店員は彼女の車の去りゆくを見送りて、既にその面影を忘れたり。客の顔などは皆同じく見ゆるものなれば、記憶に留むる由もなし。三月前の雑誌を再び手に取りて、同じ頁を繰り返し眺む。色褪せたる表紙には夏の海の写真ありて、今は遠き季節を偲ばせたり。
店の蛍光灯は昼夜の別なく照らし続け、時の流れを曖昧にす。棚に並べる商品は少なくなりて、補充の車の来ることも稀なり。されど店員は変わらず此処に在りて、訪れる者なき時間を過ごすなり。
彼女の車は細き道を進みゆく。後方の鏡には店の明かり小さくなりて、やがて見えずなりぬ。道の両側には草木繁く茂りて、舗装の割れ目より蔓延りたり。文明の痕跡は次第に薄れゆくを感じたり。
道果てまで
幾許の距離ぞ
知る由なし
最後の自動販売機の前を過ぎたり。その機械の発する低き音は、電気の通いたる世界の最後の証なりき。赤き光の点滅するを見て、彼女は一瞬停まらんとせしが、思い直して進みたり。
鏡に映る販売機の姿は次第に小さくなり、遂には点となりて消えぬ。その唸りの音も風の音に紛れて聞こえずなりたり。今や彼女を包むは静寂のみ。エンジンの音さえも森に吸い込まるるが如し。
道は更に狭まりて、地図の記す世界の縁へと続きたり。
販売機の唸りは彼女の背後に遠ざかりゆく。鏡に映る赤き光も今は微かなる点となりて、やがて闇に溶けたり。電気の音の絶えし後には、ただ風の渡る音のみ残れり。
文明の供給の尽きざることを約せし、あの機械の声も既に聞こえず。缶珈琲の温かさも、冷たき炭酸の泡も、今は遠き世界のものとなりぬ。彼女の車は唯一つ、この静寂の中を進みゆくのみ。
電の音
絶えて残るは
風の声のみ
森は音を吸い込みて、エンジンの響きさえも弱めたり。道の両側より迫り来る木々は、人の世の境を示すが如し。舗装の途切れし先には、砂利の道の見ゆ。
車輪の下にて石の音の聞こゆるは、また一つの境を越えたる証なり。硬き舗装より柔らかき砂利へ。許されたる領域の、また一つ狭まりゆくを感じたり。
砂利の道もまた土の道となりゆく。舗装の終わりしは既に遠く、今は砂利さえも薄れて、踏み固められたる土の面の現れたり。車輪の響きもまた変わりて、より深く、より鈍き音となりぬ。
表面の変わるごとに、彼女は境を越えゆくを覚えたり。一つの閾を過ぎるごとに、一つの許しの取り消さるるを感じたり。舗装は文明の許可なりき。砂利は辛うじて認められたる領域なりき。されど土は、もはや人の管理の及ばざる場所への入口なり。
道の質地の
変わるごとにまた
許し失せゆく
タイヤの跡も、ここより先は稀なり。誰かが此処まで来たりしことはあれど、頻繁に非ず。土は柔らかく、されど確かに、彼女の車を前へと導きゆく。
導きの装置もまた、此処にては力を失いたり。画面に映りし青き点、彼女の在処を示せしものは、震え、明滅し、遂には白き虚無の中に溶け入りぬ。衛星の声も届かざる領域に、彼女は入りたるなり。
機械の目の見失いたる場所にて、彼女は初めて真に独りとなりぬ。地図の記憶も、座標の確かさも、今は何の助けとならず。ただ目の前に続く土の道のみが、唯一の導きなり。
衛星さえ
見失いたる地に
独り入りぬ
装置は未だ手の中にあれど、その画面は空しく白きのみ。彼女は一瞬、引き返すべきかと思いたれど、前方への好奇心、その力の方が勝りたり。
道は次第に狭まりて、一条の細き径となりぬ。左右より竹林迫り来たり、青き壁の如くに彼女を囲みたり。
風なきに
竹のささやく
細き道
緑の壁に
閉ざされて行く
葉擦れの音、絶えず耳に触るれど、大気は動かず。竹の声のみが、見えざる何ものかの息吹を伝うるが如し。この緑の回廊に、彼女は呑まれゆくなり。
彼女は己に言い聞かす、これは業なりと。自由契約の撮影依頼、都市探索の記録、山中への旅を正当化すべき何らかの名目。されど心の奥底にては、真の理由は霧の如く曖昧なり。
携帯の電波
山に呑まれて
消ゆる時
言い訳もまた
力を失う
この山道に入りしより、文明の糸は断たれたり。画面は既に無信号を示し、彼女は己の意志のみを頼りとす。フリーランスの仕事、探索者たちの共同体、閲覧数、「いいね」の数——それらすべては今や遠き世界の事象なり。
されど彼女は進み続く。カメラを携え、記録を重ね、何かを探し求むる者として。その「何か」の正体を、彼女自身も知らざるままに。
仕事という名の鎧は、この深き竹林の前には薄き紙の如し。山は言い訳を求めず、ただ在るのみ。彼女もまた、理由なく此処に引き寄せられし者なるを、漸く認めんとす。
記録せんとする心と、記録されざるものに触れんとする渇望と。その狭間にて、彼女は竹の声に耳を傾く。ブログの読者も、依頼主も、今は存在せず。ただ彼女と、この忘れられし道のみが在り。
名もなき衝動に導かれ、彼女は更に奥へと歩を進むるなり。仕事という言葉は、もはや彼女の唇に上らず。
助手席に置かれたる鞄の中には、三つの硝子の眼、二組の予備なる電源、そして厚き手帳一冊。その頁には地名の数々、悉く横線にて消されたり。廃村、廃校、朽ちたる工場——すべて既に彼女の手により記録され、電網の海に放たれ、無数の視線に消費されし場所なり。
鞄重し
消されし地名
幾百ぞ
されど心は
満たされぬまま
レンズは風景を切り取り、電池は時を刻み、手帳は証を留む。されど彼女が真に携えるは、別の重みなり。シャッターを押す指の、あの躊躇い。廃墟の美学、朽ちゆくものの詩情——それらは容易く、あまりに容易く。
彼女の指は問いかく。崩壊の彼方に、何かありやと。安き美の向こうに、名付け得ぬものの気配を。その答えなき問いこそが、真の重荷なり。
彼女が求むるは、崩壊の詩にあらず。朽ちたるものの表層、その安らかなる美しさの奥底に、言葉なき何かの息吹あらんことを。指はシャッターの上に留まり、問い続く——この瞬間に、ただ終わりのみを見るべきか、と。
廃墟撮る
指の迷いに
宿るもの
美の彼方なる
名無き予感よ
されど彼女自身、その「何か」の正体を知らず。ただ感ずるのみ。既に撮りたる幾百の画像の中に、それは未だ現れず。電網に放ちし無数の眼差しも、それを見出すこと能わず。彼女の探求は、形なきものへの渇望なり。答えは遠く、問いのみが重く、旅は続く。
回復せんとするは、場所にあらず。彼女の内なる初心——閾に惹かれし時の感覚、人の意志が静寂に譲り渡す境界に立ちし日の、あの震えなり。
境界にて
人の意志消ゆ
静けさや
初めの心
今いずこなる
彼女が求むるは、失いし自己の断片か。撮影を始めし頃の、純粋なる驚きの感覚。それは幾年の間に、技巧と認識の下に埋もれたり。夕凪村の名を聞きしことなし。されど、その無名なることこそが、彼女を呼ぶ。
夕凪村の名を知る者なし。写真家の集う場にも、電子の網にも、その痕跡を見出すこと能わず。されど、彼女の前に現れし無名の道は、忘却を待ちしが如く、ただ静かに横たわれり。
地図に無き
道は忘却
待ちしごと
名無き村へと
我を誘いぬ
この道の存在せざることこそ、真実の証なり。誰も語らぬ場所、誰も記録せぬ村——そこにこそ、彼女の求むる何かが潜むと知る。
学舎まず現る——その壁は堅固なる灰色の石造にして、時の風雨に耐えしことを示せり。されど、窓枠はことごとく空虚なり。破壊の痕跡なく、ガラスの破片も散らばらず。初めより窓という概念を拒みしが如く、ただ四角き虚無のみが壁面を穿てり。
建物は盲目として生まれ来たるか。或いは、何者かが意図を持ちて、外界との交わりを断ちしか。彼女は石段に近づき、その異様なる完全性を見つむ。窓枠の縁は滑らかにして、未完成にあらず。これは設計なり、意志なり。
窓なき舎
光を拒み
立ちたるは
盲いし意図の
形見なるらん
教室の内部は闇に沈みて、入口よりわずかに差し込む光のみが床を照らせり。彼女は躊躇いつつも、その境界を越えんとす。靴底が朽葉を踏む音、かすかなる湿気の匂い。建物の内側より発する冷気は、生ける者の吐息に似たり。
壁に手を触るれば、表面は予想に反して温かし。いや、温かきにあらず——外気よりも冷たからざるのみ。まるで建物自体が体温を保ちしが如く。彼女は背筋に悪寒を覚ゆれども、カメラを構うる手は震えず。
この学舎に学びし子らは、いかなる教えを受けしか。窓なき教室にて、外の世界を知ることなく育ちし者たちの運命や如何に。
彼女は門口に立ちて、カメラを構えたり。閾は朽葉の堆積に厚く覆われ、踏み入る者を拒むが如し。シャッターを切る音のみが空間を裂き、その後に訪れる静寂は、まるで音そのものが吸い取られしかの如く深し。
鳥の声なし。虫の羽音なし。風さえも、この場所を避けて通るらん。彼女は己が呼吸の音を聞く——浅く、速く、胸の内にて響く鼓動。カメラのシャッター音のみが、この死せる静寂に対する唯一の抵抗なり。
音絶えし
学舎の門に
立つ我は
己が息の音
聞くのみぞ憂き
レンズを通して見る世界は、肉眼にて見るよりも更に異質なり。ファインダーの中にて、朽葉は黒き波の如く凝固し、門の奥の闇は底なき深淵を思わしむ。彼女は再びシャッターを切る。その機械音すらも、建物に呑まれて消ゆるかの如し。
この静寂は、音の不在にあらず。何かが音を食らいて、虚無のみを残せるなり。
棚田は山腹を幾何の階梯と成して登りゆけども、既にその用を失いて久し。水を湛えし田の面には、若木の芽生え無数に立ち、その根は石組みの境を割きて侵入せり。
幾代もの人の手によりて築かれし石垣は、今や自然の力の前に屈し、罅割れて崩れんとす。彼女はレンズを向く。完璧なる人工の秩序と、それを蝕む野生の力との対峙——静止せる戦場の如き光景なり。
棚田に
若木の根這う
石割れて
幾代の業
森に還るらん
水面に映る空は白濁し、浮草と落葉とに覆われたり。かつて稲穂の波打ちし場所に、今は別の生命の律動あり。彼女はシャッターを切る。文明の痕跡が、ゆるやかに、されど確実に消えゆく様を記録せんとして。
道の辺に、羊歯の繁茂する中に半ば埋もれて、標識は傾きて立てり。「夕凪村 三粁」と記されし文字は褪せたれども、なお判読すべし。その指し示す方角には、もはや存在せざるものへの道ありや。
彼女は立ち止まり、標識を撮影す。文字の剥落せる様、錆の浮きたる鉄板、そして執拗に絡みつく蔓草——すべてが時の経過を物語れり。
標識の
指す先遠く
夕凪村
在りや無しやと
羊歯に問うかな
三粁の距離は、地図上にては僅かなれども、この忘れられたる道にありては、異界への隔たりの如くに思わる。彼女はカメラを提げ、その方向へと歩を進めたり。
歩を進むるうちに、森は不意に開けたり。そこに現れしは鳥居——両界を分かつ門の如く立てるものなり。かつては朱の鮮やかなりしならん、されど今はその色も失せて、葛の蔓の生ける帳に覆われたり。
葛の葉は
鳥居を包み
風もなく
揺るる様こそ
異界の兆しか
彼女の感ぜざる風に、葉は戦ぎて、まるで祭の幕の如く鳥居に垂れかかれり。神域への入口は、もはや此の世のものならざる気配を纏いたり。
葛は鳥居を覆いて、まさに祭礼の幕の如く垂れかかれり。その葉は彼女の感ぜざる風に揺らぎて、静寂なる森の中に独り動けり。彼女は立ち止まりて、この光景の異様なる美しさに心奪われたり。
葛の葉の
震えは誰が
呼ぶ声ぞ
見えぬ風吹く
神の領域
自然と人の営みとの境界は、ここにて曖昧なり。人の手によりて建てられし鳥居は、今や自然の懐に抱かれて、されど尚その威厳を保てり。朱の色は褪せたれども、門としての存在は消えず。むしろ葛の緑に包まれて、一層神秘の相を帯びたるが如し。
彼女は足を踏み入れんとして躊躇えり。この鳥居を潜らば、真に異界へと踏み込むことになるやもしれず。葛の葉は絶えず揺れて、まるで彼女を招くが如く、或いは警告するが如く見ゆ。
森の静けさの中に、遠き昔の祭の音色が聞こゆる気配あり。鈴の音、太鼓の響き、祝詞の声——されど実際には何の音もなし。ただ葛の葉の擦れ合う微かなる音のみ。
彼女はカメラを構えたり。ファインダーを通して見る世界は、肉眼にて見るよりも一層鮮明なり。対比——人の造りしものを自然が取り戻さんとする様、されど門は倒れず、抗いて立てる姿。シャッターを切る瞬間、葛の葉は一斉に揺れて、まるで彼女の行為に応えるが如くなりき。
鳥居立つ
葛に埋もれて
なお神域
境界守る
朽ちぬ意志かな
鳥居の前に立ちて、彼女は再びカメラを構えたり。ファインダーの中に収めんとする光景は、単なる廃墟にあらず。人の手の跡と自然の力との、静かなる闘争の記録なり。
朱塗りの柱は、幾年月の風雨に晒されて色褪せたれども、その姿勢は微塵も崩れず。葛は執拗に絡みつき、覆い隠さんとすれども、鳥居は屈せず。この対比こそ、彼女が捉えんとする真実なり。
レンズを通して見れば、葛の緑と朱の残滓とが織りなす模様は、まるで時の流れそのものを可視化せるが如し。自然は容赦なく侵食すれども、人の意志の結晶たる構造物は、なお抵抗を続く。
彼女はシャッターを切れり。その瞬間、不思議なる感覚彼女を捉えたり。撮影する者と撮影される対象との境界が曖昧となり、己もまたこの場の一部となりしかの如き錯覚に囚われたり。
門は語る
人の祈りと
自然の力
せめぎ合いつつ
共に在ること
鳥居を潜りて一歩を踏み入るれば、世界は一変せり。
此方の地には雑草一本として生えず、落葉の影だに見えず。踏み固められたる土は、滑らかなる光沢を帯びて、人の足に馴染みたる証を示せり。
彼女は歩みを止めて、足下を凝視せり。この清浄なる状態は、偶然の産物にあらず。誰かが、それも近き日に、この径を掃き清めたるなり。その営みの痕跡は、明白なり。
径の両脇に並べられたる石は、整然として配置され、一つとして乱れず。角々まで箒目の跡鮮やかに残り、人の意志の介在を雄弁に物語れり。
掃き清め
保たれし径
誰が為に
今も通いて
守る者ありや
荒廃せる社の領域にありながら、この径のみは生者の領分として守られ続けたり。
此の営みは、偶然の所為にあらず。人の手の痕跡は、疑うべくもなし。
石の一つ一つに宿る意図、箒目の規則正しき筋目、そは日々の勤めの証なり。最近の、それも恒常的なる訪問者の存在を、この径は静かに告げたり。
何者かが此処に通い、何者かが此の清浄を保ち続けたるなり。その者の足音は聞こえねども、その者の心は石と土に刻まれたり。
掃く人の
姿は見えで
石一つ
整いて語る
日々の営みを
彼女は膝を屈して、一つの石に触れたり。温もりこそなけれ、人の意志の確かさを感じ取れり。
彼女はカメラを下ろし、鳥居を潜りたり。その足音は、初めて此の静寂を破る響きとなりぬ。まるで世界が息を呑みて待ちたる如く、空気さえも凝りて動かず。
一歩、また一歩。靴底の音のみが、この境内に生の証を刻みゆく。
鳥居越えて
踏む音一つ
静寂の
息詰めし世に
初めての響き
彼女は立ち止まり、耳を澄ませたり。己が呼吸の音すらも、この場には異質なるものと思われたり。されど進まざるを得ず。
広場は彼女の前に開けたり。
風化せる木材、幾年の足に磨かれて滑らかなる石段、日輪に晒されて色褪せたる紙提灯——すべては写真の約せし通り、人の気配なく朽ちゆくままに在りき。建物は傾き、屋根には草生ひ、壁板は剥がれて内部の闇を覗かせたり。
彼女はゆるりと歩を進め、広場の中央に立ちたり。ここに市の立ちし日もありしならむ。子らの笑ひ声、商ひの呼び声、祭りの賑はひ——今はただ風の音のみ。
朽ちし村
時の止まりし
広場には
人の営み
影のみ残る
カメラを構へ、彼女はシャッターを切りたり。一枚、また一枚。光と影の織りなす廃墟の美を捉へむとす。提灯は風に揺れて、かすかに軋む音を立てたり。その音すらも、この場の静寂を深むるのみ。
石段を一段一段確かめつつ、彼女は広場を横切りゆく。木の床は踏めば軋み、或る所は腐りて危ふし。注意深く足場を選びて進みたり。
されど、ふと気づきたり。
広場の奥、鳥居の立つ社の方を見遣れば——何やら様子の異なるを。他の場所は落葉積もり、蜘蛛の巣張りて荒れ果てたるに、かの一角のみは。
彼女は足を速めたり。カメラを握る手に、いつしか力籠もりぬ。
近づくにつれて明らかとなりぬ——
社の周りのみは、何者かの手にて落葉払はれたり。
他の場所は朽葉厚く積もり、埃に覆はれて久しきに、この一角のみは清められたるが如し。石畳は掃き清められ、鳥居の朱も拭はれて、古びたれども穢れなし。注連縄すらも新しく張り替へられたるやうに見ゆ。
彼女は立ち止まり、息を呑みたり。
誰ぞ此処に来たりしか。いつ。何の為に。
廃墟と信じて
訪ひ来たる地に
人の手の
痕跡ありて
心騒ぎぬ
風は相変はらず吹き渡れども、今はその音すらも違ひて聞こゆ。静寂の中に、何か見えざる存在の気配を感じたり。彼女の背筋に冷たきもの走る。
されど足は既に動き出でたり。引き寄せられるが如く、社へと近づきゆく。
そして見たり——
彼女は更に歩を進めたり。胸に掛けたる写真機のことも忘れ果てて、ただ引き寄せられるままに。
そして遂に見たり——白き菊の花を。
供へられたる花は、真白き菊にて、その花弁には今朝の露なほ宿りて、光を宿したり。生きたる花なり。摘まれて間もなき花なり。
白菊の
露まだ残る
花びらに
朝の光の
宿りてをりぬ
新しきこと疑ふべくもなし。今朝供へられしものか。否、この一刻の内に置かれしものやもしれず。
彼女の手は震へたり。此処に、たった今まで、誰かゐたりしか。
廃墟にあらず。
忘れられたる地にあらず。
今なほ、誰かが此処を守りをるなり。
今朝供へられしものなるべし。否、この一刻の内に置かれしものならむ。露の玉のなほ花弁に残りて、朝日に輝けるを見れば、疑ふべくもあらず。
誰かゐし
この一刻に
白菊を
供へて去りし
人のありけり
新しさよ。あまりにも新しき供物なり。彼女の心臓は激しく打ちたり。されば此処は、まことに人の訪ふ地なりしか。
彼女は息を殺して四方を見廻したり。空ろなる窓々、音なき戸口、ことごとく静寂に閉ざされたれど、何ものかの気配は消えず。
人ならぬ
影や潜める
廃墟に
われ独りには
あらざりしかな
脈搏は速まりて、胸の内に響きわたる。誰ぞ、此処に在りしや。誰ぞ、今もなほ此処に在るや。彼女は確信せり――この忘れられし地に、己一人にあらざることを。
老媼の箒は石の上を掃く。規則正しき弧を描きて、絶えず動けり。されどこの石畳こそ、在るべからざるものなれ。四十年前、炎は総てを嘗め尽くしたりと云ふに、今し石は冷やかに横たはる。
松の葉落ちて積もれるさま、また灰の薄く敷かれたるさま――いづれも箒に集められゆく。この塵芥は果たして四十年の歳月を経たるものか、はた今朝方降り積もりしものか。媼は問はず、ただ掃くのみ。
箒の音の
石に響きて
朝の霜
いづれの世より
残りしものぞ
手の動きに淀みなし。腰は曲がれども、箒を操る術は確かなり。石と石との隙間に溜まりし細かなる塵までも、丁寧に掃き出さる。まるで神域を清むる神職の如く、まるで此処に未だ社の在るが如く。
されど社は無し。柱の痕すら定かならず。ただ媼の記憶の中にのみ、朱塗りの鳥居、檜皮葺の屋根、鈴の音――それらは生き続くるならむ。
箒は止まず、弧を描き続く。掃かれたる場所は既に清けれども、媼は同じ石の上を何度も何度も掃く。四十年の間、毎朝斯くの如くなりしか。
訪れし者の足音を聞きたれども、媼は顔を上げず。箒の動き変はらず。唯だ声のみ発せり――低く、疲れを帯びたる声。幾度となく繰り返されし言葉を、また一度語らむとする者の声なり。
問ひは未だ発せられざるに、答へは既に媼の唇より洩れたり。幾度聞きしか知れぬ問ひ――「此処に何ありしや」「何故独り守るや」「誰が為に花を手向くるや」――それらは問はるる前より、空気の中に漂へり。
媼の声は低く、されど明瞭なり。疲労は言葉の端々に宿れども、それは身体の疲れにあらず。魂の疲れなり。同じ物語を語り続くる者の、同じ説明を繰り返す者の、倦怠。
語る前に
既に疲れて
秋の声
問はれぬ問ひの
重さ知るらむ
写真機を携へし者は未だ口を開かず。されど媼は知れり。その者が何を求め、何を問はむとするかを。四十年の間、同じ眼差しを幾度となく見たればなり。
好奇、憐憫、或いは単なる興味――訪れし者の心は様々なれど、媼にとりては皆同じ。彼らは皆、既に失はれしものを見むと欲す。されど此処には、媼の記憶の外には、何も無きなり。
箒は止まらず。声は続けり。「徒労なり」と。
供華の器には曼珠沙華、記憶の如く紅く、茎には尚水滴の玉を宿せり。朝摘みしものならむ。此の山路に彼岸花の咲く処ありや、と旅人は思へど、問ふことなし。媼の答へは既に聞こえたればなり。
花は鮮やかなり。余りに鮮やかなり。四十年の歳月を経たる焼跡に、此の紅の烈しさは不似合ひなり。されど媼は毎朝、必ず新しき花を手向く。誰が為に、とは問ふなかれ。
彼岸花
紅き記憶の
色褪せず
問はれぬ答へ
水に滴る
花瓶は古びたれど、水は清らかなり。茎より滴る雫は、供へられし瞬間の名残。媼の手は皺深けれど、花を活くる技は確かなり。此の務めのみが、失はれし全てとの、唯一の繋がりなるが如く。
「四時の汽車にて町へ帰るべし」と媼は言ふ。顔を上ぐることなく、箒の手を休めず。写真師の来訪の意図を、既に知り尽くせるが如く。徒労なることも、承知の上なるが如く。
駅への道
四時に発つ汽車
知られをり
問はぬに答ふ
媼の声は
言葉は静かなれど、拒絶は明らかなり。此処に撮るべきものは無し、と。焼け跡は既に語り尽くされたり、と。されど媼の声音には、怒りも冷たさも無し。唯、諦念のみ。幾度となく繰り返されし問答の、倦みたる響きのみ。
然れども写真師の胸に懸かる函は、俄かに重さを増せり。焼け木の黒白の像、崩れし材木、裂けて倒れし鳥居の門——凡そ四十年の間に撮られし無数の影、今悉く胸を圧す。
焦土の影
幾重にも重なり
函の中に
真実問ふごと
肩に食ひ込む
媼は箒を動かし続く。写真師は立ち尽くす。函の紐、肩に食ひ込みて、痛し。
鳥居は眼前に聳え立つ。朱の色、新たなるが如く鮮やかに、柱に塗られたり。木の板は滑らかにして、焦げたる痕跡一つだに見えず。四十年の歳月、幾多の写真に収められし焼土の記憶——それら悉く虚妄なりしやと疑はるるばかりなり。
朱の鳥居
焼けし筈なるに
立ちて在り
四十年の影
嘘と成りしや
写真師は己が記憶を探る。資料館に保管されし白黒の写真、焼け崩れし材木の山、灰燼と化せし境内——確かに見たり。己が目にて見たり。されど今、目の前に在るは完き姿の社なり。
木の香すら漂ふ。新しき材の匂ひにあらず。古き木の、長き年月を経て深まりし香なり。矛盾せり。凡そ矛盾せり。焼失せしものが、焼失せざりし如く在ることの、理に背ける有様なり。
媼は箒を持ちて、何事も無きが如く掃き続く。その背中に問ひ掛けんとすれど、言葉は喉に留まる。問ふべきか。問ふべからざるか。此の眼前の真実と、函の中に在る真実と、いづれか真にして、いづれか偽なるや。
写真師の指、函の蓋に触れたり。開かば、レンズは何を捉へん。此の完き社を撮らば、現像されし像には何が映らん。恐れあり。深き恐れあり。
写真師の手、鞄へと伸びたり。革の感触、指先に馴染みたる重み。されど動き、そこに止まる。カメラを取り出さんとして、取り出し得ず。
何を恐るるや。己が業を為すを、何故に躊躇ふや。レンズは真実を写すものなり。光と影を、在るが儘に捉ふるものなり。然れども——此の場に在りては、真実とは何ぞや。
撮らば見ゆらん
焼土か社か
レンズの中
いづれの世こそ
真と定むべき
手は宙に浮きたるまま、進むことも退くことも能はず。現像液の中に浮かび上がる像を思ふ。完き鳥居か。崩れし柱か。或いは、二つながら重なりて、判然とせぬ影と成りて現るるか。
撮影せざれば、両の真実、並び立つを得ん。撮影せば、いづれか一方、消え失するやも知れず。シャッターは審判なり。選択なり。写真師は、神の如き決断を、己が指に委ねられたるを知る。
手は、震へて、鞄より離れたり。
老婆の手、菊を扱ふこと、幾星霜を経たる如し。一輪、また一輪、花器に挿す。動きに迷ひなし。急ぐこともなし。常に在りしものを守るが如く、常に為し来たりしことを為すが如く。
白菊の
香の立ち昇る
石畳
四十年の灰
何処へ消えしや
花弁に触るる指、皺深けれども確かなり。茎を折る音、静寂を裂くこともなく、空気に溶け入る。水の滴る音。石の冷たさ。苔の青さ。全ては在るべき場所に在り。全ては在るべき時に在り。写真師は見つむ——過去を生くる者の姿を、或いは、過去に生かさるる者の姿を。
婆は語らず。されど其の所作こそ、言葉に勝る雄弁なり。
「火のことにて来たりしか」と、婆は振り返ることなく言ふ。問ひにあらず、断定にもあらず。ただ、知れることを口にするのみ。声は低く、風に紛れて消えさうなれども、写真師の耳には明瞭に届く。
問はずとも
知る人の声
社の前
燃えし記憶は
灰とならざる
婆の背は曲がれども、其の言葉は真直ぐなり。四十年を隔てたる問ひを、今し方のことの如く受く。
写真師の唇は開きて、また閉づ。言葉は喉に留まりて出でず。焼けたる過去と、眼前に在る現在と、その間に横たはる深淵を、いかなる言の葉もて埋むべきか。
問ふべきか
問はざるべきか
燃えし跡
立てる社に
言葉は失す
沈黙は重く、されど婆は待てり。急かすことなく、責むることなく。ただ、花を手にして、在るべからざる社の前に立つ。
婆は無言にて、社の傍らに在る低き木の腰掛を指し示す。その手つきは、幾度となく繰り返されし所作の如く、迷ひなし。腰掛の下より、魔法瓶を取り出だす。待ちゐたるが如く、そこに在りき。
指し示す
古りし腰掛
社の傍ら
魔法瓶は待ちて
時を数へをり
写真師は促されて、その腰掛に腰を下ろす。木は古りて、年輪の刻みし歴史を肌に感ぜしむ。婆は魔法瓶の蓋を開く。音もなく、されど確かなる動きにて。
二つの湯呑み、いづこより取り出だせしか。一つは縁の欠けたり。一つは色褪せて、絵柄も定かならず。されど婆の手に在りては、それらは茶席の名器の如き尊厳を帯ぶ。
湯気立ちぬ。細き白き糸の如く、春の朝の空気を裂きて昇る。婆の手は震へず。傾けられたる魔法瓶より、湯は静かに、されど力強く注がる。一つ目の湯呑み。二つ目の湯呑み。その手つきに、何十年、何百回と繰り返されし儀式の記憶宿れり。
湯を注ぐ
皺深き手は
迷ひなく
この儀式こそ
祈りなりけり
欠けたる湯呑みを、婆は写真師の前に差し出だす。色褪せたる方は、己が手に留む。湯気は二つの器より立ち昇り、焼け跡に建てる社と、生ける婆と、戸惑へる写真師とを、同じ時の中に結びつけたり。
湯気は立ちのぼる。二つの器より、細き白き煙の如く。一つは縁の欠けたる湯呑み、写真師の前に在り。一つは色褪せて絵柄も判然とせざる器、婆の手に在り。されど湯気の昇る様に、貴賤の差はなし。
写真師は両の掌にて、欠けたる湯呑みを包む。温もりは掌より伝はり、指先まで沁み入る。ああ、この湯は、と気づく。彼が此の山道に足を踏み入れし前より、既に熱せられてありしを。彼が焼け跡の社を見出だし前より、魔法瓶の中にて、待ちてありしを。
湯の温もり
掌に受けて
知るものを
我が来る前より
待ちゐたりしを
婆は己が湯呑みを持ちたれど、未だ口をつけず。ただ静かに、湯気の昇るを見守る。その眼差しは、遥か彼方を見つむるが如し。四十年の昔を、或いは更に遠き時を。
写真師もまた、飲むことを躊躇ふ。この一瞬が、何かを変へてしまふやうな、予感ありき。
写真師は思ふ。この湯の温もりは、偶然にあらず。婆は今朝より、或いは昨日より、湯を沸かし続けてありしか。魔法瓶に注ぎ、保ちてありしか。誰かの来たるを、確と知りてか。
されど婆の面持ちを見るに、予知といふよりは、習ひの如し。毎日、湯を沸かす。毎日、魔法瓶に満たす。毎日、此の焼け跡に座す。来る者あれば、茶を供す。来る者なくば、独り飲む。四十年、斯くの如くにや。
待つといふは
来ると知ることに
あらざるか
ただ備へをば
怠らぬこと
写真師の胸に、奇妙なる感慨湧く。この婆は、彼のためにのみ湯を用意せしにあらず。されど、彼が今此処に在ることもまた、必然なるが如し。
婆は今日、誰か来たると知りしか。否、知らざりしか。されど知と不知の間に、何の差のあらむ。
湯を沸かす
来ぬ日も来る日も
変はらずに
待つとは斯かる
形をや言ふ
或いは、待つにあらずして、在るといふのみか。来訪者の有無は、婆の営みを左右せず。湯は常に熱く、茶は常に用意されたり。四十年の歳月、この習ひを守りて。
写真師は悟る。婆は彼のために備へしにあらず。また誰のためにもあらず。ただ備ふること自体が、婆の在り方なるを。
茶は山の草の香を含み、而して更に何ものかを宿せり。期待といふべきか。否、その対極なるものか。四十年を既に待ち果てし者の、静けさといふべきものを。
茶一椀
期待を越えて
在る味は
待ち尽くしたる
魂の形見
婆の淹れし茶に、焦燥なし。渇望なし。ただ在るべきものの在る、その確かさのみ。写真師は啜る。舌に触るるは、諦念にあらず。成就の後の、深き平らかさなり。
縁側の古りたる板に腰を下ろせば、木目は幾十年の手の跡を刻み、滑らかなること水の如し。柿の木は午後の日を濾して、斑なる影を落とせり。
縁側に
柿の木影や
古き秋
幾年経たる
木の温もりかな
二人は並びて坐す。婆は静かに、写真師は慎ましく。板の軋む音さえ、この場に馴染みたる調べなり。柿の葉は風に揺れて、光と影との戯れを演ず。時の流れは此処にて緩やかに、まるで四十年の歳月が一瞬にして凝縮せるが如し。
縁の下より涼やかなる気の立ち昇るを感ず。土の香、草の香、そして何やら線香の残り香の混じりたるもの。婆は前を向きたるまま、されど写真師の存在を確かに感じ居るらし。その横顔に、拒絶もなく、歓待の色もなし。ただ受け容るる、その姿勢のみ。
写真師は己が鞄を脇に置き、カメラには触れず。今は撮る時にあらず。ただ在る時なり。柿の実は枝に重く垂れて、熟れたる色を帯び始めたり。収穫の季節近しと雖も、此の木の実を誰が採るべきか。
柿熟るる
縁に二人
影長し
語らずとても
通ふものあり
婆の着物は褪せたる藍色にて、幾度の洗濯に耐えし木綿なり。写真師の黒き衣とは対照を成せども、二人の間に横たわる空気は、不思議なる調和を保てり。
婆の手は膝の上に静かに置かれたり。掌は上を向き、指は軽く曲がりて、まるで何物をも掴まざる形に定まれり。皮膚は薄く、午後の光これを透かして、骨と血管との間に僅かなる隙間を照らし出だせり。青き筋の浮き出でたるさま、まるで冬の枯れ木の枝の如し。
指先には皺深く刻まれて、爪は短く整へられたり。働きし手なり。土を耕し、水を汲み、糸を紡ぎし手なり。されど今は、その手に力なく、ただ光を受くるのみ。透けたる皮膚の向かうに、骨の白きが仄かに見ゆ。
老いの手の
透きて光や
秋深し
骨の白さも
影となりけり
婆は己が手を見ることなし。視線は前方の庭に注がれたるまま。されど、その手の在り様は、彼女の全てを語るに足れり。
婆の指一つ、縁の板の木目を辿りゆく。節の窪みに指先触れて、幾度も幾度も同じ道筋を撫づ。その動き、余りに習いとなりて、手は己が意志なくして動くが如し。木の溝は滑らかに磨かれ、年月の重なりこれを刻みたり。或いは、この指の繰り返しこそが、溝を深めしものならむか。
指は止まることなく、円を描き、また戻りぬ。木目の流れに沿ひて、節の周りを巡る。触覚のみが彼女を此処に繋ぎ止むるが如く。
木の節を
指の辿りて
幾年ぞ
溝深くなる
秋の縁かな
動きは無心なり。されど、その反復の内に、時の堆積を見る者あらむ。
写真師の目、婆の腕に留まりぬ。午後の光、斜めに差し込みて、産毛の一本一本を照らし出だす。細き毛は金色に輝き、蜘蛛の糸の如く、空中に浮かぶが如し。光と影の境に、時の流れの見ゆる思ひす。
彼は息を潜めて、その儚き美を見つむ。老いたる腕の上に、かくも繊細なる命の証あり。
腕の毛に
光の宿る
秋の昼
蜘蛛の糸めく
透き通る影
一瞬の光景なれど、永遠を孕むが如し。
彼、鞄を脇に寄せたり。金具の音、静寂を破りて、堂内に響き渡る。咳払ひして、言葉を発せんとす。
鞄の音
静寂破りて
秋深し
「いつよりここに住み給ふや」と問ふ。声は、かつて社の在りし虚空を渡りゆく。焼け跡の草むらに、言の葉は消えてゆけり。
「いつよりここに住み給ふや」と問ふ。声は、かつて社の在りし虚空を渡りゆく。焼け跡の草むらに、言の葉は消えてゆけり。
問ひの声
社跡を渡りて
風となる
されど答へは来たらず。ただ風の音のみ、枯れたる草の葉を揺らして過ぎゆく。彼は立ちて、石段の名残を見つむ。四十年の歳月は、すべてを土に還せども、礎石のみは動かず。そこに神の座ありしことを、今も語り継ぐがごとし。
言の葉は宙に浮かびて、行き場を失へり。問ひかくるは易けれど、答ふべき「ここ」とは何処ぞや。この焼け跡か。この土地か。はた、記憶の中に在る、炎上以前の社か。
彼の視線は、老婆の背に注がれたり。腰を屈めて、何やら石の上に置かんとす。白き花弁、秋の光を受けて輝けり。菊の香、かすかに漂ひ来たる。
問ひは宙に留まりて、老婆は黙したるまま。その沈黙こそ、答への序章なりけり。時の流れは、問ひと答への境を曖昧にす。四十年前の炎も、今朝の露も、等しく「ここ」の一部なれば。
白菊を
礎石に供へ
時を問ふ
やがて老婆は身を起こさんとす。その動きは緩やかにして、まるで時そのものの化身のごとし。
老婆の笑ひ声、低くして、されど楽の音のごとく響けり。その響きは、焼け跡の静寂を破りて、秋の空気に溶けゆく。白菊の束を両手に抱へ、礎石の上にそと置きたり。花弁は陽光を受けて、まるで雪の如く白く輝けり。
笑ひ声
礎石に響きて
菊香る
その笑ひには、哀しみと可笑しさとが混じり合へり。長き年月を生きし者のみが知る、複雑なる感情の綾なり。皺深き手は、花を整へつつ、石の冷たさを確かむるがごとし。
菊の花、一輪また一輪と、丁寧に並べられゆく。その所作には、祈りにも似たる敬虔さあり。四十年の間、幾度この儀式を繰り返し来たりしか。
白き花は、過去と現在とを繋ぐ橋なりけり。老婆の指先、花茎に触るるとき、かすかに震へたり。笑ひは既に消えて、ただ深き沈黙のみ残れり。その沈黙の中に、やがて語らるべき言の葉の予兆あり。
「ここは、いつよりここにありしか」と、老婆は答へぬ。その眼差しには、笑ひと哀しみとが入り交じりて、細く皺寄せられたり。言の葉は問ひに非ず、むしろ謎かけのごとく、空中に漂ひて消えず。
時の流れは
問ひに答へずして
ただ在るのみ
老婆の視線、ゆるりと動きて、焼け残りし柱の跡を辿る。黒く焦げたる木の幹、今は蔦に覆はれ、緑なす命を纏へり。四十年の歳月は、破壊の痕を優しく包みたれど、その下に潜む傷痕を消し去ること能はず。
「ここ」とは何ぞや。土地か、記憶か、それとも魂の在り処か。老婆の問ひは、答へを求めず、ただ問ふこと自体に意味ありけり。苔むせる石段は、もはや何処へも通ぜねど、かつての参道の面影を留めたり。
老婆の手、ゆるりと上がりて、焦げたる柱を指し示す。新たなる蔦の緑の下に、黒き傷痕は今も息づけり。「見よ」と言はぬ言葉にて、彼女は語る。
焼け跡に
生ひ立つ緑の
蔦かづら
苔むす石段
行く先知らず
指先は、次に苔むせる石段へと移りゆく。かつては参詣者の足音絶えざりし道も、今は何処へも通ぜず、ただ緑の絨毯に覆はれて、静寂の中に佇めり。破壊と再生、その狭間に立ちて、老婆は微笑めり。
問ひは二人の間に漂ひて、香煙の如く答へ得ぬまま、宙に消えゆく。老婆は再び微笑みて、何も語らず。遠き山より蝉の声起こり、夕暮れの調べは次第に高まりゆく。
問ひと答へ
煙の如く
消えにけり
蝉時雨降る
黄昏の刻
問ひの重みは、やがて蝉の声に溶けて、境内に満ちゆく。老婆の沈黙こそが、最も雄弁なる応へなりけり。
寫眞師は身を傾けたり。肩より垂れたる寫眞機の重さに堪へつつ、言の葉を改めて問ひかけむとす。
「この村に何事かありしや」
聲は靜かなれども、問ひの意は深し。幾度か訪れし廢村の中にて、彼は常に同じ疑ひを抱けり。崩れたる家々、傾きたる柱、草に埋もれし石垣——すべて語らむとして語り得ぬものの如し。
カメラの紐、首筋を締むるやうに感ぜらる。指は無意識に革帶を撫でたり。レンズの冷たさは、今は彼の體温を帶びて、生き物の如く彼と一體となれり。されど撮るべき眞實は、未だ彼の前に姿を現さず。
問ひを發したる後、寫眞師は女の反應を待てり。風吹きて、木の葉の觸れ合ふ音のみ聞こゆ。
女は答へず。
その眼差しは、彼の顏より靜かに離れゆきぬ。まづは彼の肩の邊りを過ぎ、次第に遠き處へと移りゆく。視線の先を追へば、村の背後に聳ゆる山の姿あり。
山影暗く、
霧は峰にかかりて、
動かざるかな。
女の瞳に映るは、山の輪郭のみにあらず。そこには時の層、記憶の襞、語られざる物語の斷片——すべて霧の如く曖昧なるものども宿れり。寫眞師の問ひは、未だ宙に漂ひて、答を得ず。
沈默は長く續けり。女の唇、微動だにせず。寫眞師は待てども、言の葉は來たらず。彼女の面持ちに浮かぶは、讀み難き靜けさのみ。
山を見るにあらず——山の彼方を透かし見るが如し。その視線は、形あるものを捉へむとするにあらず。むしろ形なきもの、眼に見えぬもの、寫眞機の捉へ得ざるものへと注がれたり。
寫眞師もまた、女の視線の先を辿らむとす。されど彼の眼に映るは、ただ山の黑き稜線と、峰にまとはる霧の帶のみ。
霧の奧に
何を見るらむ
動かぬ瞳
女の眼差しは、今此處にあらず。過去か、あるひは過去よりも更に深き處か。時は流れども、彼女は動かず。問ひは空しく宙を漂ひ、答なき問答の間に、ただ風の音のみ殘れり。寫眞師の指、再びカメラの革帶に觸れたり。何を撮るべきか、彼自身も知らざるままに。
遂に女は口を開かざるかと思はるる程に、時は過ぎゆけり。寫眞師は待ちわびて、幾度か息を吐きたれど、彼女の面には何の變化も現れず。その表情は石の如く動かず、讀むべき文字もなし。
山を見つむるにあらず——山を透かして、その向かうなる何かを見るが如し。彼女の視線の先には、寫眞師の眼に映らぬ世界ありて、それは形なく、色なく、ただ彼女のみに見ゆるものなりけむ。
寫眞師は己が無力を覺えたり。カメラは目の前の景色を捉ふれども、彼女の見つむる彼方の世界は、決して硝子板に寫らざるべし。
山の彼方
見えぬ世界に
立つ女の
瞳は遠く
時を超えたり
風、草を撫でて過ぎゆく音のみ聞こゆ。
遂に彼女の唇動きて、聲低く洩れ出づ。その調子は淡々として、暗誦するが如し。「戰の後——」と言ひかけて、
やや首を振りて己が言葉を正す。「——貴殿の知る戰にあらず、もう一つの方、敗れし側の侍どもが、川に沿ひて」
戰ひとつに
あらず二つあり
敗者の道
川は變はらず
流れ續けたり
彼女の聲には抑揚なく、ただ事實を述ぶるのみ。されど、その言葉の裏には、幾重もの時が折り重なりて橫たはるを、寫眞師は感じ取れり。
彼女、言葉を繼ぎて曰く、「二人三人と、彼らは來たりき。劍は布に包まれ、その布地はかつて上等なりしものなれど、今は色褪せて」
敗軍の
劍を包む
古き絹
川邊の道を
ひそかに下る
「川に沿ひて逃げ來たりしなり」と、彼女は靜かに語る。その眼差しは山の方を見つめたるまま、動かず。
彼女の語り、續きて流るるがごとし。「彼らは二人三人と連れ立ちて來たりき。劍は布に包まれたり。その布地、見れば、かつては上等なる絹なりしならむ。紋所の痕跡、かすかに殘れり。されど今は旅路の塵に汚れ、雨に打たれて、色褪せたるのみ」
彼女の聲、低く、されど明瞭なり。「彼らの步みは重かりき。勝者の如く胸を張ることなく、ただ默々と川邊を辿りゆきたり。顏を隱すこともせざりしかど、誰も彼らを見ざりき。村人は皆、戸を閉ざし、窓より覗くこともなかりき」
山の端に
霧の立ちたる
曉に
名もなき武士
ただ過ぎゆけり
「彼らの中には、若き者もありき」と彼女は言ふ。「十五、六の少年も、劍を抱へて步みたり。その手は震へたりしや否や、我は知らず。されど彼らの背中に、敗北の重さは明らかなりき」
彼女の指、川の方を指し示す。「あの川瀨のあたり、一人の侍、立ち止まりて水を掬ひたりと聞けり。その水にて顏を洗ひ、しばし空を仰ぎたりと。されど長くは留まらざりき。追手の氣配なくとも、彼らは急ぎたり。安息の地は、遙か遠くにありしゆゑ」
風吹けば
布の解けたる
刀の光
一瞬見えて
また闇に入る
「かくして彼らは去りゆきたり」彼女の聲、消え入るばかりなり。「川に沿ひて、山の奧へと」
村には名なかりき。ただ川の曲がるところ、流れの緩やかなる一處なりき。地圖に記されることもなく、街道の標にも現はれず。されど人は住み、田を耕し、代々この地に根を下ろしたり。
「その頃、村は何と呼ばれしや」と問へば、彼女は首を横に振る。「呼ぶべき名もなかりき。川の村、とのみ。あるいは、あの曲がり角、と」
川曲がる
その淀みにて
葦茂り
名を持たぬ里
ただ在りにけり
流れの緩みたる處、水は深く、色濃かりき。そこに小舟を繋ぎ、魚を獲り、野菜を洗ひたり。子らは岸邊にて遊び、女らは川邊に集ひて語らひたり。名なき村の、名なき日々。
「されど川は知れり」と彼女。「川は覺えたり。この曲がり角を、幾多の者の過ぎ行きしかを」
彼女の言葉、途切れたり。そして續く。「曾祖母の語りしところによれば、彼らは影の如くなりしと。水を乞ふとき、深く頭を垂れたりと」
影なりしと曾祖母は語りき。刀を捨て、鎧を脱ぎ、ただ旅人の姿にて現はれたりと。されど目に宿るもの、隠すべくもなかりき。
「水を賜はらむ」と乞ふとき、その頭の垂れやうは尋常ならず。額を地に着けむばかりに。村人らは恐れたり。何ゆゑかくまで深く礼をなすかと。
敗れし者
水乞ふ聲の
低きかな
驕りし日々は
遠き夢なり
一人、また一人と過ぎ行きたり。皆、川の水を掬ひ、顏を洗ひ、喉を潤したり。言葉少なく、目を伏せて。村人は黙して見送りたり。問ふこともなく、名を尋ぬることもなく。
「影は川に映りて、すぐに流れ去りき」と曾祖母。「されど川は忘れず」
最初の祠は、刀を握りし手にて建てられたり。されど今や、その手は鋸と鑿のみを知れり。木を削り、柱を立て、屋根を葺く。かつて命を奪ひし手、今は神を祀る器を作る。
手の内に
刃の記憶
消えゆきて
鑿の痕のみ
木肌に残る
粗き造りなりしも、心は籠もりたり。誰が爲とも知れず、ただ建つ。贖ひか、祈りか。彼ら自身も知らざりき。
二度目の春、彼らは道を振り返ることを止めたり。山の懐に身を沈め、川音のみを友とす。過去は遠く霞み、未来は問はず。ただ今日の糧を得、明日の祠を建つ。
春深し
後ろ振り向く
影もなく
山に溶け入る
亡き名の如く
故郷の記憶、薄れゆく。刀を捨てし日より、彼らは新たなる者となりぬ。根を下ろす木の如く、動かず。
彼女語りて曰く、兵士らの足音は山路に溝を刻みたりと。石畳を踏む靴音、絶えず続きて、遂には彼らが生まれし時に授かりし名さえも、その律動の中に溶け失せたりと。
行軍の
足音石に
刻まれて
名は靴音に
消えゆきにけり
幾千の足、同じ道を辿りしかば、岩肌に深き轍を残せり。朝な朝な、暮れな暮れな、彼らは進みたり。最初は己が名を呼び合ひしも、やがて番号のみとなり、遂には音さえも失せぬ。ただ足を運ぶのみ。一歩、また一歩。
山々は証人として立ちたり。峠を越ゆる度に、誰かが倒れ、誰かが消えたり。されど列は止まらず。彼らの名は風に散り、谷底に沈み、苔に覆はれて土に還りぬ。
石段に
千の足跡
重なりて
名残となるは
溝一筋のみ
かくして彼らは歩みたり。故郷より遠く、遠く。文字は記憶より薄れ、音は意味を失ひ、終には己が何者なりしかをも忘れたり。残りしは肉体のみ。動く肉体、呼吸する影。
山道は彼らを呑み込みたり。名もなき者らの行列、果てしなく続きて、遂には山そのものと成りぬ。彼らの骨は道標となり、彼らの足跡は後に続く者らの導きとなりぬ。さりながら、誰一人として己が名を覚ゆる者なし。
彼女また語りて曰く、地図職人らは筆を執りて、幾度も幾度も山河を描き直したりと。朝より夕まで、墨を磨り、線を引き、消し、また引きたり。彼らの手は痙攣し、指は曲がりて伸びざるに至りぬ。
地図描く
手は震へども
谷深く
遂に余白を
残すより他なし
或る谷は三度描かれ、四度消されたり。或る峠は地図上に現れては消え、消えては現れたり。測量士らの報告は相矛盾し、同じ場所が異なる名にて記されたり。山は動くが如く、川は位置を変ふるが如し。
されど真実は別にありき。彼らは疲れ果てたるなり。知らざるに非ず、描き得ざるなり。かくして或る谷々は白き空白として残されぬ。諦念の余白。人の言葉の届かぬ場所として。
白紙なる
谷間に筆は
置かれけり
知恵の果てにて
沈黙を描く
地図は不完全なるまま、兵士らに手渡されたり。
或る者どもは川の渡し場まで辿り着きたれども、そこにて方角を失ひぬ。故郷は何処、前方は何処、己が立つ場所すら判然とせず。流れの中に立ち尽くし、身動きもせず。水は腰まで達し、膝まで冷えたれども、彼らは石の如く動かざりき。
渡し場に
立ち尽くす影
流れゆく
故郷の名も
方角も消えて
同行の者ありて引き上げたる者もあり。されど多くは独りにて、ただ水音を聞きつつ、夜の帳の降るるを待ちたり。或る者は夜明けまで立ち続け、或る者は膝を折りて流れに身を委ねたり。彼らの目には何も映らず、問へども答へず。心は既に何処かへ去りたるなり。
里の古老ども、時折彼らを見出したりと女は語り続く。樹の下に座し、空なる行嚢を傍らに置き、虚空を見つめたる者ども。何を見るとも知れず、ただ黙したり。問へば、己が何故ここに在るかをも忘れたりと答ふ。命令も、任務も、行くべき先も、悉く心より零れ落ちたるなり。
樹下に座す
空なる行嚢
命令も
任務も消えて
ただ虚空見る
古老らは水を与へ、言葉をかけたれども、彼らの目は遠く、応ふる声も途切れがちなりき。
祖母は名簿を守りしと女は言ふ。戦ひに散りし者らの名を記したる帳なりき。されど墨は奇しくも速やかに褪せゆきたり。記憶の衰ふるよりも早く、紙そのものが拒みたるが如く。戦の解きし者どもを、文字もまた留め得ざりしなり。
名簿の墨
記憶よりも早く
褪せゆきて
戦の解きし
名を留めず
祖母は幾度も筆を執りて書き直したれども、同じく消えゆくのみなりき。
写真師はその鏡玉を調へたり。問ひを形作らむとして、されど言の葉は容易く定まらず。先祖なくして継がるるもの、触れざるものを知るといふこと、いかにして枠に収めむや。
鏡玉越しに
問ひの形を
探りつつ
触れざる重み
いかで測らむ
彼は幾度もその硝子の目を廻したり。焦点は合ひ、また外れ、女の立つ姿は明瞭なれども、問はむとする事柄は霞の如し。継承とは何ぞや。血の繋がりなくして受け継がるる記憶とは。手に取りしこともなき刃の重さを、いかにして知り得るや。
彼女は答へたり、問はれずとも。祖母の語りし言葉にあらず、書物に記されたる史にあらず、ただ在ることの裡に宿りし知なりと。墨の褪せたる名簿を見し時、その空白こそが重かりしと。名の消えゆく速さこそが、戦の解きし者どもの儚さを語りしと。
写真師は頷きたり。その鏡玉の中に、問ひは既に答へられてありき。枠に収まらぬものを撮らむとする行為そのものが、触れ得ぬものに触るる術なりしを。
鏡玉に
映らぬものを
撮らむとす
継ぐとはかくも
見えざる業か
彼はやうやく快門を切る覚悟を決めたり。
女は石壁に指を這はせたり。錆の花咲く処、七十年の昔、刃どもの積み重ねられし痕なり。酸化の記憶は石に沁み入りて、鉄の在りし形を留めたり。彼女の指先は錆の紋様を辿りゆく、まるで点字を読むが如く。触るるは石なれど、感ずるは金属の冷たさなり。
石壁に
錆の花咲く
刃の痕
触るる指先
鉄を憶ふる
その重さを知りしは、手に取りてにあらず。祖母の肩の曲がりゆくを見しによりてなり。娘の生まるる数十年の前に置かれしものを、なほも担ひ続くるが如き姿なりき。語られぬ物語は身体に刻まれ、見る者をして知らしむ。重力は世代を超えて伝はり、持たざる者の骨をも曲げるなり。継承とはかくの如きものか。彼女は壁より手を離したり、されど指には錆の粉の残りてあり。
祖母の背の
曲がりゆくさま
見し時に
重さは代へて
伝はりにけり
その重さを知りしは、手に取りてにあらず。祖母の肩の曲がりゆくを見しによりてなり。娘の生まるる数十年の前に置かれしものを、なほも担ひ続くるが如き姿なりき。語られぬ物語は身体に刻まれ、見る者をして知らしむ。重力は世代を超えて伝はり、持たざる者の骨をも曲げるなり。継承とはかくの如きものか。彼女は壁より手を離したり、されど指には錆の粉の残りてあり。
背に負ひし
見えざる刃の
重さかな
生まれぬ前の
戦ひの跡
鉄そのものは既に在らず。されど重量は消えず、形を変へて残れるなり。祖母の脊椎に宿り、母の歩みに現れ、今彼女の立ち姿にも宿る。触れざる刃の重さ、持たざる鉄の冷たさ。記憶は物質を離れて、肉体より肉体へと移りゆくものなりけり。
刀は溶けて
鋤となり鉄路となりぬ
されど重さは
刀身は徴発され、溶かされ、鋤となり鉄路となりて国土に散りぬ。金属は形を失へども、重量は消ゆることなし。来たるべき世代の肩に、腰に、足に配分されたり。彼女の祖母が担ひしもの、母が歩みに感じしもの、今彼女が立つ時に知るもの、皆同じ鉄の記憶なり。物質は変転すれども、重力は忠実に受け継がれゆく。
鋳直されし
鉄の行方は
変はれども
分かたれし重さ
後の世に継ぐ
失はれしものの
形こそ我らが
受け継ぐものと
「失はれしものの形こそ我らが受け継ぐものなれ」と彼女は語りぬ。その手は錆を辿りて、盲者が点字を読むが如く、鉄の表面に刻まれし不在の文字を探りゆく。触るるは金属なれども、感ずるは空白なり。剣の形は去りて、残れるは剣ならざるものの輪郭のみ。彼女の指先は、溶解の痕跡を、再生の傷痕を、変容の証を読み取りゆく。
不在の形
指に読み取る
錆の文字
変はりし鉄に
刻まれし空白
写真機を下ろして、彼は荒れたる駅の台に立ちぬ。割れたる石の間より野の花の芽生え出づるを見つめ、問ひかけたり。「何故にこの地は、永久に来たらざるものを待つが如き気配を湛ふるや」と。
待つ駅や
花の根は裂く
石の間を
来たらぬ列車
影さへもなし
彼の眼は台の縁を辿りゆく。時刻表の残骸、色褪せし標識、錆びたる鉄路の断片。すべては中断されし物語の断章なり。風は草を揺らし、蜂の羽音のみが空気を満たす。されど彼の感ずるは静寂にあらず。これは期待の残響なり、到着を信じし者らの集ひし記憶の痕跡なり。
「この感覚を知るや」と彼は問ふ。「終はりたるものと、未だ終はらざるものとの間に漂ふ、宙吊りの時の感覚を」
石の裂け目より伸びたる野菊を、彼は撮らむとして躊躇ふ。レンズを通して見れば、それは単なる植物の侵蝕に過ぎず。されど肉眼にて見れば、それは別の何かなり。抵抗にあらず、変容なり。駅は廃墟となりつつも、駅たることを忘れず。待つことのみが、その最後の機能として残りたるが如し。
終着の
意味を問ふ眼
レンズ越し
待つといふこと
形として在り
彼女は未だ答へず、ただ彼の問ひが空中に漂ふを許しぬ。問ひもまた、この場所の一部となりゆくべきものなれば。
彼女は川の果てを指し示しぬ。水は沼地へと溜まり、流れの意志を失ひたる処なり。「鉄路はここまで延びて、ただ終はりたり」と彼女は語る。「計画せし者らの眼差しが尽きたるか、あるいは意志が萎えたるか、いづれにせよ、線路は突如として途絶えたり」
沼となる
川の終はりに
鉄路果て
意志の尽きたる
地図の余白よ
終点は始点たる意図を持たず、ただ力尽きし結果として在りき。延伸の約束は空しく、図面の上にのみ存在せり。彼女の指は水平線を辿る。「見よ、ここより先は何もなし。構想は此処にて息絶えたり」
彼は頷きつつ、カメラを構へむとす。フレームの中に収まるは、終はりの地理学なり。川が川たることを諦めし場所。鉄路が鉄路たる使命を放棄せし地点。すべては未完のまま完結せり。
「此処に留まりし者らは、選びて来たるにあらず」と彼女は続く。「工事の終はりを待ちて帰るべき者らなりしが、延伸の報せは遂に来たらず。仮の宿は年を経て恒久の住処と化したり」
線路の果て
仮住まひ重ね
根を下ろす
帰る日を待つ
村となりにけり
労働者らの天幕は板壁となり、独り身の者らは伴侶を娶りぬ。約束の空しさは日々の糧に置き換へられ、一時の滞在は世代を超ゆる定住へと変貌せり。「彼らの子らは、この地より他を知らず。生まれながらにして、途絶えたる夢の影の下に育ちたり」
彼女の声には非難の色なし。ただ事実を語るのみ。終点が始点となりし逆説を、淡々と述べるなり。
「家族は成りぬ、未完の夢の陰にて」と彼女は言ふ。「子らは生まれたり、勢ひの死せし地に。村の存在は、ただ地図上の一線によりて定められしのみ」
未完の夢の
陰に家族生まれ
子ら育ち
勢ひ尽きし地に
村は根を張る
誰かが図面に線を引き「足れり」と宣ひし、その瞬間に運命は決せり。夢半ばにして凍りし時の中、新たなる命は芽吹きぬ。彼らは選ばざりし故郷を、唯一の故郷として知るのみ。
川の尽くる処に彼らもまた留まりぬ。水脈は此処にて途絶え、前進の道は閉ざされたり。他に成るべき場所なく、他に在るべき地もなし。
川尽きて
人もとどまる
岸辺かな
成らむとすれど
成る術もなし
流れは大地に呑まれ、夢は砂に沈みぬ。彼らは動けざる者となり、此の地に縛られし者となりぬ。運命は地形と共に定まり、川の終はりは彼らの終はりの始まりなりき。
語り出づるに序なし。声は年月の重みを負ひて届きぬ。記憶は天候の如く、避くべからざるものとして、包み込むものとして、来たりぬ。
彼の女の唇より言の葉の溢るるや、時の流れは淀みて、過ぎし日々は今此処に在るが如し。問はずとも語りは始まりぬ。それは風の吹くに似たり。それは潮の満つるに似たり。拒むこと能はず、ただ受くるのみ。
昭和三十七年の夏の光、未だ彼の女の瞳に宿りて消えず。養蚕組合の女人等の歌声、今も耳朶に響くと言ふ。繭の白きこと、雪の如くなりしと。桑の葉の匂ひ、指先に残ると。
記憶の糸
繰り返し紡ぐ
途絶えざる調べ
彼の女は立ちて語る。座して語る。手を動かしつつ語る。その身は此処に在れども、心は彼処に在り。六十年の歳月を超えて、魂は村に留まりぬ。
祭の夜の川面を、幾百の灯籠の流るるを見しと語る。水に映りし火の色、橙にして金なりしと。子等の笑ひ声、鐘の音、線香の煙、全ては鮮やかに甦ると。
語りは途切れず続きぬ。堰を切りし水の奔るが如く。溜めたる想ひの溢るるが如く。彼の女の声には力あり。確かさあり。疑ひなし。過去は過去に非ず。それは現在なり。生きて在るものなり。
三百の魂と彼の女は数ふ。今も尚、一人一人の名を呼ぶが如くに。橋の袂の田中の一族。双子なりし吉田の兄弟。腰の曲がりたる中村の翁。
指を折りて数ふる時、彼の女の目は遠くを見つむ。家々の位置、門の様、庭に植ゑし木の種までも語る。誰が誰の隣に住みしか。誰が朝一番に井戸に来たりしか。子の数、犬の名、全てを記憶す。
三百の名
一つ一つに
物語あり
消えし村の地図は、彼の女の心に刻まれたり。通りの名は失せたれども、足は道を覚えたりと言ふ。声は震へず。淀みなく名を連ねゆく。
死者も生者も、彼の女の語りの中にては、等しく息づく。時は名を呼ぶことによりて、再び巡り来たる。三百の魂は、語られることによりて、尚も村に在り。
養蚕の組合は村の中心にありき。母たちの働く場所。彼の女の母も、朝な夕なに通ひたり。
繭の白さは、今も目に浮かぶと言ふ。女たちの手は、枠を渡りて、一斉に動きたり。糸を繰る音、規則正しく響きたり。誰一人として遅るることなく、誰一人として先んずることなく。手と手とが、見えざる糸にて繋がれたるが如し。
母の手並み
枠を渡りて
白き糸
揃ひて動く
春蚕の頃
窓より差し込む光の中に、細き糸の輝くを見たりと。埃の舞ふ空気。機織りの音。女たちは無言にて働きたれども、その沈黙こそが、最も深き調べなりき。
指先に宿りし技は、母より娘へと受け継がれたり。組合は単なる仕事場に非ず。女たちの魂の集ひし場所なりき。
女たちの声、共に上がりたり。仕事唄の調べは、糸繰りの律動を刻み、織機の響きに溶け込みたり。季節は指先を通りて流れゆく。春蚕、夏蚕、秋蚕。旋律は世代を超えて受け継がれ、母の歌ひし節を娘もまた口ずさみたり。
糸繰る手に
唄の調べの
重なりて
時の流れを
指に紡ぎぬ
声と声とが織り成す音は、単なる労働の伴奏に非ず。それは魂の共鳴なりき。
女は語りぬ、昭和三十七年を今と為して。「本年の桑の葉、誠に見事なり」と。その言の葉に過去形の影なし。彼女の魂は、いまだかの年に留まりて、時の流れに身を委ねず。
桑の葉の
緑に生きて
動かざる
魂ひとつ
昭和に残る
問はずとも知る。彼女は一度たりとも、あの時より離れ出でしことなきを。現在は幻に過ぎず、真実は六十年の彼方に在りき。
行列は細き路地を縫ひて進みゆく。白き紙の提灯、風に揺らぎて、幾百の灯火、夜の闇を照らす。神輿は肩に重く、担ぎ手の額に汗の玉結ぶ。その肩は昭和六十年には既に塵と化すべき肩なれども、今宵は力強く、神の座を支へたり。
提灯の
白き灯りに
照らされて
知らぬ未来を
肩に担ひぬ
石畳の道、狭く曲がりて、両側には古き家々軒を連ねたり。障子の内より人々顔を出だし、行列を拝みて手を合はす。子供らは駆け回り、紙の舟を手に持ちて、はしゃぎ声を上ぐ。神輿の鈴の音、規則正しく鳴り響きて、夏の宵の空気を震はす。
担ぎ手らの足取り、一歩一歩確かなり。彼らは知らず。この重みを分かち合ふ仲間の幾人かは、次の夏至を見ることなきを。昭和三十八年の祭りには、この列に欠けたる場所の生ずべきを。されど今宵、その影は微塵も見えず。ただ神を運ぶ誇りと、共に汗を流す喜びのみ、彼らの胸に満ちたり。
白提灯揺れて、路地の角を曲がる時、神輿は傾ぎ、担ぎ手らは声を揃へて掛け声を発す。「わっしょい、わっしょい」と。その声、天に届かむばかりに高く、力強く、生命の輝きに満ちたり。
行列の先頭に立ちて、兄は声を張り上げたり。「えいさ、えいさ」と。その声、若く澄みて、疑ひを知らず。力に満ちたる声なり。周囲の者ども、その調子に合はせて唱和す。兄の額には汗光り、されど笑みは絶えず。神輿を導く誇り、その胸に溢れたり。
来年の夏至、この声は既に此の世に在らず。されど今宵、兄は何も知らず。ただ祭りの熱気の中に在りて、己が役目を果たすのみ。その確かなる足取り、その響く声、全ては今この瞬間に生きたり。
若き声の
祭り導く
力強さ
明年知らぬ
命の輝き
提灯の列、兄の後に続きて進む。彼の声に導かれ、担ぎ手らの足並み揃ひたり。石畳に響く足音と、鈴の音と、掛け声と、全てが一つに溶け合ひて、夏の夜の調べを奏でたり。兄の姿、神輿の前に凛として立ち、その背中には来るべき別れの影、微塵も宿らず。
川幅の広がりたる処にて、木綿の浴衣を纏ひし子供ら、紙の舟を水面に放ちたり。一艘一艘に、願ひ事を筆にて認めたるものなり。筆遣ひ拙きもあり、また丁寧に記したるもあり。舟は川の流れに乗りて、提灯の灯りを映す水面を滑り行く。
子らの声、はしゃぎて響く。「我が舟、一番早し」「見よ、あれは誰が舟ぞ」と。されど舟は己が道を行くのみ。紙に託されたる願ひ、静かに川を下りゆく。豊作を願ふもの、家族の健康を祈るもの、様々なる思ひ、小さき船に込められたり。
紙の舟
願ひを乗せて
川下る
灯に照らされし
子らの祈りよ
水音と共に、舟は次第に遠ざかりゆく。子供らの目、その行方を追ひて離れず。
最も小さき舟は、彼の女の手にて朝に折られしものなり。紙を幾重にも畳み、舟の形を成す間、指先は震へたり。内側に、人目に触れぬやう、細き筆にて認めたる言葉――「何も変はらざれ」と。
舟を水に浮かべし時、彼の女は己が願ひの重さを知りぬ。時の流れに抗ふ祈り、いと儚きものなり。されど、その願ひこそ、誰よりも切なるものなりき。
小さき舟
変はらぬ願ひ
水に浮く
時は流るるを
知りつつもなほ
舟は他の舟と共に、川面を静かに進みゆく。彼の女の目、その行方を見守りたり。
されど神は降り給ひぬ。男たちの肩に担がれ、水を渡り、煙を透きて、時の流れをも超えて進み給ふ。彼の女は見たり――記憶の此方と彼方、二つの岸より同時に。過去に立ちつつ、今に在りて、その御姿を目に留めたり。
神輿ゆく
煙と水と
時を経て
我は二つの
岸に立ちをり
神の行列は続きたり。彼の女の視線、二重に折り重なりて、一つの祭を映しぬ。
祭の夜は、彼の女の語りの中に、稲妻の如く訪れたり。夏の闇を裂きて、一瞬にして全てを照らし出す稲光の如く。突如として、されど完全なる姿にて。
語りいづる
稲妻のごと
祭の夜
一瞬にして
世界照らしぬ
記憶は時を選ばず。彼の女の言の葉は、あたかも光そのものの速さにて、昭和三十七年の夏を今に甦らせたり。太鼓の音、提灯の灯、川面に映る火の粉――全ては同時に、瞬きの間に、彼の女の内に在りき。
過去と現在の境は消え失せたり。語る声は震へども、その眼差しは確かなり。見ゆるは単なる記憶に非ず。彼の女は再び其処に立てり。十九歳の身にて、浴衣の袖を風になびかせ、祭囃子の響きの中に在りき。
熱き夜の空気、人々の笑ひ声、焼きたる鮎の香り――全てが一度に押し寄せ来たり。時は直線に非ず。彼の女の語りにおいては、時は稲妻の枝分かれの如く、四方八方に拡がりゆく。一つの瞬間が全ての瞬間を含み、一つの夜が永遠を宿したり。
照らさるる
記憶の奥に
在りし夜
今も鮮やかに
燃えて消えざり
かくて祭の夜は、語られる度に新たに生まれたり。彼の女の言葉は雷鳴に非ず、光のみなり。音なき閃光にて、暗闇に沈みし世界の全てを、一瞬の内に顕はしたり。
太鼓櫓には父の姿ありき。撥を振るふ度に、音は村中に響き渡り、夜気を震はせたり。力強き腕、汗に濡れたる額、祭の鼓動そのものと化したる父の姿。彼の女は今も見ゆ――櫓の上に立ちて、太鼓を打ち続くる父の背を。
櫓の上に
父は太鼓を
打ち鳴らし
村の心臓
夜に響かせり
母は社の前に跪きて、供物を整へたり。米、酒、夏の果実――全てを丁寧に、祈りを込めて並べゆく。白き手拭にて額を拭ひつつ、神々に語りかくるが如く。その所作の一つ一つに、畏敬の念宿りたり。
川の浅瀬には弟ありき。膝まで水に浸かり、網を構へて待ちをり。提灯の灯は水面に揺らぎ、その光に誘はれて、魚影近づき来たり。弟の息遣ひさへも、祭の一部なりき。
網構へ
浅瀬に立てる
弟の
影さへ揺るる
灯の川面に
太鼓の律動は生き物の如く村を巡りたり。音の波、軒より軒へと伝はり、空気そのものを震はせつつ。その鼓動に応へて、川の鯉ども浮かび来たり。まるで太古の呼び声に従ふが如く、銀色の身を躍らせ、暗き水面を破りて跳ねたり。一匹、また一匹と、提灯の光の下に現れ出づ。水飛沫は宙に舞ひ、月光を弾きて輝けり。村人らは息を呑みて見守りたり――この瞬間こそ、神と人との境の消ゆる時なりき。
鯉跳ねて
闇を裂きたる
銀の腹
太鼓に応ふ
川の祭かな
十七の春秋を数へし彼の女は、世の不変を信じて疑はざりき。提灯の灯、水面に揺らめき、養蚕組合の絹の旗、風に翻りて。三百の魂、同じ歌を知り、同じ調べを口ずさみたり。この刻こそ永遠ならむと思ひしなり。されど時は流れ、やがて――
十七や
提灯映す
水の面に
永久と信ず
絹旗の夜
刻は彼の女を捉へて離さず、彼の女もまた刻を手に掬ひて放たず。その手は、紙舟を流れに浮かべむとするが如く、宙に漂ひて動けり。水は流れ、灯は揺らめけども、心の内なる一瞬は凍りて、今も尚ほ彼処に在り。
紙舟や
手に残りたる
川の記憶
流れは今も
掌に宿る
声の調べは変じて、老いたる身の慎み深き語り口を脱し、垣根越しに隣人を呼ぶ少女の響きとなりぬ。言の葉は時を遡り、今といふ岸を離れて、あの日の川辺に立ち返りぬ。
口より溢るるは名なり。ただの名にあらず、魂の宿りし名なり。「文子さん」と呼ぶ声には、藍瓶の傍らに立ちて布を浸す女の姿見ゆ。その藍の色は空よりも深く、海よりも澄みて、誰が染めしものも及ばざりき。「健二君」と言へば、自転車の把手を握りて、曲がりくねりたる道を行く少年の笑顔浮かぶ。真っ直ぐに進むこと能はねど、その歪みたる轍こそが、彼の存在の証なりき。
そして商家の娘。名を口にする前に、既に笑ひ声聞こゆ。組合の板敷を渡りて響きし、あの鈴を転がすが如き声。朝な朝な、機織りの音に混じりて、娘の声は空気を震はせ、働く者の手を休ませき。
呼ぶ声は
垣根を越えて
あの日へと
名に宿りたる
魂の温もり
彼の女の唇は動きて止まず。一つ一つの名は糸なり。その糸を手繰れば、三百の魂が蘇り、組合の棟に集ひ来たる。声は少女に戻り、時は一九六二年に留まりて、今も尚ほ、その刻を生き続けたり。
名は尽きず、次々と溢れ出づ。「房江さん」—その名を呼べば、桑の葉を摘む指先の器用さ思ひ出でらる。蚕の世話に明け暮れし日々、繭の白さを誰よりも愛でし人。「正夫君」—力仕事を厭はず、染めの釜を運びし若者。その背中には汗の染み、されど笑顔絶えざりき。
「千代ちゃん」と呼ぶ声、殊に優しく響く。糸車を回す手つき、誰にも真似できぬ速さなりき。その指は糸と一つになりて、まるで糸自らが紡がるるが如し。「武さん」—帳簿を預かりし男。算盤の音、今も耳に残る。パチパチと響く音は、組合の鼓動そのものなりき。
三百の名
一つ残らず
胸に在り
呼べば応ふる
あの日の面影
老婆の声は途切れず、名は数珠繋ぎに連なりて、組合の全き姿を空中に織り成す。それは記憶にあらず、今も続く宴なり。
指先は虚空に舞ひて、袖口を撫で、帯を直し、襟元を整ふ。これは追憶の仕草にあらず。眼前に立つ者に触るる動作なり。昭和三十七年の夏、その人は今此処に在り。
「ちょっと待ちなさい、襟が曲がつてゐますよ」と呟く声。相手なき空間に語りかくれど、老婆の手つきに迷ひなし。帯締めの位置を直し、肩の塵を払ふ。その指は確かに誰かの温もりを感じ居るが如し。
触れてゐるか
六十年前の
袖の裾
今も手に在り
絹の感触
一つ一つの仕草に、祭りの日の装ひ蘇る。組合の者たちが晴れ着を纏ひて、川辺に集ひし、あの日。
老婆の周りの空気、にはかに変はりて、幻の香り立ち昇る。生糸の匂ひ、川の水の冷たき気配、六十年の昔に絶えたる夏祭りの残り香。時は撓み、昭和の夏は今この瞬間に重なり合ふ。
祭囃子の
音なき調べ
風に乗り
絹糸匂ふ
川面の記憶
温度さへもが記憶に従ひ、部屋の空気は川辺の涼しさを帯ぶ。提灯の灯、水に映りし影、組合の人々の笑ひ声——全ては彼女の感覚の内に、確かに存在す。
老婆は首を傾け、虚空に向かひて語りかく。その面持ちは期待に満ち、答へを待つが如し。されど其処には誰も居らず。彼女の見る世界は、写真師の眼には映らぬ別の次元に在り。
見えぬ人に
問ひかけて待つ
古き友
二つの世は
交はることなし
彼女の視線は確かに誰かを捉へ、唇は微かに動きて、応答を待ち侘ぶ。昭和の夏に生きる者と、令和の今に立つ者と——二つの現実、同じ空間に在りながら、決して触れ合ふことなし。
機械の囁き、快門の落つる刹那。時は凍りて、二つの現実の狭間に在り。写真師の指、静かに離れ、銀塩の膜に光は刻まれぬ。されど刻まるるは虚無のみ。老婆の見る世界と、レンズの捉ふる世界と——両者は同じ縁側を映せども、決して一つに重なることなし。
快門落つ
二つの世界
交はらず
光は虚空
映すのみなり
機械は嘘を吐かず。フィルムに現るるは、ただ古びたる木材の肌理、午後の陽射しの織りなす陰影のみ。人の姿無く、期待に満ちたる面持ち無く、答へを待つ者の気配すらも無し。されど写真師の眼前には、確かに老婆在り。彼女は今も虚空に語りかけ、見えざる友の返答を待ち侘ぶ。
カメラは冷徹なる証人なり。現実を一つに定めむとす。されど老婆の現実は、機械の認識を超えたる処に在り。昭和三十七年の夏、養蚕組合の三百の魂、川面を埋め尽くせし灯籠流し——彼女にとりては、それらは過去に非ず。今此処に在る、触れ得る真実なり。
ファインダーの四角き枠の中、二つの時代は拒絶し合ふ。写真師は令和の今に立ち、老婆は昭和の記憶に生く。同じ空間、同じ光、同じ空気を呼吸すれども、両者の見る世界は永遠に平行線を辿る。
機械仕掛けの囁きは止み、静寂戻りぬ。されど分断は続く。
ファインダーの四角き窓を通して見るに、縁側には唯古びたる木肌と午後の光の織りなす影のみ。人の形無く、期待に満ちたる表情無く、答へを待つ者の気配すらも無し。空虚なる空間、物質のみの世界。レンズは嘘を吐かず、銀塩の膜は忠実なり。されど——
虚ろなる
ファインダーに
人影無し
木と影のみの
縁側映る
機械の眼の示す真実と、写真師の肉眼の見る現実と。この乖離こそ、最も深き謎なり。カメラは物理の法則に従ひ、光子の軌跡を記録す。幽霊は光を反射せず、記憶は質量を持たず、過去は現在の空間を占めず。科学の言葉にて語らば、老婆の見る世界は幻影に過ぎず。
されど写真師の心は揺らぐ。機械の証言を信ずべきか、己が眼を信ずべきか。ファインダー越しには虚無、肉眼には確かなる存在——二つの視界は、同じ瞬間に同じ方角を見つめながら、全く異なる物語を語る。
されど写真師、カメラより眼を上ぐれば——そこに在り。色褪せたる藍の衣を纏ひし女、確かに在り。横顔は午後の光に照らされ、口は言葉の途中に開かれ、問ひかけの形を保てり。幻にあらず、虚像にあらず。写真師の網膜に映る像は、物質の確かさを以て存在を主張す。
眼を上ぐれば
藍の衣の女
そこに在りて
言葉半ばの
口の形見ゆ
二つの真実、同時に成立す。機械の眼の見る不在と、人の眼の見る存在と。写真師は両の手に矛盾を抱き、理解の萌芽を感ず——レンズは遺されしものを捉へ、されど人の視覚は持続するものを保つ。時間は層を成し、過去と現在は透明なる膜一枚を隔てて重なり合ふ。
写真師、徐ろにカメラを下ろす。悟りは塵の如く静かに心に降り積もる。レンズの捉ふるは遺されしもののみ、されど己が視覚の保つは持続するもの——この二重の真理、今や明らかなり。機械は痕跡を記録し、人は継続を目撃す。
カメラ下ろせば
塵の如くに
悟り降り積む
レンズは痕跡
眼は継続見ゆ
彼は両の真実の狭間に立ち、矛盾を矛盾として受け容る。遺されしものと持続するもの、二つは対立せず、却って補ひ合ふ。写真の空虚なる縁側も、また一つの証言ならむ。
写真に写る空しき縁側は、遊凪の遺物として新たなる意味を帯ぶべし。不在の証にあらず、三百の魂の沈黙を拒む証なり。記録庫の静寂に消ゆるを許さず、村は語り続く。
縁側空し
されど声は絶えず
三百の
魂は拒む
記録の沈黙を
空虚なる像もまた雄弁なり。写らざるものの存在を、却って強く主張す。遊凪は消えず、ただ形を変へて在り続く。
息子は一つの鞄に荷を納めき。底には学びの衣を畳みて置けり。されど再びこれを纏ふことはあらじと知りつつ。
母は障子の影より見守りぬ。若き手は慣れざる業なれど、一つ一つの品を丁寧に収めゆく。教科書は既に古本屋に売られたり。机上には卒業証書のみ残れり。
かの制服は三年の月日を共にせしもの。袖口は少し擦り切れ、第二ボタンは一度付け直されたるものなりき。母の針目の跡、今も襟に残る。
息子は語らず。母もまた問はず。二人の間には昭和六十年の春の光のみ差し込めり。
荷造りの音、畳を打つ。時計の音、柱を伝ふ。遠くより汽車の汽笛聞こゆ。
発ちてゆく
背に春の日の
重きかな
鞄一つに納まりし十八年。写真二枚、母の守り袋、僅かなる衣類。東京といふ名の、見知らぬ街へ向かふ準備は、あまりに簡素なりき。
母は台所に立ちて、息子の好める飯を握りぬ。道中の糧とせよと。その手の震へを、息子は気づかざるふりをせり。
明日の朝、この家を出でなむ。村を出でなむ。そして帰り来ることは、盆と正月のみとならむ。もしくは、それさへも。
夕闇迫る頃、荷造り終へたり。部屋は急に広く見えき。
東京とは建設の現場なりき。従兄の住まふ六畳一間、その畳の上に蒲団を敷きて寝ねむと。朝は五時に起き、鳶の者らと共に足場を組まむ。
日曜の昼下がり、公衆電話の前に列を成す者あり。十円玉を握りしめ、順番を待つ。回線混み合へば、母の声は遠く途切れがちなり。「元気か」「飯は食うてるか」短き問ひに「大丈夫」と答ふるのみ。
都会とふ
名の重荷負ひ
春惜しむ
故郷遠く
声も届かず
従兄は夜勤の仕事多し。すれ違ひの日々となりなむ。炊事は各自にて。米を研ぐ手つき、母のそれとは似ても似つかず。
給金は封筒に入れて、月に一度郵便局より送らむ。「これにて少しは楽になるべし」と、便箋に記す。されど己が食ふ米代を引けば、残るは僅かなり。
帰省は盆と正月。もしくは、それさへも叶はざるやもしれず。
明治十八年四月、夜明けの駅に立ちたり。
汽車は山の端に消えゆく。手を挙げしまま、その姿の見えずなるまで。プラットフォームに残る者、母一人のみ。
煙の尾、曲がりて見えずなりぬ。されど手はなほ挙げたるまま。駅員の「お母さん、もう行きましたよ」との声にて、やうやく腕を下ろしたり。
改札を出づれば、朝の光まぶし。桜は散り初め、花びら風に舞ふ。
子を送る
手のひら冷えて
山桜
煙と共に
春も遠のく
家路につく足取り、重きこと鉛の如し。息子の部屋、開けることなく、そのまま閉ざしたり。
四月は長かりき。五月も、また。
為替の届きたるは二月、五月、八月。紫のインクにて押されし名のみありて、文は一行だに添へられず。
封を開くるたび、母の手震へたり。金額を確かめ、息子の名を指にてなぞる。されど筆跡にあらず、ただ印影のみ。
便箋を取り出だし、幾度か筆を執りしも、何を書くべきかを知らず。「元気か」「寒くはなきか」「いつ帰る」。問ひばかりにて、手紙とはならず。
為替来て
紫の名を
撫づるのみ
文字は冷たく
子の声聞こえず
八月の為替、机の引き出しに仕舞ひたり。三枚並べて眺むれば、ただ沈黙の積み重なるを見るのみ。
息子の部屋、手を触れず。机上の教科書に埃の積もりて、鉛筆は六月のまま転がれり。
夕餉の膳、二人分を並べ、向かひの座に目を遣る。箸を置く音のせぬことの、かくも重きか。
空き椅子に
問ひかけてみる
今日のこと
答へは来たらず
味噌汁冷ゆる
障子を開けて風を入るれど、彼の匂ひはもはや残らず。ただ待つといふ形のみが、部屋に、膳に、母の身に宿れり。
校舎閉づる年なりき。校長は空しき廊下に深く頭を垂れ、その声は誰も聞く者なき告知を反響せしむ。
朝礼台に立ちて、彼は最後の訓辞を述ぶ。「諸君の未来に幸多からんことを」と言ひしが、諸君はもはや此処に在らず。教室の扉を一つ一つ閉ぢゆく音、廊下に木霊して消ゆ。
黒板に白き文字の残れるを、彼は消さずに置けり。「明日の持ち物」と書かれたる明日は、遂に来たらざりき。
校舎閉づ
子らの声絶えて
海鳴りのみ
教卓に残る
chalk一本
窓硝子に貼られし習字、風に剥がれて舞ひ落つ。「夢」「希望」「友情」――墨痕鮮やかなる文字は、今はただ床に散らばる紙片となりぬ。
職員室の机、整然と並べるも、椅子に座する者なし。湯呑みに茶の渋の染みて、誰かの忘れし眼鏡一つ。校長はそれらを見回して、深き溜息つきぬ。
体育館の壁に掛かりし優勝旗、埃を被りて色褪せたり。かつて此処に満ちし歓声、今は潮騒に呑まれて聞こえず。
彼は最後に校門の鍵を掛く。錆びたる門扉、軋みて閉ぢたり。振り返れば、校舎は既に過去のものとなりて、海霧の中に霞みゆく。
足音一つ、砂利道に響きて遠ざかる。後に残るは、波の音と、鳴かぬ鐘楼と。
二十三人の生徒は十二人となりぬ。漁船の帰らざる日々続きて、父らは家族を率ゐ、海岸沿ひの加工場へと去りゆけり。
網元の息子三人、一度に転校届を出せり。彼らの机、教室の後方に空しく残る。担任は名簿に赤線を引きつつ、筆の震へを止め得ず。
漁港に繋がれし船、潮風に帆布の破れて翻る。出漁の鐘は鳴らず、市場の競りの声も絶えたり。残りし者らは、去にし友の名を呼びて、波打ち際に佇めり。
漁火の
消えて久しき
浜辺かな
友の面影
波に問ひをり
加工場の煙突、北の空に煙を上ぐるを、母らは遠く望みて溜息つく。「あそこには仕事あり」との噂、風に乗りて村を巡る。
教室の壁に貼られし生徒数の推移表、校長は黙して見つむ。右肩下がりの折れ線は、やがて来たるべき終焉を予言するが如し。
十二人は四人となりぬ。雑貨を商ふ店、戸板を下ろして主人一家も去りゆけり。店先に積まれし空箱、風に転がりて音を立つ。
母らは灯火の絶えぬ町を慕ひ、子らの手を引きて発ちぬ。「九時過ぎても街灯の煌々たる処」との言葉、彼女らの唇に繰り返さる。
教室に残りし四人、窓辺に並びて座す。互ひの息遣ひさへ聞こゆるほどの静けさなり。黒板に書かれし算術の問ひ、誰も解く者なし。
店閉ぢて
母ら発ちゆく
春の暮
街灯恋ひしと
子は振り返る
校舎の廊下、四人の足音のみ反響す。昼餉の時も言葉少なく、弁当箱を開く音のみ教室に満つ。かつての賑はひ、今は幻の如し。
四人は遂に零となりぬ。弥生の火曜日、最後の子はバスに乗りて去りゆけり。別れの言葉、軽油の煙に紛れて聞こえず。
母は子の背を押し、振り返ることを許さず。バスの扉、重き音立てて閉ぢたり。発車の刻、エンジンの唸り校庭に響きわたる。
彼女は立ち尽くして、煙の消ゆるを見送れり。帰らぬバスの轍、土に刻まれて残る。春の風、その跡を撫でて過ぎゆく。
四人ゼロ
バス発ちゆけり
煙の中
別れの声も
届かぬままに
校舎は立ちたり、窓という窓、閉ぢたる瞼の如くにして。白墨の粉、解かれざる数式の上に静かに降り積もる。
机は並べられしまま、かつて在りし生徒らを待てども、彼らは既に記憶の影となりぬ。黒板に残る文字、誰が手にて消されることもなし。
廊下に響きし足音、今は絶えて久し。教室の空気、時の流れに取り残されて淀む。
窓は閉ぢて
白墨の粉や
春の塵
解けぬ数式
誰を待つらむ
女の唇、言の葉の半ばにて閉ぢられぬ。未だ形を成さざる語、彼女と写真師との間なる静寂の中に溶け入りて、朝霧の如く消ゆ。
言葉は空中に留まりて、その重みを失へり。教室の埃立ちたる空気の中に、音なき音のみ漂ふ。女の喉に残りし振動、やがて沈黙の底へと沈みゆく。
かつて語られしこと――息子のこと、東京へ発ちし日のこと、残されし母の心――すべては今、言はれざる言葉の彼方に在り。
写真師は待てり。彼女が再び口を開くを、あるいは涙の一滴落つるを。されど女は動かず。その横顔、夕闇に浮かぶ古き肖像画の如し。
窓外には春の光、傾きて教室の床に長き影を投ぐ。二人の間の空間、見えざる深淵となりて横たはる。
言の葉の
途絶えし後の
静けさや
春の光も
影を深めぬ
沈黙は言葉よりも雄弁なりと人は言ふ。されど此の沈黙は、語るべきことの多きが故の沈黙にあらず。語り得ぬことの前に立ちて、言葉そのものの無力を知る沈黙なり。
女の目は虚空を見つむ。そこには何も無し。あるいは、あまりに多くのものありて、視線の焦点を結ぶこと能はざるか。
時は流れず、凍りたるが如し。教室の時計、その針の動きさへ疑はしく思はる。
写真師の指、宙に留まりて動かず。シャッターの上に翳されしまま、重き沈黙の中に凍りつく。指先に感ずるは金属の冷たさのみ。
此の瞬間を捉ふべきか、否か。彼は問ふ。されど答へは来たらず。女の横顔、夕光に浮かびて美しけれど、その美しさは撮るべきものにあらざるやも知れず。
何を写すべきか。途絶えし言葉か。閉ぢられし唇か。あるいは、言はれざりし想ひの重みそのものか。
カメラの重さ、腕に食ひ込む。指は震へず、されど押すこと能はず。
指先に
シャッター冷えて
春暮るる
写すべきもの
見えずなりけり
彼もまた、女と同じく、言葉なき者となりぬ。問ふべき言葉も、慰むべき言葉も、すべて喉の奥に沈みて出でず。
ただ指のみ、宙に浮かびて、決断の時を待てり。
影、床板の上を這ひ延びて、棄てられし机の下に溜まりゆく。二人とも動かず。灯を点すこともせず。
教室の闇、徐々に濃くなりて、物の輪郭を呑み始む。窓枠、黒板、積まれし椅子――すべて夕闇の中に沈みゆく。女の横顔も、写真師の佇まひも、やがて影と一つになりぬべし。
されど二人は立ち尽くせり。闇を拒むにあらず、さりとて受け入るるにもあらず。ただ、光の失せゆく速さに、時の流れを測るのみ。
灯を点さば、この時は終はらむ。闇に身を委ぬれば、問ひもまた消えなむ。故に二人は、薄明の中に留まりて、決断を先延ばしにす。
春の暮
灯も点さずに
二人ゐて
影と問ひとが
共に深まる
教室の闇、二人を包みて、世界を狭めてゆく。
空気、たそがれの色を帯びて、重く沈みゆく。かの逢魔が時――存在と不在との境の曖昧なる刻限なり。
青き薄闇、教室に満ちて、物と人との区別を失はしむ。女も写真師も、もはや影絵の如く、実体を持たぬもののやうに見ゆ。
この時刻にありては、すべてのものの輪郭、溶け崩れて、互ひに浸透し合ふ。在るものと無きものと、その間に立つ者と――三つながら、同じ青き闇の中に漂へり。
逢魔時
人も影も皆
青くして
在ると無しとの
境も失す
されど二人は、なほもこの曖昧なる時の中に立ち尽くせり。
外の世界にては、蝉の声、夕べの調べを奏で始む。時の刻みを告ぐれども、室内に在る二人の者は、これを認むることなし。
彼らは家什と等しく、動きを止めたり。
蝉時雨
刻を告ぐれど
聞く者なし
人も調度も
ひとしく黙す
女も写真師も、もはや生ける者にあらず。ただ静止せる物体の如く、この教室の一部と化したるなり。外なる生命の律動と、内なる停滞と――二つの世界、完全に断たれたり。
遠き山より、太鼓の音、微かに聞こゆ。女、その律動を聴くや、忽ち幼き日の記憶、心中に甦りたり。
これぞ盂蘭盆会の調べなり。祖母の導きし祭りの音なり。戦ひの影、未だこの地を覆はざりし頃、村人悉く集ひて、精霊を迎へし夜の響きなり。
提灯の灯、揺らめきて、祖母の白き衣、闇に浮かびたり。その手の動き、今も目に在り。太鼓を打つ音、地を震はせ、死者と生者との境を溶かしたり。女は祖母の袂を掴みて、その傍らに立ちしを憶ゆ。
盆太鼓
祖母の白衣や
闇に浮く
生者死者の
境溶けゆく
かの音、六十年の歳月を超えて、今この教室に届きたり。されど、その音色は、記憶の中なるものと些か異なれり。遠く、儚く、まるで夢の如し。
女の胸中に、問ひ起これり――あの祭りは、真に在りしや。祖母の姿は、真実なりしや。それとも、時の流れの中にて、心が創り出でたる幻影に過ぎざるや。
その時、息子、頭を上げたり。耳を澄まして、かの太鼓の音を捉へんとす。やがて、母なる女を見遣りたり。
その眼差しの内に宿るもの――女には読み取ること能はず。問ひか。理解か。それとも、ただ音を聴きしのみか。母と子、視線交はれども、言葉は生まれず。太鼓の音のみ、二人の間の空間を満たしたり。
女、遂に問ひを発したり。「汝、聞こゆるや」と。
されど、その声の届かぬ間に、息子は既に立ち上がりたり。教科書を閉ぢ、鞄に納め、筆箱を手に取る。その動作、一つ一つに、何か決意の如きものを帯びたり。
母の問ひに答ふることなく、ただ黙々と荷物を纏めゆく。太鼓の音は、依然として山より響き来たれども、息子の耳には届かざるが如し。或いは、聞こえども、それに心を留めざるか。
女、その背中を見つめたり。かの小さき背は、いつしか己が肩の高さに達したり。東京へ発つ日、近づきたり。この教室も、間もなく閉ぢられん。
問ひかけて
答へなき子の
背を見つむ
太鼓は遠く
時は流れゆく
息子の手、最後の鉛筆を掴みたり。その指先に、僅かなる震へを、女は認めたるやうな気がせり。されど、確かならず。
窓辺に立ちて、女は問ひを繰り返したり。「汝、聞こゆるや」と。されど、その言葉は空しく室内に漂ふのみ。息子は既に立ち上がり、机上の物を集めつつあり。
その動きに、何か急なる意志あり。教科書、ノート、筆記具——一つ一つを鞄に収めゆく手つきに、迷ひなし。まるで、母の声の届かぬ世界に既に身を置きたるが如し。
太鼓の音は、なほも山の彼方より響き来たれども、息子は顔を上げず。ただ黙々と支度を続くるのみ。その横顔に、女は見たり——もはや子供ならぬ者の、固き決意を。
問ひ声は
宙に消えゆき
子は立てり
荷を纏むる手に
明日を掴みて
かくて、母と子の間に、見えざる隔たりの生じたるを、女は悟りたり。
太鼓の音、次第に遠のきて、蝉の声のみ室内を満たし始めたり。されど、その日常の響きの中に、何か異なるものの宿りたるを、女は感じたり。
静寂は同じ静寂にあらず。空気の重さ、変はりたり。息子の立ち姿に、もはや問ひに答ふる気配なし。
蝉時雨
太鼓を消して
部屋変はる
母子の間に
裂け目の生まれ
音の移ろひと共に、二人を隔つる見えざる壁の、確かに築かれたるを、女は知りたり。
息子は一礼して、言葉を発することなく、戸口へと歩み行けり。問ひは今や二人の間に横たはる重荷となりて、共に担ふべきものとなりぬ。
母の視線、その背を追へども、声は喉に留まりたり。
一礼の
後の沈黙
重くして
問ひは宙に
浮きて動かず
扉に手をかけたる息子の肩に、六十年前の祭の太鼓の残響、まだ微かに震へをるが如し。されど彼は振り返ることなく、敷居を跨ぎたり。
女は徐々に立ち上がりぬ。長き時を座したる膝は強張りて、関節の軋む音、静寂の中に微かに響けり。数十年の習ひとなりたる所作にて、両の手を前垂に当て、皺を撫で伸ばす。その動き、意識せずとも身に染みたるものなり。
指先は布の襞を辿り、米糠の匂ひ、味噌の染みたる痕を確かむ。幾千の朝餉、幾千の夕餉を経て、この前垂は彼女の日々の証となりぬ。
立ち上がりし後も、暫し動かず。膝の痛み和らぐを待つにあらず。ただ、次に為すべきことの重みを、身に引き受くるが如き間なり。
息子の足音は既に遠く、玄関の戸の閉まりし音のみが、記憶の縁に残れり。
前垂の
皺を伸ばして
立つ母の
次の一歩は
定まりてをり
台所の隅に目を遣れば、朝餉の膳、まだ片付けられずに残れり。されど女はそちらへ向かはず。窓の外を見遣る。
夕闇は既に濃く、裏山の杉の梢、黒き影となりて空に溶け入らんとす。風なきに、何やら木々の囁く気配あり。
女の唇、僅かに動きぬ。
「社を見回らねばならぬ」
声は空しき部屋に落ちて、誰に告ぐるにもあらず、誰に弁ずるにもあらず。ただ為さねばならぬことの在ることを、言の葉として置くのみ。
女の声は低く、抑揚なし。問ひかくるにもあらず、答へを求むるにもあらず。長年独り言ふることに慣れたる者の、自らに言ひ聞かする調べなり。
部屋の空気、その言葉を受けて微かに震ふるが如し。されど応ふる者なし。柱時計の音のみが、規則正しく刻を刻めり。
かつては息子の返事ありき。「気をつけて」と。あるひは「一緒に行かう」と。今宵、その声なし。
誰も聞かぬ
言葉を部屋に
置きてゆく
社への道は
独り辿らむ
女は既に足を踏み出しつつあり。言葉は後に残り、彼女の身は次の動きへと移りゆく。
壁に掛けたる小さき提灯を、女は鉤より外せり。されど火を点ずることなし。冷えたる金属の柄を掌に握りて、ただ持つのみ。
何故に火を点ぜざるや。問ふ者なし。女自らも問はず。ただ暗きを暗きまま受け入れむとするが如く、その手は動かず。
敷居を跨ぐ。片足を外に置き、片足を内に残す。境の上に立ちて、一瞬、躊躇ふ。
提灯の硝子、僅かに外の闇を映す。火なき灯火を手に、女は完全なる暗黒へと踏み出さむとす。
火を点さぬ
提灯を手に
闇へ発つ
照らさぬ灯火
導きとせむ
身は既に外の世界に在り。内なる光を捨て、外なる暗きに身を委ぬ。
村の夜の闇、女を包めり。月なく、星も見えず。海より立ち昇りたる霧、海岸を覆ひて、天上の光を遮る。
濃き靄は冷たき布の如く肌に触れ、視界を奪ふ。前方三尺の先すら判然とせず。されど女は歩みを止めず。
海霧立ちて
月も星も
悉く消えたり
闇のみぞ在る
導き手として
世界は黒き虚無と化せり。上下左右の別なく、ただ暗黒のみ。その中を、火なき提灯を携へ、女は進み行く。
石段を踏む足音、次第に遠ざかりて、やがて霧の中に消ゆ。山腹の社へと続く道、女の影も見えずなりぬ。
振り返れば、家は闇に沈みて、ただ開け放たれたる戸口のみ、黒き口を開けたるが如し。
石段の
足音遠く
霧に消えて
開きし戸口
闇を待ちをり
家は静寂に包まれ、何の応ふる声もなし。待つ闇のみ、その内に満ちたり。
夜明けの光、色なくして縁側を照らす。写真師は身を縮めて臥せり。傍らには愛機の如く、眠れる猫の如く、カメラ横たはる。
漆塗りの盆の上、茶碗ひとつ。緑茶は半ば残りて、表面には塵の膜張れり。花粉か、灰か、判然とせず。
茶碗を手に取る。中の液体、冷たく、粘りて、尋常ならず。老婆これを運び来たりしか。記憶は水の指の間を漏るる如く、捉へ難し。
会話ありき。さう思ふ。留まれとの言葉。見届けよとの言葉。最後の一枚を撮れとの言葉。されど誰が語りしか。
朝霧や
記憶の中に
婆ひとり
縁側の板、冷えて湿りを帯ぶ。夜露か、それとも別の何ものか。写真師は茶碗を見つむ。液体の表面に己が顔映れども、歪みて判別し難し。
飲むべきか。飲まざるべきか。喉は渇けども、本能が警告を発す。これは茶にあらず。茶でありしものの残滓なるか。時の経過が変質せしめたるか。
盆の上、他に何もなし。菓子もなく、添へ物もなく。ただ茶碗ひとつのみ。待つ者の為の設へか、去りゆく者への餞か。
庭を見遣れば、朝靄の中に社の影ぼんやりと浮かぶ。昨夜見たる光景、夢か現か。
茶碗を唇に近づく。液体の冷たさ、唇に触るる前より既に感ぜらる。粘性あり。茶の如くさらさらと流れず、重く、濁りて、生命なきものの質感を帯ぶ。
口を付くること能はず。本能が拒む。これは飲み物にあらず。飲み物でありしものの成れの果てなるか。
老婆が運び来たりしか。記憶を手繰れども、靄の如く掴めず。確かに誰か居たり。縁側に座し、語らひたり。言葉ありき。
「留まれ」と。「見届けよ」と。「最後の一枚を撮れ」と。
声の主は誰ぞ。老婆か。それとも村そのものが語りしか。夜の闇の中、言葉のみが実体を持ちて、話者は影に過ぎざりしか。
冷えし茶は
誰が為に在りて
朝を待つ
写真師は茶碗を見つむ。表面に映る己が顔、歪みて、既に己にあらざる如し。飲むべからず。さう悟る。これは餞別なり。此岸より彼岸への、境界の印なり。
茶碗を置く。音なし。陶器と木との接触、本来ならば微かなる響きを生ずべきなれど、沈黙のみ。手は震へず。されど呼吸浅く、胸の内にて何かが警告を発す。
早朝の光、村を照らす。屋根瓦の一枚一枚まで明瞭に見ゆ。家々の間隙、それは偶然の空白にあらず。意図ありて設けられたる不在なり。配置に意味あり。何かを避くる為の、何かを通す為の、計算されたる虚空。
置きし茶碗
音なき朝に
境を知る
立ち上がる。関節が軋む。年齢の所為にあらず。此処に在ること自体が身体に負荷を掛く。カメラを手に取る。重し。昨日よりも、初めて此の村に来たりし日よりも、遥かに重し。
ファインダーを覗く。神社への参道。閉ざされたる商店。色褪せし時刻表を掲げたるバス停。全て在るべき場所に在り。全て僅かに狂へり。
参道を進む。足音のみが現実を証す。石段一段毎に、世界の質が変はる。密度が増す。空気が濃くなる。
神社の鳥居。朱は剥げ落ちたれど、形は保たる。潜る。背筋に冷気走る。
商店の硝子戸に己が姿映る。されど、映りたる顔は疲労のみにあらず。輪郭が滲む。境界が曖昧なり。
バス停に佇む。時刻表、文字は読めれど、日付の概念既に失はる。次のバス、来るべきか。来たりしことありしか。
狂ひたる世界
正しく在りて
我ぞ歪む
全てが定位置に在り。全てが拒絶す。
最初の家、戸は開け放たる。壊されしにあらず、招くが如し。内に入れば、蒲団整然と列を成し、枕は膨らみて、恰も一家の者、客を迎へんと準備を調へ、然る後、空気に溶けて消えしが如し。
消えし家族
蒲団のみ待つ
来ぬ客を
虚空に溶けて
形代残る
畳の上、塵一つなし。茶碗は伏せられ、箸は揃へらる。完璧なる不在。
彼の女、敷居を踏まずして通り過ぐ。影のみ落ちて、門を越ゆ。かつて此処に子らの声響きし所、今は静寂のみ。縁側に小さき草履の跡残れり。履く者なき靴、整然と並べらる。
母の声せし
夕餉の刻限
影のみが過ぐ
敷居に触れずに
形なき者として
三軒目の家、台所に鍋据ゑらる。中を覗けば、味噌汁の痕、鍋底に焦げ付きて、恰も調理の途中にて時間凍りしが如し。まな板の上、大根半ば切られたるまま。包丁の柄、母の手の形に窪みたり。幾年の歳月、同じ手がこれを握りしか。
彼の女の影、流し場を横切る。井戸端に、子供らの描きし絵、色褪せて壁に残る。「おかあさん」と拙き文字。誰が書きしか、今は問ふ者もなし。
裏庭に出づれば、物干し竿に子供の着物一枚。風に揺れて、袖振るは招くに似たり。されど招かるる者、この世にあらず。
草履の跡
縁に残りて
主は消えぬ
呼ぶ声絶えし
夕暮れの家
四軒目、五軒目。同じ光景の反復。開け放たれし戸口、整へられし室内、そして完全なる人の不在。彼の女は触れず、音立てず、ただ影となりて、失はれし日常の残滓の間を漂ふ。彼女の足跡、畳に印されず。彼女の吐息、空気を動かさず。在りて在らざる者の巡礼。
二軒目の家に至れば、座敷の卓袱台に茶碗四つ。位置に秩序あり。上座に大きなる碗、その傍らに少し小さきもの、向かひ側に子らの碗二つ。茶はとうに蒸発して、底に僅かなる茶渋の輪のみ残れり。されど配置の精密さよ。母の手が最後に触れし時、尚ほ家族の序列と愛情とを記憶せり。
父の座、母の座
子らの座も定まりて
茶は消えたれど
器に宿る
家族の形見
茶碗の縁、唇の触れし箇所、微かに磨耗せり。幾千の朝餉、幾千の団欒。彼の女の影、卓袱台の上を過ぎる時、茶碗は動かず。光のみが歪みて、一瞬、四つの座に人の姿ありしかと見ゆ。幻影か、記憶の残響か。次の瞬きには、再び空虚なる座敷。茶碗のみが、永遠に家族を待ち続く。
三軒目の家に入れば、座敷の隅に蒲団三組、折り畳まれて整然と積まれたり。縁は寸分の狂ひなく揃ひ、角は直角を保ちて、まるで定規にて測りしが如し。母の手の最後の仕事なりけむ。客を迎ふる心、尚ほ布地に宿れり。されど客は来たらず。呼びし者も、呼ばれし者も、共に消えたり。
蒲団畳む
母の手つきの
名残かな
客待つ座敷
主なき宿
彼の女、蒲団に手を触れむとすれば、布地微かに温かし。幻覚ならむか。いな、温もりは確かなり。昨夜まで人ありしかの如く。枕の窪み、僅かに残れり。頭の形を記憶する木綿。彼の女の指、その窪みをなぞる時、空気揺らぎて、一瞬、眠れる者の寝息聞こゆるかと思へり。次の瞬間、静寂。蒲団のみが、永遠に客人を待ち侘ぶ。
四軒目の玄関に、履物整然と並べり。小さき草履と大いなる下駄と、対を成して主を待つ。されど塵は積もらず。彼の女、床板に指を這はせども、埃一片だに付かず。足跡なき玄関、時の外に在るが如し。
履物の
対を成したる
玄関に
塵さへ積もらぬ
時の止まりて
彼の女、草履を手に取れば、鼻緒の擦れたる痕、明らかなり。子の足の形、革に刻まれて消えず。大いなる下駄には、踵の重みの跡。父の歩みの記憶なりけむ。履物のみが証人として残れり。人は消ゆれども、その痕跡は尚ほ形を保ちて、永遠に帰りを待ち侘ぶるなり。
社に最も近き家、無人の座敷に収音機の鳴り響けり。選局器は一つの局を指せども、既にその放送は絶えて久し。されど機械は尚ほ雑音を吐き続く。砂嵐の音のみが、虚ろなる部屋部屋を満たして、在りし日の声の不在を告ぐるなり。
雑音の
満つる座敷や
収音機
放送絶えて
虚空を語る
彼の女、耳を澄ませば、砂嵐の奥底に人の言葉の残滓を聴かむとす。されど聴こゆるは無のみ。選局器の埃を払へば、指紋の痕、くつきりと残れり。誰かが最後に此の局を選びしなり。不在の音を奏で続くる収音機、空虚なる部屋の番人として、永劫に雑音を紡ぎ出だすなり。
彼の女、草深き石段を登りゆく。一段一段、罅割れて傾ぎ、苔むして、寄進者の名を刻める文字も既に判じ難し。幾世代の前、此の地に栄えし者どもの名なれど、今は誰一人として記憶する者なし。
石段の
罅に苔生し
刻文字
寄進の名前
意味を失ひぬ
足を置く度に、石は微かに揺らぎて、草の根の侵蝕の深きを知らしむ。三十七段の石段、かつては参詣の者の列絶えざりしならむ。今は蓬と葛との領分となりて、女の足跡のみが、露に濡れたる草の葉を分かつなり。
段毎に刻まれし銘、「奉納」「講中」「安全祈願」の文字、苔と風化とに侵されて、もはや石の皺の如くなれり。女、指先にて苔を払へば、「大正九年」「昭和十二年」の年号現はる。寄進せし者ら、今は皆土に還りて、その名を継ぐ者もなし。
段を登る
草分け行けば
石の声
百年の名は
苔に埋もれて
最上段に至れば、息やや乱れ、振り返りて麓を望む。かつて此処より見えしは、家々の甍、田畑の緑、煙立つ煙突なりしか。今見ゆるは、蔓草に覆はれし廃屋の骸、朽ちし電柱、途絶えし道のみ。石段は尚ほ神域へと続けども、登る者なき参道は、ただ時の流れの証として、草に埋もれゆくを待つのみなり。
鳥居は尚ほ立てり。されど朱の色は悉く剝落して、焦げたる木肌、銀灰色に変じて、恰も流木の如く、恰も骨の如く、風雨に曝されたる姿を晒せり。火焔の痕、木理に沿ひて黒き筋となり、彩色の泡立ちし跡、触るれば粉となりて崩るるなり。
鳥居立つ
朱は剝がれて
焦げし木は
流木めきて
骨めきてをり
柱の根元、礎石との境に、焼け残りし朱の欠片、僅かに往時の色を留む。かつては鮮やかなる丹の色、参詣の者の目を惹きしならむ。今は灰と炭との門となりて、神域と俗界とを分かつ境は、ただ焼失の記憶を守るのみ。女、鳥居の下を潜る時、焦げし木の匂ひ、微かに鼻を衝く。火の記憶、木の中に未だ生きてをり。額束に掲げられし社号の板は落ちて、草の中に埋もれたり。
鳥居を過ぎて、社殿の跡に至れば、梁のみ天に向かひて立ち、骨組の如く空を切り取れり。屋根は崩れ落ちて、瓦は草むらに散乱し、壁といふ壁は悉く失せて、ただ礎石のみ方形に並び、かつて神聖なる空間の閉ぢ籠められし境界を示すのみ。
梁のみ残り
壁は失せたり
礎石の
方形のみが
聖域を示す
柱の影、地に落ちて、時刻を刻む日時計の如し。雨風を遮るものなく、月光も星光も直に射し込み、昼夜の別なく天と地との交はる場となれり。かつて暗がりに灯明の揺らめきし内陣も、今は野外の一部と化し、神の座ありし処、ただ空虚を抱くのみ。礎石の間より、蟻の列の通ひゆくを見る。
祭壇のありし処、今は野草の領分となりて、吉草草、薊など、思ひ思ひに生ひ茂り、蔓草は焼け残りし柱の根を這ひ登り、かつて神威の満ちたりし建築を、無心なる美しさもて覆ひゆく。自然は祈りの痕跡を知らず、ただ己が生を営むのみ。
薊の花
神の座を知らず
蔓這ひて
焼跡を緑に
還しゆくなり
されど、礎石の中央、平らなる石の上に置かれたるは、水を湛へし硝子の壜、白菊三輪、茎の切口鮮やかに、昨日か一昨日か、見えざる手によりて供へられしもの。
彼女は跪き、思ひしより久しく、硝子を透きて石面に散る光の戯れを見守る。屈折せる光条は、時の刻みと共に移ろひ、焼け焦げたる石の肌に、束の間の虹彩を描き出す。
光透きて
石に砕くる水の影
白菊の
茎の断面に
時は流れゆく
何ゆゑか立ち上がること能はず、ただ、見えざる供養者の残せし痕跡に、己が孤独ならざることの証を見出だすが如く。
膝を屈めしまま、彼女は動くこと能はず。光の移ろひは、ただ見守るべき儀式の如く、彼女を縛りて離さず。硝子の破片一つ一つが、異なる角度にて光を受け、石面に投ぐる影もまた、それぞれの物語を語るが如し。
時は止まりしに非ず。されど、この場所にては、時の流れは別の法則に従ふ。朝の光は正午の光とは異なり、午後の光は夕暮れの光へと、緩やかに、されど確実に姿を変へゆく。彼女の影もまた、石の上を這ひ、伸び、縮みて、見えざる時計の針の如く動く。
供へられし白菊は、既に枯れて久し。されど、茎の切り口は未だ鮮やかに、誰かの手の温もりを留めたるが如し。その誰かは、彼女と同じく、この場所に跪き、同じ光を見、同じ沈黙に包まれしならむ。
石に刻まる
名は読めねども
手を触るれば
温もり残れり
人の祈りの
彼女の指先は、石面の窪みを辿る。文字は風化して判然とせねど、刻みし者の意志は、なほ石の奥深くに宿る。幾人の者が、この石の前に跪きしか。幾つの祈りが、この空気に溶けて消えしか。
やがて、足の痺れを感じ始む。されど立ち上がることは、何やら裏切りの如く思はる。この光と、この石と、この沈黙とを、置き去りにすることの罪深さよ。
遂に彼女は立ち上がり、石の前を離る。足は痺れて覚束なけれど、歩みを進むるほかなし。
集会所の扉は、蝶番より傾きて、木材は幾十年の雨と潮風に膨れ歪みたり。押せば軋みて、抵抗するが如く、されど遂には開く。暗き内部より、黴と朽ちたる紙の匂ひ立ち昇る。
扉の軋みや
人の声絶えて
潮の音のみ
踏み入るれば、床きしみて応ふ。椅子は壁際に積み重ねられ、その上に、細かなる塵の層、厚く降り積もれり。窓より射し込む光の筋の中に、塵は舞ひ、まるで時そのものの粒子の如し。
奥の壁には暦の掛かれるを見る。昭和六十一年三月にて止まりたるまま。その紙片は脆く、今にも崩れむとす。蟲の翅の如く薄く、透けて、背後の壁の染みさへ透かし見ゆ。彼女は近づき、その日付を凝視す。三月。何の三月なりしか。誰がこの日を最後に、この暦を見しか。
空気は重く、動かず。
机一つ、窓辺に残る。その上に、死亡届出簿の開かれたるを見出だす。誰か今し方まで此処に在りしが如く、頁は開かれたるまま。
埃の中より
開かれし名簿
誰か去りしか
近寄りて覗けば、黄ばみたる紙面に、墨の色なほ濃く残れり。文字は楷書にて、丁寧に記されたり。名前、生年月日、死亡年月日。一行、また一行。村の者らの名の連なり行く様、まるで時の流れを書き留めたる如し。
頁を繰れば、次第に間隔広くなり行く。昭和四十年代には月に幾つもの記入あれど、五十年代に入りては年に数件のみ。そして六十年。六十一年。
最後の一行。
彼女の指、その名の上に止まる。老婆の名なり。昭和六十一年三月二十四日。その下、空白のみ。誰もこの後を記さず。誰も記し得ざりしなり。
老婆の名よ
最後の記録
村の果て
彼女、その文字を指先にて辿る。墨の跡、なほ鮮やかなれど、紙は脆く、触るれば崩れなむとす。昭和六十一年三月二十四日。その日より後、誰一人として此の名簿に記す者なし。
村の終はり、一つの名にて刻まれたり。彼女の指、その文字の上にて震ふ。石碑にて見し名なり。墓標に刻まれし、あの名なり。
空白の頁
時は此処にて
息絶えたり
彼女、その文字を指先にて辿る。墨の跡、なほ鮮やかなれど、紙は脆く、触るれば崩れなむとす。昭和六十一年三月二十四日。その日より後、誰一人として此の名簿に記す者なし。
村の終はり、一つの名にて刻まれたり。彼女の指、その文字の上にて震ふ。石碑にて見し名なり。墓標に刻まれし、あの名なり。
空白の頁
時は此処にて
息絶えたり
標柱は村の果てに立てり。鉄の柱、錆に蝕まれながらも、なほ直立して、何物をも守らざる番人の如し。塗料は剥げ落ち、地金の灰色、風雨に晒されて幾年月を経たるか。
彼女、その柱に近づく。足音、枯草を踏みて、乾きたる音を立つ。標識の面、傾きて、朝日を斜めに受く。文字は褪せたれども、読むべし。
錆びし標
立ちて守るは
虚空のみ
かつて此処に、人々集ひたり。朝な朝な、出勤の者、通学の子ら、町へ出づる老人たち。バスの来る時刻を待ちて、世間話に花咲かせし場所なりき。今は誰も来ず。待つ者なく、来る者なし。
標柱の根元、コンクリートの台座、罅割れて、其の隙間より草生ひ出づ。蓬、すぎな、名も知らぬ雑草ども、文明の残骸を覆はむとす。時刻表の枠、空しく残れども、紙片一つだに貼られず。
彼女の手、柱に触る。冷たき鉄の感触。指先に錆の粉、赤く付着す。まるで古き血の如し。
村境に
錆柱立ちて
時を刻む
来ぬバス待つ
亡霊の影
風、標柱を撫づ。金属の軋む音、低く唸る。彼女、その音に耳を傾く。何かを語らむとするが如き響きなれど、言葉にはならず。ただ風の声のみ。
標識の裏側に廻れば、時刻表の残骸見ゆ。プラスチックの保護板、割れて、中の紙、黄ばみて判読し難し。最終便の時刻、辛うじて読み取らる。午後五時十五分。
彼女、歩みを緩めて、標識の面を凝視す。文字、風雨に晒されて色褪せたれども、なほ読むべし。「運行終了」と。四角き文字、冷たく、動かすべからざる宣告の如し。
終はりたる
運行の文字
朽ちもせず
誰に告ぐるや
無人の里に
誰もが知る事実なり。村人は皆、承知せり。されど、其の文字を目の当たりにする時、改めて現実の重さ、胸に迫り来たる。
彼女の視線、下方に移る。日付の刻印、小さく記されたり。其の数字を認めたる瞬間、息、喉に詰まる。四十年前。最終便の出でし日より、既に四十年の歳月流れたり。
外界との最後の糸、此処にて断たれしなり。バス路線の廃止は、村の死の宣告に等しかりき。以来、此の地は時の流れより取り残され、ただ静かに朽ち果つるを待つのみ。
四十年
過ぎし日付や
錆標に
世界との縁
絶えし証
彼女、標柱の前に立ち尽くす。
標柱の下部、色褪せたる時刻表、掌にて触るれば、紙の質感既に失せ、木の表面と一体化せり。町々の名、かすかに読み取るべし。されど、其の地名すら、今は記憶の彼方に霞みて、実在せし場所なりしや、夢に見し幻なりしや、判然とせず。
時刻表
町の名遠く
霞みたり
誰を待ちしや
朝の始発は
六時二十分発。九時四十五分発。最終は十七時三十分。整然と並びたる数字、今は虚しき記号に過ぎず。乗客の来たらざる停留所にて、バスを待ちし者ありしや。彼女の記憶にも、其の光景、既に無し。
指先、時刻表の面を辿る。冷たき感触のみ、掌に残る。
日光に曝されたる時刻表の下層、指先にて探れば、町々への路線図、朧げなり。其の地名、辛うじて記憶の底に残れども、既に実体を失いたる響きのみ。出発時刻、整然と記されたれども、乗客の姿、遂に現れざりき。
路線図に
町の名残る
影ばかり
誰も乗らざる
バスを待ちしや
彼女の指、褪せたる文字の上を彷徨う。発車を告ぐる数字、今は空しき痕跡となりて、来たらざる者等の不在を証すのみ。
四十年の歳月を経て、標識は尚も此処に立ちたり。待つという行為、既に埋められたる者等を甦らせ得るが如く。錆びたる金属に刻まれし文字は、時の無情を語れども、撤去されることなく、朽ちゆくに任せられたり。
四十年の
標識残る
停留所
埋もれし者を
待ち続けしや
待つことの虚しさ、此の地に染み入りたり。蘇生への期待は、とうに潰えたるを知りながら、標識は黙して佇む。
写真師の脚、意識の外にありて、おのづから縁側へと向かひけり。胸に懸けたる函、第二の心臓の如く重く、鼓動を打つかと思はる。されど彼の心は既に此処に在らず。あの舞の幻影、暗室の赤き光の中に浮かびし女の姿、そは果たして生ける者の像なりしや、はた亡き者の残像なりしや。
足音すらも聞こえず、ただ夕闇の迫り来る気配のみ。庭の石燈籠、既に影と化し、池の面に映る空は深き藍色に沈みゆく。
函を抱きて
戻り来たれば
影ひとつ
生と死の間に
座して待つらむ
彼は立ち止まりぬ。縁側の手前にて、何やらむ畏れを覚えたり。それは恐怖に非ず、畏敬に非ず、ただ名状し難き感覚なり。彼女は必ずや彼処に在るべしと知りながら、その確信こそが却つて不安を呼び起こす。
一歩、また一歩。木の床軋る音、此の世のものとも思はれず。
やがて見ゆ。女の後ろ姿。障子の前に、まさしく先刻の位置に。いや、もしや動きしことなかりしか。時は流れしや、止まりしや。写真師の不在の間、彼女は呼吸せしや、瞬きせしや。
彼の影、縁側に差しかかる時、女は微動だにせず。されど彼は知る。彼女は彼の帰りを知れりと。待ちゐたりと。
函の中の硝子板に、舞ふ女の像、封じ込められたり。
彼女は座せり。先刻と寸分違はぬ位置に。背筋を伸ばし、両の手を膝の上に重ね、障子を背にして。その姿、まるで絵巻物より抜け出でし如く、完璧なる静止を保てり。
いや、もしや動きしことなかりしか。
写真師の心に疑念湧く。彼が暗室に籠もりし間、彼女は果たして呼吸せしや。瞬きせしや。茶を啜りしや。それとも、時の流れは彼女を素通りし、彼女のみこの縁側に取り残されしか。
障子の向かうより、薄闇迫り来たり。彼女の輪郭、次第に曖昧となりゆく。光と影の境界にて、彼女は存在と不在の狭間に在り。
動かざるもの
影か人か
夕闇に
障子の前の
形のみあり
写真師は息を呑む。彼女の後ろ姿を見つむるに、何か言葉を発すべきかと思へど、喉は乾き、声は出でず。問ふべきことは多けれど、全ては舌の上にて溶けて消ゆ。
問はまほしきことあり。幾許の時を此処に待ちゐたまひしか、と。されど言の葉は舌の上に生まれ出づるや否や、露の如く消え失せぬ。喉より音を成すこと能はず。
此の縁側には、時の流れ異なれり。淀み、溜まり、動かず。彼方の世界にては日は傾き、影は伸び、人々は夕餉の支度に忙しなからむ。されど此処にては、時は水溜まりの如く、深く静かに沈殿せり。
写真師は己が懐中時計に手を遣らむとす。されど躊躇ひて止む。針の音すら、此の場の静寂を乱すを恐るればなり。
淀む時や
問ひは舌先
溶けて消ゆ
彼女は依然として動かず。その背中は答を拒み、沈黙を纏へり。
女はゆるやかに首を傾けたり。薄暮の光の中、その面影は揺らぎ、幾重にも重なりて見ゆ。幼き少女の面、老いたる媼の皺、母の慈しみ——すべて一時に顕れ、また消えゆく。
面変はり
薄暮に重なる
影幾つ
写真師は息を呑む。一つの顔の内に、数多の時が折り重なりて在るを見たり。彼女は誰なりや。否、彼女たちは誰なりや。
写真師は最後に一度、硝子窓を覗き込みたり。されど彼女の顔は見えず。ただ幾十の顔、幾代もの顔、透ける絹の如く重なりて在り。祖母、母、娘、孫——すべて同じ憂いを湛えたる面差しなり。
硝子に映る
代々の面影
絹重ね
忍ぶ哀しみの
色は変はらず
彼は思わず息を止めたり。レンズは人の目に見えざるものを捉えたるか。時の層、血の繋がり、終わりなき待ちの相——すべて一枚の硝子板の上に刻まれたり。
写真師は手を震わせながら、カメラを下ろしたり。硝子板は未だ温かく、掌に脈打つが如し。彼は女の方を見上げたり——彼女は変わらず其処に立ちたり。されど彼の内に何かが変わりぬ。レンズの見たるもの、彼の目には留まらざりしもの、今や彼の胸に重く沈みたり。
見しものは
目には映らねど
心の奥
刻まれて消えぬ
影の真なり
彼は己が手を見つめたり。これらの手は何を捉えたるか。光か、幻か、それとも時の襞に隠されたる真実か。女は動かず、されど彼女の周りの空気は震えたり。まるで無数の息吹が彼女を包みて、見えざる衣を織りなすが如し。
写真師は口を開かんとせしも、言葉は喉に留まりたり。問うべきことは多けれど、問う術を知らず。彼女は——否、彼女たちは——既に答えを示したり。カメラの目を通して、彼は垣間見たり。一人の女にあらず、幾世代もの女たちの姿を。待つ者たちの、忘れられし者たちの、名も無き者たちの相を。
レンズ越しに
捉えしは人か
それとも
時の重なりの
儚き残像
彼の指先は未だ震えたり。されど恐れにあらず。畏れなり。彼は知りぬ——己が捉えたるものは、単なる像にあらず。魂の痕跡、記憶の地層、此の地に刻まれたる無言の物語なりと。
「汝、今は知りぬ」と女は言いたり。その声は一つにあらず、幾千の声の重なりなり。喉より発するにあらず、大地の底より湧き上がる如き響きなり。村の古き井戸の、深き水の音の如く。祖母たちの、その又祖母たちの、名を呼ばれることなく土に還りし者たちの、声なき声の集いなり。
幾千代の
声は一つに
溶け合いて
大地の底より
今ぞ響かん
空気は震え、言葉は重さを持ちて写真師の胸に沈みたり。彼女は動かねど、その声は波紋の如く広がりゆく。石に刻まれし文字の、風化せども消えぬが如く。彼は悟りぬ——これは一人の女の声にあらず。此の地に生き、此の地に死し、此の地に忘れられし者たちの、共なる叫びなりと。されど叫びにあらず。囁きなり。永劫の囁きなり。
彼の魂は震えたり。言葉を超えたる理解の、身を貫くを覚えたり。
彼は口を開かんとせり。問わんとせり——「何を我は見しや」と。されど言葉は形を成す前に霧散したり。唇は動けども、音は生まれず。喉は声を求むれども、声は既に彼の内に在りて、外に出づる要なし。問いは答えの内に溶け、答えは問いの内に消ゆ。
言の葉は
形成す前に
霧と消えて
問いと答えと
一つに溶けぬ
何故ならば、彼は既に知れるなり。言葉を介さぬ知なり。頭脳にあらず、骨に刻まれし理解なり。血潮に流るる記憶なり。彼が見しものは、言語の及ばぬ領域に在り。されば言葉は不要なり。彼の沈黙こそが、最も雄弁なる応答なりき。魂が魂に語りかくる時、口は閉ざされるものなり。
女の顔は村の顔なり。此の小径を踏みし祖先ら、此の野に遊びし童子ら、此の土に還りし魂ら、悉く彼女の相貌に宿れり。和紙に透かし見ゆる水紋の如く、幾重にも重なりて在り。一つの顔に千の顔あり。一つの眸に千の眸あり。
幾代の
面影重ね
透く如く
一つの顔に
村の全て宿る
彼女は個にあらず。彼女は全なり。生者と死者との境界、彼女の内に於いて消失せり。
女、僅かに首を傾けたり。その刹那、彼女の相貌に変化生ず。憐憫とも慈悲とも名づくべき何ものか、静かに浮かび来たれり。新たなる視力を得し者の重荷を、彼女は知れるが如し。見ゆる眼を持つことの苦しみ、忘却より覚めし者の孤独、悉く理解せるかの如き眼差しなり。
首傾け
憐れみ宿す
その眸に
見ゆる眼持つ
重荷を知れり
彼女の表情は語らず、されど全てを伝えたり。
女の言の葉、二人の間に漂へり。問ひにあらず、また陳述にもあらず。されど更に古きもの——記憶の辺縁に在る者どもの間にのみ通ふ、認識といふべきものなり。
言の葉は
問ひにあらねど
通ふなり
忘却の淵
彷徨ふ者に
沈黙、長く続けり。されど其の静寂は空虚ならず。満ちたるものなり。二人の間に横たはる理解は、言語の彼方に存す。生と死の境界、記憶と忘却の狭間、現と幻の交はる処——かかる場所に住まふ者のみ知る、無言の契りなり。
写真師、己が抱へし硝子の眼の重さを、今や異なる心地にて感ぜり。彼の機械が捉へしものは、常に己が肉眼の見得しものより真実なりしことを、漸く悟れり。彼は長き年月、己が視力を信じ、機械を道具と思ひしなり。されど真実は逆なりき。
硝子の眼
真を映して
人の眼の
見得ぬ世界を
示し続けき
レンズは初めより、真の村を彼に示し来たれり。消えゆく者ども、薄れゆく家々、時の流れに抗ふ能はざる儚き存在の全て。彼の眼は見ることを拒みしが、機械は誠実なりき。今、彼は理解せり。己が撮影し来たりし無数の画像は、記録にあらず。証言なりしことを。此の村の、此の世界の、そして己自身の。
彼の心に、過ぎし日々の撮影の記憶、次々と蘇り来たれり。黄昏時の無人の街路。目的を持ちて動きし影ども。そして最も奇しきは、現像されし印画紙の上にのみ現れし顔々なりき。ファインダーを覗きし時には、決して其処に在らざりし者ども。
覗く時は
影のみにして
現像に
顔の浮かび来
証人として
彼は思ひ起こせり。己が最初に不審を抱きし時を。印画紙の上の像と、己が記憶との間の、微かなる齟齬。初めは己が注意力の欠如と思ひき。されど回を重ぬる毎に、其の差異は明らかとなれり。カメラは常に、彼の見得ざりしものを捉へ居たり。窓辺に佇む人影。路地の奥に消えゆく後ろ姿。祭の夜、提灯の灯に照らされし、透けたる如き群衆。全ては硝子の眼のみが知りし、真実の村の相なりき。
彼は思へり。此の村にて撮りし写真の全てを。人影なき黄昏の街路。意志を持ちて動きし影ども。そして、現像されし後にのみ現れし顔々。ファインダーを覗きし時には、決して其処に在らざりしもの。
硝子の眼
見し真実を
人の目は
捉へ得ずして
ただ影を追ふ
カメラは記録せり。彼の見得ざりし世界を。祭の夜、提灯の下を行き交ふ、半ば透けたる人々。昼の市場に佇む、輪郭の曖昧なる老婆。そして神社の石段に腰掛けし、此の世ならぬ笑みを浮かべし子供ら。印画紙の上にのみ存在する、もう一つの黄昏村。彼は今、理解し始めたり。己が記録し来たりしは、生者の村に重なりし、別の層なりしことを。
「知らず」と彼は囁けり。声は殆ど聞こえざる程に。そして悟れり。これぞ黄昏村に来たりて以来、初めて己が口より出でし、偽りなき答へなることを。
知ると言ふ
その虚しさよ
黄昏に
真実は影
影こそ真か
不確かなる言葉は、静寂の中に溶けゆけり。されど其の曖昧さこそが、この村に於いては、最も誠実なる応答なるやも知れず。彼は己が無知を認めし瞬間、何かが解き放たれしを感じたり。
女は緩やかに頷けり。恰も此の不確かさこそが、一つの答へなるが如く。存在と記憶とが互ひに解き放たれし此の地に於いては、或いは唯一つの真なる答へなるやも知れず。
不確かさを
受け入るる時
魂は解け
縛られし問ひ
意味を失ひぬ
彼女の静かなる肯定は、言葉なくして語れり。疑ひと確信との境界の消え失せし場所にては、曖昧さのみが誠実なる応答たり得るを。
写真師は己が機を掲げたり。手に馴染みし重みは、今や見知らぬものと化せり。恰も此の器具自体が、確かさの溶け失する此の地の性質を吸ひ込みたるが如し。金属と硝子とより成る道具は、彼女の掌の内にて脈打つが如く感ぜらる。
手に馴染みし
器具は異質と
なりにけり
確かさ溶くる
地の気を孕みて
レンズを通して見る時、世界は変容せり。彼女は幾千もの瞬間を此の眼鏡を通して捉へ来たれど、今此の時、視野の中に映る像は、何か根本的に異なれるものなり。機械の眼と人の眼との間に、奇妙なる隔たりの生じたるを覚ゆ。
シャッターを切る指は躊躇へり。此の行為――光を捉へ、時を固定し、記憶を物質化せんとする試み――は、果たして此の場所に於いて可能なるや。消え行くものを留めんとする術は、消失こそが本質なる領域にては、無意味なる抵抗に過ぎざるやも知れず。
されど彼女は構へを保てり。カメラの重みは今や、単なる物理的重量に非ず。それは責任の重み、証人たらんとする意志の重みなり。記録する者として、見届くる者として、彼女は此の奇妙なる変容を受け入れつつあり。
機械の眼に
映るは真実か
幻影か
境界曖昧に
揺らぐ像かな
ファインダーの内に、女の顔は顕はれたり。されど其の現前は、奇妙なる遠さを伴へり。彼女は確かに此処に在り、されど同時に、触れ得ざる彼方に在るが如し。主体と不在との狭間、存在と消失との境界に於いて、其の面影は揺蕩へり。
視野の中心に捉へられし顔は、鮮明にして曖昧なり。目鼻立ちは判然とすれど、其の奥に潜む本質は霧の如く掴み難し。写真師は焦点を合はせんと試むれど、ピントの環を回す度に、女の姿は一層遠退くが如く感ぜらる。
近くて遠き
被写体の顔
ファインダーに
在りて不在の
境を彷徨ふ
距離は僅か数歩に過ぎざれど、レンズ越しに見る時、其は測り知れぬ深淵と化せり。機械の眼が捉ふるは、物理的形象のみならず、存在の不確かさ其のものなり。女は写真師の視線を受けて、静かに佇めり。
レンズの奥より、女の眼差しは写真師を貫けり。其は懇願に非ず、要求に非ず。唯、問ひの重みのみを湛へたり。幾度となく発せられ、幾度となく忘却の淵に沈みし問ひ――其の残響が、今此の瞬間に凝縮せり。
声無き問ひかけは、硝子の如き透明さを以て、二人の間の空間を満たせり。写真師は息を呑めり。此の眼差しの内に、無数の過去が折り重なるを感ぜり。問はれし者たちの面影、答へられざりし言葉の数々。
問ひを宿す
瞳の奥に
幾千の
忘れられたる
刻の影見ゆ
女の表情は凪ぎたる水面の如く静謐なれど、其の深層には、反復されし問ひの痕跡、累積せし記憶の断片が、層を成して沈殿せり。
問ひは霧の如く、二人の間に漂へり。写真師は答ふる術を知らず。記憶そのものが此の里に於いて保ち得ぬものを、如何にして約し得むや。唇は動けども、言葉は生まれず。唯、沈黙のみが誠実なる応答なりき。
答へ得ぬまま
霧に溶けゆく
問ひの声
記憶も約も
此の里は拒む
彼女は悟れり。カメラに収めむとする刹那すらも、既に消失の過程に在ることを。されど指は、静かにシャッターの上に置かれたり。
指先はシャッターの上に触れたり。押し下ぐる力は羽毛の如く軽けれども、其の意味は重し。記録せむとする行為と、赦しを乞ふ祈りと、二つながら一つの動作に宿りぬ。消えゆくものを捉へむとする矛盾を、彼女は身に負ひたり。
指に宿る
記録と詫びと
一つにて
消ゆるを撮らむ
矛盾を抱き
レンズは光を集め、時は凝結せり。されど既に、其の瞬間は過去へと流れ始めたり。優しさは残酷なり—留めむとする程に、失はるる事実を際立たせければ。
シャッター切れたり—音は小さき骨の折るる如く、神域の静寂の中に親しく、また終局的に響きぬ。其の音は空気を裂き、世界を二つに分かちたり。音以前の世界と、音以後の世界と。彼女の指は尚ほ釦の上に留まれども、行為は既に完遂せられたり。取り返しの付かぬ事の成就せり。
音の後に
世界は裂けて
二つとなり
戻らぬ瞬間
指に残れり
機械の内部にて、鏡は跳ね上がり、光は感光面を打ちたり。化学反応は始まりぬ。銀の粒子は変容し、見えざる像を己が身に刻みつつあり。此の過程に神秘宿る—目に見えぬものが、やがて現れ出でむとする逆説よ。
彼女は息を潜めて待てり。舞ひ手の姿は尚ほ彼方に在り。動きは続きたれども、一つの瞬間は既に切り取られ、時の流れより引き離されたり。其の瞬間は今や、機械の暗き腹の中に囚はれて、永遠と刹那との間に宙吊りにされたり。
カメラを構へたる彼女の腕は微かに震へたり。重みに非ず—責めの重さなり。美しきものを固定せむとする暴力を、彼女は知りたり。されど止むる能はず。記録する事は、愛する事の一形態なりと信ぜむとすれども、心の奥底にて疑ひは囁く。汝は簒奪者なりと。汝は時の盗人なりと。
骨折れる
音に封じ込め
刹那をば
永遠として
簒ふ罪よ
神域の空気は再び静まり返りぬ。されど何かが変はりたり。
光は女を貫きて流れたり。水の篩を通り抜くるが如く、抵抗なく、容赦なく。彼女の肉体は在りて在らず。固体にして同時に透過性を帯び、二つの状態の間に引き裂かれたる存在なり。
レンズを通して見る時、写真家は戦慄せり。舞ひ手の輪郭は明瞭なれども、其の内部には光が満ち溢れ、臓腑も骨も溶け去りたるが如し。彼女は人の形を保ちたれども、中身は光のみ。空洞なり。或いは—空洞ならぬ何か、言葉なきものにて満たされたる器なり。
光満ちて
肉体透けゆく
舞の中
在りて在らぬ
境を踏めり
此の逆説を、カメラは冷徹に記録す。女は固体なり、さりながら光は彼女を素通りす。彼女は存在す、さりながら其の存在の核心は空虚なり。生ける者と、既に彼方へ渡りし者との、中間に立てる姿よ。
写真家の指は震へて、ファインダーより目を離す能はず。
舞ひ手の身体は動きを続くれども、写真の捉ふるは別のものなり。粒子と粒子との間なる空隙、彼女の形を保ちたる虚無そのものなり。
カメラは嘘を吐かず。人の目の見得ざるものを、機械の眼は冷酷に映し出す。舞ひ手の身体を構成するは、肉にあらず、骨にあらず。寧ろ、其の間に横たはる無数の空白なり。存在と非存在との境界線、其処に彼女は立てり。
粒子の間
虚空が形を
保ちをり
不在こそが
彼女を成せり
写真に定着せらるるは、動きにあらず。彼女を彼女たらしむる空虚なり。形ありて実体なく、輪郭ありて中身なし。光は其の隙間を見出だし、躊躇ひなく通過す。
ファインダー越しに、写真家は真実を見たり。女は不在にて織られたる存在なりと。
ファインダーの内に、写真家の肉眼の見得ざる真相顕はる。女の身は不在にて編まれたり。肉あるべき処を光は素通りし、存在の証左を残さず。
機械の眼は
人の盲ひたる
真を映す
彼女は光の
透きゆく器
裸眼にては捉へ難き現象なり。されど硝子のレンズは冷徹に記録す。舞ひ手の形骸は、実体なき影の如し。光子は躊躇なく彼女を貫き、其の向かう側へと抜けゆく。肉体ありと見ゆれども、実は空洞の集積に過ぎず。
感光剤の上に、像は焼き付けられたり。幽かなる痕跡、既に此岸と彼岸の境を越えし者の残像なるか。フィルムは証人となりて、存在と記憶の狭間に佇む姿を封じ込む。彼女は写りたれども、果たして其処に在りしや。
銀塩の膜に
刻まれし影は
誰が姿ぞ
現と追憶の
際を彷徨ふ魂
定着液の中にて、映像は永遠に固定さる。されど其は生ける者の記録にあらず。既に閾を跨ぎし者の、最後の残響なるべし。
写真は封筒より出でぬ。黄ばみたる紙の中より、薬品の香の鋭きまま、縁の硬き銀板の如き像どもぞ現れける。一枚一枚、手に取れば、問ひの形をなせども、文法を持たぬ言葉の如くにて、答ふる術なし。
影の村や
問ひのみ残る
銀の面
東京の暗室にて現像されしこれらの像は、何をか語らむとするや。されど語るべき口なく、ただ光と影との戯れのみぞ、紙の上に定着せられたる。
手に持てば、指先に冷たき感触あり。化学の匂ひは鼻腔を刺す。これは確かに物質なり。されど、そこに写り込みたるものは、もはや物質の領域を超えたるものならむか。
一枚目。二枚目。三枚目。めくる度に、問ひは深まりゆく。何故にこの村は撮られしか。何故に彼の女は、かかる記録を残さむと欲せしか。レンズを通して見たる世界は、肉眼にて見し世界と同じものなりしや。
されど写真は黙して答へず。ただ次なる像への導きとして、そこに在るのみ。封筒の底には、まだ数多の問ひが眠れり。
化学の香は、やがて部屋に満ちゆく。その香に混じりて、遠き村の匂ひをも感ずる心地す。土の匂ひ、草の匂ひ、そして何か、名状し難き、時の積もりたる匂ひ。
問ひは問ひを呼び、像は像を求む。答へなき対話の始まりなり。
一枚一枚、机上に並べゆく。銀塩の結晶の中に封じ込められたる村の姿、そこに顕はる。
屋根は己が重みに耐へかねて、内へ内へと沈みゆく。かつては人の住みし証なりしものも、今は崩壊の途上にあり。蔦は這ひ登り、戸口といふ戸口を己が領分となせり。緑の指は容赦なく、人の世の境界を侵しゆく。
沈黙は、ただの音なき状態にあらず。それは質量を持ち、密度を持ち、手にて触るるが如き存在感を以て、村全体を覆ひたり。写真の中の空気さへもが、重く、動かず、凝固せるが如し。
銀の粒に
封じられたる
村の骸
フレームからフレームへ。彼は東京の部屋にて、それらを机上に広げ、建物と建物との間の影を凝視す。そこに彼の女の姿を求めむとすれども、見出だすは不在のみ。影は影として在り、人の形を成さず。
されど探すことを止めず。次の一枚へ、また次の一枚へ。
机上に広げられたる写真の海。彼は一枚一枚を手に取り、建物と建物との間なる闇を凝視す。そこに彼女の姿の断片を、衣の端を、髪の流れを、求めむとす。
されど見出だすは虚無のみ。
影は影として完結し、人の形に変ずることなし。壁に映りたる木々の影、崩れたる軒の影、草の影。それらは皆、ただ光の不在を示すのみにて、彼女の不在を語らず。
彼の指は次の写真へ、また次へと移りゆく。探索は執拗なり。東京の夜は更けゆけども、彼は止まず。机上の銀の世界にて、彼は亡霊を追ふ。
影ばかり
人の形は
何処にも無し
写真は黙し
答へを知らず
一枚の写真、村の広場を捉へたり。光の質より見るに夕刻ならむ。されど時刻を示すものは光のみにあらず。その重さ、その傾き、その憂ひを帯びたる色合ひこそが、一日の終はりを物語る。
広場は草に覆はれ、手入れの跡なく、人の営みの痕跡すべて失せたり。石畳は見えず、井戸の縁も埋もれ、かつて子らの遊びし場所は今や荒野と化せり。
夕光重く
広場は草に沈み
人去りて久し
石も道も見えず
村は黙して眠る
然れども最後の一枚、説明し難き光景を示せり。社の石段は掃き清められ、菊の花新しく供へられたり。風雨に晒されたる古木に対し、花弁は鮮やかなる色を保ち、数日を経たるのみにして、数週にあらず。
誰か来たりしや。誰か手向けしや。村に人影なきを確かめたる後の写真なれば、この清浄なる有様、理に適はず。
石段清し
菊は色褪せず
社は在らねど
供花は語らず
誰そ祈りし
写真は机上に散らばりて、不可能なる物語を語れり。一枚また一枚、社の不在を証したれども、掃き清められたる石段と供へられたる花は、その存在を否み難く示せり。
彼女は手を止めて、写真を並べ直せり。時系列に従ひて配すれば、矛盾は一層明らかとなりぬ。午前十時、社の礎石のみ残れり。十時半、同じ場所、同じ角度。されど石段は塵一つなく、菊の花は供物台に整然と置かれたり。
供物台とて、前の写真には影だに見えざりしものなり。
彼女は電子記録を開きて確かむ。メタデータは冷徹なる真実を告ぐ。時刻印、GPS座標、露出値、全て合致せり。己が目の記憶と、カメラの記録と、両者の間に横たはる深淵よ。
レンズは嘘つかず
されど写すは
目に見えぬもの
真実二つ
いづれか我がもの
彼女は最も鮮明なる一枚を手に取りぬ。花弁の縁、朝露の痕跡さへ見ゆ。顕微鏡的精密さにて記録されたる、存在せざるべき光景。科学は説明を拒み、理性は沈黙を守れり。
写真機は忠実なる証人なり。人の目の曖昧さに惑はされず、光の真実のみを刻む。ならば此の画像に映れるは、彼女が見ざりしものか。それとも、見ることを許されざりしものか。
問ひは深まれども、答へは写真の中に沈黙して在るのみ。
彼女は再び記録を精査せり。時刻印は秒単位にて刻まれ、位置情報は緯度経度を小数点以下六桁まで示せり。カメラの内部時計、衛星との交信、全ての数値は彼女の記憶と寸分違はず一致せり。
されど映れるものは別世界の如し。
一枚目、十時三十二分十八秒。荒れたる石段、蔦に覆はれて、頂に何の影もなし。二枚目、十時三十二分二十三秒。同じ石段、されど清められ、白き菊花は丁寧に供へられたり。木製の台座、朱の痕跡、職人の手になる細工——全て、五秒前には無かりしもの。
データは矛盾せず
目と機械と
別の真を見き
いづれが虚か
光のみぞ知る
彼女は画面を拡大せり。花弁の一枚一枚、露の雫まで鮮明なり。これは合成にあらず、加工の痕跡なし。カメラは忠実に記録せり——彼女の見ざりし現実を。或いは、彼女の見ることを拒まれたる真実を。
機械の目は人の盲を映し出せり。
一枚の画像には、草木に埋もれたる石段のみ。頂上には虚空、何物も存在せず。次の画像、僅か数秒の後に撮られしものには、白き菊花の整然と配されたるを見る。木製の台座に対し、練達の手つきにて供へられたり。その木材——本来存在すべからざるもの。
石段に
菊の白さよ
数秒の
隔たりに生まれし
神の座かも
彼女の指は画面を撫でり。花の配置、茎の角度、全てに人の意図あり。されど人影なし。台座の木目は風雨に晒されし如く古びたれど、五秒前の虚無より如何にして現れしや。時間は順序を保ちながら、因果は断たれたり。
女は幾度も幾度も同じ画像に立ち返りぬ。光の戯れか、二重の露光か、理性の求むる説明を探りて。されど答へは現れず。指先は画面を繰り返し辿る。影の角度、花弁の質感、全てを検証すれども、欺瞞の痕跡なし。
写真の中
現実は在りて
説明は
虚空に消えゆく
理の届かぬ地
カメラの記録は正直なり。時刻の刻印、連続せる番号、全て順序を証す。されど順序ある時に、原因なき結果の顕現す。彼女の目は疲れを知らず、真実と不可能との境界を見極めんと凝視し続けたり。
何者か、或いは何物かが、写真の中にのみ存在する社に仕へり。供物を捧げ、花を手向く。その花々は、在りしものと目撃されしものとの狭間に咲き誇る。
写真に映る
新しき花の
色香かな
実在と虚との
境に揺らめく
彼女は問ふ。誰が、何の目的にて、この見えざる社を守るや。花は枯れず、香は絶えず。されど人影なく、足跡もなし。ただ供物のみが、時の流れを超えて更新され続けたり。
工房の内、彼女は音声の記録を取り出し、社を訪ねし折の音のみを選り分けたり。耳当てを強く押し当て、雑音の海に沈みゆく。
静寂と喧騒との間に、何かが潜めり。風の音、木々の囁き、そして——鐘の音。
幾重にも重なる雑音を剥ぎ取りて、彼女は音の本質を探る。波形は画面に踊り、時間の経過を視覚化す。されど耳に届くは、整然たる秩序なき混沌のみ。
耳当ての中
雑音の奥に
潜むもの
規則正しき
鐘の音ぞ聞く
彼女は息を呑む。この音——あまりに明瞭なり、あまりに律動的なり。風鈴の偶然にあらず。風の悪戯にもあらず。
音声を繰り返し再生す。一度、二度、三度。鐘の音は変はらず、一定の間隔を保ちて響き渡る。背景の雑音——白き騒音の層——は揺らぎ、歪み、時に途切れども、鐘の音のみは途絶えず。
彼女は波形を拡大す。音の谷間に、人の声に似たる何かが見ゆ。言葉にあらず、旋律にもあらず。ただ、呼吸の如き、生命の気配。
耳当てを外し、彼女は工房の静寂に身を置く。されど耳の奥には、なほも鐘の音が残響す。記録されし音か、記憶の幻か、判然とせず。
再び耳当てを装着す。音を更に細かく分析せんと欲す。この規則性の源を、この明瞭さの理由を、解き明かさんと欲す。
されど音は答へず、ただ鳴り続くのみ。
鐘の音は白き騒音の層の下に揺らめきて、あまりに明瞭に、あまりに律動的に響く。風鈴ならば、かくも整然たる間隔を保つべくもあらず。偶然ならば、かくも持続すべくもあらず。
彼女は周波数を調整し、雑音の帯域を削り取る。一層、また一層。音の地層を剥ぎ取るごとに、鐘の音は鮮明さを増しゆく。
そして、その奥に——
呼吸の音。
彼女自身のにあらず。録音機の傍に在りし者のにもあらず。誰かが、何処かで、息を吸ひ、吐きたる痕跡。
更に耳を澄ませば、足音。砂利を踏む音。彼女は独り歩みし筈なるに。
白き騒音の
層の下なる
呼吸かな
誰が息づかひ
我が耳に宿る
音は嘘を吐かず。機械は幻を記録せず。されば、この音は——確かに在りしもの。
彼女の指は、再生ボタンの上に凍りつく。工房の空気が、重く、冷たく感ぜらる。
彼女は再び音源を巻き戻し、最初より聴き直す。鐘の音、風の音、そして——その間隙に潜める、微かなる律動。
呼吸は規則正しく、穏やかなり。眠れる者の息づかひにあらず。祈る者の、深き瞑想の中なる呼吸。
足音は三度。砂利を踏む音、明瞭なり。彼女が社の前に立ち止まりし、まさにその時刻に。
彼女は己が記憶を辿る。社の前、独り立ちて、風に吹かれしのみ。誰も居らざりき。誰の気配も感ぜざりき。
されど、音は語る。彼女の傍らに、確かに誰かが在りしと。共に呼吸し、共に歩みしと。
音の層
剥がせば顕る
影法師
共に在りしや
知らぬ間に
彼女の背筋を、冷たきものが走る。録音機は嘘を吐かず。ならば、あの時、社の前に——
時刻を示す数字は、十七分の記録を告げたり。されど彼女の記憶に残るは、社の前に立ちし五分のみ。
十二分の空白。いづこへ消えしや。
彼女は再三、録音機の表示を確かむ。誤りにあらず。十七分、確かに記録されたり。
記憶と記録の間に、深き裂け目の口を開く。
失はれし刻
いづこに流れし
鐘の音に
溶けて消えしや
我が魂さへも
彼女の指は震へ、再生の釦の上に留まる。あの十二分の内に、何が在りしや。
鐘の余韻の底に、沈みて眠れる声の萌すを、彼女は感ず。
失はれし十二分の闇の底に、鐘の余韻は幾重にも重なりて、沈黙より一つの声の形を成さむとす。
音ならぬ音
静寂を裂きて
生まれ出づる
言の葉ならぬ
祈りの調べ
彼女は息を殺して聴く。それは言葉にあらず、されど確かに在り。鐘の響きの襞に織り込まれし、名も無き者の呼び声。
録音の器を携へて、彼女は集ひの場に至る。三人の古老、円座を成して待ちをり。
静寂の器
音を宿して
人の輪へ
装置を卓の中央に置けば、老いたる者ども身を乗り出して、その小さき箱を凝視す。彼女、震ふる指もて再生の鈕を押す。
瞬時にして、雑音は室内に満ち溢る。されど彼女の耳に鳴り響く鐘の声、祈りの調べは、彼らには届かず。ただ空虚なる気流の擦れ合ふ音のみ。
一人目の翁、耳を傾け、眉を寄す。二人目の嫗、首を傾げて隣人を窺ふ。三人目の老婆、静かに目を伏せたり。
彼らの顔には、丁寧なる気遣ひの色浮かべども、理解の光は宿らず。白き雑音の海に、何の意味をも見出し得ぬ者の戸惑ひ。
無音の問ひ
視線は交はり
言葉なく
翁は咳払ひして、優しき声音にて問ふ。「これは……何の音にて候ふや」と。嫗は微笑みて頷くのみ。老婆は彼女の顔を見つめ、その瞳に宿る熱を測らむとす。
彼女は気づく。己が聴く声は、己のみのものなりと。鐘の音も、女の言葉も、この世ならぬ領域より響き来たるものにして、生ける者の耳には空虚なる風の音としか聞こえざるを。
されど装置は回り続け、雑音は部屋を満たし、沈黙は重く垂れ込む。
礼儀の仮面
問ひは無言に
宙を漂ふ
三人の顔には、なほも丁寧なる表情保たれたれど、その眼差しには空白のみ宿る。彼らの耳に届くは、ただ白き雑音の波、虚空を渡る風の囁きに過ぎず。
翁と嫗、互ひに目配せして、言葉なき問ひを交はす。「この娘は、心の平安を保ちてをるや」と。老婆の眉には、憂ひの翳り微かに過ぎる。
彼女は彼らの視線の意味を悟る。己が正気を疑ふ眼差しなりと。されど彼女の耳には、なほも鐘の音明瞭に響き、その音の下に、別の声の層ありて蠢くを感ず。
装置より流るる音は変はらず。室内の空気は凍りつき、時は歩みを止めたるが如し。
彼女は唇を噛み、再生の鈕より指を離さむとす。その刹那、耳当ての奥より、鐘の残響を貫きて、女の声鮮明に立ち昇る。
冷たき声音、明瞭にして容赦なし。
遠き道
虚しき果てに
鐘は鳴る
「汝、遠き道を経て、虚しき果てに至れり」
女の声、鐘の倍音の底より浮かび出でて、耳当ての内に満つ。冷たき調べは、氷の刃の如く彼女の鼓膜を刺す。
明瞭なり。容赦なし。
彼女は息を呑む。三人の老人らは、なほも彼女を見守れど、その耳には何も届かず。ただ彼女のみが、この宣告を受くるなり。
鐘の音の襞の間に、幾重にも折り重なりて、女の言葉は織り込まれたり。されど、その声は彼女のみを選びて語りかく。
「虚しき果てに」と。
装置の針は震へ続け、波形は乱れたる海の如く蠢く。彼女の指は、再生の鈕の上にて硬直せり。
宿の一室に独り籠りて、彼女は再び音を聴く。周波数を調へ、層を剥がし、音の襞を解きほぐさんとすれども、女の声は変はらず。ただ彼女のみに語りかけ、ただ同じ冷ややかなる調子にて、拒絶の言葉を繰り返すのみ。
幾度聴くも
同じ声のみ
我を選びて
虚しと告ぐる
鐘の底より
何度鈕を押すとも、何度針を動かすとも、答へは一つ。彼女は選ばれたり――拒まるる者として。
遂に彼女、耳覆ひを外すとき、真の鐘――村の広場に立つ実体――夕べの音を告げ始む。されど日の入りには未だ一刻の間あり。時ならぬ鐘の音は、静寂なる空気を裂きて響き渡る。
耳覆ひ外し
時ならぬ鐘
黄昏前に
虚ろなる村
音のみ満つる
彼女は立ち尽くし、その音の源を見遣る。録音にあらず、幻聴にあらず。確かに物理の鐘、打たるる音なり。
鐘は鳴る――三たび明瞭なる響き、虚ろなる村を渡りゆく。彼女は鐘楼の傍らに立ちて、充分なる近さにありながら、揺るる縄を見ず、塔内に動く影の片鱗をも認めず。音のみあり。物質の振動、確かなる波動として大気を震はす。
鐘三つ鳴る
縄は揺れざれど
音は真なり
影なき塔に
誰か打つらむ
第一の音、消えゆくを待ちて、彼女は一歩を踏み出す。第二の音、空間を満たし、彼女の胸腔に共鳴す。第三の音、余韻長く、山々に反響して戻り来る。されど音と音との間に、彼女の耳は別の真実を捉ふ――絶対なる静寂。風なく、鳥の声なく、虫の音さへなし。
彼女は鐘楼の周囲を巡り始む。足音のみ、固められたる土を踏む音のみ、残響と残響との狭間に存在す。木造の柱を検む――古びたれども、機械仕掛けの痕跡なし。錆びたる金具を探る――されど時計仕掛けの装置、見当たらず。
塔の北面、西面、南面。彼女の指先は木目を辿り、継ぎ目を確かむ。説明は何処にも記されず。錆にも、木にも、石にも。鐘は宙に吊られたるまま、静止せり。
打つ手もなく
鐘は鳴りたり
誰が為に
錆と古木は
沈黙を守る
東面に戻りしとき、彼女は気付く。鐘楼の床に、新しき足跡なきことを。己が足跡のみ、円を描きて土に刻まる。
彼女は鐘楼を巡りゆく、その足音のみ、固められたる土を踏む響きのみ、鐘の残響と残響との狭間に存在す。木造の柱を検むれども、機械仕掛けの痕跡なし。錆びたる金具を探るも、時計仕掛けの装置、何処にも見当たらず。
塔の北面、西面、南面。彼女の指先は木目を辿り、継ぎ目を確かむ。説明は何処にも記されず。錆にも、木にも、石にも。鐘は宙に吊られたるまま、静止せり。古びたる縄は垂れ下がれども、揺れたる形跡なし。
打つ手もなく
鐘は鳴りたり
誰が為に
錆と古木は
沈黙を守る
東面に戻りしとき、彼女は気付く。鐘楼の床に、新しき足跡なきことを。己が足跡のみ、円を描きて土に刻まる。一周せし証として、始点と終点、今や重なれり。されど謎は深まるのみ。音は確かに在りき。物質は動かざりき。この矛盾、解けぬまま、彼女の前に横たはる。
四たびの響き来たるとき、彼女は手を伸ばせり。指先は青銅の表面に触るるを止め、ただ僅かなる距離を保ちて、空気その物の震へを感ず。胸の内に波打つ振動、眼の奥なる空間に残れる録音の残響、全て一つに溶け合ひて、彼女の身を貫く。
触れずして
鐘の震へは
伝はりぬ
空気と肉体
境なきまで
されど彼女の手は進まず。青銅と指先との間、髪一筋の間隙に、全ての謎は凝縮されたり。音波は確かに在り。物質は確かに動かず。この矛盾の狭間にて、彼女は立ち尽くす。録音機の中なる老婆の声、祈りの合間を数へし間隔、今鳴れる鐘の律動と、寸分違はず重なり合ふ。
手は打たず。今日も、幾年の昔も、されど鐘は鳴る。彼女が耳当ての内に聴きし律動と同じく、老婆の声が祈りの間に数へし間隔と同じく、寸分違はず響き渡る。
撞かれざる
鐘の音今も
祈りの間
記憶の拍子
時を超えつつ
何人の手も青銅に触れざるに、音は在り。録音の中なる過去と、今此処に震ふる空気と、区別なく溶け合ひて、彼女の全身を包む。
鐘は鳴る。彼女は遂に悟る。夕凪に在る音の幾つかは、作られしに非ず、憶えられたるなり。撞かれしに非ず、喚ばれたるなり。村そのものが、余りに久しく沈黙の内に保ちし息を、今こそ吐き出だすなり。
喚ばれたる
音は記憶より
立ち昇り
村の吐息に
沈黙解けゆく
彼女の肌に、空気の震へは伝はる。それは音波に非ず、想起なり。夕凪は楽器に非ず、器なり。満ちたる祈りの、溢るる時を待ちし、巨大なる共鳴箱なりけり。