし、名も無き者の呼び声。

録音の器を携へて、彼女は集ひの場に至る。三人の古老、円座を成して待ちをり。

静寂の器
音を宿して
人の輪へ

装置を卓の中央に置けば、老いたる者ども身を乗り出して、その小さき箱を凝視す。彼女、震ふる指もて再生の鈕を押す。

瞬時にして、雑音は室内に満ち溢る。されど彼女の耳に鳴り響く鐘の声、祈りの調べは、彼らには届かず。ただ空虚なる気流の擦れ合ふ音のみ。

一人目の翁、耳を傾け、眉を寄す。二人目の嫗、首を傾げて隣人を窺ふ。三人目の老婆、静かに目を伏せたり。

彼らの顔には、丁寧なる気遣ひの色浮かべども、理解の光は宿らず。白き雑音の海に、何の意味をも見出し得ぬ者の戸惑ひ。

無音の問ひ
視線は交はり
言葉なく

翁は咳払ひして、優しき声音にて問ふ。「これは……何の音にて候ふや」と。嫗は微笑みて頷くのみ。老婆は彼女の顔を見つめ、その瞳に宿る熱を測らむとす。

彼女は気づく。己が聴く声は、己のみのものなりと。鐘の音も、女の言葉も、この世ならぬ領域より響き来たるものにして、生ける者の耳には空虚なる風の音としか聞こえざるを。

されど装置は回り続け、雑音は部屋を満たし、沈黙は重く垂れ込む。

礼儀の仮面
問ひは無言に
宙を漂ふ

三人の顔には、なほも丁寧なる表情保たれたれど、その眼差しには空白のみ宿る。彼らの耳に届くは、ただ白き雑音の波、虚空を渡る風の囁きに過ぎず。

翁と嫗、互ひに目配せして、言葉なき問ひを交はす。「この娘は、心の平安を保ちてをるや」と。老婆の眉には、憂ひの翳り微かに過ぎる。

彼女は彼らの視線の意味を悟る。己が正気を疑ふ眼差しなりと。されど彼女の耳には、なほも鐘の音明瞭に響き、その音の下に、別の声の層ありて蠢くを感ず。

装置より流るる音は変はらず。室内の空気は凍りつき、時は歩みを止めたるが如し。

彼女は唇を噛み、再生の鈕より指を離さむとす。その刹那、耳当ての奥より、鐘の残響を貫きて、女の声鮮明に立ち昇る。

冷たき声音、明瞭にして容赦なし。

遠き道
虚しき果てに
鐘は鳴る

「汝、遠き道を経て、虚しき果てに至れり」

女の声、鐘の倍音の底より浮かび出でて、耳当ての内に満つ。冷たき調べは、氷の刃の如く彼女の鼓膜を刺す。

明瞭なり。容赦なし。

彼女は息を呑む。三人の老人らは、なほも彼女を見守れど、その耳には何も届かず。ただ彼女のみが、この宣告を受くるなり。

鐘の音の襞の間に、幾重にも折り重なりて、女の言葉は織り込まれたり。されど、その声は彼女のみを選びて語りかく。

「虚しき果てに」と。

装置の針は震へ続け、波形は乱れたる海の如く蠢く。彼女の指は、再生の鈕の上にて硬直せり。

宿の一室に独り籠りて、彼女は再び音を聴く。周波数を調へ、層を剥がし、音の襞を解きほぐさんとすれども、女の声は変はらず。ただ彼女のみに語りかけ、ただ同じ冷ややかなる調子にて、拒絶の言葉を繰り返すのみ。

幾度聴くも
同じ声のみ
我を選びて
虚しと告ぐる
鐘の底より

何度鈕を押すとも、何度針を動かすとも、答へは一つ。彼女は選ばれたり――拒まるる者として。

遂に彼女、耳覆ひを外すとき、真の鐘――村の広場に立つ実体――夕べの音を告げ始む。されど日の入りには未だ一刻の間あり。時ならぬ鐘の音は、静寂なる空気を裂きて響き渡る。

耳覆ひ外し
時ならぬ鐘
黄昏前に
虚ろなる村
音のみ満つる

彼女は立ち尽くし、その音の源を見遣る。録音にあらず、幻聴にあらず。確かに物理の鐘、打たるる音なり。

鐘は鳴る――三たび明瞭なる響き、虚ろなる村を渡りゆく。彼女は鐘楼の傍らに立ちて、充分なる近さにありながら、揺るる縄を見ず、塔内に動く影の片鱗をも認めず。音のみあり。物質の振動、確かなる波動として大気を震はす。

鐘三つ鳴る
縄は揺れざれど
音は真なり
影なき塔に
誰か打つらむ

第一の音、消えゆくを待ちて、彼女は一歩を踏み出す。第二の音、空間を満たし、彼女の胸腔に共鳴す。第三の音、余韻長く、山々に反響して戻り来る。されど音と音との間に、彼女の耳は別の真実を捉ふ――絶対なる静寂。風なく、鳥の声なく、虫の音さへなし。

彼女は鐘楼の周囲を巡り始む。足音のみ、固められたる土を踏む音のみ、残響と残響との狭間に存在す。木造の柱を検む――古びたれども、機械仕掛けの痕跡なし。錆びたる金具を探る――されど時計仕掛けの装置、見当たらず。

塔の北面、西面、南面。彼女の指先は木目を辿り、継ぎ目を確かむ。説明は何処にも記されず。錆にも、木にも、石にも。鐘は宙に吊られたるまま、静止せり。

打つ手もなく
鐘は鳴りたり
誰が為に
錆と古木は
沈黙を守る

東面に戻りしとき、彼女は気付く。鐘楼の床に、新しき足跡なきことを。己が足跡のみ、円を描きて土に刻まる。

彼女は鐘楼を巡りゆく、その足音のみ、固められたる土を踏む響きのみ、鐘の残響と残響との狭間に存在す。木造の柱を検むれども、機械仕掛けの痕跡なし。錆びたる金具を探るも、時計仕掛けの装置、何処にも見当たらず。

塔の北面、西面、南面。彼女の指先は木目を辿り、継ぎ目を確かむ。説明は何処にも記されず。錆にも、木にも、石にも。鐘は宙に吊られたるまま、静止せり。古びたる縄は垂れ下がれども、揺れたる形跡なし。

打つ手もなく
鐘は鳴りたり
誰が為に
錆と古木は
沈黙を守る

東面に戻りしとき、彼女は気付く。鐘楼の床に、新しき足跡なきことを。己が足跡のみ、円を描きて土に刻まる。一周せし証として、始点と終点、今や重なれり。されど謎は深まるのみ。音は確かに在りき。物質は動かざりき。この矛盾、解けぬまま、彼女の前に横たはる。

四たびの響き来たるとき、彼女は手を伸ばせり。指先は青銅の表面に触るるを止め、ただ僅かなる距離を保ちて、空気その物の震へを感ず。胸の内に波打つ振動、眼の奥なる空間に残れる録音の残響、全て一つに溶け合ひて、彼女の身を貫く。

触れずして
鐘の震へは
伝はりぬ
空気と肉体
境なきまで

されど彼女の手は進まず。青銅と指先との間、髪一筋の間隙に、全ての謎は凝縮されたり。音波は確かに在り。物質は確かに動かず。この矛盾の狭間にて、彼女は立ち尽くす。録音機の中なる老婆の声、祈りの合間を数へし間隔、今鳴れる鐘の律動と、寸分違はず重なり合ふ。

手は打たず。今日も、幾年の昔も、されど鐘は鳴る。彼女が耳当ての内に聴きし律動と同じく、老婆の声が祈りの間に数へし間隔と同じく、寸分違はず響き渡る。

撞かれざる
鐘の音今も
祈りの間
記憶の拍子
時を超えつつ

何人の手も青銅に触れざるに、音は在り。録音の中なる過去と、今此処に震ふる空気と、区別なく溶け合ひて、彼女の全身を包む。

鐘は鳴る。彼女は遂に悟る。夕凪に在る音の幾つかは、作られしに非ず、憶えられたるなり。撞かれしに非ず、喚ばれたるなり。村そのものが、余りに久しく沈黙の内に保ちし息を、今こそ吐き出だすなり。

喚ばれたる
音は記憶より
立ち昇り
村の吐息に
沈黙解けゆく

彼女の肌に、空気の震へは伝はる。それは音波に非ず、想起なり。夕凪は楽器に非ず、器なり。満ちたる祈りの、溢るる時を待ちし、巨大なる共鳴箱なりけり。