← Back

Moon Over Sealed Stone

Metadata

Table of Contents

  1. Ash Days in Tanigawa
  2. Frost and the Hidden Shaft
  3. Whispers in the Back Room
  4. Madam Tsukimine’s Refusal
  5. Edicts and Embers
  6. The Silence Between Chants
  7. Moonrise Over the Kurokawa
  8. What the Mountain Leaves Standing

Content

Ash Days in Tanigawa

夜明け前、まだ空の色も決まりきらぬ刻、谷底からくぐもった鉱山の銅鑼の音が伝い上がり、月峰屋の梁をびりびりと震わせた。眠りの残り香と煤けた夢を揺り起こすその振動を合図に、女中たちは布団から身を抜き、足袋の音も軽く台所へと走る。襖が次々と開け放たれ、囲炉裏の灰をかき寄せ、昨夜の炭火に新たな薪をくべる。湯気のまだ立たぬ大釜に米と麦を量り入れ、指先で水加減を確かめる仕草は、十年繰り返された祈りのように淀みがない。

「火を急かすでないよ。あの銅鑼のあと、太鼓が二つ鳴るまでに一番鍋を出す。」

佐登里香は、煤で黒ずんだ釜口を覗き込みながら、手許の時計代わりに谷からの音を聞き分ける。炭焼きの煙と共に、まだ夜の湿り気を含んだ冷気が廊下をすべり込んでくる。彼女は淡藍の手拭で髪を固く結い直し、戸口の障子を少しだけ開け放った。内と外の息を合わせるように。

勝手口では、年長の小間使いが徳利代わりの土瓶を並べ、薄茶の葉をほんのひとつまみずつ指でつまんでは落としていく。茶は決して濃くしない。働き手の喉を湿らすだけのもの、贅沢はさせぬが、侮りもしない塩梅である。湯の温度が一瞬だけ甘い香りに変わるのを確かめると、女は顔を上げた。

「おかみさん、今朝はいつもより早いようで。」

「下の新しい坑のせいさ。」佐登里香は、釜の蓋に掌を乗せ、細かな震えを読む。「太鼓がせわしくなれば、命も急かされる。こっちはそれに合わせるだけ。」

表の板戸の向こうで、道を掃く若い衆が竹箒をさばく音がする。まだ真っ暗な坂道を、これから石炭と銀の匂いに呑まれてゆく者たちの足跡が、うっすらと刻みはじめていた。

鉱山の銅鑼と太鼓の間隔を計るように、彼女は酒肴の残りを片付け、昨夜の勘定札を一瞬だけ撫でる。谷を支配するのは領主の札と太鼓だが、この屋根の下を律するのは、自分が決めた刻限と茶碗の数だ――その誇りを、あからさまに口に出すことはない。ただ、鍋の蓋から洩れる白い息の量を見て、次に運び出す椀の数を無言で指示する。

間もなく、谷底から軍太鼓の低い響きが這い上がってくる。佐登里香はひとつ頷き、女中たちに声をかけた。

「さあ、これからが忙しい。あの太鼓が三つ鳴り終わるまでに、みな腹に何か入れてやるよ。遅れた者の札は、あちらの帳面から消えるからね。」

最初の組の者たちが、まだ白みきらぬ坂をぞろぞろと登ってくる気配がした。月峰屋の前を通るたび、その影が障子越しに一瞬だけ浮かび上がる。煤と汗にまみれた背、主の刻印を縫い付けられた半纏、柄の磨り減ったつるはし袋。手の甲は、もう朝から白い粉を噛んでいる。女中が盆を抱えて廊下を行き過ぎるたび、影はさっと揺れ、通り過ぎてゆく。

軽く顎を引いて会釈していく者もいれば、視線を合わせまいと足を早める者もある。ここの庇の下で立ち話をする愚かしさを、一度でも衛兵の叱責を聞いた者は身に沁みているのだ。怠け者の札を貼られれば、遺族の口にも米は運ばれぬ。

ふと、一人の若い鉱夫が道の真ん中で足を止めた。まだ髷も結いきらぬ年頃、頬には昨夜の酒気がうっすら残る。胸元から、小さな紙守りを大事そうに取り出している。月峰屋の小さな仏棚に昨夜、若い女房が置いていったものだと、佐登里香は目で覚えていた。粗末な和紙に煤けた指で書かれた「無事かえれ」の三文字。

「……おい。」

通りの下手から、鎧の継ぎ目を鳴らしながら、社兵の一団が上がってくる。名簿板をぶら下げた者が、眠たげな目つきで辺りを見回しているのが障子越しにも分かった。

佐登里香は何も言わず、盆を女中に預けると、表の格子戸をすっと開けた。表情は、いつもの宿場顔――柔らかく、深くも浅くもない笑み。

「おはようさん。もう列が詰まってるよ。」

呼びかけながら、若い鉱夫と社兵の間に、さりげなく身を滑り込ませる。彼の手元の紙守りをちらと見て、あたかも落とし物でも見つけたかのように、指先でつまみ上げた。

「これはね、ここの火の神さんに預かったものだ。あんたの代わりに、うちの竃で見ておいてあげるよ。」

そう言って、耳元だけに届く低さで囁く。

「走んな。名を呼ばれる前にな。」

青年の顔に、一瞬だけ子供のような心細さが浮かぶ。だが、佐登里香の笑みが崩れぬのを見て、ぎこちなく頭を下げ、そのまま列へ駆け戻っていった。

「お勤め、ご苦労さまにございます。」

今度は社兵たちに向き直り、深々と礼をする。声は通るが、角は立てぬ調子だ。名簿板を持った兵が、ちらと若者の背を見送ったが、宿の女将が道端で愛想を振りまいていると見て取ると、鼻を鳴らしただけで通り過ぎてゆく。

兵の足音が遠ざかるのを待ち、佐登里香はそっと戸口を閉めた。指に残る薄い紙の感触が、朝露よりも冷たい。小さく息を吐き、紙守りを掌に乗せて見下ろす。

「ここで預かるよ。帰ってきたら、ちゃんと返すから。」

誰に聞かせるでもなく呟いて、裏手の小さな棚に紙を挟み込む。その上には、もう幾つもの「無事」「息災」「借金完済」の紙片が重なっていた。

帳場の算盤には、ただ宿の勘定ばかりでなく、領主の札の重みも刻まれている。佐登里香は、碗に盛る飯を箸先一つぶ分だけ撫で払い、徳利の酒に湯をほんの指幅ほど足す。その差は客の舌には曖昧でも、月末の帳面にははっきりと残る。蔵役人が漆の鶴印を押した新しい御触書を持ってきた晩には、押入れの綿入れにそっと新しい値札を結び替える。

「寒くなりましたでな、もう一枚どうです。」

そう勧める声色は変えずに、心の中で札勘定を繰る。炉端では、行商人や仲買たちが罰金の割増や荷遅れの咎を愚痴るが、言葉の角が鋭くなりかけると、彼女は盆を手にすっと近づく。

「お代わりをお持ちしましょうか。」

穏やかな問いに紛れて、「ここは町の耳」とそっと告げる視線を送る。壁板の向こうには、下働きの少年が茶殻を絞りながら耳をそばだてているし、今夜の客の噂は、明日の朝には組頭や社兵の耳にも届く。それを知っている者は、杯を置く音だけを荒くして、肝心の名だけは決して口にしない。

社の権威のほつれは、細い綻びとなって月峰屋にも届く。かつては季の祭礼ごとに二階の上座を取り、神事の段取りまで口を出していた坊主衆が、今では「御役料がのうなってな」「お上の倹約令でな」と苦笑いしつつ、安い相部屋の筵を指さす。祭の折には本来なら坑口を閉ざし、町中が湯に浸かって骨を休めるはずの夜に、「今宵は風呂を遅くまで」「飯は夜半の組のぶんまで」と役所印の札が回ってくる。佐登里香は表向き、決まりどおりの短冊と紙灯籠を軒に下げ、竃には供え物の団子と塩を並べるが、指先はいつもより念入りに護符の端を撫でる。にもかかわらず、貼ったばかりの札が朝露を待たずにひび割れ、竃の火に炙られた墨書きがじりじりと薄れてゆくのを、彼女は見逃さない。

夜ともなれば、広間には、御触書どおりに削られた疲れだけが、律義に満ちてゆく。鉱夫たちは門限の太鼓を睨みながら、喉を焼く勢いで酒を流し込み、仲買衆は変えようもない相場の刻まれた札を前に、算盤玉を苛立たしげに弾く。ときおり社兵が「静粛」を名目に顔を出し、笑い声の高さや煙草の灰一つにまで、罰銀の口実を探して歩く。佐登里香は、そのたびに盃の角度と席次を指先一つで繰り替え、反骨の強い者と口の軽い者とが同じ筵を踏まぬようにし、言い争いが清算前に立ち上がらぬよう、話題ごと別々の鍋に分けて煮立たせる。遠くの算盤で決まった命令に従う町の癖は、竃の灰を掃く動作と同じほど、彼女の夜の所作に染みついていた。

夕餉前、帳場の脇に広げた部屋割りの板目には、もう一つの算盤が刻まれている。佐登里香は、名札の紐を指先で弾きながら、行灯の灯りに浮かぶ墨跡をじっと見やる。領主直々の鶴印を携えて来る商人どもは、庭に面した内側の座敷へ――井戸神の機嫌が静かで、台所からの膳も早く届く一角だ。障子一枚隔てて、苛立ちを持ち込む暇を与えぬためでもある。

炉端に近い部屋には、鉱山方と組合の中位の者らをまとめる。彼らは一夜にして世の流れを変える力こそないが、愚痴が度を越せば、翌日の坑口に響きかねぬ舌を持っている。だからこそ、火に当たりながらも、左右には帳付け役や筆耕役のような、酒に弱い文官肌の客を挟む。酒の盃が進めば進むほど、算盤と紙束が、自然と話題の箍となってくれるのを彼女は知っていた。

いちばん端、欄干に近い、隙間風の通う安部屋には、その日入ったばかりの新入りや、顔色の悪い者たちを押し込む。名も素性も定まらぬ、借金まみれの口から出る不満は、壁板に吸われて外に漏れにくいし、多少荒声が上がっても、庭の水音と川風が包んでくれる。そこへは、必ず手の早い下働きと、口の堅い年寄り客を一人混ぜるのが月峰屋の常だ。

畳一枚の余裕、衝立一枚の位置、相部屋か個室か――そのわずかな違いで、酒の巡り方も舌の滑りも変わる。佐登里香は、名札を一つ動かすたびに、頭の中で「この二人を隣り合わせれば、賃上げの話が早く火を噴く」「この親方の耳に、あの坑の話だけは今夜は届かせぬ」と無言の勘定を重ねてゆく。表向きは、ただ「お足の悪い方は階段近くへ」「寒がりの方は炉に近う」と柔らかく言葉を添えるだけだが、その裏には、組同士の意地や、社兵の耳目、そして御用金の匂いまで織り込まれていた。

名札を掛け替える音は小さい。けれど、その静かな一手一手が、やがて夜半の大声を一つ減らし、翌朝の連行を一人分は遠ざけるのだと、佐登里香は知っている。だからこそ、晩の太鼓が鳴る前のひと刻、彼女は誰よりも真剣な顔で、帳場の前に座り込むのであった。

火花が上がりかける刻合を見計らうのも、今では彼女の日課の一つである。声の調子、箸の置かれ方、盃の減り具合――そうした細かな兆しが一つ、また一つと揃ったところで、佐登里香は何気ない顔つきのまま、帳場からすっと腰を上げる。対立する組のあいだの筵には、香ばしく焼けた串物の盆を割って置き、「こちらは今朝、川向こうから届いたばかりで」と片方に、もう片方には「残りはあちらの衆にも回してやってくだされ」と、恩を渡す先をあえて曖昧にする。

足元には、いつの間にか落ちていた勘定札が一枚。「これは失礼、帳場の方へ回ってしまったようで」と、軽く頭を下げて持ち主の前に差し出す。勘定の行き違いは、その場の苛立ちを、恥ずかしさと安堵に変えてくれる。ついでに「ここのところ、どこの坑も同じ愚痴ですわ。上の方は、石炭も人の骨も、黒いもんは皆ひとまとめに勘定なさる」と、半ば冗談めかしたひと言を、隣席にも聞こえるほどの声で落とす。笑いどころを、互いの癖ではなく、遠くの勘定役の方へずらしてやるのだ。

常連たちは、その合図をよく知っている。女将自らが徳利を手に、膝をついて酒を注ぎに回り始めたなら、それは「声を一つ低く、意地を一枚たたんでおきなさい」という知らせだった。ほどなく、戸口の鈴がわずかに鳴り、社兵の影が格子戸にかかるころには、広間の空気はすでに、ただの疲れと、行き場のない笑いに塗り替えられている。佐登里香は、自分の座敷が「取り締まりの口実」になるのを、何よりも嫌った。だからこそ、社兵の歩みが石段を上がってくる前に、その夜の怒りと悔しさの刃先を、ことごとく鞘に納めてしまうのであった。

怪我人と、ただ擦り減っただけの者との境目を見極める勘定は、さらに細やかであった。足を引きずる角度、咳が胸の底を削る深さ、行灯の外の闇に視線が絡みつく時間――そのどれかが、佐登里香の中の見えぬ印を越えたとき、その男は「熱が抜けるまで」と、自然な手つきで奥の小座敷に導かれる。夜明け前、まだ社兵も検分役も眠気の残る刻限に、彼らの荷はいつの間にか包み直され、川舟問屋や街道宿場行きの口入屋の名を記した紙片が、掌にそっと忍ばされる。

帳場の帳面には「自ら旅立つ」とだけ記される。だが実のところは、坑口で「役立たず」の印を押され、飯場を追い出される前に、町の視界から外してしまうのである。組の親方にとっても、社兵にとっても、「いつの間にかいなくなった顔」の方が、手間も罰も少なくて済む。その抜け落ちた一名一名を、誰も数え直さぬうちに他所への道に紛れ込ませること――それもまた、月峰屋の女将としての、彼女なりの護りであった。

その手際の良さは、表向きにはきちんと褒められる筋合いのものでもあった。組合の長老衆は寄合のたび、「組合通りの和と利を守る宿」として月峰屋の名を挙げ、「喧嘩沙汰も踏み倒しも少ないのは、あの女将の心配りゆえ」と口々に言う。検分で顔を出す清定でさえ、酒に火が回りかけた卓から手際よく荒くれを引き離す手下どもの動きを一瞥するだけで、わずかに顎を引くのが常だった。帳面に並ぶ罰金の数字に「月峰屋」の名が載らぬことは、それ自体が一つの通貨である。石段下の路地に騒ぎがこぼれさえしなければ、「この町の締まりはまだ保たれている」と、隊長は自らに言い聞かせることができるのだ。

行灯の油を絞り、座敷の笑い声が完全に底をついた丑三つ刻になって、ようやく佐登里香は、役所の帳合いからこぼれ落ちたものを自分の目に許す。袖紐を結び直し、帳場の天板を隅々まで拭き清めると、家紋も題字もない一冊の帳面を、抽斗のいちばん奥からそっと取り出した。米俵、炭俵、油、酒樽――きちんと並んだ仕入れの行だけでは収まらぬものが、この町にはあまりに多い。彼女は常連の名の脇に、小さな丸や、引き消すような点、墨をぐっと押しつけた一筋の線を加えていく。三度の払日を越えても顔を見せぬ者には、薄墨の丸印を一つ。痩せて、笑いの底が抜けたまま戻ってくる者には、じきに消えそうな小さな点を。あるいは、女房や母親が突然「まだ残りのツケが」と帳場をのぞきに来た家の名には、紙を傷めるほど固い筆致で、短い縦線を打ち込む。月ごと、節気ごとに、その印はじわじわと増え、組合役所へ上がる産出高の美しい右肩上がりとは別の、陰った折れ線をひっそりと形づくっていく。それは誰にも見せぬ「影の名寄帳」であり、この谷の者が口にしてはならぬ代価を、せめて紙の上だけでも数え直そうとする、女将ひとりのささやかな反逆でもあった。

誰もが、「口にしてはならぬ縁」の手前で舌を引っ込める勘所を、身体で覚えていた。

月峰屋の大広間で、湯気と煤の匂いにまぎれて盃が三巡も四巡も回ったころ、決まって一人は、喉の奥に溜めたものをこぼしそうになる。「昨日の三の坑でな、灯がみんな、風もねえのに……」「岩ん中から、まるで…」そこまで言った途端、周りの笑いはほんのわずか、ひきつるように細くなる。誰かがすかさず、「おうおう、安酒ばっかり流し込むから、お前の目ェの方の灯が先に消えたんだろ」と、わざとらしく肩をどやす。ざらついた笑いがぱっと散り、すぐに手本引きの札の音やサイコロの転がる音が、それ見よがしに大きくなる。

その間合いに合わせるように、佐登里香の手が、いつの間にか卓の端に現れる。空になりかけた徳利をするりと引き、代わりに少し上等な銘の温い酒を置く。「はいはい、岩ん中の声は、山の神さまの腹ごなし。人の耳で数えても、ろくなことはございませんよ」と、半分冗談めかして流す声は柔らかい。だが、その目線がほんの一瞬だけ座の一人ひとりを撫で、「これ以上は聞かぬ方が、自分らの身のためだ」と静かに告げていた。

「灯がひとりでに消えた」「札に触ってねえのに、帳場の玉が転がった」――そうした話は、この谷では昔から折々にあった。だが近ごろは、その頻り方も、重みも違う。祭礼前の浄めを二日に一つに詰めたこと、坑口での祝詞を「簡略の式」と称して半分に削ったこと。誰もが、胸のどこかでその因果を思い当たりながら、それを言葉に載せることだけは避けている。

「拝みが早すぎるんじゃないか」「札の紙が薄すぎる」――そこまで踏み込んだ言い草になれば、「怖い」や「気味が悪い」というぼやきは、たちまち「社役所を誹る口」となりうる。社兵どもにとって、「灯が消える」はまだ笑い話で済むが、「祝詞が足りぬ」は、すなわち殿様の信心が足りぬと言うに等しい。そこへ踏み出した舌は、「動揺を流布した」として、あっという間に帳付けの紙に書かれ、組合の名簿から静かに消されてしまう。誰かが行灯の影で、ぐっと言葉を飲み込むたび、広間に漂う空気は、少しだけ薄氷に似てくる。

清定の隊が夜回りの折に広間をかすめるとき、その気配はさらに鋭くなる。鎧の緒の鳴る音が廊下を渡ると、賭場の笑いは一段高くなるが、その中身は一気に浅くなり、「今日の荷揚げ」「明日の天気」ばかりが口をついて出る。佐登里香は、その変わり目をいつも見ている。盞を取り替えながら、危うい言葉を吐き出しかけた客の前には、さりげなく別の卓から話好きの者を呼んで座らせる。山の噂や大名行列の見物話をひとしきりしゃべらせて、さっきまで「岩の声」と言いかけた舌の向きを、他所の珍聞へとそっとねじ曲げる。

広間の柱の上の方、梁の節の陰では、小さな札に縛られた座敷童のようなものが、面白そうにそれを見下ろしているかもしれぬ。だが、そこに留まるのはあくまで「面白そう」の範囲に過ぎないよう、女将は気を配る。怨みや怒りに形を与える言葉がこの場で育てば、それは人の世の問題であると同時に、精霊の側からも「聞かざるを得ぬ訴え」となってしまう。そうなれば、月峰屋はたちまち、「不穏の種を撒く宿」として社兵に睨まれ、組合からも切り捨てられかねない。

だからこそ、この屋根の下で許されるのは、あくまで「愚痴」であり、「泣き言」であり、「笑い話」に落とし込める範囲の恐れだけだ。本当に言うべき筋を持つ怒りや疑いは、ここでは一度、薄い笑いの膜の下へ沈められる。沈めたまま腐らせるのか、別の場で掬い上げるのか――そこから先は、月峰屋の女将である佐登里香の、もう一つ別の帳面に委ねられていた。

谷底の坑口では、朝霧と煤煙の入りまじる薄闇の中で、場慣れた者ほど、胸の底のざわめきを冷えた息と一緒に呑み下す術を覚えていた。出勤札の板には、ここ一年ばかりで見慣れぬ名がずらりと増えた。「五号掘り拡げ」「補い二ノ坑」――字面だけ見れば、ただ几帳面な役所言葉に過ぎぬ。だが、その並びが古い「一ノ坑」「三ノ坑」の札を押しやり、板の端へ追いやってゆくたび、誰かの背筋を冷たいものが撫でる。

足元の泥に半ば埋もれた古い結界石が、かすれた祝詞を刻んだまま雨に打たれている。そこへ視線を落とすだけで、監督の手元で帳簿がぱらりと開かれる。名の脇に、小さく赤い印が一つ。「精霊怖じ」「使いづらい」――そう囁きが尾を引き、夕方の配給所では、その男の家の炭俵だけが「手違いで遅れております」と頭を下げられる。次の番札で、彼が新しい深掘りの列に名を見つけたとき、迷う余地はほとんど残らない。山の底に降りるか、町の底へ沈むか、そのどちらかしか道はないと、皆、知っているからだ。

頭となる者たち自身も、細い梁の上を歩かされている。古い言い伝えを、まだ骨身で覚えている者はわずかだ。「中秋の満ち月には、この脈には鉄を入れるな」「冬籠りの鐘が二つ鳴れば、三つ目の印より先は鎚を止めよ」――そんな掟を、冗談めかして口にするだけで、周りの耳はこわばる。

石村という頭は、その境を一度だけ踏み越えた。中秋の霧が、線香の煙のように甘く濃く坑口へ流れ込んだ晩、「今日は山の胴も休ませる」と、部下に引き返しを命じたのだ。帳場には「体調不良で交代」と書かれたが、次の給与札には、石村の名の横に小さく「昇格」の二字が躍った。谷底から一転、貴人町の倉蔵で帳面を繰る役目――長靴は紙脚絆に替えられ、煤と汗で鍛えた肩は、一日中紙の重みだけを負うことになったと聞く。

「良かったな、雨風しのげる座り仕事だとよ」と、誰かが笑ってみせた。だが、四の坑の者たちは知っている。祭り日に鎚を休めさせた頭は、その翌節気には必ず、どこか別の静かな場所へ「移される」ことを。古い禁りを立てようとすること自体が、一種の行方知れずなのだと、その背中で教えられていた。

そうした「静かな引き抜き」の噂は、いずれ山風に乗って坂の上まで滲み上がってくる。月峰屋でも、ときおり酔いの浅い客が、「殿様の新しい手抜きとやらは、祝詞だけじゃなく人の命まで削る」「坑口の札も、この頃は順番を違えて貼ってやがる」と、盃の影でこぼすことがある。その一語一語が畳に落ちるたび、佐登里香の背筋は、見えぬ糸でぴんと張られたように固くなる。出入口の格子の向こう、いつ何時、役所付の見廻りや社兵の目がふいに差し込んでくるか知れぬ場所へ、無意識のうちに視線が滑る。「口実を探している目」が、いつもそこにあると心得ているからだ。

だからといって、客の口を真っ平らに封じることはしない。ただ、言葉が「殿様」と「拝み」の筋へ近づいたと見るや、「ところで、下の坊やの疳の虫は治まったかい」「ほら、熱いうちにお上がりなさい」と、子の話や風邪の噂へとそっと橋を架ける。あるいは、手の空いた女中に目配せして、「そこの空いた盃を下げておくれ」と動かし、卓の上の景色そのものを変えてしまう。話の流れをほんの指二本ぶん、別の槽へ逸らしてやれば、危うい言い回しは「よくある愚痴」の中へ紛れ込む。そうして未然に折られた一つの文が、この屋根と看板を、もう一日ぶん、生かしているのだと、女将だけは知っていた。

女将の手も、掘り子の鎚と同じように、帳面一枚で縛られている。宿屋組合の定めは簡潔だ。「和を乱す噂話、許可なき寄合、請願の気配ある談合、いずれも座敷にて固く慎むべし」。見廻り役人や社兵付きの監査が、その条を指でなぞりながら、「社の静けさと市中の秩序をお守りするため」と、いかにも慈悲深い面持ちで言ってのける。だが、盃を持つ指先までは、その言葉を信じてはいない。誰の耳にも、本当の文言は別のところで響いているのだ――「反骨の芽をこぼす座敷は、たちまち穢れと名指され、殿様の御名のもとに札を打たれて閉ざされる」。だからこそ、梁の割れ目や護り札の欠けから、山の怒りを読み取れる者ほど、人前では舌を噛む。かわりに、帳簿の余白に小さな印を増やし、仕入れ伝票の片隅に「本日、灯一つ消ゆ」とだけ記す。戸締まりを終え、夜鳴き蕎麦の声も遠のいた丑三つ時、その短い、追われるような静けさのあいだだけが、本当の言葉を交わしうる時刻だと、皆がうすうす悟っていた。

佐登里香は、反骨というものを、声ではなく帳面と台所の癖に訳し直す術を身につけている。多めによそった汁は「こぼれ」として仕入帳の端に小さく記され、ひびの入った猪口は「破損」として数に入れられる。その一つ一つが、深層行きの名を書かれた掘り子たちの腹と骨を、ほんの指二本ぶんだけ支えていることを、帳面は知らぬふりをしている。

よく喋る坑夫や、口の悪さで監督に睨まれている者ほど、女将はいつのまにか囲炉裏際へ通す。炭火の真上の梁には、祖母の代からの護り札が幾重にも貼られていて、声がそこで少し丸くなる。「常連さんは寒がりでね」と笑って座布団を差し出しながら、その実、座敷の隅と出入口の格子から、危うい言葉を遠ざけているのだった。

ある夜、若い女中がうっかり顔に出してしまったことがある。新しい御制札の話が卓にのぼり、「また祝詞を削って鎚だけ増やすのさ」と誰かが吐き捨てた瞬間、その子の頬の筋がぴり、とこわばった。佐登里香は盆を受け取りながら、客には気取らせぬ調子で、「お樽の方、少し薄めておくれ」と背を流し、台所へ戻ったところで、ようやくその娘に向き直った。

「叱らないよ」と前置きしてから、淡々と告げる。「でもね、ここで顔に出るのは、鎚を振るう時に目をつぶるのと同じだよ。足場を見る目を、自分で消してしまうことになる」

娘がきょとんとすると、女将は指で自分の口許と目許を指し分ける。

「歯で笑いなさい。歯はお客のためのものだ。金を落としてくれる人には、白い歯を見せておきゃあいい。けれど、目まで一緒に笑わせる必要はないよ。目はあんた自身のものだ。帳場の札と、見廻りの草履と、誰と誰が今夜同じ卓に座ったか――そういうものを見るための目だよ」

「そんな器用なこと、できるでしょうか」と娘は不安げに問う。

「慣れだよ」と、女将は湯気の向こうで答える。「山の神さんだって、昼と夜で顔を替える。人間だって、二つ三つ、顔を使い分けられなきゃ、この町じゃ長生きできない」

そう言いながら、彼女自身、帳場に向かう時と、社兵の靴音が格子を鳴らす時とで、眉の角度と声の高さを微妙に変えている。笑い声を半刻だけ大きくさせる合図も、女中たちの間では「湯加減を見る」の一言で通じる符牒になっていた。湯を見ているふりをして、本当は座敷の気配と、誰の眼差しがどこに刺さっているかを確かめる。

その夜遅く、片付けを終えた後で、女将は灯心を細くしぼりながら、娘の横顔を一度だけ盗み見る。歯を見せて笑いながら、目だけが真っ直ぐに帳場の札を追っているのを見て、小さくうなずいた。反骨は声を荒げずともよい。こうして湯気と墨の匂いの中に紛れて、明日の一日のぶんだけ、静かに息をつないでいくのだ。

谷あいの長屋では、女たちの手仕事が、いつのまにか「内々の作法」に変わっている。路地に面した土間を掃く嫁が、夫の草履がいつも置かれるあたりで、わずかに手を止める。煤と砂利を箒の先でくるりと撫でて、目立たぬ円を描き、「道をきれいにしておかにゃね」と笑う。その輪の上を、翌朝も夫が無意識にまたぐことを、彼女は決して口にしない。

別の家では、年季の入った針箱が開くたび、古い祝詞の切れ端が引き出しの底から顔を出す。若い母親がそれを一文字ずつ千切り、綿入れ袢纏や股引の裾に、唐草模様のように縫い散らしていく。「これなら監督さんにも、ただの飾りにしか見えやしないよ」と舌打ちまじりに言いながら、糸目の下で言葉をつなぎ直す。

子どもらには、新しい数え唄が覚え込まされる。「ひとつ、ふたつ、とっくりこ」と声を揃えながら、いつの間にか「七」と「九」の節が抜け落ちている。そこが、崩れやすい七番坑と、御制札の出た九番縦穴にあたると知るのは、大人だけだ。子らはただ、「その数を言うと、おばけが出るんだって」と笑い合う。迷信の仮面をかぶせられた恐れが、日暮れどきの路地で跳ね回り、やがて坑口の方角へと静かに沁みこんでいく。

清定の帳尻合わせは、月ごとに細かく、始末の悪い編み目となっていく。坑口の前で、背を伸ばしきれなかった若い掘り子を、「門前作法怠り」として人前で叱りつけ、罰銭を言い渡す。その場では社兵たちに、「ここは山上と変わらぬ御社の御前ぞ」とわざとらしく説教してみせるくせに、夜、灯の下で同じ名を名簿から外し、次の深掘りの折には浅い補修班へとさりげなく回す。「配置替え、保全要員増強のため」と、殿様付きの役所へ出す控えには、もっともらしい文言を添えて。

巡検の折には、朽ちかけた梁の前で、ほんの一呼吸だけ歩みを止める。正式の次第を省いた、半切れの祝詞を指先でなぞるように呟き、紙札を一本余計に結び直す。祭礼による坑止めの日までは、どうにか持つはずの継ぎ当てだ――ただし、殿の「特例許可」が降りなければ、の話。

一つの小さな情けの陰で、彼は別の書付に、深層掘り延長の許し印を静かに押す。「安全祈念の追加斎行を条件とす」と、己を慰める但し書きを添えながら。数珠玉が指の間で鳴るたび、それは勘定方の算盤と、御社の前で積もっていく負債とを、同じ音にして弾いているように思えてならない。

夏代城の刻み印は、そのうち、追いつめられた者だけが読める裏の地図になっていった。柱の根元に二度だけ刃を入れれば、「足元、思いがけぬ沈み」。提灯の釣り金具の下に斜めの線をひとすじ忍ばせれば、「賄賂で危ない番を捌く頭領あり」。仲間づてに問い詰められれば、「自分の足跡を覚えるためさ」と肩をすくめて笑うが、そのたび、遙の影が耳もとで冷たく息を吐く。新しい危うさを見過ごして通り過ぎようとすると、布越しに肩口をぐいとつかまれたように感じ、思わず短刀を戻して木肌に刃を当てる。眠れぬ晩には、町じゅうの柱という柱から歯が生え、刻み目が噛み合って環を成し、自分だけを逃がす一つの欠け目を、いくら探しても見つけられぬ夢にうなされるのだった。

行人宿と湯屋のあいだでも、息ひとつ分ずらした所作が、いつの間にか決まり事になっていく。坑夫たちは角笛の鳴る少し前に列を作り、「腰を伸ばす」「鑿の刃を確かめる」と口々に言い訳しながら、その実、昨夜の崩れかけた支柱の噂や、九番坑の社札が外された話を、肩越しにこぼし合う。回り番の手代は勘定場で銭束を「念のため」と二度三度数え直し、社兵の足音が近づけば、わざと桁を読み違えて問屋とやり取りを長引かせ、その間に卓の上から危ない言葉がすっと引っ込む。社家の小僧でさえ、石段の落ち葉を掃く拍子に、柄の先で石畳をこん、こん、と二度鳴らす癖を覚える。その微かな調子だけで、門前の茶屋や香具師の口から、今しがたまで囁かれていた「禁制」「深層」「祟り」といった語が、煙のように別の話題へとほどけていくのだった。

最初のうちは、誰もがそれを、煤にやられた神経のいたずらと笑い飛ばそうとした。路傍の祠の供え物が、一夜で酸っぱくなると知れても、酒屋は肩をすくめ、「この前の米が悪かったんだろう」と、別の蔵元の名を挙げては帳面を改める。だが、銘柄を変え、搗き歩合を変え、わざわざ川上の清水で仕込んだと誇る酒ですら、夜明けには同じつんと鼻を刺す匂いに変わっている。ぐい呑みの底には、泡とも黴ともつかぬ細かな輪が、まるで誰かが舌打ちした痕のように残った。

秋の初めの雨が一度通り過ぎれば、炭焼き窯の灰など、たちまち洗い流されるはずだった。けれど、その年の雨は、祠の狛犬や山門の仁王の頬にこびりついた灰を、いつまでも落としてはくれない。刷毛を持った若い社家が、額に汗を浮かべて石肌をこすっても、灰は細い筋になって食い込み、石の頬に流れた涙のような跡だけが、いつまでも残り続ける。「これはもう石そのものが泣いておるのだ」と、古い御師がぽつりともらしたのを聞いた者もいた。

炊事場の婆さまたちは、最初、囲炉裏端でだけ舌を滑らせる。「今年の山は、汗かきすぎだよ」と、米を研ぐ手を止めずに呟く。山道のあちこちで、岩の割れ目からじわりと水がにじみ、いつもは冬の終わりにしか見ぬような白い霧が、昼なお谷底から這い上がってくる。婆さまの一人が、「あれは山の嘆きの汗さ。掘りすぎて熱を持った身を、冷まそうとしておいでなのだよ」と言いかけたそのとき、石段の下から鉄靴の音が近づいてきた。

社兵の甲冑がきしり、錫杖の鈴がちり、と鳴るのが聞こえるや、先ほどまで止まらぬ口を利いていた婆さまたちは、ぴたりと唇を結ぶ。誰からともなく、鍋の蓋が一つ、二つと重ねて音を立て、話題は途端に別のところへと滑る。「今年の大根は筋張っていかんねえ」「あんたの孫は、字を習いに行っとるかい」。さきほどまで「山」「祟り」といった言の葉が飛んでいた空気は、煙のように散らされる。それでも、社兵の背が見えなくなったあと、囲炉裏の火の色が、かすかにどす黒く沈んで見えたと覚えている者も、幾人かはいた。

月峰屋の奥では、いつからともなく、座敷隅の一つの行灯が「気紛れ者」と呼ばれるようになった。年若い仲居が最初にそう口にしたときは、皆、笑い話にしただけだったが、そのうち、沖へ出る船頭が雲の行方を読むような目つきで、その火を盗み見るのが習いとなる。客足のまばらな晩には、油も減らぬ穏やかな黄のまま、障子に柔らかな輪を落とす。ところが、坑夫たちの愚痴とため息が重なり、卓の上の盃が荒く音を立てはじめると、炎はじり、と舌を伸ばし、芯のあたりが痩せたように細りながら、次第に青みを帯びていく。

「ただの風向きさ」と誰かが笑い飛ばそうとする折に限って、あの名と「祟り」という語が、盃の影で寄り添うように囁かれる。――「多田尾様も、さすがに……」と、声がそこまで進んだ途端、行灯の火がぱちりと弾け、座敷じゅうに冷たい白光が走る。油皿が揺れたわけでもないのに、長押の上の影がぎくりと身じろぎしたように見え、笑い声は途中でぷつりと切れる。語りかけかけた者は、喉に小骨でも刺さったかのように言葉を飲み込み、隣と視線を合わせぬまま、盃の縁を指先でなぞるばかりだ。

その隙を逃さず、悟里香は帳場からすうっと身を滑らせる。袂に急須を忍ばせ、廊下板一枚きしませぬ足取りで座敷へ入り、「まあ、よく働く火だこと。油を足してやらにゃ拗ねますよ」と、半ば冗談ともつかぬ声色で場の目当てを別へ逸らす。手早く茶を注ぎ足し、「ほら、熱いうちに」と湯気を客の顔の前に差し出せば、さきほどまで梁を走っていた冷えが、いくらか人肌に溶ける。

仲居たちは、火の加減に合わせて盆の運びを変える癖を覚える。あの行灯がぼうと煤けた色を見せる夜には、酔いの回った坑夫同士の席をそっと離し、社兵と山師が向かい合わぬよう、卓の並びを組み替える。気紛れ者がふいと青ざめた折には、誰からともなく、「さ、今度は祭り囃子の話でも」と、取って付けたような世間話が座敷を一巡する。

ごく稀に、社役人や社家が宿に顔を見せる折、その行灯は、逆に妙に大人しく、淡い黄のまま一晩を通すことがあった。その静けさこそ、悟里香にとっては、かえって落ち着かぬ。帳場の陰から、何気なく梁を仰ぎ見ては、祖母から教わった古い言霊を心の内でそっと唱える。「聞き流しておくれ。ここは、ただの旅籠にござります」と。返事代わりに、釣り金具がかすかに鳴る。誰も気づかぬほどの微かな音だが、その夜の月峰屋は、遅くまで、笑い声より茶を啜る音のほうがよく響いた。

坑道の奥では、その「ずれ」が、さらに異様なかたちを取って現れ始める。昔から闇の中の「小突き」の話はあったが、今のそれは、ただの岩鳴りとは言い難い。三つ、ひと呼吸おいて、また二つ。灯の届かぬ先から、まるで誰かが数を教えにくるような調子で返ってくる。「あれは、昔の刻み唄を、ねじ曲げて真似しておる」と、耳の良い古参が震える指で礎の柱を叩き、「いち、にい、さん」と囁けば、闇の向こうで、半拍ずれの音が追いかけてくることもあった。

休憩所の水桶も、いつしか、ただの道具ではなくなる。汗に塩を噛んだ喉を潤すはずの澄んだ面に、ふと屈みこんだ者が、息を呑んでのけぞる。「おれの面が、こっちを睨んでやがった」と、手の甲で口を拭いながら、桶を隣へ押しやる。「傷の位置が反対でよ、眼玉が、まばたきせんかった」と。そんな与太話だと笑い飛ばそうとする者も、次に自分の番が回ってくると、無意識に桶の縁から半歩身を引き、視線を水面から外して、わざと手拭いの結び目を直したりする。誰も「怖い」とは言わない。ただ、桶の影の落ちる床板のあたりを、口数少なに通り過ぎる。

地上でも、言の葉そのものが刃のように感じられはじめると、胸の底に澱を抱えた者たちは、別の筋道を探して語り合うようになる。星人の戯れ歌――そう銘打たれた細切れの詩文が、古帳面の裏や荷札の余白に書き付けられ、町のあちこちを漂う。勘定方の若い書役が、そっと算盤台の上に一枚置き忘れたふりをすれば、番小屋の湯番が、湯桶を傾けながら一節だけ口ずさむ。「塞がれた喉をもつ山」とか、「血の色に濁った水面の月」といった文句に差しかかると、聞き手たちは、笑うべきところではきちんと笑い、合いの手も入れるくせに、そのあとの沈黙が妙に長い。誰も多田尾の名も、「掘りすぎ」の二文字も口には出さぬ。ただ、湯気の向こうで視線が行き交い、紙片の上の一字一句を、まるでそこに別の言霊が潜んでいるかのように、食い入るように追う。その重たい静けさは、怯えというより、「わかっている」と互いに頷き合うためだけに保たれた、声なき合意のようなものであった。

町じゅうの呼吸が、いつの間にか浅く揃いはじめていた。路地では、口笛代わりに古い童唄の節を噛み殺し、社前を通るときだけ、ふいと話題が途切れる。洗濯物に縫い込まれた印は一筋多く撚られ、算盤勘定の「一」が小さく尾を引く。そのささやかな歪みを拾い集めるように、人々の視線が、灯の揺らぎや供物の腐れ具合へと自然に吸い寄せられていく。誰も「近い」とは言わぬが、その沈黙の底では、まだ名のつかぬ何かの到来へ向けて、胸の内のどこかを固く締めているのだった。

悟利花が最初に気づいた変化は、占い札でも凶鳥でもなく、手の届く範囲の「いつもの」ほころび方であった。

いつもなら、宵の三つ時を過ぎてもさいころ卓から腰を上げぬ連中が、その秋口からは、壁際の席ばかりを選ぶようになる。柱を背に、出入り口と階段を同時に見渡せる場所にちゃぶ台をずらし、「まぁ、たまにはここも落ち着くな」と、わざとらしく笑ってみせる。笑い声は高いが、さいころを振る手だけは妙に静かで、転がる目の音ばかりが耳についた。

常宿にしている坑夫らも、財布の紐を別のかたちで締めはじめる。これまでは、給金が入ると「今月ぶん、まとめて頼む」と、胸を張って一部屋を押さえていった面々が、帳場の前で足をもじつかせ、「今宵のぶんだけ、先に払っておこうかと思いましてな」と目をそらす。「なぁに、またすぐ戻るさ。ただ……念のため、な」と。「念のため」という言葉は、病や怪我ではなく、もっとぼんやりとした、名のつかぬものの輪郭を撫でているように聞こえた。

筆をとる悟利花の前で、帳面の罫はいつもどおり真っ直ぐに並んでいるのに、その間を埋めるはずの名が、ぽつりぽつりと抜け始める。「弥助 上番より直行」「宗蔵 親里へ帰省」といった、どうとでも取れる書き付けが増え、「行方知れず」「穴中にて不慮」といった言葉を避けるように、筆先が空白を撫でては宙にさまよう。

それでも、どうしても書かねばならぬときはある。掘り場の組頭が、煤と涙でぐちゃぐちゃになった顔をかしげ、「あいつは……まぁ、その……間が悪うてな」と頭を掻きむしるとき。悟利花は小さく息を止め、「遅参」と書きかけた字を、いったん薄く払い、「支障につき欠」と書き直す。その「支障」の二文字に、自分の胸のつかえごと封じ込めるような気持ちで。

墨壺の縁が、いつもより早く乾くのも気にかかる。夜番の終わりに勘定を締めるころには、まだ半分も使わぬうちに、筆の運びがざらつき、「欠」の点が小さく割れた氷のように紙の上でひびを広げる。灯の下でそれを見て、悟利花は何度か筆を洗い直すが、墨ではなく、書かされている事柄そのものが凍てついているのだとしか思えなかった。

「女将さん、今度の盆には、またあの早駆けの子らが戻ってきましょうや」と、常連のひとりが、わざと陽気に口にする。「そうですな」と悟利花は笑みを返しながら、帳面の端に、その子らの名の行をそっと残しておく。消してしまえば楽かもしれぬ。だが、白い隙間になってしまえば、そこにはきっと別の言霊が入り込み、「不在」「死亡」と、冷ややかな字を要求してくるだろう。

そうして彼女は、書かれぬままの行を抱えた帳面の重みが、米俵よりもずしりと腕に応えるのを、誰にも悟られぬよう、いつもと変わらぬ手つきで棚へ戻すのだった。

その晩の雨は、盆灯籠の火を滲ませながら、いつまでも軒を叩いていた。祭り囃子の名残が遠くで細く鳴るころ、月峰屋の格子戸が、ぎしりと重たく開く。鎧の継ぎ目に雨粒をためた清定が、敷居をまたいだ。朱漆もところどころ煤け、腰の護符は、何度も撫でさすられたせいで端がくるりと丸まっている。

「おや、今宵はお足もとがお悪うございますね、清定様」

悟利花は、いつもの手つきで膳をさばきながら、自ら徳利をとって杯に注いだ。彼の目がさまようのを、横目に追う。兵たちのように出入口の位置を測るのではない。帳場の上の古い梁、その節目のひとつ――いつからか、天井板には染みもないのに、ねずみ色の雫が、時折ぽとり、と落ちる結び目へと。

雫がちょうど、「祭礼縮減」と大書きされた布告の端に落ちた瞬間、清定の手がぴくりと止まる。杯を半ばまで持ち上げたまま、こめかみを押さえ、眉間をきつく寄せた。灯に照らされた横顔は、鎧の陰で思いのほか痩せている。

「……少々、頭が重うございましてな。湿気のせいでしょう」

誰にともなく言い訳をするように呟くと、彼はあえて雫を見ぬふりをして、筆を取る。悟利花は布巾をさりげなく差し出すが、清定は受け取らない。墨壺から筆先を上げたとたん、黒々とした線が、紙の縁で霜柱のように細かくひび割れた。筆致は達者なはずなのに、「略祓」「時短」といった言葉が並ぶたび、文字の外側から白い亀裂が這い寄っていく。

「これで、儀は滞りなく……」

言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。帳場越しに、釣り灯籠の火がふっと揺らぐ。その揺れに合わせて、梁の結び目から落ちる雫が一瞬だけ細く伸び、人の指のように「ここ」をなぞる。

悟利花は、笑みの形だけを崩さぬようにしながら、杯をそっと彼の前へ押しやった。

「どうぞ。冷めぬうちに」

清定は小さく礼をし、そのまま署名の欄に名を入れる。清めの印を記すはずの朱が、紙の上でじわりと白く退き、かわりに墨色の霜が広がったのを、彼も、悟利花も、見ていないふりをした。

雨音がひときわ高くなり、店先の風鈴が鳴らぬまま震えた。外では祭りの灯がまだ揺れているのに、帳場の上だけ、ひと足早く秋の霜がおりたような冷たさが、静かに居座っていた。

同じ雨夜の更けたころ、川べりの勝手口が、そっと内から爪弾かれたように音を立てた。悟利花が鍋の火を落としに行くと、障子の隙間から白い川霧が一筋すべり込み、その輪郭から夏代と呼ばれる猟師がにじみ出るように現れた。外套の裾からは濡れた松葉がぽとぽとと板の間に落ち、彼は「お邪魔しますよ」と、誰にともなく頭を下げる。

腰の袋から、銀かどうかも怪しい粉末の詰まった小袋を卓上に転がしながら、夏代は隣の空間へ向かってぼそぼそと囁いた。

「ここはな、いい結界が張ってあるんだとさ。……静かにしてりゃ、目ぇつけられずに済む」

その「誰か」を宥める声音は、酒席に似合わぬほど真剣で、時折「春香」という名が、喉の奥でひび割れたように漏れる。悟利花が椀に湯気立つ雑炊をよそい、そっと差し出すと、夏代はにやりと例の軽い笑みを作って受け取るが、ふと視線がかち合った瞬間、その笑みの裏側に、底なしの怯えがちらりと覗いた。

帳場の脇、並べた徳利の艶に、灯りが長く伸びる。悟利花は、なにげなくその反射を横目で追って、思わず息を詰めた。夏代の肩越し、誰も座っていないはずの場所に、白衣をまとった少女のような影が、霞んだ輪郭のままじっと座している。顔立ちは水面に崩れた月のように定かでないのに、そこから滲み出る悼みの気だけは痛いほどはっきりしており、この場の誰一人にも属さぬ哀しみであると、ひと目でわかった。

影の視線は、酒や膳ではなく、清定の署名の残る布告の紙片と、天井の結び目とを、行き来するように揺れている。悟利花は、柄杓を持つ手に力を込め、あくまで常の女将の声音で言った。

「よう降りましてなぁ、山のほうは冷えましょう。ここで温まっていかれませ」

その言葉は、生者ひとりと、その傍らに貼りついた亡者と、両方に向けたものだった。夏代は一瞬、隣の空気を盗み見るようにしてから、小さくうなずいた。その動きに合わせて、徳利の中の影がかすかに揺れ、白い輪郭が、夜気に溶けることもできぬまま、月峰屋の薄明かりの中に、じっと留まり続けた。

数日あとの宵、月峰屋の隅の卓ひとつに、「旅の詩人」を名乗る男が腰をおろした。煤にくすんだ坑夫たちの中で、その袖口の墨染みだけが、場違いに静かな黒さを放っている。秋の実りや山川の清流を詠むだけの、穏やかな詩句に聞こえるはずなのに、「岩に刻まれし約定」とか「血の尽きても消えぬ誓い」といった一節にさしかかるたび、近くの男たちの笑いがふっとしぼみ、箸の音が途切れた。

悟利花は、湯気の立つ茶を注ぎながら、その沈黙の重みだけを聞き取る。誰かが小声で「石場御定書の文言じゃねえか」と呟き、隣の者に肘で制される。詩人は気づかぬふうを装い、たださらさらと筆を走らせている。やがて席を立ったあと、卓を拭こうとして、悟利花は彼の袖の陰に、一片の半紙が置き忘れられているのを見つけた。

拾い上げると、そこには「休」の字が、形を崩さぬまま幾度も幾度も書き重ねられている。最初のうちは穏やかな横木と人偏にすぎぬものが、重ねられるごとに墨がにじみ、横木は柵のように太り、人の立つ余地は細く締め上げられていく。灯の下で見つめていると、その「休」はもはや休息ではなく、「立ち入り止め」の柵札のように見えた。悟利花は半紙をたたみ、茶托の下にそっと忍ばせる。まるで、自分の帳面には書けぬ別の「休みなさい」という言葉を、そこに一度だけ預けるように。

深夜、客間の灯がすべて落ち、台所で竈の火の精だけがぱち、ぱちと名残を言うころ、悟利花はひとり帳場に残り、今日の付け帳と、清定が置き忘れていった皺だらけの布告とを広げていた。梁の結び目からの幽かな滴りは、いつのまにか細長い光の筋となって天井を這い、坑夫たちの噂にしか上らぬ「禁掘の脈」の線と、寸分違わぬ曲がり方で部屋を横切っている。足もとで床板が、ごくかすかに、茶碗ひとつ鳴らぬほどの震えを伝え、行灯の光の中で塵がふわりと舞った瞬間、悟利花はふと悟る。疲れ果てた顔、書き換えられた契約文、席で誰かが吐いた半端な詩句――どれもばらばらの厄介事ではなく、一続きの筋書きの別々の文字にすぎぬことを。この谷で皆が渡らされている細い板は、偶然そこに掛かったのではない。上から利をむさぼる者がわざと渡し、下から山そのものが、別の理屈で押し返している。その二つの力のあいだで、町ごときしみ始めているのだと、はじめて骨の芯で知った。


Frost and the Hidden Shaft

帳場の卓にひろげた布を掌でなでつけ、皺ひとつ許さぬようにしてから、悟里香はその上に通達書を置いた。灯心を指でひねり、油皿の火を細く絞る。揺らぎが収まると、墨線の一本一本が、まるで山肌に走る鉱脈のようにくっきりと浮かび上がった。

「非常措置につき、通常の祭祀を簡略することを許す──」

読み慣れたはずの文言が、今宵は舌の奥に砂を噛ませる。ひとつ前の通達、さらにその前のものを帳場箱から抜き出し、並べる。署名「祭兵頭 清貞」の横に捺された印は、いずれも同じ癖でわずかに傾き、その日付は、ここひと月ほど続いた不穏な夜と重なっていた。

鉛筆で端に、こっそりと印をつける。「薄霜」「井戸口の息」「灯り青し」。自分が書きつけた短い記憶の印と、通達の日取りが、ぴたりと合う。悟里香は顎に手を当て、指先に残る炭袋のざらつきを意識しながら、帳簿の棚へと手を伸ばした。

古い季節の帳面を引き出すと、乾いた紙の匂いが立ちのぼる。春祭り、火の夜、去年の中秋──それぞれの見出しの下に、宿泊客の名と銀貨の出入りがきちんと並んでいる。その脇に、自分だけが覚えていればよいはずの小さな書き込み。

「夜半、柱鳴る」「釘、汗をふく」「炭夫ら、祈り短しと不満」

今宵の通達と同じ文言の紙片を差し込んで、並べていく。あるところから、清貞の名が続き、その向こうには、決まって同じ買い上げ人の印。川向こうの精錬所、谷下の運脚組合、そして、領主忠雄の外商と噂される商家の家紋。

指でなぞれば、銀の匂いが立つようだ。その名の並ぶ日、帳面の別の列には、炭夫長たちの宿泊が多く、翌朝の行に、決まって似た文字が踊っている。「祭、早じまい」「詠み上げ、半分のみ」。

「……清貞様が、みずから願い出たわけではあるまいな。」

声に出した途端、部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。井戸端で感じた、季節はずれの霜の息が、帳場の畳の隙間から忍び寄る。悟里香は、通達の裏をあらためる。表向きの印のほかに、小さく書記役の名。同じ筆跡が、ほかの文書にも潜んでいる。鉱山奉行所付きの書役、忠雄の腹心と噂される男。

「祭りを削るたび、あの方々の荷は増える。…そして、うちの杯は、割れた。」

帳面の余白に、そっと一行書き足す。「非常措置、三度目。霜、再び。」筆を置いた刹那、梁の上で古い木がみしりと鳴り、掛けてある小さな護り札が、誰も触れていないのに、かすかに揺れた。悟里香は目を細め、その揺れが、ただの夜風か、あるいは帳面越しにこちらを覗くものの合図かを、慎重に見極めようとした。

帳棚のいちばん下段、普段は年に一度も開けぬところから、悟里香は春先の帳面、火祭りの帳面、去年一昨年の中秋の帳面を、年代順にずるずると引き出した。卓の上に並べ、今朝しめたばかりの出納帳と、通達書とを脇に置く。頁を繰る指先が、油と炭と塩水の跡をたどりながら、墨の名を拾っていった。

川向こうの精錬所の屋号、その荷を運ぶ脚夫組合の印、谷下の運脚頭の花押──どの季節にも、決まって同じ名が、同じ順に並んでいる。しかも、その行の端には、自分が走り書きした些末な記憶が、細く小さく付いていた。「夜、護り札ちらつく」「灯心、青し」「炭夫ら、『祈り、駆け足』と笑う」。

別の日には、「終業の刻、前倒し」「次の刻に追加の班」とある。その隣の列には、急ぎの荷の数が増え、往来した荷駄の印が濃く重なっている。表の賑わいの陰で、祭りの言葉と土への詫びが削られた夜ほど、あの名と印が、濃く、同じ墨色で浮かんでいた。

組合頭たちが湯殿あがりにぽろりとこぼした愚痴、役所まわりの古株が「まあ、どこでも似たようなものさ」と笑って押し隠した昔話、そして役人たちが事故のたびに持ち込んだ「見舞金」「特別手当」と書かれた封袋──悟里香は、ばらばらだったそれらの欠片が、一枚の帳面の行として揃っていくのを見た気がした。禁じられた層へ掘り進めたあとに起こる崩落、その直後に増える札束と口止めの誓紙。泣き崩れる遺族の袖口に、書役がそっと差し入れる筆と印。悲嘆が銀貨の重みで均され、「やむを得ぬ損失」として勘定に組み込まれていく手際のよさが、冷たい条文の裏から立ち上がる。

天井板を這う薄霜の筋を目で追いながら、その走りを、噂に聞く「立入御法度」の新坑の走向と心のうちで重ねていくうちに、悟里香は悟った。役所言うところの「避けがたき事故」などというものはなく、封じられた霊脈へ、承知のうえで鍬を入れた、その勘定づくの代価なのだと。

寒気の張りつめた座敷で、悟里香はようやく見通した。帳面に踊る多田尾の名と印、祈りを削った清貞の「やむを得ぬ」判、そして社の沈黙が、ばらばらのものではなく一続きの企みであることを。鉱夫にも山にも、計算された不正を覆い隠すための、整えられた虚言が食わせられてきたのだと。

思いは、あの夜の安酒の匂いへと遡った。薄い湯割りの徳利を前に、煤にまみれた若い鉱夫が、妙に落ち着かぬ指先で盃の縁を叩いていたことを。口ぶりは陽気を装っていながら、笑いが喉の奥でつかえるように重かった。

「姐さん、今度の番は、帳面にも残らねぇ“お勤め”でさ。」
そう言って、彼は声を潜め、酔いに任せて、ぽつりぽつりと打ち明けた。

「頭から直々に声がかかったんだ。『口の固ぇ奴だけに回す、忠義者だけの一山だ』ってな。印も札もいらねぇ、全部“内金”で、夜のうちに片づけちまう。帳場にゃ残らねぇから、上の連中にも邪魔されねぇ、って。姐さん、俺ぁようやく見込まれたんだ。」

その時は、悟里香も、ただいつもの“危ない口利き”くらいに受け流した。ひそ働きの一つや二つ、この町では珍しくもない。だが、彼がやけに新しい脚絆を何度も撫でさすり、
「これで、女房を里から呼べる」
と、目の端を赤くしながら笑ったのを覚えている。

「どの坑だい。」
さりげなく訊ねた自分に、彼は盃を伏せた手で、入口の方をあごでしゃくった。

「札にはまだ書かれてねぇ“奥の奥”さ。山の連中が昔から『口を利くな』って嫌がってる筋の先だとよ。だからこそ、忠義者だけ――だってさ。」

その翌朝、彼は夜明け前の薄闇の中、いつもより上等な握り飯を風呂敷に包んで、照れくさそうに手を振って出ていった。戻りの足音が、その日じゅう、土間を叩くことはなかった。

今、崩れた新坑の名簿に、その男の名がある。
「忠義者だけの一山」と囁かれた仕事が、表の帳簿から外された「一山」であり、そのまま封じられた霊脈の闇へ、まるごと呑みこまれたのだと悟ったとき、悟里香の胸の内で、あの夜の安酒が氷のように変わっていった。

思いは、さらりと押された行印へとさかのぼる。亡くなった男たちの名の脇に、きちんと並んだ鉱夫組合の丸印――日付も番数も間違いなく揃い、まるで模範の書式のように整っている、その過ぎた整いぶりが、今となってはかえって鼻につく。あれほど「慎重第一」「社の掟を忘れるな」と口を酸っぱくしてきた頭(かしら)が、ここひと月ばかり、やけに腰の軽い笑いを浮かべて、
「多田尾様の“安全加増”がつくおかげで、皆も潤う。ありがたい話でさぁ」
と、早口にまくしたてて帰っていった日のこと。

その折、悟里香が、廊下の隅に立てかけた古い坑道図を指で叩きながら、
「この層より下へは、昔から社の札が降りてるはずだがね」
と水を差したとき、頭は一瞬だけ言葉を呑み、笑い皺を深くして見せた。

「いやいや、姐さんも古い話を。今度のは“安全加増”で、いっそう守りが固くなるんでさ。深かろうが浅かろうが、きっちりお上の印ももらってる。心配はいりませんよ。」

そう言いながら、その目だけが、帳場の隅に吊した小さな社札と、
「これより奥、山の息止めるべし」
とかすれた墨で書かれた古い札文から、するりと逃げていった。その視線の滑りを、あのとき悟里香は「借金か、女の一人でもできたか」と笑い話に紛らわせた。今思えば、あれは笑い事ではなく、「見えぬもの」を見ぬふりする側へ、頭が足を踏み入れた合図だったのだ。

思いの刃先は、数日前、戸口に立った清貞の姿にも引き返っていく。夜番上がりの兵を従えず、一人で、妙にきちんと帯を締め直して現れた清貞は、悟里香がいちばん上等の茶を出すと、礼を言いながらも、湯気の向こうで落ち着きなく指を数えていた。

「このところ町に、妙な噂が飛び交っておりましてな。――姐さん、宿の男衆を、余計なこと口にせんよう、なだめておいてくだされ。」

それだけなら、いつもの「鎮め役」の頼みで済む。だが「余計なこと」と言うときだけ、清貞の目は座敷の隅の社札へと流れ、その視線が、禁りの文句の手前で、すうっと引き返すのを、悟里香は見逃してはいなかった。彼の唇は「札は古い」と笑ったが、その笑いには、祈りを削る者の苦い匂いが混じっていた。

思いの糸は、ここひと月ほどの違和感を次々と手繰り寄せる。星人(ほしと)と名乗った旅の文人が、帳場の片隅で「印のない達し」という言葉を、何気ない世間話のように落としていったこと。下坑の御祓いを請け負ってきた社の祝(はふり)たちが、急に「所の都合で」と口を濁し、粗末な紙札一枚で済ませて帰るようになったこと。守る側とされてきた者たちが、それぞれの都合で、見てはならぬ危うさと、見なかったことにする危うさを、好きな方だけ選んでいる――その偏りごと、町を山の怒りへ差し出しているのだと、ようやく骨の底まで悟る。

ひびの入った猪口の霜を拭いながら、悟里香はそこに押された宿屋仲間の紋を見つめた。指先を伝う冷たさは、ただの夜気ではない。己がずっと倣ってきた掟を書きつけた側の誰か――長年、同じ帳場で愚痴をこぼし合ってきた誰かが、見せしめに差し出されたか、或いは自ら進んで、多田尾へ町ごと売り渡したのだ、と。唇の内側に、鉄錆のような味が滲んだ。

悟里香は、表の帳場では決して広げぬ古い勘定帳と、日ごとに集めてきた紙切れを、座敷の隅に膝を寄せて並べていた。湯殿上がりの客がぽろりとこぼした「明日も下(した)だとよ」という愚痴、酔いどれの鉱夫が、銭勘定のときには珍しく指折り数えた「名もない番替え」の日付、宿代を滞らせがちな連中だけ、妙に無理な深坑行きに回されているという、台所女中の耳に入った話。それらを、彼女は心の中の算盤に一つずつはめ込み、裏の帳面にそっと墨で印を打っていく。

正規の札にない番割り、下役の名を借りて書き直された出坑時刻。札の隅に、いつもなら見逃してしまうような、癖のある印判のにじみ。その形を目で追ったとき、悟里香の胸の奥で、冷えたものが音を立てた。

その印は、十年来、同じ釜の飯をつつきながら多田尾の悪口を肴にしてきた、行人宿番の書記のものだった。祭りの晩には、こそこそと帳場から抜け出し、裏口で握り飯を分け合った相手。借金の文句を言い合い、「お互い様ですな」と笑い合ってきた、その手が、名もない男たちを、札一枚で深みへ押しやっていた。

「まさか」と、口の中で形だけ否定の言葉を転がす。だが紙は嘘をつかぬ。違う日に違う坑、違う頭(かしら)の命じたように見せかけて、印だけは、いつも同じだ。時刻の書き換えで穴埋めされた隙間が、ちょうど「あの夜の揺れ」の前後に口を開けている。

ひと息つくと、座敷の空気が重くなった気がした。梁の上の札が、静かに、しかし確かに、冷気を滴らせている。悟里香は指先についた墨を袖で拭い、ひとつだけ決めごとを胸の内で言葉にする。

――確かめねばならぬ。笑い話の相手としてではなく、番札を弄(いじ)る者として。

その夜の明け方、まだ朝餉の仕込みにも早い刻限、彼女は蔵の横手の物置へと、ひとり足を運んだ。帳場への出入りの癖を知り尽くした相手なら、いつ、どの道を通るかも、だいたい読める。凍りかけた中庭の石畳に、霜の白い筋が蜘蛛の巣のように広がり、その上を踏むたび、かすかなきしりが足裏に伝わる。

物置の引き戸を、あえて半間ほど開けたままにしておいたのは、悟里香である。「茶器の数を見てやってくれ」と前夜さりげなく頼んでおいたから、書記はきっと、出役前のこの刻に、覗きに来る。狭い空間には、干した藁と古い帳面の匂いが満ち、隅には、割れた徳利や欠けた猪口が籠に積まれていた。

戸口の影が揺れ、「お邪魔いたしますよ、姐さん」と、聞き慣れた声が小さく笑った。悟里香は、振り返る前に、胸の中で一度だけ数を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ――長年連れ添った油断を、その数と共に切り落とすように。

互いの間を隔てるのは、丈の低い棚と、藁屑ばかり。逃げることも、言い逃れることも、もうできぬ距離だった。

「姐さん、違うんだ」と、書記は棚に手をつき、腰のあたりから力が抜けたようにへたり込んだ。「俺の裁量じゃねえ、もう上から番割りは決まっててな。俺ぁ、送られてきた札に、印を押しただけで……」

悟里香は、彼の言葉の切れ目に、淡々と問いを差し挟んでいく。

「じゃあ、その『上』ってのは、どこの誰で? 札は、どこから来た?」

「……組頭のとこさ。その、裏の座敷で……」

「裏座敷で、誰と並んで酒を飲んだ?」

沈黙。喉が鳴り、書記の視線が、物置の隅の割れ猪口の籠を泳いだ。

「社付きの役人が時々、来てな。あとは、多田尾様の蔵方だって名乗る連中が……。札を早めに通せば、借金の利子を軽くしてやるとか、印を押すだけで小遣いを出すとか、そう言われて……。安全祈願の願い札は、急ぎじゃねえから後でまとめて、って。検分の紙も、『ちょっと言い回しを変えてくれりゃ丸く収まる』って、脅すような笑い方でよ……」

「印だけだ」と繰り返す声は、もはや自分をも誤魔化せず、藁屑の上に崩れ落ちていった。

帳面の上で、吐き気を催すほど明瞭な筋立てが浮かび上がってくる。小言の多い親方や、坑口で愚痴をこぼしていた連中ばかりが、いつの間にか一番深い、札の上では名もない支坑に詰め込まれている。安全祈願の願い札は、行人宿から行人宿へと「預かり」の名目で回されるうちに、いつしか行方知らずとなり、行き着くはずの組合役所の棚には、一枚の影もない。検分役が夜更けに書き直した報告書は、実際よりも揺れを軽く、亀裂を浅く、死者を「持病持ち」と言い換えて、多田尾の求める「支障なし」の文言にねじ曲げられている――その隅に、決まって、見慣れた印判の滲みが押されていた。

崩落の噂が町に回るより早く、行人宿組合の年寄り連中は、書記を囲んで口をそろえた。「あれは末端の小役人にすぎませぬ」「騒ぎ立てて誰の得になります?」――そう言って悟里香にも、「安定」の二字を盾に口をつぐめとやんわり迫る。その声色には、互いを守るはずの誓紙が、いつの間にか上から下への締め付け縄に変わっていたことを、隠そうともしない響きがあった。

畳の目を伝って霜の縁が白く走る。帳場に立つ悟里香の胸中で、宿屋組合という名のものは、もはや自分たちを守る傘ではない。坑口へ人を送り込む歯車の一本、笑顔を貼り付けた選別機だ。誰を闇へ押し込み、誰に目をつぶる銭を握らせるかを、静かに仕分ける機構。

行人宿組合の座敷――黒光りする掲額、朱で縁取られた心得の札、几帳面に並んだ印筒や印判の箱――そのすべてが、悟里香の脳裏で形を変えていく。格子戸の向こうでぬらりと口を開く闇のように、あの座敷そのものが一つの顎となる。壁に掛かる「和」「安定」「共栄」の三文字は、穏やかな書ではなく、骨を噛み砕いた後の白々しい舌打ちに見えた。

規約一条一条は、研ぎ澄まされた歯である。違反に課される罰金は犬歯、減額の名目で取り立てる特別負担は臼歯。どれもこれも、人の言い分や事情を噛み潰し、形の分からぬ塊にして飲み下すために並んでいる。年に一度の「総締め」の席で回される香の煙は、傷口をなめる舌の湯気だ。欠損届、病欠願、弔慰金願い――白紙の帳面が差し出されるたび、その見えない舌は、じっとりと血の味を確かめている。

押印の列もまた、喉の奥へと続く螺旋のようだ。最初に宿屋側の印、その上から組合役所、そのまた上から代官所の代印。重なれば重なるほど、墨の黒さは増すのに、書かれているはずの名と顔の輪郭は薄れていく。そこには、誰がどの宿で寝起きし、どの子が父を坑に送ったかといった、息の通った話は一本も残らない。ただ、「受入人数」「事故件数」「遺族対応済」の欄がきちんと埋まっているかどうかだけが、噛み砕かれた肉片の量として測られていく。

会合のたびに運ばれてきた、仰々しい蒔絵の盃も思い出される。表には松竹梅、裏には組合の家紋。だが今、悟里香の目には、あれは喉の奥で鳴る小さな飢えの器にしか映らない。口当たりの良い清酒で互いの良心を麻痺させ、その代わりに、誰か一人ひとりの名と顔が、静かに飲み干されていく。規約は歯並びを狂いなく揃えた顎、手数料は舌のぬめり、印は胃袋のひだ――そうして組合という名の躰は、笑みを作りながら、町ごとゆっくりと咀嚼していたのだと、今さらのように悟らされる。

思い返せば、組合座敷での帳合いの日ほど、血の気のない数字が行儀よく並んでいた場はない。崩落も、落盤も、挟まれた腕も、すべては「件数」と「死傷」の枠に押し込められ、「見舞金」「香典」「遺族対応」の欄に小さく丸印がつくだけで済まされていった。名は要らぬ、年齢も家族構成も要らぬ。ただ「三名」「一名」「支給済み」――それで帳簿は整い、年寄りたちは胸をなでおろす。

「本年も大過なく」「今後とも御協力のほど」

そう口上を述べるとき、彼らの手は、黒々とした墨の上を文鎮のように滑り、次の行へ次の行へと人の影を送っていく。誰かの夫が、誰かの息子が、どの宿のどの部屋で飯をかき込んで出ていったか、その一人ひとりの記憶は、帳場に残る膳の勘定よりも軽んじられた。盃が回り、「共栄」「安定」の言葉が座敷に満ちるたび、木札の数字だけが、静かに肥え太っていくのだった。

かつて肩を並べ、困った折にはひそかに帳尻を合わせ合ったはずの顔ぶれが、思い返すほどに輪郭を失っていく。誰それの皺だとか、煤に染まった指先だとか、細かな癖まで覚えていたはずなのに、今、悟里香の目に残るのは、一様に張りついた笑い口だけだ。その口が、「致し方ないさ」「皆で耐えれば」などと、代官所の書役が事故報告の帳面を前に使うのと同じ調子で言葉をこぼす。広げる帳面こそ宿の出入りや組合費の台帳だが、書き込まれる数字の向こうにあるのは、あちらと変わらぬ「差し出す者」の名もなき列に思えた。

自分の押した印が並ぶ書付の束――営業許可も、宿泊名簿も、苦情願いも――は、いまの悟里香の目には、坑の腹へと人を静かにつなぎ止める薄い腸のように見える。一枚一枚を綴じる麻紐が、そのまま誰かの喉へ巻きつき、抗う声を紙の上の「済」の字に変えていくようでならない。

炉端でじゅ、と音を立てて霜が退き、縮んでいく輪のような温もりの境に、悟里香は己の内側で何かが霊の辛抱と交差し、二度と元の岸へは戻らぬと悟った。これまでのように「仕方ない」で受け流し、帳簿とお札のあいだに気持ちを押し込めておく場所は、もうどこにも残っていない。

悟里香は、気づけば掌にじっとりと汗をかいていた。帳場の脇の柱にかけてある手拭いに伸ばしかけた指を、途中で引っこめる。こんなときこそ、昔ながらの鎮め言を胸の内で唱え、火床の神に詫びを入れ、帳面の隅に小さく榊の印でも描き足すのが、これまでの自分の「務め」だったはずだ。

「……山の御霊も、川の御霊も、どうかお静まりを――」

形だけでもそう囁こうとして、喉の奥で言葉がひっくり返る。炉の火がぱちりと弾け、霜の残る土間から冷気が這い上がってきたのと同じ刹那、胸の底で何かがきしむ。

あの坑に、今朝笑いながら出ていった顔がいくつもある。常宿の鉱夫だけではない。妻子を里へ帰す路銀を数えていた若い男、秋祭りが済んだら組を抜けると、小声で打ち明けてくれた中年の男。名を呼べば、ふっとこちらを振り返りそうな背中ばかりだ。

「これもお天道様の御定めで……」
「皆で堪えればのう……」

耳の底にこびりついていた決まり文句が、今日に限って耐え難く耳障りだった。定めだと? 堪えろと? 誰が、どこで、何と引き換えに、そんなものを決めたというのか。

悟里香は、湿った掌を前掛けの両脇にぐいとこすりつけた。布地がざらりと肌を引っかく。いつもなら、そのまま胸のうちだけで「どうかお目こぼしを」と囁くだろう。けれど今、唇からこぼれたのはまったく別のものだった。

「――またこれを『御宿命』などと書き立てるおつもりなら、神々とやらも代官所の墨で喉を詰まらせておしまいなさいまし」

声にした途端、帳場の空気がぴんと張る。炉の火がほんの一瞬しゅ、と沈み、梁の上から、見慣れた小さな影がこちらをうかがった気配がした。井戸と竈に棲む宿の霊か、それとも外の霜を呼んだ底のものかは分からない。ただ、誰かに聞かせるというより、自分自身から逃げ道を奪うように、悟里香は歯の隙間からもう一度、低く繰り返した。

「筆で済むものと思うな……今度ばかりは、帳面の外にも名が残る」

そう呟いた胸のうちには、神への畏れと同じくらい、帳場の墨と印に縛られてきた年月への怒りが、ゆっくりと形を取り始めていた。

代官所付きの書役が、震えの余韻も冷めきらぬうちに帳面を抱えて現れた。煤けた袖口に新しい墨の匂いだけが場違いに清潔で、悟里香は胸の奥で何かが逆立つのを感じる。

「事故人名、宿泊分、相違なきよう――」

慣れた口上に合わせて筆を構えた男の前へ、悟里香は静かに名簿を差し出した。その指先が紙から離れないまま、顔を上げる。

「では、ひとつ書き添えていただきとうございます」

書役の眉がわずかに動いた。女が口を挟む場ではない、という癖のついた目つき。それを正面から受け止めながら、悟里香はいつもの丁寧語を崩さず、しかし一字一句をかみ殺すように告げる。

「今度の揺れは、鐘が鳴る前に始まりました。……前と同じでございますね。社の札で『これより先、掘るべからず』とあった筋へ、またお手を伸ばされた折と」

炉端の火がふっと細くなり、土間の霜がかすかに軋む音がした。

「そのこと、どうぞ帳面にお忘れなきよう。あれをただの地震とお書きになれば、次はもっと深う、割れてしまいましょうから」

書役は鼻で笑いかけて、笑いきれずに口をつぐんだ。筆先が、紙の上で戸惑うように揺れる。それをじっと見つめながら、悟里香は、自分の言葉がもう後戻りの利かぬところまで出てしまったことを、はっきりと知った。

悟里香は、帳場の前で一度だけ深く息を吸い込み、湯気の立つ盆を抱えた若い手代たちを呼び集めた。

「まず、怪我人と、その家の者へ。あとは坑から戻った組を先に。……代官様方は、後でよろしゅうございます」

「しかし、悟里香さん、蔵元さま付きのお番頭衆が――」

「手が足りませぬゆえ、とお伝えなさい。うそではありませぬ」

穏やかな声のまま、言葉だけを退路なく並べる。片隅では、忠男の手代が、上等な漆盆に載せた酒肴を持ったまま、所在なげに立ち尽くしていた。いつもなら真っ先に座敷へ通されるはずの蔵元方の用人が、帳場の柱にもたれ、苛立たしげに膝を揺する。

「お待たせいたしまして、まことに――ただ今、湯場も台所も手一杯にて」

悟里香は、自ら膝をついて頭を下げる。言葉はひたすら低く、丁寧に。だが、背後で、割れた茶碗を布でくるみながら女中たちが、血と煤で真っ黒になった男たちに椀を差し出している気配が、はっきりと伝わっていた。

「命のあるうちに、口へ入れてやらねばならぬ者がおりまして」

その一言だけを、聞き逃がせぬよう、ほんのわずかに重く置く。用人の眉がひくりと動き、言い返しかけた口が、場の空気に押し戻される。炉端の火が、ちろり、と静かに揺れた。

その晩、悟里香は、長らく「厄介の元」として鍵をかけていた裏座敷の閂を、音を立てぬよう外した。煤の匂いだけが残る薄暗がりに、顔なじみの不平家の鉱夫二人を、勘定抜きで通す。

「今宵ばかりは、帳面の外でございます」

ぬるくなった燗酒を注ぎ足しながら、自分はほとんど口を挟まぬ。坑の奥で見たもの、札を破ってまで掘らされた筋の名、誰がどこで「忘れたふり」をしたか――荒い息と共に零れ出る言葉の一つひとつを、盃の音に紛らせて、胸の底へ沈めていった。

灯を落とす前、悟里香は、炉端で焦げて捲れた古い御札の端を拾い上げた。霜で指先をかじかせながら、その裏へ、今しがた名簿から消されかけた三人の名を、細く、かすれるほどの筆で書き込む。

「忘れられませぬように」

誰にも聞こえぬ声でそう告げ、帳場の抽斗――行司役や検分役が詰める折々に必ず開かれる、行灯の影の一番下――へ、折り畳んだ札をそっと滑り込ませた。表向きは、亡き者のためのささやかな供え。だが、その紙一枚が、いずれ誰かの目に突き刺さる棘となることを、彼女は承知していた。

中庭の供え物は、刻一刻と増えていった。炭で真っ黒に染みた手袋、折れ曲がった手提げ灯の柄、子どもの手に余る小さな木槌。濡れたように黒光りする石片をそっと積んでゆく婆の肩が、冷えた風にひとつ震えるたび、吊した灯籠の火が細く鳴った。

土間の奥、帳場脇の一角には、臨時の書付台が据えられている。代官所から回された吏員たちが、肩を寄せ合って黙々と筆を走らせていた。薄藍の羽織の裾は煤で汚れ、しかし広げられた帳面だけは、いかなる汚れも許さぬとばかりに真白である。

悟里香は、湯気の立つ鉢を二つ、三つとその卓へ運びながら、あえて視線を落とさぬふりをした。だが、茶の縁越しに、墨痕だけはきっちりと拾う。

「……第三連鉱、巳の二ノ筋――」

最初に書きつけられていた文字の上から、惜しむことなく墨がべったりと塗り重ねられている。乾ききらぬ黒の上に、別人の癖を持つ細い字で、新たな坑道名がすべり込んでいた。札で固く閉ざされていたはずの脇筋の名が、あたかも最初からそうであったかのように。

「字が滲みますぞ」

年嵩の書役が、隣の若い吏員を小声でたしなめる。

「は、はい。しかし、上からのお達しにて――」

「よろしいゆえ、書き直せ。余白はまだある」

ぶつぶつと交わされる声は、さほど悪びれたものではない。ただ、そこに記されてゆく人の名と、筋の名だけが、彼らにとっては、町外れの荷札と同じ軽さなのだと、悟里香は知る。

帳面の行の間には、よく知る顔が幾つも眠っていた。昨夜まで、風呂場で笑いながら胡麻塩頭をこすっていた男。月番のたびに、帳場へ土産の饅頭を差し入れてきた若い夫婦。その名が、きちんとした楷書で一つずつ並べられ、同じ筆で「遺族なし」「債務なし」と付け加えられてゆく。

「おかわりの御汁、お持ちいたしましょうか」

悟里香は、盆を抱えたまま、そっと膝を折って問うた。吏員たちは一様に疲れ切った顔を上げ、曖昧に頷くだけである。誰も、彼女の言葉の中身を聞いてはいない。ただ、熱いものが運ばれてくるという事実だけを受け取って、再び筆先を落とした。

その筆が一画ごとに、人ひとりの生きてきた重みを薄く平らに伸ばし、乾けば二度と掬い上げられぬ「事実」へと変えてしまう。帳場の灯が、紙の上でかすかに青く揺らいだ。

「……お気の毒なことでございますな」

誰にともなく、そう言葉を零す。最も近くに座る若い吏員が、気のない調子で応じた。

「ええ、まあ。しかし、こうして記しておけば、あとで困りませぬゆえ」

困るのは、誰か。記される側か、記す側か。それとも、紙に書くことのできぬものたちか。悟里香は何も返さず、静かに一礼すると、盆を抱えたまま、帳面に映る墨の光を背にした。背後で、さらさらと、名がまたひとつ、血の色を知らぬ線に変えられてゆく音がした。

祭り支度で呼び立てられたのか、ひとりの若い書役が、湯気の立つ椀を前にしたまま、慌ただしく立ち上がった。帳面と筆を脇へ押しやる拍子に、黒い結び紐がほどけ、綴じ目のあたりがぱたりと開く。

「すぐ戻りますゆえ」

そう言い置いて、土間の向こうの人だかりへ紛れていった。

悟里香は、盆を抱えたまま、その場にふっと影を差し入れる。誰にもせかされぬ足取りで、しかし迷いなく。

「お膳を下げても、よろしゅうございますか」

誰にともなく告げて、椀に手をかけるふりをしつつ、片側にずれた帳面を、そっと自分の方へ引き寄せた。紙の端に、まだ乾ききらぬ墨の匂いが立っている。

ぱらり、と一葉だけがめくれたところで、視線を落とす。そこで、一行分の坑の名が、荒々しく掻き消されているのが目に入った。上から重ねられた黒は濃く、元の文字の形をほとんど許さない。

そのすぐ脇に、別の筆跡が滑り込んでいる。代々の坑夫たちには馴染みのない、最近になって付けられたはずの筋の名。帳場で聞きかじる通りの呼び名と、わずかに違う綴り。

(やはり、巳の二ノ筋ではなく……)

喉の奥で言葉を噛み殺す。掌で椀底を支え直すと、まるで汁の加減を確かめるかのように、もう一度だけ、その書き換えられた坑道名と、欄外に小さく添えられた「指示 上意ニ依ル」の文字をなぞる。

「冷めてしまいましたな。温め直して参りましょう」

聞き手のいない声を残し、彼女は帳面を元の角度へ戻した。墨の光は、何事もなかったように、行灯の火を淡く弾き返している。

夜四ツ過ぎ、見廻りの鉦が遠くで三度鳴りやんだのを確かめてから、悟里香は土間奥の物置の閂を静かに外した。中は芋俵と酒樽の匂いがこもり、隅の棚には、誰も気にも留めぬ古い木箱が積まれている。その一つを引き出し、蓋を開けると、黄ばんだ絹張りに墨線の褪せた「霊脈行程図」が現れた。祖母が「祭礼の日以外、けして開くな」と言い含めていたものだ。

彼女は帳場から持ち出した当番表と、町役所貼り出しの稼行札の控えを並べる。灯心を絞った行灯の下、煤に荒れた指先で、禁足層と記された層線と、今度の崩れた筋の位置とを、そっとなぞり合わせた。

「……ここまで、踏み破りましたか」

誰にともなく呟き、霜の夜気が板間から沁み上がるのも忘れて、悟里香は幾度も、霊脈の細い線と、役所の太い墨筋との重なりを確かめた。

霊脈図の「盟約ヲ以テ封ズ」と掠れた小さな印と、役所の帳面で塗りつぶされた筋の位置が、寸分違わぬことに気づいたとき、胸のうちで何かがぴしりと割れた。勘定用にだけ使う筆硯を引き寄せ、客帳の片隅に、いつもより細い息で墨を含ませる。

(これは、借りの印……いずれ払いに来る者らの)

そう見立てながら、名主格の監督や、荷車方の頭の名の横にだけ、小さな丸をひとつずつ忍ばせてゆく。帳場の灯をわずかに避け、誰が見てもただの癖字と見過ごすであろう薄さで。それでも、自分の目には、そこが霜の夜のように白く浮き立って見えた。

翌朝、崩れの「後始末」と称する清めの巡邏が宿に立ち寄った折、悟里香は、何事もない顔で木鉢を運び、例の書役たちが好んで陣取る卓へ、茶をすすめた。湯気の向こう、湯呑と湯呑とのあわいに、昨夜の客帳を、何気ない手つきでひらいて置く。名の脇の小さな丸と、欄外に半ば差し込まれたままの護符紙が、ちょうど隊長の座る位置から、斜めに見下ろせる角度だ。

「たいへんなお役目でございますな。……お口を潤してくださりませ」

そう柔らかく言い添え、彼女は少し離れて膝を折る。視線は落としていても、隊長の黒檀の数珠が、帳面の上で一瞬、固く止まる気配を、逃さぬように。見る者と、見て見ぬふりをする者。その境目を、今朝の一服で測ろうとしていた。


Whispers in the Back Room

夕刻、札板の前に黒山ができたまま、人の流れはそのまま月峰屋へと雪崩れ込んだ。新しい交代表に名を見つけた者も、見つからなかった者も、煤けた顔をしかめて盃をあおる。祭り前だというのに、休み印の上から赤墨が引かれている──そんな話が、湯気と炭煙のあいだを飛び交っていた。

「月見の日まで下ろすつもりかよ」「線香が一匁で燃え尽きるぞ、あの深さじゃ」と、誰かが荒い声をあげる。別の者が、帳場のほうを振り返って押し殺した笑いを洩らした。「拝んでるのは坑口じゃねえ、帳簿様だ。祝詞も銀勘定の段だけは淀まねえらしい」

笑いは起きたが、重く湿っていた。縄のように張り詰めた空気の隙を縫いながら、里香は盆を手に往き来する。盃の減り具合、手の震え、背中越しの視線の向き──ささやかな違いを拾い集めるうち、火の粉が大きな炎へと化けかねぬ匂いが、次第に濃くなってゆく。

そのとき、風鈴がちりと鳴り、注連縄をかすめるようにして、二人の社人が戸口をくぐった。白衣の裾は煤けているが、額の汗は祈りのためというより、駆け足でここまで来たためらしい。彼らが周囲の険悪さに気づき、眉根を寄せるより早く、里香は笑みを張りつけた顔で迎えに出た。

「お勤め帰りでございましょう、今宵はお客も多うございますゆえ……少しばかり静かな所へどうぞ」

社人らを帳場から遠い席へさらりと通しがてら、彼女は、いちばん声の荒い頭目格の男たちへと視線を滑らせる。

「こちらも、奥のほうが涼しゅうございますよ。祭り前で皆さまお疲れでしょう、ほかのお客様の耳も休ませてやりとう存じます」

口ぶりはあくまで丁寧だが、「静かな所」「耳を休ませる」といった言葉に、何人かが一瞬きょとんとし、次に肩をすくめた。角張った拳を盃で隠し、男たちは互いに目配せを交わしてから、ぶつぶつ言いながらも里香の示す方へと腰を上げる。

案内されたのは中庭に面した半屏風の小座敷。炉の上では鉄瓶がかすかに鳴り、梁に結ばれた護符の下から、かそけき囁きのようなかまど神の唸りが絶えず響いている。人の声は自然と吸い込まれ、廊下をゆく客の耳には、ただ笑いともため息ともつかぬざわめきとしてしか届かぬ場所であった。

「こちらでごゆっくり。酒も肴も、後からいくらでも運びましょう」と一礼しながら、里香は、屏風の微かなきしみと、床板を伝う冷気に意識を澄ませた。奥の井戸から吹き上がる、季節はずれのひやりとした気配が、客たちの荒れた息遣いと絡み合い、目に見えぬ渦をつくり始めている。節目を告げる夜は、音もなく、しかし確かに、傍らまで寄って来ていた。

座敷に人の影が落ち着くと、徳利がまわり始めた。最初は肩の凝りをほぐすような与太話だったものが、燗酒が一巡、二巡するうち、舌も眼つきも重たくなってゆく。

「夜半の枡目に、帳面にねえ荷車が三台、坂を下りてったろうが」と、煤で黒くなった指で盃をつまむ頭目が言う。「印行札もねえ。……あれが皆、祭りの飾り物ってか」

「こちとら引き手よ」と車方が鼻で笑う。「荷の重さは腕が覚えてらあ。紙切れの数字より、縄のきしみのほうが正直ってもんだ」

別の男が、声を潜めて吐き捨てる。「祟りだ何だって閉じてた三番下り、御用筋の『御沙汰』だとよ。今朝ゃ縄抜いてやがった」

「縄だけじゃねえ」と、隅にいた年嵩の者が、膝の上で拳をぎりと締める。「門口の護り札、あれを剥がせって命じたのは、誰の差し金だ」

里香は、箸袋を直したり、こぼれた酒を布巾でぬぐったりしながら、その一言一言を耳の端で拾う。場の熱で膨らんではすぐ萎む愚痴と、同じ名、同じ刻限が何度も繰り返される筋のある話とを、心の中で静かにより分けていった。

膳を新しく据え直しながら、里香の指がふと止まった。盃と徳利のあいだに半ば折れて差し込まれた勤番札、その端に、煤でにじんだ墨の下から、かろうじて古い名が覗いている。──「磯山詰所頭」。

耳慣れたその二文字に、胸の奥で、亡き祖母の声がじわりと蘇る。山の神と人とのあいだに交わされた、最初の誓紙の話。坑を守る詰所頭は、札を切るだけでなく、神前に顔を向けぬ働き口は断つ役目だと。

里香は、何気ない仕草で紙端をそっと撫で、折り目を伸ばした。指先から、ひやりとした井戸気がたちのぼる。声色はわざと崩さず、こぼれた酒を詫びるときと同じ調子で、さらりと問う。

「この『磯山詰所頭』さまは、まだご壮健で? これほどの長丁場にも、お印をお与えなさるのでしょうか」

盃の影で、何人かの肩がびくりと揺れた。

効果は、すぐさま座敷の皮膚にまで伝わった。噛み合っていた話の歯車が空を噛み、箸が宙で止まり、ひとつの盃が卓に荒く据えられる。誰かがわざとらしく笑い声を張り上げ、すぐ隣の肘で押さえ込まれた。

煤にまみれ、節の太い拳の甲に古傷の白い筋を刻んだ鉱夫が、ふと里香の顔をじっと覗き込む。その眼は酒気ではなく、「磯山」という二字をどこまで呑み込んでいるかを量る秤のようであった。

やがて、沈黙は細くささくれ立った囁きに変わる。表向きの残業や割増賃金の愚痴はしぼみ、「最初の掟を今でも覚えてる筋目の者」の噂や、「組合の祝詞札が一度も掛かったことのねえ横穴」の話が、舌の裏側からにじみ出るように転がり出した。

次に徳利を持って回った折、その古傷の鉱夫は、盆の縁に手をかけたまま、わずかに力をこめて離さない。その掌の陰で、薄い何かが盆の裏へ滑り込む。里香は眉ひとつ動かさず、礼を添えて座敷を辞した。

夜半、釜戸の火が落ち、厨の湯気だけが静かに立つ頃、誰もいない板間で、盆の裏に指を這わせる。出てきたのは、厚手の紙片──大きな紙を乱暴に裂いたような端で、煤けた指跡が残っている。

そっと広げると、そこには坑道の一部だけが描かれていた。公儀の図面で見慣れた太い本坑の線から、細い枝が一本、墨の調子を変えて斜めに逸れている。その上に、里香の読んだことのない略字が、蟻の行列のように並び、あるところでぷつりと切れていた。

枝の線は、地の文様のように刷かれた祈り札の印をくぐり抜けると、すぐ白紙に溶けている。役所渡りの地図には決して載らぬ「抜け道」が、ここでだけ口を開けているのだと、里香は悟る。

こんなものを渡せば、差し出した側も命取りになりかねない。誰かが、自分の手と舌に、それだけの重みを預けたのだ。紙を折り畳む指先に、いつになく汗がにじんだ。

使いの童に礼を述べ、菓子の欠片を一つ握らせて追い出すと、里香は一度だけ、表向きに掲示柱の前で首を傾げた。「まあ、風情のあるお歌で」と、近くの客に聞かせるように口にし、手拭いをひらりと抜き出す。

「埃が溜まりますと、せっかくの御詠み物も台無しでございますからね」

柱を拭うふりをして、詩札の角をすくい上げる。黄ばんだ紙の重み、糊の乾き具合、裏に走る繊維の荒さまでを掌で量りながら、静かに引き抜いた。誰も怪しまぬよう、同じ所に別の告知札を重ね留めてから、里香は奥へと引き取る。

帳場奥の小さな帳付け部屋。障子を半ばだけ閉め、外からは手元しか見えぬようにして、油皿の火を少し絞る。膝前に詩札を置き、まずは一読した。

「中秋の名月、川霧にとけて
   薄雪(うすゆき)、土間の梅を欺く」

さらりと流れる二行。だが、墨の太さがところどころで不自然に息を詰まらせている。春の字の「日」が、消し残りの上に重ねられている。秋の「禾」の払いだけ、ふた筆分ほど長い。

指先でなぞると、乾いた墨肌のざらつきの下に、別の運びの跡が微かにある。──最初に書かれた季語を、上から塗り替えたのだ。表の詩は看板、下に沈めた言葉こそ道標。

あの「旅の詩客」が、囲炉裏端でさりげなく里香の腕前を褒めてみせたあの夜を、ふと胸の奥でなぞる。話のはずみで、鉱夫たちの勤番の刻限を尋ねたときの、わずかに食い込むような眼差し。炉の煙の抜け道をしきりに確かめるように見上げていた首の角度。

「やはり、あのお方……」

吐息のような声は、油皿の火に吸い込まれるだけだ。里香は、墨の重なりを一つずつ拾い上げる。秋の月と「早梅」が同じ句に並ぶのは不自然だ。月見で知られた川端の祠、その土間にだけ季節外れの梅の鉢がある──幼い頃、祖母に連れられて参った折の景色が甦る。

「川霧」は、あの曲がり角の低い霧のこと。そこから「薄雪」の字が二度書き直されている箇所は、冬場だけ人通りの絶える、蔵裏の路地筋に当たるのだろう。町の地形と年中行事が、頭の中で静かに組み上がってゆく。

彼女は筆も硯も取らない。ここで紙に写し取るなど、愚の骨頂だ。代わりに、帳簿を繰るときと同じ要領で、詩の一句一句を、町筋と季節の記憶と重ねて心の棚に納めていく。最後にもう一度、札の裏を光に透かして眺め、余計な印がないことを確かめてから、火にくべずに帳場机の底板と引き物のあいだに滑り込ませた。

「中秋の晩に、ちと『組合』へ顔を出す、とでも申しておきましょうかね」

独りごちてから、彼女は表に戻り、女中頭を呼びつけた。万一のお上の詮議に備え、今夜の自分の行き先に、もっとも退屈でありふれた名目を与えるために。

宵が深まり、湯気が梁の間で細くほどけ、賭場の賽音もくぐもった囁きへと沈んでゆく頃、里香は掲示柱から外してきた詩札を、帳場奥でそっと指先に返した。表の句をもう一度目だけでなぞりながら、頭の内では別の地図を広げている。

中秋の月と「土間の梅」が並ぶなど、本来ありえぬ取り合わせ──それは川端の小祠前の曲がり角、冬でも鉢の白梅がしぶとく咲くあの一隅を指すほかない。「薄雪」の二字が不自然に重ね書きされている箇所は、子どもの頃、祖母の裾を握って抜けた蔵裏の路地筋と、年に一度だけ雪が踏み荒らされる祭りの日とを重ね合わせれば、自然と筋道が浮かび上がる。

筆は取らない。帳簿を繰るときと同じように、字面と町筋と祭礼の巡りを一つに綴じて、心の帳面に記し込む。やがて障子を押し開けると、女中頭を呼んだ。

「今宵は中秋でございますからね。組合の方へ、ご機嫌伺いに参るとお伝えなさい。万一お役人衆が見えましたら、それで通しておくれなさいな」

声はいつも通り穏やかで、少しばかり退屈そうですらあった。だがその裏で、里香の胸の裡には、詩の道標に従って歩むべき夜の町筋が、もうくっきりと描き上がっていた。

最後の更鼓が遠のき、行灯の火を一つひとつ改めさせると、里香は帳場の陰で、紺無地の地味な羽織に着替えた。家紋入りの帯紐を外し、かわりに色気のない紐で結び直す。短い杖を布に巻いて背に差し、腰の前掛けには銭袋と、小さな護符を一枚だけ忍ばせる。

勝手口の閂を、きしませぬよう指先で押し上げると、冷えた夜気がするりと入り込んだ。表の組合通りは、昼間の混み合いが嘘のように、戸板を下ろした家並みと、燃え残りの油の匂いばかりだ。月と穀霊を詠んだ句の順を道標に、彼女は提灯も持たず、祭礼旗の垂れた横丁を縫う。戸前に封をされたはずの蔵から、墨と焼けた鉄の匂いがほのかに洩れ、その下に、肌の裡側を撫でるような、乱れた結界の匂いがかすかに混じっていた。

鉱倉の並びが尽きるあたりで、道筋は足の感覚よりも、言葉の示す方角に傾きはじめた。「冬星の下、最初に穿たれし脈」という一句が指すのは、周りの新しい板壁より一段低く沈んだ、年季の入った計量小屋。梁には、ほとんど磨り減った社印が幾重にも刻まれているはずの印が、かろうじて爪痕のように残っている。本来なら立入禁止札が風に鳴っているような場所だが、土間の縁は最近掃き清められ、隙間から、布で覆いをされた行灯のほのかな明かりが奥に滲んでいた。

囲炉裏端で「旅の詩客」が、わざと一句を途切れさせて笑っていた夜の調子を思い返しながら、里香は板戸の一隅を、同じ拍で叩く。とん…とん…とん──間を置いて、こつ、こつ。三つのゆるい拍、ふたつの速い拍。胸の内の鼓動も、それに合わせてゆるやかに数を刻む。片手は前掛けの護符の感触を確かめ、視線だけは路地の闇と、屋根の縁に溜まる川霧の影を払うように巡らせる。人の見張りだけではない。眠ったふりをして目を光らせる路傍の小祠や、乱れた結界に寄り添う小さなものの気配にも、心の端を澄ましながら。

内から木の軋む低い音がして、細工戸の裏板が油の乗った滑りでそろりと引き去られた。現れたのは旅装を脱ぎ捨てた本来の姿の細身の貴人、髪を学者結びにまとめた星人である。袖口にはまだ乾ききらぬ墨が滲み、その指がためらいなく里香の手首を引き入れた。狭い室内は三方を巻物と竹筒に埋められ、低い机には鉱の脈を写した黒い線と、黄赭や朱で引かれた霊脈の筋が幾重にも交わる絵図が折り重なる。交点ごとに、小さな文字で「嘉子殉」「三番坑落盤」「社礼途絶」など、日付と祠の名、人の名が無愛想に記されている。背後で板が閉じ、町の遠いガラガラという鉱車の音が布越しに遠のくとき、里香は噂に過ぎぬと思っていた不穏な話が、ここでは山肌の傷口と、人の血の筋として整理されていることを、肌の内側で悟った。

星人はすぐには口を開かなかった。かわりに、燈心をしぼった行灯の淡い光の中で、じっと里香を量る。視線は柔らかくも厳しく、帳場に立つ女将ではなく、一つの「勘定目録」として読み解こうとする学者の目つきである。

脇では、面布で鼻口を覆った書記が、筆先をかすかに鳴らしながら紙の上を滑らせていた。写し取られてゆくのは、古びた帳面の列──日付、坑の名、番方の印。その並びは、どこかで見慣れたものに酷似している。売掛と泊まり客、朝餉と風呂の印……ただ一つ違うのは、行末に記された文字だった。

「落盤」「片足欠損」「行方不知」──。

つと喉の奥に鉄の味が上がり、里香は唇を固く結ぶ。夜更けの帳場で、寝間着姿の妻が宿代を値切る声。朝まだき、仲間の名を呼びあいながら出立していった若い坑夫たちの笑い。湯屋の隅で、空になった湯桶を枕にしたまま眠りこけていた老人の背中。そうした断片のいくつかが、帳面の無愛想な文字にぴたりと重なった気がした。

棚板に肩を預けていた大柄な男が、鼻で笑う気配を立てる。煤にまみれた仕事着は汗で固くなり、袖口には石粉が白くふいている。何度か、風呂場で見かけた顔だと里香は気づく。薄い湯と、肩の凝りが取れぬと冗談めかして嘆いていた客。だが今、その口から漏れるのは別の調子だった。

「宿ん中の話は、煙より早く組頭んとこへ上がるってな。」

押し殺した声には、笑いの脂が一滴も残っていない。男の目が、里香の襟元──月峯屋の小さな家紋の縫い取り──へと、刃物のように滑った。その視線に、「組合の耳」「代官所の目」「帳場女将は皆、上に繋がっている」という町のうがった噂が、無言のうちに塗り重ねられているのを感じる。

里香は、襟に触れたい衝動を抑え、代わりに指先を前掛けの皺に沈めた。息を大きく吸いも吐きもせぬ、あの「間」。夕餉時に喧嘩沙汰が起きたとき、客の怒号と盃の音を一旦自分の内で受け止めるための、静かな停滞。その癖が、ここでも自然と立ち上がる。

書記の筆はなお、さらさらと名を写し続ける。面布越しの横顔は意図的に里香から目を逸らしており、見るともなく見る距離を、ぎりぎりのところで保っている。そこにあるのは恐れか、用心か、それとも、まだ判断を保留したままの「観察」か。

机の向こうで、星人の細い指が一度だけ、板の縁をとん…と鳴らした。短い鼓のようなその音が、室内の気配をひと筋に集める。彼は急かさない。ただ、里香の沈黙を、その目の奥で一行の文字として読み加えているようだった。

里香は、座していながら立ち稽古のときのように、足裏まで神経を張り渡した。茶碗を取り落とした客と、噛み合いかけた隣卓の拳の気配を一度に受け止めるあの「間」と同じ静まりが、胸のうちにすっと降りてくる。煤に黒ずんだ坑夫の手には、繰り返し柄を握った痕が節のように盛り上がり、剝げかけた爪の隙に白い石粉がこびりついている。面布の書記は、あえて視線を外したまま、筆を運ぶ指先だけがわずかに強張っていた。

机越しに、星人の細い指が一度だけ板を叩き、それからためらいなく、一冊の痩せた冊子をつまみ上げる。角の丸くなったその本は、帳場の常宿帳に似た手触りだが、紙肌はもっと古く乾き、墨の色も沈んでいる。栞紐の挟まれた頁を開き、彼はまるで宿代の勘定でも示すように、里香とのあいだへ静かに置いた。流麗で角の多い書体は、祭礼札や祈祷文に使われる社家の手──町の帳面とは別筋の、古い言葉の筋だった。

「月峯屋では、社日の取り計らいも怠りないと聞き及びます。」星人は柔らかな調子で言う。「この条、ひとつお読みいただけますか。こちらの友は、あいにく祝詞文字には疎うございまして。」

「……読めるのは、品書きと仕入れ札だけだ、と言い逃れることもできるわよ。」胸のどこかが、そう囁く。だが指先はもう、紙端にかすかに触れていた。墨の列のうち、ひとすじの文言が、祖母の低い呟きと重なって立ち上がる。

──「奇しき星合い、季の綾乱るる折は、山腹の深きを穿つべからず。石と霊の脈、開け放たれ、守り手薄となるゆえに。」

幼いころ、炉端でその言葉を聞いたときには、ただ「山が怒る前触れ」として曖昧に怖れただけだった。今、反古紙ではなく、こうして密やかな部屋の中、鉱図と殉死者の名に囲まれた机の上で、その条文と向き合うとき、意味合いは別の重みを帯びる。これはただの昔語りではない。今まさに谷川の山腹で破られつつある「きまり」だ。

この文言を声に乗せて読めば、その場に居合わせる者すべてが、「今の掘り方は、法に背いている」と認め合ったことにもなりかねない。代官所の書役が聞きつければ、「煽動の言」として筆録される種になるだろう。

喉の奥で言葉が一瞬、行き場を失った。帳場では、客の負い目や嘘に敢えて気づかぬふりをする場面もある。読み書きが達者すぎる女将は、時にうとまれる。ここで自分を「ただの田舎女将」に矮小化してしまえば、危うさからは逃げられるかもしれない──そう考えかけた刹那、意識のどこかで、ぱきり、と乾いた音がした。

秋祭り前の忙しい晩、盃を温め直そうとした手の中で、何の前触れもなく割れた清酒の杯。霜も降らぬ時期に、井戸端の桶に薄氷が張った朝。月峯屋の内側で続けざまに起きた、あの小さな「兆し」が、耳鳴りのように甦る。あれは、山と家が、「ここまでだ」と示している線ではなかったか。

里香は、ゆっくりと息を吸う。背筋を伸ばし、声が震まぬように舌の位置を確かめ、それから紙面に視線を落とした。

「……『奇しき星合い、季の綾乱るる折は──』」

自分が普段、帳場の外では滅多に使わぬ古い言い回しが、口の中で驚くほど自然に形を取っていく。読み進めながら、彼女は、それがただの反復ではなく、自分の商いの内側ですでに守ってきた「勘定」であることを、ひとつひとつ思い描いた。祭りの前後に無理な増員をせず、泊まり客の中から、危うい目の光をした坑夫を密かに親方へ回した夜。深層から帰った男たちの話に混じる、細く高い音──崩れる寸前の山の声──を聞いて、湯を多めに沸かし、酒を薄めて出した朝。

読み終えても、室内はすぐには動かなかった。墨の匂いと、煤けた布の湿り気。そのあいだで、里香の声だけが、まだ板の目のどこかに染み込んでいるような気がした。

里香の口からこぼれ出すのは、祝詞そのものの文言だけではなかった。条を区切るごとに、帳場で数えてきた別種の「勘定」が、勝手に舌にのぼる。

「この星合いに、深く穿つなと、こう謳うてございます。」と一度はきちんと締め、そのまま調子を崩して、町言葉に落とす。

「去年の冬祭り明け、殿様筋のご無理で、社日を潰してまで三番坑を回した折りがありましたろ。」視線は紙から外さずに続ける。「あの晩から数えて三日と置かず、この帳面に載った名のうち三人が、胸の奥で石ころを転がすような咳をしながら、月峯屋の戸口をくぐりました。湯気を吸うのも辛いといって、風呂を断った若い衆もいた。」

「待てど暮らせど草履の音が帰らず、借り物の行灯の油を惜しみながら、夜明かしした女房衆もおります。」指先が無意識に、机の端をなぞる。「その夜の明け方、うちの井戸には、盆でもないのに薄氷が張りました。あれも、山からの勘定書きに違いありますまい。」

彼女はふと、二階の一番端の間で、寝返りの度に畳が鳴るほど身を強ばらせて眠れぬ坑夫たちの姿を思い出す。「上の部屋じゃ、このところ、石の擦れるような夢見が続くと申します。湯殿の釜で湯を焚くと、立ちのぼる蒸気が、岩の息を真似ているような音を立てると怖がって、風呂を避ける者も出てきておりまして。」

語尾を静かに落としたとき、条文の古い響きと、里香の平明な言葉とが、同じ一本の糸のように室内の空気を張り詰めていた。

声は、普段は台所へ指示を飛ばすときの張りに似ていながら、どこか祭礼の献杯を宣する折の節回しを帯びていた。一句ごとに区切られた古語の文言が、埃っぽい空気へと静かに落ちていく。読み終えても、里香の舌は止まらない。言葉の衣を町言葉に脱ぎ替えながら、殿様筋の無理で社日を潰して三番坑を回した折、その帳面に名のある三人が、胸の奥で石ころを転がすような咳をしながら月峯屋の敷居をまたいだことを語る。借り物の行灯の油を惜しみつつ、一晩中草履の音を待った女房衆のことも。あの夜明け、高夏だというのに井戸の水面に薄氷が張ったこと。二階の端の間では石の擦れる夢見が続き、湯殿では、焚いた湯気が「岩が息をしている」と怖れて、風呂を避ける若い衆が出てきたことも、ひとつひとつ、勘定目録のように静かに数え上げていった。

沈黙が落ちた。しかし先ほどまでの、帳場を疑うような張りつめた気配とは別物だった。坑夫の肩から力が抜け、「月峯屋のおかみは、銭勘定だけじゃねえ」と、照れ隠しのように鼻を鳴らす。去年の崩れの折、日延べになった賃金の穴を、誰にも言わずにツケで埋めた話が、ぽつりぽつりと口をつく。

面布の書記は、黙したまま筆を止め、手元の帳を一枚あおりめくる。新しい反古に、「宿のしるし・見届け聞き書き」と小さく見出しを置き、里香の語った井戸の氷や夢見の話を、すばやくも乱れぬ筆致で書き記していった。

星人はその様子を横目に、里香へ軽くうなずく。領主として願人から受けるべき深い礼ではなく、ひとりの策を共に負う者への、小さくも対等な印として、机上の大ぶりな鉱図をそっと押し広げた。

細筆の袖が紙にさやりと触れ、星人は鉱図を灯火の真下まで引き寄せた。山が、横から割って中身をさらされた身のように描かれている。幾重にも重なった地層が肋骨のように並び、その間に、銀や石炭の「臓」が墨の濃淡で置かれていた。

人の掘った坑は、黒の線で引かれている。役所が定めた本坑はものさしを当てたように真っすぐで、傍らに端正な字で「一番」「二番」と書き込まれている。その影から枝のように伸びる細い線は、ところどころ震え、途中で途切れ、別のところからまた生え出していた。誰の帳面にも載らぬ「横穴」「抜け道」を、精いっぱい正直に写し取ろうとした跡が見える。

その合間を、朱の線がくねりながら走っていた。細く太くを変えつつ、まるで生き物の血管のように、谷から峰へ、峰からまた別の谷へと通っている。ところどころ、小さな渦を巻くように丸められ、その脇に、かすれた古字で社名や季節祭の名が添えられていた。

黒と朱とが重なり合う合間ごとに、木炭を押しつけたような丸い印が、固まって打たれている。ひと塊ごとに、脇へ小さく年月日が書き入れてあった。三年前の冬崩れ、去年の早春の落盤――里香が湯殿や座敷で聞いてきた話と、紙の上の数字が、ひとつひとつ結びついていく。

部屋の気配が、そこへ集まる息のように細く張りつめた。坑夫は、無意識に膝を寄せ、煤けた指先で紙の端をつかむ。面布の書記も、袖の影から身を乗り出し、筆で汚れた親指の腹で、黒線と朱線の交わるところをそっと押さえた。粗く継ぎだらけの手と、紙魚を追い払ってきた指が、一枚の巻物の縁で肩を並べる。

灯の火が小さく鳴り、朱の線が一瞬、血潮のように濃く見えた。誰も口を開かないまま、紙の上の山の中へ、自分たちの足場も、眠る子らの枕元も、飲み水の井戸も、すべてが載せられていると知る沈黙だけが、室内に重なっていった。

星人の指先が、朱の最も古い筋と、太い黒線とが深く交わるところで静かに止まった。殿中の説教ではなく、山の下で名もなく死んだ者らの側に立つ証人のような調子で、彼は口を開く。

「ここは、かつて社家の長老たちが、辰砂と塩で縄張りを引いたところだ。年に幾度か、定めの祭祀の日に限って、祝詞を持つ者だけが足を入れてよい場……それ以外は、掘らず、眠らせておくと約した。」

細筆の背で、朱の渦から外れて伸びる細い黒線をなぞる。

「だが多田尾殿の命じた抜け穴は、この禁りの結び目を、槍の穂先のように穿っている。本来は三つの暁をかけて行う鎮めも、一刻の早口の祝詞ひとつで済ませた。塩二斗、酒三樽と決まっていた供えは、小銭の包みに替えられ、検分に来るべき社家の若い衆は、米俵ではなく銀札で口を塞がれた。」

言葉を継ぐごとに、朱と黒の交点が、帳面の勘定目のように浮かび上がる。

「こうして払われずに積もったぶんは、山が勝手に勘定を合わせる。崩れとなり、迷い火となり、ある晩の一番番坑の男手を、まるごと呑み込む形でな。」

面布の書記は、帳の余白に新たな欄を立て、「払残し」と小さく題を入れた。ただし、そこに並ぶのは素直な文字ではない。春夏秋冬を象る印と、火・水・土・金・風を示す符を組み合わせ、星人の言葉を、季節と気の巡りに置き換えて記してゆく。老人坑夫が鼻の奥で呟く。「この丸、わしらが若けえ頃の崩れと、年も節気もよう似てらあ……」

星人にうながされ、老人は役所には載らぬ「深掘り」の日付や、祝詞も灯もない夜番の始まりを、覚えているかぎり口にした。書記は、それらを崩れの印のそばに、朱の乱れに寄り添うように書き込んでいく。

黒い符と朱の渦とが重ねられた紙面を前に、里香にも、それがもはや偶然ではあり得ぬ図であることがわかった。利と納めが釣り合いを失い、掘る日取りが祭祀より前へ前へと押し出された折ごとに、山は決まって、石と黙(もだ)しで応えを返している――そんな勘定が、誰の言葉より雄弁に、そこに浮かび上がっていた。

星人が巻物の端を軽く押さえ、窓の外の谷の灯と角度を合わせるようにそっと回すと、抽象だった線の群れから、里香にも見知った形が浮かび上がってきた。墨一筋のゆるやかな弧――あれが黒川の流れだ。そこから折れ上がる鋭い角度の線は、行き慣れた行人町の坂道。その脇に四角く囲われた小さな余白がある。名は記されていないが、あの位置であの大きさなら、月峰屋のはずだった。

その四角の真下を、細い朱の糸が、灯の火を吸った血潮のような色で貫いている。朱はそこからさらに枝分かれし、いくつもの黒い細線と交わっていた。黒の端には、小さく「七下」「九下」などと坑の符丁が書き込まれている。帳場で耳にたこができるほど聞いてきた下層坑の呼び名が、紙の上で、家の床下から這い上がる根のように、月峰屋の真下に絡みついている。

里香の指先が、図と胸の内の「町並み」とが重なる一点の上で宙に止まった。盃がひとりでにひび割れた夜のこと、湯殿の桶の縁が、葉月だというのに白く霜を噛んだ朝のことが、立て続けに脳裏へよみがえる。あれらは、つまらぬ凶と笑い飛ばし、余分な塩と米を社に運べば収まると、高を括ってきた類いのものだ。

けれど、いま指の下で朱と黒が結び合わさっているのを見ていると、それがただの「気紛れ」では済まぬと、肌が先に悟った。袖の下の腕に、産毛が細かく逆立つ。灯の火が揺れたのでも、山風が吹きこんだのでもない。偶然という言葉が、舌の奥で音もなく砕け、代わりに「つながり」が、冷たい水のように胸の底まで染みこんでくるのを、里香は黙って受け止めた。

胸の奥に細く息を通しながら、里香はそれまで「厄介な前触れ」として片づけてきたもの――余計な供えを足せば収まる罅、湯気に紛れて唱える一声の祝詞――が、実は、人の欲と山の堪忍とが擦れ合う割れ目の、いちばん初めの身震いなのだと悟った。巻紙から指を離した途端、自分の務めが、急に狭く、同時にひどく広く思えてくる。帳場にひらく宿の出納帳が、そのまま山の勘定目と向き合う一冊になるような心地だった。隠し部屋を辞すとき、星人の図と書記の符が脳裏に貼りついたまま、賃銀や番替え、組合の面子をめぐるやり取りなど、所詮は表の小競り合いにすぎぬと知る。真の揉め事は、谷川そのものを、山の「取り立て」に呑まれさせぬための手立てを探すところから始まるのだ。

里香は、日暮れ後にふらりと現れる鉱夫たちと同じ調子で、表向きは彼を迎えた。米の粥と、湯で割った薄い酒。粗末ではあるが、冷えた骨身には染みる支度だ。ただ、座を案内する場所だけは、いつもの癖とは違えていた。帳場から少し死角になり、台所の引き戸にぴたりと寄り添った低い卓。大釜を抱えた大炉の熱が板戸越しにじんわりと滲み出し、鴨居の上には、古くから伝わる火伏せと客よけの札が幾重にも重ねて打ち付けてある。

「遅うまで、ご苦労さんでござんす。」湯気の立つ椀を、そっと男の前に置きながら、里香は、名も素性も問わぬ宿の口上を口にした。男――夏代と名乗ったその猟師が、ぎこちない動きで座布団に身を折り曲げるとき、袖口からのぞいた手の甲に、かすかな震えが走るのが見えた。指先には弓弦の繰り返しでできた古い胼胝、だが今その節々はこわばり、血の気が薄い。頬はこけ、目の下には、眠り損ねた夜の影が濃く落ちている。

肩口や裾には、坑夫が連れてくる煤とは違う、ざらついた灰色の粉がこびりついていた。鼻をかすめるのも、焼けた石炭の匂いではない。長く人の手の入らなんだ岩肌が、ひんやりと呼吸を止めているような、奥山の洞窟の匂いだった。ふと、近くの行灯がひときわ低く唸(うな)り、紙障子の陰が、風もないのにさわりと震えた。油皿の火が腰を折るようにかしぎ、それから、何事もなかったかのごとく、また静かな光を卓の上に落とす。

台所の戸の向こうでは、薪のはぜる音が一拍遅れて聞こえた。火の粉をあげていた炎が、ふと片側へ身を引くように揺れ、鴨居の札がわずかに軋む。里香は、椀を置く手つきこそ変えずに、目の端だけでその様子をさらう。炉の守り神たちの気配が、ぴり、と尖った。いつもなら、彼女が台所に立つと、油煙のすき間から、ぬるい湯気のような気配がまとわりついてくるのに、この夜は、戸板の節目から、細い吐息が引いていく。

「お口に合いましょうか。」他愛ない一言で間をつなぎつつ、里香は男の背後、右肩のあたりに目をやる。行灯の光が、そこだけ薄い水の膜を隔てて見ているように、わずかに屈(ま)がっていた。舌の奥に、血ではないが、鉄を舐めたような重さが乗る。先刻から、喉のあたりに乾いた寒さが貼りついて離れぬのも、そのせいだと合点がいった。

「……助かりやす。」夏代が低く礼を言い、粥に箸を入れる。その瞬間、炉の奥で、ぱん、と乾いた音がして、火が一寸、横へ逃げた。まるで、誰か目に見えぬものの影に、炎そのものが身を竦めたかのように。鴨居の上の紙札が、すうっと色を失い、墨の線だけがやけに際立って見える。

耳には届かぬが、梁のあたりで小さなさざめきが立つ。幼い頃から月峰屋の火と水に馴れ親しんできた里香には、それが炉端に棲む連中の「嫌がり声」だとわかる。皮膚の下の産毛が、ひとつぶひとつぶ、逆立っていく。目には見えぬ同席人を前にしているのだ、と、山の気配に研がれた第六感が告げていた。

里香は、顔にはいつもの宿女将の笑みを貼りつけたまま、卓の縁を軽く拭い、徳利を置き換える。あくまで「ただの遅い客」を装う仕草で、男の様子を測り、同時に、台所の火の上に視線を滑らせる。火はなお、戸板の向こうで、どこか落ち着かぬ揺れ方をしていた。噂話に聞いた「亡者を連れて歩く猟師」の影が、いま、月峰屋の板間を踏んでいる――その確信が、灯の明かりと等分に、里香の胸の底へ静かに沈み込んでいった。

柄杓で粥をすくい、箸の向きを直し、湯飲みの縁を指先でそっと拭う――いかにも、遅れて転がり込んだ客を、他と変わらぬ一人前として遇しているだけの仕草に見えるよう、里香は手を動かし続けた。そのあいだも、真に見ているのは、男の右肩の、わずか後ろだ。行灯の火が、そこを通り過ぎるときだけ、水の底から覗く月のように、ほのかに歪む。舌の奥には、いつのまにか薄い鉄錆の味が貼りつき、呑み込もうとしても喉から離れぬ。

台所の戸板の向こうで、大釜の火がぱちりと音を立て、炎の身を一方へ引いた。まるで、見えぬ何者かの裾が、炉端を掠めたかのごとく。その瞬間、梁のあたりで、ちりちりと煤が弾けるような、細い不満の声が立つ。人には届かぬ高さのそのざわめきが、里香の腕の皮膚にだけ、粟立つ形で伝わってくる。日頃は、彼女の気配に甘え、湯気の中でたゆたうばかりの竈の連中が、今夜ばかりは、板一枚を隔てて身をすくめている――それが、ひしひしとわかった。

噂で耳にしてきた「亡き者を連れて歩く猟師」の話が、帳場での怪談ではなく、この板間の現(うつつ)の出来事として、静かに形を取る。どこを歩こうとも、この男の背へ、ひとつの影がぴたりと寄り添って離れぬのだと、炉の火と梁の声が揃って告げていた。

里香は、話の継ぎ目に指先を差し込むだけで、決してぐいとは引かぬ。徳利を軽く傾けて椀を満たし、近寄ろうとする給仕娘には、「この客は人見知りでな」と笑いながら手を振る。その合間合間に、告白ではなく、手順と道筋だけを求める問いを落としていく。

「その変なこだまを、初めに聞いた横穴は、どの番坑の脇でござんしたか。」

「血のような匂いがした引き風は、どの祠(ほこら)の前で。」

「口入れ役に命じられて、縄と折れた梁で塞いだ抜け穴は、役所の札に載らぬ、どの口か。」

男が、とぎれとぎれに吐き出す言葉から、里香の耳が拾うのは、地べたに刻まれた印だけだ。坑口の名、梯子の段数、曲がり角から灯一つぶん進んだ先に打たれた、忘れられた石標(いししるべ)。そのあいだに紛れ込む、「巫女の最後の叫び」だの、「崩れゆく岩を掻きむしる手」だのという、熱に浮かされた譫言(うわごと)は、胸の奥でいったん受け止めはするが、別の棚へ静かに上げておく。現《うつつ》に利くのは、足の運びと印の在り処――そう心得て、彼女は、震え混じりの語りから、触れ得る土地のかたちだけを、そっと抜き出していった。

やがて、夕餉(ゆうげ)のどやどやも引き、夏代が壁にもたれて椀を抱いたまま、うつらうつらと舟を漕ぎ始めたころ合いを見計らい、里香は「勘定を締めます」と帳場に一声かけて、奥の小座敷へと身を引いた。硯に新しい水をさし、まだ白々とした奉書紙を一枚、膝前に広げる。今度の名目は「中秋お試(ため)し御献立」。筆をととのえ、まずはありふれた「月見汁」「里芋田楽」などと、誰が見てもおかしくない品を書き連ねる。そこから、墨をわずかに濃くして、本来この世には上らぬ料理名を、さらりと紛れ込ませていった。

「三つ曲り淵の猪(ゐ)の煮しめ」「沈み社の蓮根和(れんこんあ)え」「盲(めしひ)の渡しの川魚炭火焼き」――文字面だけ見れば、風流を気取った山里の冗談に過ぎぬ。だが、筆先は、祖母ゆずりの谷筋絵図に刻まれた地名の位置を、ひとつひとつなぞるように動いていた。三つ曲り淵は、夏代の語った「声の逆さに返る横穴」の手前にあるはずの曲がり角。沈み社は、役所の帳面から抜け落ちた古い祠(ほこら)が、いまも崩れた覆い石の下で息をひそめる場所。盲の渡しは、霧の日に川霊(かわだま)が目を開ける、と祖母が言い聞かせた、決して口伝えにしてはならぬ浅瀬だ。

里香は、あえて「肴」「煮物」といった当たり障りのない品書き語に、坑道の通り名と祠の呼び名を噛ませる。墨の濃淡と行の置き方で、「踏んでもよい路」と「決して触れるべからずの穴」を、見る目のある者だけにだけ、そっと振り分ける。余白には、小さく「数に入れず」「本日品切れ」などと添え書きしておく。表向きは品書きのくずし字、しかし星人(ほしびと)のような目で読む者には、「用心せよ」「道は細し」といった別の意味が立ちのぼる仕掛けだ。

「祖母(ばあ)さまの地図、今も覚えておいでなさるか。」独りごちるように胸の内で問いかけながら、彼女は、夏代の譫言(うわごと)から引き抜いた印と、幼いころ膝枕で聞いた山と川の昔語りとを、筆の上で静かに重ね合わせていく。恐怖と悔いの泥で濁っていた道筋を、湯気の立たぬ線へとすすぎ分ける作業。中秋の夜に配るにしては気取った献立表も、明朝、他の祭礼張り紙に紛れて谷を登るときには、ただ一人、あの「旅の詩書き」だけが、別の地図として読み取ることになる――そう見越して、里香は最後に、墨をほんの少し足して店印を押し、紙端を丁寧に乾かした。

翌朝、祭礼触れ札の束に紛れて「中秋お試し御献立」が隠れ家に届くと、星人は帳簿顔の小者を下がらせ、紙を両手で改まって受け取った。袖口の先で紙端をなぞり、一行ずつ目で追う。飾り文句の陰に沈んだ地名と方角の配列が、彼の蔵する坑道絵図と、ぴたりと噛み合う。

「……恐れと悔いは削ぎ落し、歩ける土だけを残したか。」独り言のように呟きながら、巻物棚から旧い坑夫組合の写し図を引き出し、献立の文言と見比べる。猟師が魘されながら吐いた「呪(しゅ)のつく穴場」と、里香が「本日品切れ」と洒落に紛らせた行とが、見事に重なっていた。

噂をそのまま写さず、しかと利のある筋だけを抜き取りつつ、あえていくつか「触れれば骨の折れる」場所は、別の印で生かしておく。その選り分け方に、星人は静かな戦慄を覚える。これは、ただ口を貸す女将ではない――綱の揺れを掌で受け止める、継ぎ柱のようなものだ。

筆筒から、いつもの淡墨ではなく、節目の祠(ほこら)や合印の宿を記すときだけ用いる濃い墨をとる。谷筋地図の余白に、「月峰屋 里香」と、交差点を記すときと同じ形(なり)の字を置く。その脇に、小さく崩した手で書き添えた。

「月の峯の女将――回り舞台の静き芯。人と霊《たま》の渡し目、預けうる。」

硯の水がわずかに鳴り、部屋を囲う防ぎ札がひとひら揺れた。星人は筆を置き、谷の灯を見下ろす。あの月と松の行灯の下から、町全体の揺れを抑える手が伸びてくる未来が、かすかに形を帯び始めていた。

初めのうちは、星人の一座から届く頼みごとも、表向きは、どこにでも転がっている宿屋仕事の延長にすぎなかった。

桶屋の帳簿の下へ、会計札に紛れさせて折り紙一つを滑り込ませること。道中で財布を落としたと訴える「うっかり者」の飛脚を、帳場には「勘定違いの吟味」と言い繕い、奥の細い一間に一晩余計に寝かせること。干し梅を詰めた小包を、病気見舞いと称して、川向こうの祠番(ほこらばん)に託すこと――実のところ、その祠番の指は、布地の縫い目に潜ませた細い文のほうを待ちわびているのだが。

里香は、それらを、一つひとつ「綱の張り具合を見る稽古」として受け取った。誰がどの顔色を窺い、どの口が、酒が三つ入ると急に軽くなるか。樽屋の女房は、札束の重みを指先で量りながら、客の噂には頑丈な蓋をかぶせる癖がある。反対に、炭焼き宿の若い手代は、銭入れが太ると、すぐに路地裏の博打場で舌まで滑らかになる。川守りの童たちは、神さまの名より先に、坑夫組合の悪態を覚え始めている。

「この家(うち)は、どの流れに足を浸しておるか。」給仕の下がった隙に、杯を磨きながら、里香は心の内で一軒一軒を並べ替える。桶屋は近頃、山の掘り増しに顔をしかめる回数が増えた。魚屋は、銀の運び出しが増えてから、妙に言葉少なになった。祠番は、干し梅の包みの重みより、「中身」を読むとき、唇の端に、かすかな決意の皺を刻んでいた。

星人の隠し部屋で聞かされた言葉――「町には、目に見えぬ水脈が幾筋も走っている。言葉と噂で、その流れは変えられる」――が、里香の耳裏で、夜ごと静かに響き直す。高座で大見得を切るような演説がなくとも、女将の一言で、膳の並ぶ席順を変えるだけで、誰が目を合わせ、誰が顔を背けるかが変わる。銭の回り道も、愚痴の落ちる先も、ほんの少しずつずらしてやれば、谷を這う水筋のように、別の溝へと流れ出す。

「膳を運ぶ手つき一つで、川筋は変わるさね。」布巾をしぼりながら、小さくそう呟く。星人が巻物の上で指した線――坑道と霊(たま)の通い路――あの線に、いま自分が触れている町の「人の通い路」が、そっと重なっていくのを、里香は、客間のざわめきの底で、確かに感じ取り始めていた。

補償の荷車が、いつもより遅く、いつもより重く谷をきしませて上ってきたあたりから、均しに保ってきた勘定が、音もなくほつれ始めた。袋に詰めた小判と、新しく染みついた血と膏薬の匂いをともなって、煤けた前掛けの上に、やけに艶やかな漆の帳面を抱えた坑口頭(かしら)たちが、月峰屋の帳場に陣取る。

「お上(かみ)さまの情けだぞ」「これで帳尻は合う」と、口々に調子をそろえながら、彼らは一人ひとりに「埋め合わせ」と称する札束を配ってゆく。だが、安手の小座敷では、その札を受け取る手首に、竹の添え木と黒々とした指の跡が浮いている。先月までは、咳ひとつせず、桶風呂で冗談を飛ばしていた若い掘り子が、いまは湯呑みに口をつけるたび、胸の奥で砂利が転がるような咳を漏らす。

給仕たちは、湯気の立つ白飯と、肺を冷まさぬよう煎じた苦い薬草茶を載せた盆を手に、座敷と座敷のあいだを忙しく立ち働く。里香は、帳場の椅子に腰を落ち着けたまま、その流れの筋を、目の端で追った。

上座の畳の間では、役所回りの書付役や山役人が、漆の匂いのする帳面を肘のそばに積み上げ、灯心を惜しみなく足した行灯(あんどん)の下で、銀札を数え直している。その笑い声に背を向けるように、土埃にまみれた手拭いで口元を押さえた坑夫たちが、安酒を煽りながら、目だけを伏せる。誰も、広間の真ん中で、互いの視線を交えようとしない。

女将として身につけた笑みを、里香は、今宵ほどぎこちなく感じたことはなかった。火鉢の炭は赤く、鍋からは湯気が立ち上るというのに、そのぬくもりは、膝から下だけをかろうじて撫でて過ぎてゆく。膳と膳のあいだ、声と声のあいだに、うっすらと底冷えする隙間が生まれ、その隙間に、言葉にならぬ怖れと、湿った怒りが並んで腰を下ろしている。

「銭で埋まる傷と、埋まらぬ穴があるさね。」帳場の引き出しを閉める指先に、無意識のうちに力がこもる。谷を包んできた宿のあたたかさが、薄い紙一枚ほどの膜になって、今にもどこかで破れるのではないか――そんな感触が、炭火のゆらぎとともに、じわじわと胸の内を冷やしていった。

その夜、その底冷えは、ようやく形をとった。最後の客が軋む階段をのぼりきり、廊下の足音が消えたあとも、一人だけ、帳場の前から動かぬ影がある。小さな頃は、祖母の囲炉裏へ焚きつけを運び、「たけ」と呼ばれて笑われていた掘り子――今は若衆(わかしゅ)の押し手となった健が、脱いだ鉢巻きを両の拳のあいだでねじり続けていた。

「女将さん……」と、掠れた声で切り出す。坑口に新しく貼り出された札のこと。明け方の番から、自分たちの組が、脇(わき)の横穴へ回されるとあること。その穴の名を聞いたとたん、里香の背筋に、冬の夜話の冷気が蘇る。祖母が、火を落とす前に必ず口にした「ここから先は、霊(たま)の縄張りじゃ」の一言。その名と同じ字が、昔、祠(ほこら)の石札にも、薄く剥げかけた彫りで残っていた。

「……あすの朝、祝詞(のりと)を上げるのは、あの若い祢宜(ねぎ)さまだそうで。」健は唇を噛み、目を伏せる。「このごろは、祝詞もちょいと端折《はしょ》っておいでで……。手順も、昔と違うような……。俺らの親父《おやじ》たちが覚えとるのと、節回しがずれておる」と。

里香の胸の奥で、炭火がはぜるように、小さな怒りが音を立てた。山の奥へ掘り進むほど、祝詞は短くなり、札は薄くなり、人の命の勘定だけが軽くなっていく。

「お願いでございます、女将さん。」健が、不器用に畳へ額を近づける。煤と汗で荒れた指が、鉢巻きをさらに細くねじり込む。「俺らが言うたところで、笑い飛ばされて終いで。……けんど、月峰屋の字なら、山役所も、一度は目を通すはずだと、皆が……。女将さんが書いてくだされば……読んでくれます。せめて、ひと晩、考え直してくれるかも知れん」と。

行灯の火が、健の瞼の縁にたまった光を、かすかに照らした。泣き顔を見せまいとしている、あの幼い頃と変わらぬ意地の張り方に、里香は静かに息を吸う。帳場と囲炉裏のあいだに、いつの間にか引かれていた「うちの中」と「坑の底」との境い目が、そのひと息で、わずかに音を立てて揺れたように思えた。

行灯の灯りと、冷えはじめた炉の小さなきしみだけが、帳場の周りで時を刻んでいた。里香は、いつもなら酒代と宿賃を弾く板の上に、硯と紙を広げる。筆先をひと口湿らせ、「山仕事の安全」「札に示された休み日の厳守」「人を替え刃のごとく扱わぬことが、長き勘定では利になる」といった、どこまでも穏やかで理の立つ言葉を並べていく。だが行のあいだには、「忌み所」「結界」といった古い言い回しを、あえて選んで忍ばせた。祖母から聞いた山の掟、星人の蔵で見た古記録と同じ匂いのする語なら、向こうの学者衆の目に届くはずだ。ひと文ごとに、筆が紙の上でわずかに止まる。そのたび、山役所の机の上で転がる清定(きよさだ)の算盤玉や、多田雄の奥向きでめくられる内勘定の帳面が、紙一重向こう側でこちらを値踏みしているような気配が、背筋をひやりと撫でていった。

名乗りのところまで来て、里香の筆は、ひと呼吸だけ空を切った。けれど「月峰屋里香」と記すだけでは足りぬと知っていた指先は、祖母が冬至の供えに用いた、谷の古い家名を添え、その下に「月峰山下客礼(かくれい)預《あずか》りの身」と書き足す。商い女将としてではなく、この谷と山の顔をともに立ててきた一族のひとりとして、ものを申す証だった。

夜が白みはじめるころ、裏口には、約束どおり炭売りの荷車がきしりながら横付けされる。封じ紐を固く結んだ文を、里香は両手で捧げて渡し、「途中で、東山側の閉まった蔵の前で、ひと息ついておいで」とだけ告げた。炭俵の陰に文が呑み込まれ、車輪の音が谷底の方へ遠ざかってゆく。その先、東の斜面の古い量り小屋の裏に、旅の詩客を装ったあの卿(きょう)の隠し間があることを思い描きながら、里香は袖口をきちんと直す。

ここまで、月峰屋は「どちら様もお変わりなく」と笑っていれば済んだ。だが、いましがた紙の上に置いた名と古い言葉が、その薄い帳尻を破ったのだと、膚の裏で山風が告げている。今後、彼女の注ぐ一杯一杯の酒に、「谷の娘」の色がどれほど差すかを、山役所も、坑夫も、そしてあの学者卿も、目を凝らして見定めに来るだろうと知りながら。


Madam Tsukimine’s Refusal

その夜の霧は川面から立ちのぼり、月を呑み込んで町じゅうを白く曇らせていた。軒の風鈴さえ音を呑み、ただ鍋の煮えるくぐもった音と、鉱夫たちの押し殺した笑いが、つきみね屋の広間に低くたゆたっている。

引き戸が荒く開き、湿った外気が一気に流れこんだ。灯心がひとつ、かすかに揺らぐ。戸口の霧を背に、鎧の縁に水珠をつけた男が立っていた。山社の紋を刻んだ朱塗りの札と数珠――谷の者なら誰でも知る姿、祈祷武者頭・清定である。その背に若い従兵が二人、肩に霧と煤をまとって続いた。

既に座敷のあちこちには、坑口守りの兵たちが陣取っている。鎧の隙間に入りこんだ黒い煤が、湯気の中でまだ乾ききらず、鉄と脂と汗の匂いが味噌の香りに重なって、重苦しい。

帳場からその様子を一瞥し、悟里香は盆の上の徳利をひとつ指先で押し正した。今宵の新しい樽は、裏で己が目で封を切り、山祠の方角にだけひと呼吸分、香りを立たせてから注ぎ始めたものだ。――誰に最初の一杯を渡すか。それが、ただの手順でない夜もある。

「女将、樽ものを回せ」

清定は敷居をまたぎながら、当然のように顎をしゃくった。濡れた沓が板に鳴る。広間の空気が、わずかに張りつめる。鉱夫たちの視線が、箸の先から盆へ、盆から悟里香の横顔へと、静かに移っていく。

盆を支える彼女の指は、働き慣れた節くれだった指のまま、しかし微かに力をこめていた。腕を返せば、そのまま清定の前へ進める。その方が事は丸く収まると、身体は覚えている。だが今宵は、霧がいつもと違う。暖簾に触れてから室内へ溶けるまでの間に、冷えが一段深く落ちるのを、皮膚が告げていた。

悟里香は、膝をひとつ滑らせるように、進む向きを変えた。

「――お待たせいたしました、皆さま」

声は柔らかいが、その張りは、広間の隅々まで届く加減で放たれた。清定の席のすぐ脇を通り過ぎながら、一歩も立ち止まらず、彼女は早番上がりの鉱夫たちの卓の前で静かに膝を折る。

そこにいるのは、顔じゅう煤で真っ黒になった若い者、髭に白いものの混じり始めた古株、肩に包帯を巻いた者。指の間の皺にまで、今日の坑の泥が入りこんでいる。彼らの茶碗は空で、湯気だけが名残のように立っていた。

「お頭さまがお許しくださるなら――」悟里香は、背をまっすぐにしたまま、清定の方へだけ視線を流し、言葉を継いだ。「この樽は、先に、きょう一日、坑に血と汗を落としたお方々に約したものでござります。」

静まり返った広間に、「血」という一語が、ひやりと沈む。

徳利の口から、白い酒がとくとくと音を立てて茶碗へ注がれていく。その音が、不思議なほど大きく聞こえた。鉱夫の一人が、躊躇いがちに茶碗を両手で受け取ろうとして、悟里香と目が合う。彼女は、ほんのわずか、笑みともつかぬ皺を目尻に寄せた。

清定の席では、黒塗りの卓に置かれた数珠が、ひときわ強く打たれた。木玉と木玉が乾いた音を立てる。それだけで、広間の何人かが身じろぎした。

「女将どの。」

清定の声は低く、抑えが利いていたが、その底には石をすべらせるような硬さがある。「山社の兵を後回しに、坑夫どもから先とは、いささか順が違わぬか。」

脇の若い従兵が、それに呼応するようにぐい、と膝を押し出した。

「頭、これはあまりに――。社の御印をお預かりするお方を差し置き、土まみれの連中からとは、店の礼も忘れたか。」

鉱夫たちの顔に、怯えと、どこか諦めの色がすばやく走る。悟里香はまだ、膝をついたまま動かない。徳利の傾きだけが、淡々と仕事を続けている。

「……谷の古い言い習わしを、少々気にいたしましたゆえ。」

注ぎ終えた徳利を盆の縁に戻しつつ、彼女は穏やかに言った。その声の調子が、先ほどと違うのを、耳のいい者はすぐに悟る。祭の祝詞をあげる時の、隣の河辺の社僧の声色に、どこか似ていた。

彼女は、広間じゅうの視線が自分の肩口に集まっているのを知りながら、ゆっくりと息を吸い込む。

「今宵は霧も深く、暦では、帷子のごときものの薄くなる晩でござります。」と、畳に額をこすらぬ程度に、丁寧な会釈をしながら続ける。「そのような折に、坑を深く掘らんと誇って杯をあげれば――」

言いさして、彼女は一瞬だけ目を閉じた。祖母の声が、かすかな煤の匂いとともに耳許によみがえる。

『帷の夜に、底を謳うな。山は人の盃を取らぬ。ただ、その血を呑む。』

悟里香は、座した膝からそのまま背筋を立て、ことさらにゆるやかな調子で、一句ずつ区切って口にした。

「――『帷の夜に、望まれぬ底を讃うるは、愚かの業。山は、その杯を血にて受く。』」

広間の空気が、きしりと軋むように変わる。誰かが、膝の上の手をぎゅっと握りしめた気配がした。炉の炭がぱち、と弾け、その音までが合いの手のように響く。

谷に古くから伝わる山の言葉を、こうして座敷のど真ん中で、しかも社の兵の前で言い切った者が、近年いたろうか。鉱夫たちの何人かは、思わず頭を垂れる。煤にまみれた額が、畳の影の中で固く結ばれた。

清定は、しばし無言で悟里香を見下ろしていた。瞳の奥で、計算と苛立ちと、かすかな逡巡が入り混じる。彼とて、山社で育った身だ。いま女将が口にした文句が、単なる「町の迷信」で済ませられぬ筋のものだと、骨の芯で知っている。

従兵がまた身を乗り出そうとしたとき、清定は数珠をもう一度、こんどは静かになぞった。その手つきには、短く切った爪の白さが浮かぶ。

「……なるほど。谷の言葉は、忘れられたと思うておったが。」

押し殺した笑いとも溜息ともつかぬ息をひとつ吐き、彼はようやく言葉を返した。「よかろう。今宵の一樽は、坑夫どもに譲るとしよう。」

そう言いながらも、その視線は冷えていた。彼の中で、何かの勘定珠がひとつ動いたのを、悟里香は見逃さない。

「御寛恕、かたじけのう存じます。」

彼女は広間に聞こえるよう、きちんとした礼の言葉を述べ、再び盆を持ち上げる。その所作は、あくまで宿の女将としての礼を失わぬものだった。だが座敷の隅々にまで、今の一幕の意味は染みこんでいく。

坑口守りの兵の中に、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた者がいた。彼らもまた、谷の子であり、山の縁に立つ者だ。若い鉱夫の一人が、震える指先で茶碗を掲げ、音もなく唇をつける。その喉仏の動きを、清定の従兵が横目で見て、舌打ちを飲み込んだ。

戸外の霧が、またひときわ濃くなった。格子戸の隙間から入りこむ白さは、まるで目に見えぬ誰かが、座敷の成り行きを覗きこんでいるかのようだ。悟里香は、その気配を背筋に受けながら、徳利を次の茶碗へと静かに傾けた。

――今しがた、つきみね屋の板の上に引かれた、細い線。それを踏み越えるか、避けるかは、客たち一人ひとりの胸ひとつだった。

膝をついたまま、悟里香の手は揺れなかった。徳利の口からこぼれる白刃のような酒筋が、茶碗の縁に静かに満ちていく。広間のあちこちで、押し殺した息が細く漏れた。そのさざめきが、霧につながる川面の波紋のように、静かにひろがる。

清定の目尻がわずかに狭まり、卓上の数珠が、ことり、と一度だけ打たれる。軽い音に似合わず、その一撃は、ここが社の権威の座であることを思い知らせる合図でもあった。

その背後で、若い従兵が堪えきれずに身を起こす。

「頭さまにこの扱いは……山社の守りを、土まみれの――」

語尾が荒くなる前に、悟里香は、膝をずらすこともなく、静かに口を開いた。

「ただいまお伝え申した言の葉、聞き漏らしがおありでしたら――」

声は低く、しかし座敷の梁まで届く張りがある。彼女は視線を卓に落としたまま、あらためて調子を正した。祝詞の拍を打つ前の、あの一拍の静けさ。

「『帷の夜に、望まれぬ底を讃うるは、愚かの業。山は、その杯を血にて受く。』――谷にて、山の縁を守る者どもが、代々口伝えてきた言い習わしにござります。」

今度は、言の葉の一つひとつに、あえて礼式ばった抑揚をまとわせた。その調べは、単なる女将のたわごとではなく、「掟」に近いものとして耳に届く。禁じられた層《しま》へと掘り進むことを誇る者たちにこそ、突き刺さるような調子で。

最後の「血にて受く」のところで、囲炉裏の炭がぱちりと弾けた。その小さな音が、まるで誰か見えぬ者の同意のように、座敷の隅々まで冷たく走った。

若い従兵の頬に、さっと血がのぼった。反駁の言葉が喉まで出かかりながら、広間じゅうに走った薄ら寒いざわめきが、その舌を鈍らせる。年季の入った鉱夫が二人、煤けた口元を覆い、「血にて受く」と最後の句を、祈りとも呪いともつかぬ調子でなぞった。長く途絶えていた祭文の、尻だけを思い出したかのように。

清定は、いつの間にか眼前に据えられていた空の盃を取り上げ、灯の下にかざした。透きとおるはずの酒面の代わりに、自らの顔と、背後にひろがる霧の白さが、ゆらりと映る。ほんの一拍――盃の底を見つめ過ぎたと自覚した時には、既に周りの視線が集まっていた。

彼は静かに盃を卓に戻し、一滴も口をつけぬまま、数珠に指をかける。

「……女将どのは、谷の言の葉を、よく弁えておられる。」

努めて平坦に放たれた声の奥に、歯噛みするような硬さが滲む。「よい。今宵の一樽、先に早番上がりへ回せ。」

その一言が、鎧の兵と組頭、鉱夫と行商人の耳に、はっきりと刻まれた。怒声よりもなお鮮やかに、この夜、この座敷で、祈祷武者頭が女将の言を退け切れなかったという事実だけが、記憶の底に沈んでいく。

数日あとの宵、更けた刻。もう顔の赤黒くなった坑夫頭が、徳利を空にして卓をどんと鳴らした。

「つきみねの樽を出せ。山の加護酒だろうが、殿のお名のもとに召さば同じことよ。霊だの兆しだの口にする腰抜けどもは、女と一緒に囲炉裏端で泣いてろ。」

死んだ同僚の名まで罵りの種にし、笑いさざめく口の端から、酒と唾が混じって飛ぶ。広間の空気が、そこでわずかにざらついた。奥の柱に凭れていた古株の鉱夫が、目だけを細める。炉端の小神に捧げた榊の葉が、誰も触れていないのに、ぴくりと震えた。

悟里香は、帳場の陰から一歩、二歩と進み出た。盆を抱えた腕は一見いつも通りだが、足取りは霧の夜に山道を選ぶときのように慎重である。彼女は坑夫頭の前に立ち、空になった猪口を両手で丁寧に受け取った。ちょうど今から酒を足す女将の仕草で。

しかし、そのまま徳利に伸ばしかけた手を、ふと止める。猪口の縁に、灯の光を細く通した。誰の目にもただの土器に見えるそれに、ごく細い影が走る。さきほど「骨まで砕けた奴らは、どうせ山に喰われただけだ」と笑った瞬間、ぱきん、と耳に届かぬ音を立てて入った、あの亀裂。

悟里香は、何も言わず猪口を返し、卓と自分との間の板の上に、口を下にして、そっと伏せた。

「……この器は、罅が入っております。」

淡々とした声が、湯気と煤の匂いに混じって広間に落ちる。「今しがた、山の縁を笑い飛ばされた折に、火の側の者と、私の目だけに見えました。」

数人が、無意識に炉の方へ目をやる。炭の赤が、まるで聞き耳を立てているように明滅した。

「ここにつぐ酒は、谷の者にとって、ただの酔いではござりませぬ。山と人との間に置く、わずかな品代にて。」

彼女は伏せた猪口の上に、両の指をそっと添えた。その指先が床板をなぞるように、静かに言葉を継ぐ。

「罅物に注げば、ここでこぼれ落ちる分は、本来《もと》、山へ返すべき分でございましょう。それを板の間に散らせば――つきみね屋が、山への支払を怠った印になってしまいます。」

あくまで算盤勘定を語るような口ぶりであったが、その言い回しの底に、祝詞に似た拍がひそんでいる。「山への支払」「印」という言の葉が、谷で育った者の耳に、ただの比喩ではなく響くように。

「この宿では、供え物を粗末にはいたしませぬ。」

膝を折り、頭を下げる深さは、客への詫びのそれでありながら、どこか社壇へ向ける礼にも似ていた。「罅の入った器には、山の分も、人の分も、注げません。どうか、他の盃にてお召しくださいませ。」

「罅の盃」「山の分」という語が重なった刹那、隅にいた古い鉱夫が、ぞくりと肩を震わせた。胸の内で、若い頃に聞いた古い噂――山に背いた頭目の盃が真っ二つに割れ、その夜のうちに坑が崩れた話――が、煤けた記憶から這い出してくる。彼は思わず、膝の上で両手を組み、目を伏せた。隣で湯を啜っていた灯籠職人も、無意識のうちに、筆で刷いてきた護り札の文句を、口の中でなぞっていた。

女将の言は、あくまで帳場言葉でありながら、その半分以上は山社の縁語りに聞こえる。半分現《うつつ》、半分彼方の理《ことわり》。その曖昧さこそが、座敷の空気をいっそう冷やした。

組頭はなおも大声を張り上げ、「営業札を取り上げさせてくれようぞ」と机を拳で叩いたが、その響きは、座敷に沈んだ静けさの上を空滑りするばかりだった。誰も笑わず、誰も盃を掲げない。彼の手下でさえ、煤けた顔をそむけ、膝の上で拳をほどきもしない。やがて男は、己ひとりが山の機嫌を買い損ねたことを、薄々悟ったのか、呂律の回らぬ悪態を撒き散らしながら、敷居を蹴るようにして夜の通りへよろめき出た。

その隅で、灯籠師が黙って筆を止めていた。火袋に描きかけの月を乾かしながら、彼は先ほどのやり取りを、ひとつひとつ言の葉ごと胸の内で撫で直す。やがて、遅くまで荷を解いていた旅の駄賃取りが隣の卓につくと、灯籠師は湯呑の縁に指をかけたまま、さりげなく話し始めた。

「さっきな、頭目が『殿のお名にて』と威張り散らしたが、つきみねの女将は、山の言い習わしをそのまま返して、盃を伏せて見せたんだとよ。」

駄賃取りは片眉を上げ、「へえ」と短く相槌を打つだけだったが、夜明け前には、鉱夫長屋の路地ごとに、その話を、肩籠と一緒に運んでいた。

翌日には、話はもう別の衣をまとっていた。「あの清定頭さまですら、女将の口にした言葉を前にして、盃を引っ込めたらしい」「つきみね屋で深掘りを自慢すると、その場の酒が、どれほど高い銘柄でも、舌の上で酸っぱく変じるんだと」――誰が最初に言い出したのか定かでない尾ひれが、噂にぬめりを与えていく。

誇張であろうと、作り話であろうと、ひとつだけは町の胸に深く沈んだ。つきみね屋の女将は、もはや「中立の宿の顔」ではない。古い山の諺を、殿さま方の磨き上げた名乗りの上へと、容赦なく被せてみせる女――その座敷で、誰がどれほどの位を笠に着ようとも、試されるのは、山と谷への礼の方だと。

三つ目の夜の、更けた刻の手前であった。煤で顔の判別もつきかねるような男たちが五、六人、つきみね屋の敷居の内側で立ち止まった。手には、湿り気を帯びて端のほつれた紙札――給金代わりの坑夫札を握っている。

いつもなら、「席は詰めてから入んな」と小言を浴びせられ、祭礼前の割増しを告げられて追い立てられるところだ。彼ら自身も、それを覚悟して、帽子を脱いだまま俯き加減に立っていた。

しかし、その夜は、帳場の奥から出て来た悟里香が、ただ淡々と札を受け取り、一枚ずつ、銀札でも数えるように、端を揃えた。指先で紙の重みを確かめ、組合の帳面に挟んであるはずの「祭加増」の札を、何も言わずに脇へ押しやる。

「こちらで、足ります。」

そう言って、彼らの荒れた手に札の半分を戻すと、台所へ声を飛ばした。

「味噌をひと杓《しゃく》多《おお》めに。米も、底が見えぬよう頼みます。」

やがて運ばれてきたのは、透けて見えるほど薄い白粥にしては、明らかに味噌の香りが濃い椀であった。漬物も、普段なら二切れのところ、ひそかに三切れ。鉱夫たちは目を白黒させ、一瞬鍋の方を振り返るように帳場を見る。だが悟里香は、ただ盆を支えたまま、いつものように「はい、熱いですよ」とだけ言った。

広間の一角に、奇妙な静けさが生まれた。怒鳴り声や笑い声の途切れではない、何かに包まれたような、やわらかい空白。男たちは、音を立てぬように匙を運び、椀の底をさらう。その様子を、隣卓の行商人や灯籠師が、横目で盗み見ながらも、誰も口に出しては問わない。

悟里香は、彼らの肩越しに湯気の立つ椀を見届けると、静かに歩を進めた。湯呑に茶を足しながら、「今週は、どれほどの刻まで掘らされておいでです」と、誰にともなく問う。煤けた喉からこぼれたのは、「昼夜の境がわからぬ」「三度目の交《か》え番を、鐘も鳴らさずに繋いだ」といった、生の数字だった。

「そうでございますか。」

彼女は相槌以外、何ひとつ意見めいたことを言わない。ただ、何番坑の、どの支脈で、誰が何の役目に就いていたかを、茶を注ぐ手の内側に、静かに書きつけるような顔で聞いてゆく。

その夜、広間に生まれた沈黙は、脅しの前触れではなかった。炭のはぜる音と、匙が椀に触れるかすかな響きだけが、まるで囲炉裏の火が、掘り子たちを抱え込んで温めているかのように、低く続いていた。誰かが不用意に笑い飛ばせば破れてしまうような、その薄い膜の内側で、男たちは、久しく味わわぬ安堵と共に粥を飲み干した。

その手心の噂は、鉱車より速く梯を伝って落ちていった。明け六つの交《か》え番までに、もっとも脆《もろ》い脈を任された者たちが、二人連れ三人連れで、広間の奥の卓へと忍び込むように腰を下ろす。「安椀《やすわん》を」と口にしながら、椀が空になっても席を立たず、いつしか声を潜めて、壁の鳴き方や風の変わり目を語り始める。

「昨日の四番脈でな、つるはしを入れりゃ、すぐ向こうが空《から》みてえな音がした。」

「灯が、いっぺんに三つ、ぱたりと消えやした。風は来ちゃいねえのに。」

悟里香は、「お疲れさまでございます」と湯を注ぎ足すほか、咎めも励ましも口にしない。ただ、「その壁印は、赤い丸に目印縄でございましたか」「誰が、その刻《とき》に梯の下に」と、一つひとつ確かめるように問い返す。

男たちが指を折って思い出すたび、彼女の内側の板戸に、白墨で印が増えてゆく。どの坑道札が揺れ、どの番の灯が消え、最初の小さな「こん、こん」が、どの刻限から始まったか。算盤玉を弾くかわりに、そのすべてを「目の裏の帳場」に書き込みながら、悟里香は、誰一人「気のせい」とは笑わなかった。

彼らが椀を置いて立ち上がる頃には、ただの安粥の卓が、いつのまにか、谷底の写し絵のような地図の一角になっていることを悟る者は、まだ少ない。

客足と朝の初鳴りとのあいだに挟まれた、あの灰色の刻限だった。表口の暖簾はすでに下ろされ、灯りも幾つか落とした頃、脇の路地から、細い影が二つ、そろそろと現れた。若い社人で、襟元には煤と土埃がこびりつき、袖口には、急きょ突っ込んだらしい紙札が、ぐしゃぐしゃのままはみ出している。

悟里香は、戸を叩くより早く格子を引き開け、「夜詣《よもう》で、ご苦労さまにございます」とだけ言って、土間の上がり框に腰を下ろさせた。湯気の立つ椀を二つ、手ずから押しつける。白粥の底に沈む味噌は、先ほど鉱夫たちに盛ったものより、心持ち多めだ。

「今日も、締め札は、ようけ結ばれましたか。」

匙を口に運びながら、二人は半分喉を詰まらせたような声で、ぽつぽつと漏らし始める。「古い経の墨が、さわっただけで粉を吹きまして」「今朝替えたばかりの注連縄が、夕刻にはほつれておりました」「三日前に供えた団子が、もう青《あお》カビだらけで……」

「湿気のせいでございましょうか」と悟里香は、あくまで当たり前の理屈を口にする。だがその目は、彼らの指先が袖から覗く札の端に触れるたび、その皺の向きや、かすれた朱印の色合いを逃さぬよう追っていた。

やがて片方が、袖の内から破けた御幣の切れ端を取り出し、「こんなものまで、ようけ出まして」と、申し訳なさそうに笑う。もう一人も、鞄代わりの風呂敷をほどき、裂けた護符や、文字の消えかけた札を、こそこそと土間に並べた。

悟里香は、眉をひそめるでもなく、ただ静かにそれらを見下ろすと、盆棚から、昨日の祭りで余った煎餅と甘納豆をひと包み取り出させる。「冷えますゆえ、甘いものも召し上がりませ」と、娘に持たせて二人の前に置かせた。

「紙切れや、紐の屑は、そのままここへ置いて行かれませ。」

彼女は膝を折り、土間の隅にあけた小さな竹籠を指し示した。「燃やすべきものと、そうでないものと、朝までに選り分けましょう。火を入れるのは、中庭の火鉢にて。山の方角に向けて、きちんと煙を立てます。」

「しかし、そんなことまで、お宿にお手を煩わせるわけには……」

「うちの囲炉裏や火鉢は、日ごとに山と谷へ話を通しておる火でございますから。」

悟里香は、さらりと言ってのける。「社では、祭文と太鼓でお忙しい。紙の端《は》や朽《く》ち縄くらいなら、宿の火が預かりましょう。」

二人は顔を見合わせ、ほっと息を吐いた。ひとりが、椀の中身を見つめながら、小さく呟く。「清定頭さまに言いつけたら、『気のせいだ、墨は古《ふる》びるものだ』と笑われまして……」

「笑われた話でも、こちらでは、笑い話には致しませぬ。」

悟里香は、茶を足しながら応える。「何刻から、経の文字が落ち始めましたか。どの社殿で。縄のほつれは、どの柱から。」

問いは、まるで帳付けのように、順を追って静かに続いた。社人たちが思い出すたび、彼女の胸の内の白い板戸に、またひとつ、細い線が引かれてゆく。南の社の第三柱、夜半過ぎ。北の小祠の供物台、卯の刻――炭のはぜる音と、若い社人のかすれた声とが、しばし座敷の外れで溶け合った。

椀が空になる頃には、二人の肩の力も、幾分か抜けていた。袖からすべり落ちた細かな紙片を、悟里香は、竹籠にそっと集めながら、「今夜のうちに、山へのお詫びを、火に言いつけておきましょう」とだけ告げる。

路地へ戻る背中を、戸口の陰から小さく礼をして見送ると、彼女は籠を抱えて中庭へ向かった。月の欠けかかった光の下、火鉢に炭を継ぎ足し、紙の一枚一枚に目を通す。文字が完全に飛んでしまったもの、まだ半ば読めるもの、印が歪んで沈んだもの。

「こちらは、もう一度社へ戻っていただきましょう。こちらは……山の耳元まで。」

誰に聞かせるともなく呟き、最も朽ちの進んだ紙から、火に渡す。ぱちりと小さな音を立てて燃え上がる炎の向こうで、谷の夜気が、わずかに頬を撫でた。悟里香は、その冷たさを、礼として受け取る。

翌朝、社人ふたりは、袖の軽さに気づきながらも、妙に背筋が伸びて社へ戻った。「つきみね屋では、紙屑も粗末には扱わぬらしい」と、その日のうちに社人仲間の口から口へと広まり、やがて「札の疲れた時分は、女将の火鉢へ」という、もうひとつの小さな道筋が、町の目に見えぬところでできあがっていく。

日を追うごとに、宿のざわめきは、ただの酔いどれ話から、底に澱を持つ打ち明け話へと変わっていった。膝をひきずる車引きが、「誰もおらん横坑で、子どもの笑い声がした」と茶碗の縁を見つめたまま洩らせば、湯屋勤めの娘は、湯気に紛れて囁く。

「兵《つわもの》衆が、新《あら》しき底の自慢をしだすとね、腕の毛が、ざわっと立つんでさ。湯の温《ぬく》さが急に薄らぐようで……」

そんな話は、組合通りの真ん中では、口をつぐんで呑み込むほかない。だが、月の絵の灯籠の下では、ひと筋、またひと筋と吐き出され、膳の影に絡まり合っていく。

「三番扇の支え木が、二度も同じところで鳴きやした」「あそこの岩肌、前はもっと黒うござんしたに、今は白く光って見える」

誰も「怪異だ」「祟りだ」と言葉にはせぬ。悟里香自身も、決して名を与えはしない。ただ、「それは、何の刻《とき》に」「どの梯の先で」と、帳場の声で確かめながら、湯呑に茶を満たしていく。

煤と湯気と囁きが幾夜も重なったのち、つきみね屋の座敷には、「山の息が、どこか拍子外れを始めた」という、形のない合意が、静かに編み上がりつつあった。恐れは確かにそこに在る。だが、女将が盆を運ぶ手つきは、いつも通り揺るがぬ。

その落ち着きが、鉱夫や社人たちの胸のうちで、細い楔《くさび》のように、狂おしい不安と、取り乱したい衝動とのあいだに打ち込まれていることを、当の本人だけが、まだはっきりとは自覚していなかった。

週の終わりには、その言い回しが、煤煙のように町じゅうに沈着していた。「鉱の悪口申すなら、月峰女将《つきみねおかみ》の灯の下で。」坑口へ向かう前、冗談めかして暖簾をくぐる者が口にし、社の若い衆は、脇戸へ飯椀をさげながら真似て囁く。帳場に銀を積む商人でさえ、どこか落ち着かぬ面持ちで、要件ののちも座を立たず湯を啜った。

その言葉には、もう一つ、声にならぬ尾がついている――「ここで洩らした息は、罰ではなく、聞き届けとなる」という約束めいた響きだ。谷に張り巡らされた噂という見えぬ坑道のなかで、その違いは、つきみね屋を、ただの雨風凌ぎではなく、「人の口を通してなら、まだ山の手も引かせうるかもしれぬ場所」として、そっと浮かび上がらせていた。

昼と暮れとのあわい、帳場の灯を一つ落とした頃合いに、その若い役人はやって来た。組合通りの埃をまだ払わぬ草履のまま、表の石畳でつんのめりかけ、慌てて姿勢を整える。その胸元には、塗りの剥げかけた組頭付きの札が、紐の長さを誤ったらしく、少し斜めにぶら下がっている。

格子を引く悟里香が、「まあまあ、お足元を」と声をかけるより早く、男は要らぬほど腰を折り、「日頃よりつきみね屋殿にはお世話になり申しております」と、笑みを大きく張り付かせた。額には、まだ午後の用件の汗が乾ききらぬ光があった。

「本日は、ただ、町の和《やわ》らぎをいっそう深める、ささやかなご提案にございまして。」

男は、胸の前で両手をやや誇らしげに広げ、袖の内から、鶴の印を押された上等な紙を取り出した。普段の事務用とは紙肌からして違う。折り目には、何度も人の手を経た気配がある。

「このたび、殿のお慈悲によりましてな、『和合の宴』という催しを……ほら、つきみね屋さまほどの由緒あるお宿なら、うってつけにございましょう?」

和合の宴――男は舌に乗せてみせるように、その言葉を何度か繰り返した。「鉱夫衆と、社の方々と、それにお上よりのお達しを仰せつかる御使者とが、一堂に会しましてな。深き坑《あな》へ降る折の、あれこれ取り沙汰されております風聞を、酒肴の席にてきれいさっぱり祓い清める、と。」

「風聞……と仰せですか。」

悟里香は、男を広間の隅の席へと導きながら、あえてその一語だけを、薄く反芻《はんすう》するように返した。男は気づかぬふりをして、畳の縁に膝をつくやいなや、待ってましたとばかりに、紙をひらりと開いてみせる。

「ご覧あれ。この通り、殿のお印も、清定頭《きよさだがしら》さまのお名も。つきみね屋さまにて催せば、町の者どもも安心いたしましょうし……何より、こちらにはよき御利も。」

流れるように並べ立てる口上は、どこか昨夜の稽古の残り香をまとっている。「まずは検分役の巡回を、しばしばから月に一度に減らすとのお沙汰。炭や薪の手当も、他所よりひと荷ふた荷は先に回すとのこと。それから……」

男は、得意げに胸を張った。「帳場の上へ掲げる立派な札が下がります。『忠節模範の宿』と、金泥で書かせましょう。殿もきっと、お気を召されますぞ。旅人も、『おお、ここは殿お墨付きの、誠に行き届いた宿よ』と、ますます寄りつきましょうし。」

言葉を重ねるごとに、その笑みは広がるが、眼差しだけは札と女将とのあいだを忙しく行き来している。どこまで食いつくか、どこで渋るか――値踏みする商人の目そのものだった。

悟里香は、膝の上で組んでいた手を、ひと呼吸分だけ固く合わせたのち、「まあ、遠路お運びでお疲れでしょう」と、いつもの調子で身を起こした。棚の奥から、普段は上客にしか出さぬ山茶の壺を取り出し、自ら火鉢の湯加減を見て、音も立てずに注ぐ。湯気が細く立ちのぼり、灯の光を曇らせる。その揺らぎをしばし見つめてから、茶を男の前に滑らせた。

「和合の宴と仰せなら……さぞや、社方《やしろかた》もお喜びでございましょうねえ。」

柔らかな口ぶりのまま、言葉は水脈を探る錐のように沈んでいく。

「どちらの社《やしろ》さまがお印を? 山の上の、峰《みね》の御社、それとも、坑口脇の土《はに》の祠《ほこら》でございましょうか。」

男が、「そ、それは、折を見てお諮りに――」と口ごもる間に、悟里香は、さらに小さく首を傾ける。

「深《ふか》き坑のお誉め事を、人前で賑々しくなさるとなれば……山の御前《ごぜん》にも、それ相応のお供えと祝詞《のりと》が要りましょう。峰の社の御祈祷所《ごきとうどころ》では、もう段取りがお決まりに?」

茶碗の縁を、白い指がゆっくりと拭う。その仕草に追い立てられるように、男は「あ、いや、その、もちろんお決まりになる筋で……」と続けるが、声の端に不安が滲む。

「それと、鉱夫組合のお歴々は、どなたがお席に? 殿のお側よりの仰せを承るだけでは、行き違いが残りましょう。坑《あな》へ降りる方々の口からも、まことを申し上げる場であればこそ、『和合』にございましょうし。」

問いそのものは、礼儀と秩序を案ずる女将のそれに過ぎぬ。だが、「社の了承もなく」「鉱夫の声もなく」と言い切るには、あまりに露《あら》わな不敬の響きがある。自らの耳にもそう聞こえることを、男は悟っている。

「季節のしきたりもございましてな。」悟里香は、ふと視線を窓外の山影へと流した。「今は、山の気が夏から秋へ移り変わる、少し揺れやすい折でございます。ここで手順を違えますと、殿のご威光より先に、山と社のご機嫌を損じましょう。それでは、町の和らぎどころか、かえって騒ぎの元に……。」

言い分は終始、「殿の顔」「町の治まり」を立てるものとして紡がれる。ゆえに、それを軽んじる返答は、そのまま「殿の徳」をも軽んじるように響きかねなかった。

男の笑みは、紙の面《おもて》と同じようにぱりりと張りつめ、その裏で計算が狂ったと告げていた。殿の御名さえ掲げれば、女将も膝を折るだろう――その目論見が、湯気のようにしぼんでいくのが、自分でもわかるのだろう。

「も、もちろん、社方のお許しは追って……ええ、必ず。作法も、そりゃあ、抜かりなく。」

口は軽やかにそう並べる。だが悟里香が、あくまで穏やかに、

「では、そのお取り決めを書き付けて頂けますか。どちらの社の、どの神主《かんぬし》さまが祝詞をお上げになるのか……季節の供えも整えねばなりませぬゆえ。」

と、帳面を出す手つきで告げると、男の舌は急に石段を踏み外した。

「い、いえ、その……まだお名までは……いや、しかし、殿のお考えとしては、峰の社であろうか、あるいは……」

さきほどまで滑らかだった言葉は、自ずから互いの足を引っかけ合い、前に進めなくなる。「すでにご相談済み」と言いかけては、「これからお諮り」と言い繕い直し、そのたびに自分で自分の襟首を掴んで揺さぶるような矛盾を生む。

茶碗の縁には、もう白い輪が残り、湯はすっかり口当たりの温さになっている。悟里香は、それでも一度も相手の言を遮らず、ただ時折、「左様でございますか」と相槌を打ち、要所でまた別の確認を差し挟んだ。

「では、鉱夫組合のお名も、その書付に添えていただけましょうか。和合の宴と仰せなら、どちらさまのお顔ぶれかが肝要にございましょう。」

男は、ついに紙を女将の前へ差し出すことを諦めた。ひらりと開いて見せていた鶴印の文は、再び袖の内へと吸い込まれ、その動きに合わせて、彼の肩も小さく落ちる。

「な、何ぶん、これは殿のお慈悲より起こる御沙汰。まずは、その……然るべきお方々のお名前を、きちんとした形に整えましてから、あらためて……」

「では、その折に、改めて拝見つかまつりましょう。」

悟里香は、深くも浅くもない角度で頭を下げた。受け取りもせず、追い返しもせず――ただ、「形が整ってから」と、道だけを遠くしておく。

男は、それ以上ここで言葉を重ねれば、自分の不手際が殿の不敬にまで聞こえかねぬことを悟ったのだろう。帳場の柱時計が、一つ時を告げる。彼は慌てて座を立ち、「では、しからば、いずれ近日中に」と、曖昧な期日を口にしながら、足早に土間へ退いた。

玄関先の石段を下りる背は、来たときよりも幾分小さく見えた。坂道を下る草履の音が、煤《すす》と埃に吸われていくあいだ、つきみね屋の暖簾だけが、夕風にゆっくりと揺れ続けていた。

二三日ばかりは、それきりであった。ただ、坑口脇の詰所から回ってくる兵のうち、何人かの眼差しが、つきみね屋の月灯りを掠めてゆく角度が変わった。通りがかりの組合書役が、帳場の敷居の手前で、筆の癖であろうか、一瞬足を止め、何かを書き添えるように視線を走らせる。正面から問いただす者こそないが、「女将の耳は、どこまで誰の言葉を拾っているのか」という算盤が、それぞれの胸の内で弾かれ直されている気配だけが、薄い埃のように空気に積もる。 やがて、朝靄に濡れたある日、布団打ちの指図をしていた悟里香が、ふと門口の方を向くと、いつの間にか、木の札板が一枚、歪んだまま釘打たれていた。墨はまだ光を帯び、「公認坑《こうにんあな》に関わる取沙汰につき、徒《いたず》らに不安と迷信を煽る者は、科料・免許停止・家屋召し上げの沙汰もありうる」と、殊更に丁重な言い回しで綴られている。その丁寧さゆえに、深層の危《あや》うさを口にすること自体が、露骨な吠え声と同じだけ疑われるのだと、読む者の背に、ひやりとした筋をなぞってゆく文言であった。

通りがかりの者は、足をふと緩めて札文を追い、門口の空気は、声にならぬ算盤の珠でじわりと締めつけられていく。悟里香は、呼ばれてもいないのに帳場から静かに出てきて、歪んだ札を、まるで曲がって掛かった絵を見定めるように眺めたのち、柱際の手桶から金槌を取り上げた。釘の頭を一つひとつ丁寧にこじり起こし、板が音も立てず外れるたび、見物していた者の喉が同時に鳴る。

札を胸の高さで支えたまま、悟里香は坂の下、谷底の坑口の方へと静かに一礼した。誰にともなく、「言うべき相手は、こちらではなく、あちらでございましょう」と告げるように。そうして札を抱え、何事もなかったかのように暖簾をくぐる。

帳場に戻ると、殴り書きの文を一度だけ目でなぞり、きちんと四つ折りに畳む。その上に、棚の隅から取ってきた罅《ひび》入りの徳利茶碗を、蓋のように伏せた。罅の走った面を、あえて客席側へ向けて。やがて昼の客が入り始める頃には、銭を払う者なら誰の目にも、その「蓋」と下に隠れた紙の気配が映ることになる。

夕餉の湯気とともに噂は外へ流れた。「お上の札は、門に掛けられず、女将の器棚にしまわれたそうな」と。殿の言葉は、町人の戸口を飾る看板とはならず、ひび茶碗の下で、静かな戒めの酒となって寝かされている――そんな話ぶりで。

湯気の白くたなびく湯屋《ゆや》の脱衣場でも、炭粉のこびりついた飯場の長椅子でも、ひび茶碗の話は、指の間をすり抜ける湯のように形を変え続けた。

「おれぁ、この目で見たんだ。」と、つきみね屋の前を一度か二度通っただけの若い坑夫が、湯船の縁に腕をかけて大言を吐く。「兵の一人が、酒樽を叩いて『もっと深いとこまで祝おうじゃねえか』なんてぬかしたらよ、女将がすっと手をのばして、その手首を、こう、かるく払ったんだと。『この屋根の下で、底抜けの盃はお受けいたしかねます』ってな。」

鼻で笑った湯女が、桶を並べながら言い返す。

「何を言うやら。その場にいたのは、うちの従姉《いとこ》の仲居《なかい》だよ。あんたみてえな若造じゃないわ。兵の手なんか取らずにさ、ただ敷居のとこに立って、腕をこう組んでね。『折れた背骨を神さまへの供え物と数える冗談は、ご遠慮くださりませぬか』って。前頭に汗の玉を浮かべた頭《かしら》を、まるで子どもみたいに黙らせたってさ。」

「いやいや、聞いたのはまた違う。」と、背中を流してもらっていた古株の炭焼きが、湯気ごしに口を挟む。「女将は何も言っちゃいねえ。ただ、ひびの入った茶碗を、兵の前にことりと置いてな、黙ってその罅《ひび》を指でなぞっただけだとよ。『割れるもんは、押せば割れる』って、ああいう指先が物語ったんだって話だ。」

誰の耳からこぼれ出た言葉なのか、たどればすぐ行き止まりになる。だが、聞き手はみな、自分こそ見ていたかのような顔で頷き合う。湯の表を撫でる泡のように、小さな差し挟みが次々に生まれる。

「うちの兄貴の仲間なんざ、『あの罅茶碗には、坑《あな》の底で潰れた骨の数が映る』なんて、妙なことまで言い出してるぜ。」

「違えねえさ。あの女将に睨まれちゃ、山の神さまのほうが居心地悪くなるってもんだ。」

笑い半分、寒気半分の囁きが、汗と煤と石鹸の匂いのあいだを這っていく。誰も「本当はどうだった」と確かめようとはしない。確かめる口実に、つきみね屋の敷居をまたげばよいだけなのに、噂のほうが、実の光景よりも、山の暗がりに届きやすいと、誰もがどこかで知っていた。

そうしているうちに、話は静かに格を変える。ひび茶碗ひとつの挿話《そうわ》が、「この屋根の下で深掘りの祝宴はせぬ」という誓いであり、「骨を笑いものにする声には、入口が閉じる」という、目に見えぬ札のようなものへと姿を変えていく。

「ま、どのみち――」飯場で飯盒をかき込んでいた若い鉱夫が、口の端をぬぐって言う。「あの月の灯りの下じゃ、下手な冗談は、背中が冷えるってこった。」

誰も、はっきりとそう書かれた掟《おきて》を見たわけではない。ただ、つきみね屋の暖簾《のれん》と、ひび茶碗と、女将の沈黙が合わさるとき、そこに一つの線引きがあるのだと、浴場から坑口まで、いつの間にかみな、同じことを語るようになっていた。

話は、いつの間にか手足を生やした。荷車引きの小僧が、積み荷待ちの暇つぶしに、運送札の裏へ、曲がった三日月と、針金みたいな松を一本、爪でこすって描きつける。「これで、つきみね女将のご機嫌伺いってとこだな」と、誰にともなく呟きながら。

その札は、帳場から荷置き場へ、荷置き場から坑口の詰所へと、帳簿の間や煙草入れの内側をくぐり抜けるうちに、いつの間にか、墨や炭筆で書き足されるようになった。誰かが壁板の隅に真似て描き、誰かが飯盒の蓋の端に、ぼそぼそと刻みつける。紙の切れ端、使い古しの札、炭袋の口を縛る紐に差した木片――目に付いたものに、歪んだ月とひょろ長い松が、たどたどしく生まれていく。

ある晩、鉱夫宿の一つで、若い者が自分の寝台の上の梁に、その印を墨でなすりつけた。釘穴の残りを利用して、月の下に、ちんまりと松を生やし、不揃いな線を、そこだけ黒々とさせる。

「ほらよ。」と、同じ部屋の連中に振り向いて笑う。「この印が戸口を見張ってりゃな、山のやつも、ちっとは考え直すかもしれねえ。潰すなら、印《しるし》のねえ棟からにしてくれってな。」

笑い半分、だが、布団に潜り込むときには誰も、その梁を見上げずにはいられない。指先で、知らぬふりをしながら、ちょいと木目をなぞる者もいる。月の線は歪み、松は貧相で、絵としてはとても褒められたものではない。けれど、「つきみねの印」と囁かれるその形は、ひび茶碗と同じように、言葉にならぬ願掛けと、誰にも見つからぬ反抗とを、ひとまとめにして梁の上に貼りつけていた。

薄暗い脱衣部屋や坑口脇の詰所で、男も女も、監督に取り上げられぬ持ち物に、細い三日月をこっそり刻みはじめた。弁当箱の蓋の縁には、親指ひとつぶんの欠けを残し、油ランプの柄には、段々に登る梯子のように、浅い月を三つ並べる。

「つきみね印さ。」と、煤で頬を黒くした若い顔が、年嵩の者に説明する。「勘定持ちが『もうひとさじ奥へ』なんて言いやがったとき、こっちが一歩、足を引く印だ。」

監督どもの石筆は、その傷を罅とも数えない。ただ、昇坑前に手を洗った指先が、いつも決まってそこを撫でていく。木肌のささくれに細い白い皮膚がひっかかるたび、小さな息が胸の奥で折れ、深呼吸ひとつぶんの間だけ、誰の耳にも届かぬ祈りが宿る。

ある者は、子の木履の裏にさえ、豆粒ほどの月を彫りつけた。「山の腹が怒り出したとき、せめて寝台までの道は見逃してくれ」と、冗談めかして笑いながら。笑い声の底で、鉄くずみたいな怖れが、月の溝に静かに沈んでいく。

震《ふる》えは、合図もなく来た。腹の底をぎゅっと掴まれるような一揺れが、棚の茶碗をちりちり鳴らし、坑口の黒い喉《のど》から、細かな土煙が「息」のようにふっと吐き出される。下《しも》の入口わきに、昔から斜めに傾いていた石標《いししるべ》が、そのときとうとう、ぐらりと身を折った。注連縄《しめなわ》のほつれた根元から泥へ崩れ、腹に一本、嫌な音を立てて罅《ひび》が走る。

二日ほど、男たちは「山の機嫌が変わった」と口の中で繰り返し、女たちは家の仏壇や台所の隅に、いつもより一本多く線香を立てた。子どもに悟られぬように煙を扇《あお》ぎながら、「悪い前触れじゃなきゃいいがね」と、湯気みたいな声で囁く。

三日目の夕方、町から戻ってきた荷車小僧が、詰所の戸口で息を切らせたまま叫んだ。

「見たぞ、おれ! 社《やしろ》町のはずれでさ、つきみね女将が、自分の財布から小判を数えてた。神主が、新しい注連縄を柱に巻きつけながらな。」

泥に寝かされた古い石のそばで、女将は帯の間から布袋を出し、指を折っては一枚ずつ、静かに賽銭箱へ落としていたという。誰の命令でもない、あの女の懐《ふところ》から出た金だと、小僧は、煤けた目を丸くして繰り返した。

週の終わりには、話は一つの筋へ磨かれていた。倒れた石標を自分の金で起こさせ、神主が古い祝詞を端折ろうとすると、「そこを省けば、山が聞き届けませぬ」と静かに言い返し、最後の一言まで唱えさせたのだと。見物していた者の口では、女将は帰り道、一人きりで社町から坂を上がり、誰の供もつけず、ただ月と松の描かれた行燈の下をくぐって帳場へ戻ったという。

語りの中で、その行燈はもはや「飯と湯」の印ではなくなる。「今夜は月の明かりの下で寝るんだ」と言えば、「まだ呑まれちゃいない」という合図になった。鉄の柄に刻んだ三日月の欠けも、寝台の上に貼り付けた月松の紙片も、谷の喉元に立ち直った石標も、皆おなじところを指している。「一間だけ、淵《ふち》から身を引いて立つ」と、声に出さぬまま、肩を並べるやり方を。

帳場の帳面は、いつの間にか、かたちを変えていた。

かつては泊まり客の名前と、味噌や薪の出納ばかりが、きっちりと並んでいた紙面に、今は、きめ細かい小さな文字が、隙間を縫うように書き込まれてゆく。

「三番方 先月罅入《ひびい》りし十二番標石より奥へ下命あり」
「新規契約 加給、事故届なき場合に限る、と小字あり」
「寡婦イツヨ 夫脚挫折 見舞金名目の社礼金、監督にて行方知れず」

はじめのうちは、耳に入った噂を、手遊びのように端《はし》の余白へ書きつけたにすぎなかった。だが同じ監督の名が三度、四度と現れ、同じ坑道の番付が、日を隔てて繰《く》り返し紙の上に浮かぶにしたがい、里香は筆を止めた。半紙を改め、頁を分け、名前には小さく印を付け、坑の番号には赤く細い線を引いた。

「ここも、またか。」

自分の字を見下ろしながら、女将は低くつぶやく。炭代や醤油樽の出入りと並べて読むと、妙な山《やま》が立ち上がってくる。祭り前になると決まって「加給有り」の札が出る坑。休み明けにだけ「自己不慎により見舞金不支給」と書きつけられる名簿。茶を運ぶ娘たちが持ち込む、昼餉場《ひるげば》のひそひそ話も、今は笑い話として流さない。聞き終えると、卓の隅の薄い帳面に、要《かなめ》だけを移す。

そんな折、煤と汗の匂いを背負った方頭《かたがしら》が、夜更けにそっと帳場へ頭を下げた。

「女将さん……おれぁ、臆病《おくびょう》なんでございましょうか。」

厚い手の中で、折り畳まれた命令札が、紙魚《しみ》のように震えている。開けば、禁りの古い札が打ちつけてあるはずの側坑の名が、黒々と墨で記されていた。

「明日から、この脇穴へ入れ、と。神主衆は『古い決まりだ』と言って、口をつぐみやがる。上《うえ》は『加給つけてやる』って……。断りゃ、次はない。うちの連中も、腹ぁ空かせて待っております。」

里香は、すぐには言葉を返さない。帳場の灯りを一つ落とし、方頭の前に静かに坐る。

「臆病かどうかは、あたしにはわかりませぬよ。」

そう前置きしてから、彼が連れている若い者たちの顔ぶれを、一つひとつ確かめていく。いつも腰をさすっている年寄りの名、子どもが生まれたばかりの若者の名、去年、同じ筋の側坑で石に挟まれかけた男の名。

「その穴はね、あたしが子どものころにも、一度《ひとたび》口を閉められたところです。」

祖母から聞いた古い言い伝えを、静かに引き出す。あの筋は山の骨を切り過ぎて、祟りが出た。祝詞をいくら重ねても、山の腹の音が止まらなかったから、昔の殿様は、自ら坑口に来て、封じ札を書かせたのだと。

「方頭さんは、自分ひとりの首をかけるのか、それとも、后《あと》に残る者まで、紙《かみ》一枚で差し出すのか。」

女将の声は柔らかいが、逃げ場を与えぬ問いであった。札の墨の言い回しを、一つずつ読みとき、「事故の責め、頭《かしら》一人これを負う」とある行に、指先を置く。

「この字はね、あんたを守るふりをしている。『皆が望んだ仕事だった』と、後で言い逃れするための字だよ。」

彼の酒盃《さかずき》には、一度として酒を継ぎ足さない。代りに湯飲みに湯を満たし、冷めるまでのあいだ、黙って考えさせる。帰り際、里香はただ一つだけ、言葉を足した。

「臆病者は、山の中では長生きします。死んだ者の名を、帳面に書き足さずに済む頭《かしら》が、ほんとうは一番えらい。」

方頭が深く頭を下げて出て行くと、女将は命令札の文言を、そっと自分の帳面に写し取る。罅の入った標石の番号と並べて、また一つ、赤い印が増えた。

噂は、女将の歩調など待ってはくれなかった。「月峰《つきみね》の女将に見てもらえば、字の裏まで秤《はか》ってくれる」と、いつのまにか決まり文句のように囁《ささや》かれるようになる。

帳場の灯が細くなった丑三《うしみ》つ時《どき》、行灯の陰から、袂《たもと》のふくらんだ影が、ひとり、またひとりと現れる。行李《こうり》の底に忍ばせていた巻き紙を、袖の中からそっと引き出し、「いや、その……ちょいと、目を通して頂けりゃ」と、口実めいた言葉をこぼすギルド書記や勘定方。

里香は、いつもの帳場ではなく、裏手の小さな床几《しょうぎ》と矮卓《わいたく》だけ置かれた隠し床間《とこま》へ通す。灯心をひとつだけ摘まみ、灯を落として、紙の白さと墨の筋だけが浮かぶようにする。

指先で、筆の運びをなぞる。祭礼休み明け「より」支払うとしながら、祭礼そのものを別紙の但書きで削ってある条《くだり》。坑内で「凶事を口にした」者には、危険加給を支給せずと、曖昧な「口穢《くちけが》れ」の一語で何もかもを括《くく》ろうとする行。傍目には丁寧な敬語で飾られた、喰い扶持《ぶち》の根元を掘り崩す文言ばかりだ。

女将は、小刀の刃先ほどの薄墨を筆に含ませ、紙の余白へ、そっと輪を描く。あからさまな罰則の条ではなく、「ただちに」とか「やむを得ざる都合により」といった、後からどうにでも捻《ひね》れる言い回しの脇に、細い印だけを置く。

「ここは、『山の休みを前提とする』と、言い換えてはいかがです。」

彼らが次のギルド寄合で口にすべき言葉を、里香は一つずつ、穏やかな世間話の形にして渡す。「祭礼をないがしろにしては、山の機嫌が」と、あくまで書き手の顔を立てる調子でありながら、勘定の腹を冷やすような文句。

「『招いた不運』とは、具体に何を指すのか、と、お尋ねなさい。答えを皆の前で紙にしてもらうんですよ。」

そう言って、ふところに巻き紙を戻させる。送り出すとき、女将は決して「戦え」とも「拒め」とも言わない。ただ、「その言葉を、皆の前で、同じ調子で申してごらんなさい」と、背を押すだけだ。

翌日、帳面の片隅には、新しい小さな記しが増える。

「書記某 危険加給条文の定義問うも、返答ならず 座中ざわめきあり」

静かな筆致で綴られた一行一行が、やがてどこの誰が、どの言葉で、どの勅令《ちょくれい》の腹を噛んだのかを示す、山の下の細い脈のように、紙の上へと伸びてゆく。

里香が細い糸を辿《たど》るように、訴えを星人《ほしとの》使いへ送り出せば出すほど、その糸はくるりと輪を描いて、また月峰の戸口へ戻ってくる。

ある晩、まだ頬に産毛の残る早飛脚が、寒夜だというのに汗をしたたらせて帳場へ転がり込んだ。

「つ、使いの方が……『殿に上げる紙は、月峰の女将が撰《えら》ぶ』と。『折り鶴を量《はか》るのは、あんたの役目だ』って……。」

その言葉を聞いた瞬間、里香はようやく気づく。自分が「こんな話がありましたよ」と半ば雑談めかして託してきた噂話は、他人《ひと》の口に移れば、「この穴を閉じよ」「この祝詞を戻せ」という、細く固い指図になるのだと。

喉の奥がひりついた。否《いな》と言い切れば楽にもなれたが、里香は首を振らない。ただ、帳場の机の端に、まだ白い新しい帳面を一冊、横に置いた。

「では、その鶴を量る秤《はかり》を、決めねばなりませんね。」

その晩から、女将は筋を通す作法を改める。訴えを持ち込む者には、まず湯を一杯出し、「どの坑の、何番《なんばん》の筋か」「頭《かしら》の名は」「そこへ最後に、きちんとした祝詞が上がった日は、いつか」と、寝言では答えられぬほどの細かさで問いただす。

ただ腹立ちまぎれに罵《ののし》りたいだけの者の前では、筆は取らない。肩の力が抜けるまで噂を聞き、湯呑みに湯を足し、口の火が冷めれば、そこで話を終える。

けれど、坑の番号が迷いなく返り、監督の癖や、祭礼を飛ばされた回数まで、すらすらと言葉が続く訴えならば――女将は別の色の墨壺《すみつぼ》に筆先を沈める。薄藍《うすあい》の筋で、坑の名と日付と、外された祝詞の名を一行ずつ記し、折り鶴の中へ、その紙片をそっと忍ばせる。

指先で折り目をきっちりと揃え、一羽一羽、息を詰めるように折り上げる。「座敷の泣きごと」ではなく、「評定の卓《たく》に載せても崩れぬ言葉」だけを、その薄藍の印とともに、殿のもとへ飛ばすために。

疲れは、煤《すす》のように骨の隙間へ沈み込んでいた。夜の鐘が遠ざかり、土間の鍋が拭われ、最後の酔いどれ商人を布団へ転がし込んだあと、里香はひとり、供え棚の前に坐る。

折り鶴は、いつの間にか棚から溢れ、行李の蓋の上にまで群れていた。指先で撫でると、子どもの拙《つたな》い字、煤に汚れた親指の跡、震える筆で書かれた坑《あな》の番号が、紙越しに立ち上がる。行灯の灯を落とし、香を一本だけ立てると、淡い煙が梁《はり》の闇へと筋を引く。

女将は、心を動かされた順ではなく、自ら決めた掟《おきて》に従って、静かに鶴をより分けていく。闇雲な破壊を求める言葉――「どの坑の、どの筋か」も書かれぬまま、「ひっくり返してやれ」とだけ滲《にじ》んだ鶴は、別の箱へ。銭勘定《ぜにかんじょう》ばかりで、祭《まつり》の休みも、社《やしろ》の名も一つも出てこぬ請願も、そっと退《ど》ける。

「祠《ほこら》を戻せ」「この筋は冬至には閉じよ」と、山の決まりを共に書き記した紙片だけが、膝元に小さな山を作る。星人《ほしと》の使いに託す束は、手元に残す束よりずっと少ない。だが、その少なさが、かえって刃物のように思えた。誰の泣き声かではなく、どの石と、どの祝詞を動かすのかを選び取った鶴――踏み潰されにくい言葉だけが、静かに夜気の中で重みを増してゆく。

山に向かって、里香がようやく言葉を出したとき、それは祝詞の文句でも、社家の節回しでもなかった。ただ、梁へと昇る煙に紛《まぎ》れる、煤《すす》に掠《かす》れた女将の独白《ひとりごと》である。

「……怖《こわ》うございますよ、山さま。」

どの坑《あな》の、何番坑道の字を撰《えら》び損ねるか。薄藍《うすあい》の一筆で、誰を死地へすすめてしまうか。星人《ほしと》の筆に託した折り鶴が、殿さまの目に留まりすぎて、ここへ早く鋭い目が向くかもしれぬこと。

「けれど、あたしの名の下《もと》に黙って通る策で、人の命《いのち》をばら撒《ま》く真似だけは、致しません。」

声に出して、ひとつひとつ、誓いを縫い直す。どの願いにも、必ず「山の休み」の日付を入れること。夜半《よわ》の鎮まりにまで鎚音《つちおと》を響かせぬこと。外した祠《ほこら》は名を呼んで立て直すこと。死んだ者に割り当てられた筋《すじ》には、二度と生者を押し込まぬこと。

「そう書かれておらぬ紙は、どれほど泣き声が添えてあっても、上へは上げません。ここで止めます。」

煙はただ、梁の闇にほどけてゆくだけであった。板の下の山肌も、いつものように黙っている。返事らしいものは、どこからも返ってこない。

それでも女将は、膝の上で両の手を組みなおし、背筋をまっすぐにした。山が聞いていようといまいと、月峰から出てゆく願いの形は、もはや元には戻らぬのだと、己《おの》れに言い聞かせるように。

次に戸を叩いた早飛脚の包みには、「何卒《なにとぞ》」と泣き伏す言葉よりも先に、節季ごとの休坑日と、守るべき石標《いししるべ》の名と数が、きれいに並んでいた。その紙は、星人の机の上では「規定案」として読まれ、町の膝突《ひざう》ち話の中では、いつの間にか「月峰の女将のやり口」として、輪郭を持ちはじめる。

星人《ほしと》の筆致《ひっち》が改まってから、初めて殿中《でんちゅう》へと上がった訴状《そじょう》は、見かけだけ言えば、これ以上ないほど味気ない紙であった。

一枚目には、勤番《きんばん》の刻限《こくげん》が、月の初めから晦日《みそか》まで、きっかりと並んでいる。何刻から何刻まで鎚音《つちおと》を絶やさず、どの筋《すじ》が、何夜続けて「山の休み」を踏みにじられたか。二枚目には、名もない軽微《けいび》と片付けられてきた落盤《らくばん》や崩落《ほうらく》の記録が、日付と坑《あな》の番号とともに淡々と記されている。三枚目の末尾《まつび》に、ようやく短く添えられた願い文句は、「従前《じゅうぜん》の社家《しゃけ》の暦に相応《ふさ》わしき調整を賜《たまわ》りたく」とだけある。

華やかな弁舌も、殿中を煙に巻くような逆上《ぎゃくじょう》もない。ただ、石と骨の数を数えるような、冷えた数字の行列。けれど、詰所の書役《しょやく》たちは、その素っ気なさのうちに、かえって刺《とげ》のような妙味を感じ取っていた。

「おかしいな……。」髭のまだ柔《やわ》らかい若い書記が、帳面を繰《く》りながら眉をひそめる。「こちらの者ではない書きぶりです。工《たくみ》の賃銀《ちんぎん》の勘定みたいに日数を詰めていながら、死人《しびと》の数え方は、寺の過去帳《かこちょう》に似ている。」

年嵩《としかさ》の書役が鼻を鳴らす。「宿屋口《やどやぐち》の女将か、社《やしろ》の下働きでも交じっておるのかもしれぬな。だが、誰が書こうと、筋立ては妙に揺るがぬ……。」

彼らの前に伏せられた紙は、名主《なぬし》や頭《かしら》の印《しるし》こそ並ぶものの、その骨組みを組んだのは、夜ごと月峰《つきみね》の土間で交わされた、湯気混じりの問答であった。

その晩も、帳場の火は遅くまで消えなかった。暖簾《のれん》の向こうでは、鉱夫《こうふ》たちが大鍋の汁をすすり、煤《すす》にまみれた手で湯呑みを包んでいる。里香は彼らの向かいに静かに腰を下ろし、いつものように、肴《さかな》の盆を運びながら、何気ないふうを装って口を開いた。

「……あんた方のところで、一番きつい番は、いつですか。盆も彼岸もなく鎚を振らされる夜は、どの筋です。」

最初は、愚痴半分の笑い声が返る。「きついも何も、全部きつうございますよ、女将。」だが、二杯目の湯が胃に落ち、肩から力が抜けてくると、誰かがぽつりと言う。

「決まって、雨勝《あまが》ちの晦日の夜だ。あの夜番に回ると、眠りに落ちかける度に、壁ん中から小突《こづ》かれるような音がしてな……。」

「それは、どの坑《あな》の、何番筋です。」里香は、帳場から持ち出した薄い板の上に、さらさらと筆を走らせる。星人の使いとして座敷の隅に控える若い者は、鉱夫たちの答えと同じくらい、里香が重ねる問いのほうを熱心に写し取っていた。

「川音の消える夜は、どうです。川の匂いが変わった晩が、ありませんか。」

「……ありますとも。黒皮坑の下《しも》四つの曲がり、あそこは川の音が止んだ夜にかぎって、鎚《つち》の音が向こうから返ってくる。人が打っているんじゃない、遅れて届くみたいに……。」

里香は、聞き逃さぬよう、言葉の端々に印《しるし》を付けてゆく。「川の音が消えた夜」「山の休みを破った番」「亡くなった頭の名が、それでも勤番表に残っている日」。鉱夫《たくみ》の舌からこぼれたそれらの語を、女将は自ら決めた秤《はかり》にかけ、残す文と捨てる文をより分ける。

湯飲みが空になるたび、星人の使いは、女将が尋ねた順番通りに書き付けを重ねていく。そこには、「賃銀を上げよ」という荒《あら》い叫びより先に、「山の休みを戻せ」「社《やしろ》の暦に合わせよ」という、静かな決り文句が並んでいた。

やがて、それらの断片は、星人の隠し座敷で一枚の紙に綴《つづ》り直される。味気ない数字の側に、里香の問いから生まれた語が、さりげなく挿《さ》し込まれてゆくのだ。「既定《きてい》の休坑日」「祠《ほこら》を守る印」「夜半《よわ》の鎮まりを破らぬこと」。

殿中で若い書記が「宿屋の勘定と寺の過去帳の合いの子だ」と眉をひそめたとき、彼は知らなかった。その紙の裏には、月峰の土間で交わされた数え切れぬ湯気とため息とが、墨の薄藍《うすあい》となって染み通っていることを。

似た文言の訴状《そじょう》が幾度も写し取られ、町のあちこちを巡り始めるころには、言葉そのものの形が、じわりとそちらへ曲がり出していた。

鉱夫《こうふ》らが飯場《はんば》の隅で膝を抱え、飯盒《はんごう》の蓋で汁をすくいながらこぼす愚痴にも、「こき使われる」だの「骨が折れる」だのという曖昧《あいまい》な嘆きのほかに、「山の休みを踏みにじられた夜番《よばん》」や「倒された石標《いししるべ》のつけ払い」といった、帳場《ちょうば》で女将《おかみ》が撰《えら》んだ文句が、いつの間にか紛《まぎ》れ込んでいる。

「こちとら、ただの過労じゃねえ。」髭面の年長《としうえ》が、湯呑みを指で叩きながら言う。「山の決まりを破った“違約《いやく》の晩”だと、ちゃんと書いてもらわにゃ。」

里香の土間から外へ出る紙はすべて、女将の手で一度は撫でられている。そのたび、「山の休み」「社《やしろ》の暦」「折られた石標の償《つぐな》い」といった語が、必ずどこかに折り込まれる。やがてそれは、炭小屋《すみごや》の陰で交わされる内緒話にも、風呂場の湯気の中の悪態にも、当たり前のように顔を出すようになった。

夏代《なつしろ》は、その変わり目を、路地裏の風の具合で知った。荷を満載した駄馬《だうま》がすれ違うたび、鉱夫らの舌から、「過労」よりも先に「山の休み返せ」という響きがこぼれる。夜番帰りの若い頭《かしら》が、腰の縄を解きながら呟《つぶや》くのを耳にしたときは、思わず足を止めた。

「……これ以上、川の匂いが逆《さか》さまになった晩まで働かされるなら、うちの組は“月峰《つきみね》の女将のやり口”でいく。山の決まりに合わぬ番は、皆で穴ん中から這《は》い出してやるさ。」

夏代は、約束の辻を一つやり過ごし、軒の影に身を寄せる。耳の奥で、いつもの囁《ささや》きが強まった。

――聞いたか、夏代。《川の匂いが変わる夜》を、ようやく誰かが言葉にしている。

見えぬ手が、肩越しに衣の襟《えり》をつまむ気配がする。春香《はるか》の気《き》は、名も知らぬその女将の名が出た途端、まるで獣《けもの》が風向きを嗅《か》ぎ当てたときのように、ぐっと近づいた。

「……月峰の女将、ね。」夏代は、誰にともなく呟いて、口の端をゆがめる。「人の名で山の決まりを言い募る輩《やから》なんざ、ろくな目に遭《あ》わんのが道理《どうり》だが。」

だが、背後から押し寄せる冷えは、いつもの責め立てとはどこか違っていた。春香の幽《かす》かな指先は、夏代の肋《あばら》のあいだを探るかわりに、まるで問いかけるように、服の布地を一度だけ軽く抓《つま》んでは離す。

――この者は、本当に、《あのとき》誰もしてくれなかったことを、他人にしてくれるのだろうか。

路地裏の暗がりで、夏代は舌打ちを飲み込み、肩をすくめる。山の名を口にするたび、誰かの顔が浮かぶ町になりつつあるのだと、薄闇の中で遅ればせに悟りながら。

清貞《きよさだ》の詰所《つめしょ》には、いつの間にか訴えの巻物が小山を成していた。墨はきちんと揃い、文言も一見《いっけん》穏やかだが、その繰り返しは耳に残る太鼓のように、じわじわと胸板を打つ。

「石札《いしふだ》を折るな」「名を呼んで境〻《さかい》石を立てよ」「川の匂いが逆《さか》さまになる夜は、穴を閉じよ」。

手は違い、印判《いんばん》もばらばらでありながら、肝心《かんじん》の言い回しはどれも、寸分《すんぶん》たがわず同じだった。清貞は、戦場で敵の手並《てな》みを読むときと同じ眼つきで、紙束をひと通り繰《く》る。

(ばらけた矢筋を、一つの射場《いちば》へとまとめる者がいるな……。)

誰かが、散り散りの怨嗟《えんさ》を、同じ節回しで歌わせている。表の名主《なぬし》や頭《かしら》ではない、もっと土に近い舌の癖だ。そう当たりを付けて、帳場口《ちょうばぐち》に座る同盟《どうめい》札の書役を呼びつけると、男は帳面を抱えたまま、落ち着きなく膝を揺らした。

「この型の文を書いたのは、どこの誰だ。社家《しゃけ》の手か、町医者か。」

「さ、さあ……。」書役は額の汗を拭い、「ただ、その文句《もんく》を口にする者らは、みな同じ場所の名を出します。――月峰《つきみね》屋へ行け、と。『山の休み』の帳面は、今はあそこの女将《おかみ》が押さえておられる、と。」

清貞は、しばし黙したまま、数珠《じゅず》の玉を親指で一つずつ送っていった。宿屋の名は、もとより知っている。巡邏《じゅんら》の折に、二度三度、膳を取ったこともある。帳場に立つ女の、派手さのない眼差しと、兵《つわもの》にも鉱夫《こうふ》にも同じ調子で膳を出す手つきを思い出す。

(訴えの筋を揃えているのが、あの女か。それとも、誰かの顔を借りているだけか……。)

山を怒らせぬようにと願う紙束と、殿の命で山を無理に穿《うが》つ命令書とが、同じ机の上で重なっている。そのあいだに挟まる一つの名が、縄のように己《おの》れを締め上げもすれば、落ちかけた足場を繋《つな》ぐ綱《つな》にもなるのだと思うと、胸の奥がざわついた。

部屋に一人になると、清貞は筆を取るでもなく、命令書の印を押すでもなく、ただ数珠を握りしめたまま、低く呟《つぶや》く。

「月峰の女将の名を、印繩《しるしなわ》のように扱うべきか。それとも……溺《おぼ》れる者の掴《つか》む藁《わら》と見るべきか。」

木戸の外では、坑夫《こうふ》らの出入りの足音が遠く響く。その一歩一歩の下で軋《きし》む山の気配と、帳場から伸びてくる静かな女の筆の気配とが、清貞の耳の内で、いつまでも離れずに絡《から》み合っていた。

言葉は、墨よりも早く山を駆《か》ける。社《やしろ》へ供《そな》えを運ぶ小僧《こぞう》らは、帰りがけに月峰屋《つきみねや》の軒先へ白い折鶴《おりづる》や松葉《まつば》の一枝をそっと挟《はさ》み、「あの石標《いししるべ》を立て直した女将《おかみ》への“運”だ」と囁《ささや》き合う。夜番《よばん》明けに足が震える若い鉱夫《こうふ》も、裏口へ回れば、勘定抜きの握り飯と味噌湯が必ず一椀《ひとわん》差し出される――そんな噂《うわさ》が、坑口《こうぐち》から飯場《はんば》、湯屋《ゆや》の脱衣場まで、いつの間にか当たり前の話になっていた。

やがて、湯気に煙《けむ》る隠し座敷《ざしき》や、女たちだけの洗い場の囁きで、話題が「壊《こわ》すか、止めるか」に及ぶと、星人《ほしと》の練《ね》り上げた策《さく》は、しばしば肩をすくめられる。

「むずかしい理窟《りくつ》はあとでええ。うちらは“月峰の女将のやり口”でやるんだ――むだ死《じ》には乗らねえ、山と社に恥《はじ》をかかす真似《まね》はしねえ。」

その素朴な一言が、どの理屈より早く、膝《ひざ》を抱えた者らの胸に落ちる。星人はその報せを聞き、隠し書院《しょいん》の地図の前で静かに筆を止めた。机上《きじょう》の線ではなく、月峰屋の土間《どま》で打たれる脈《みゃく》に合わせねばならぬと悟り、計画の節目《ふしめ》に、「山の休み」「社の暦《こよみ》」「無用《むよう》の血を流さぬこと」を太く書き足す。

(もはや、この動きの心臓《しんぞう》は、隠された書棚ではなく、人の出入り絶えぬ一つの帳場《ちょうば》に置かれている……。)

星人はそう認め、己《おの》れの名ではなく、「月峰の女将」の声色《こわいろ》で訴える文を、あえて増やしていった。

忠臣らの調《ととの》えた密報《みっぽう》が座敷机《ざしきづくえ》の上に積もるころには、その筋立《すじだ》ては誰《たれ》の目にも明らかであった。色糸《いろいと》を打ち込んだ帳場図《ちょうばず》は、隠された兵糧蔵《ひょうろうぐら》でも禁制《きんせい》の社《やしろ》でもなく、行人《こうじん》の往来《ゆきき》たえぬ行人坂《ぎょうにんざか》中程の、一つの宿屋《やどや》の軒《のき》にばかり収斂《しゅうれん》している。

「兵《つわもの》どもに粗略《そりゃく》なく膳《ぜん》を出すが、禁り穴《いみなあな》の手柄話《てがらばなし》を始めれば盃《さかずき》を置く」、「訴状《そじょう》の言い回しは、あの帳場《ちょうば》から広まる」、「軒先には折鶴《おりづる》と小供《こども》らの置いた小さな供《そな》えが、船底《ふなぞこ》に付く貝殻《かいがら》のごとく群《むら》がる」――そう書き付けが重なっていた。

一通の報《しら》せには端《はし》たなくも、「月峰《つきみね》の女将を除くか、さもなくば名折《なよ》れさせれば、この『月峰の女将のやり口』とやらは糸の切れた凧《たこ》のごとく散《ち》ろう」とまで記されている。

多田男《ただお》はその行を目で追い、ゆるやかだった顎《あご》の線をわずかにこわばらせた。墨と勘定《かんじょう》に爪を染めた一宿《ひとやど》の女ごときが、いつのまにか鉱夫《こうふ》どもと山《やま》とのあいだに立つ「顔」となっているというのか。彼《か》は沈香《じんこう》の香《か》を含んだ息を細く吐《は》き、筆を執《と》る。その一筆《ひとふで》で、どこまでなら中立《ちゅうりつ》とやらを容《い》れ、どこから先を「不届《ふとど》き」と見做《みな》して踏《ふ》み潰《つぶ》すか――己《おの》れと山とに試金石《しきんせき》を当てるような命《めい》を、静かに書き起こし始めた。


Edicts and Embers

暁の刻、まだ炭焚きの煙も薄らいだ頃、ギルド通りの辻札場に、新たな高札が打ちつけられた。濡らした縄で締め上げるように、釘が板をきしませる音が、眠気の残る町にやけに響く。

「宿屋税引き上げ……不正なる霊貨取引の風説あり、取締りを厳とすべし。」

墨痕なお生々しく、役人言葉がずらりと並ぶ。だが誰の目にも、標的がどこの誰かは明らかであった。月峰屋の屋号までは書かれぬ代わりに、「霊符・護符・祈祷を媒とせる不当な利得」と、わざとらしく回りくどい文言が連ねてある。

「霊貨だとよ……うちの銭は汗と煤だに。」

鉱夫上がりの客引きが舌打ちをし、魚売りの女房が声を潜める。

「でもさ、節句のたび、あそこの女将さん、近所の子らに団子配るじゃろ。あれも勘定に入れられたらかなわんわ。」

人々は横目で札をにらみつつ、足を止めぬ。止まれば、誰かが覚えておく。この町では、それが命取りになる。

日が傾きはじめる前には、もう町役人と寺社方の印を押した封書が、月峰屋の戸口に届いていた。表には「急達」、裏には「隊長 清貞殿 直々執行」と、太い字。

同じ頃、下谷川の河岸では、別の高札が打たれる。「霊障由来の不逞行為取締り強化」と題し、宿・茶屋・湯屋すべてを対象とするかのように書かれていたが、人々の噂はひとところへ収束してゆく。

「結局、あそこを締め上げりゃ、口も耳もまとめて押さえられるって勘定さ。」

煤と香の匂いが混じる坂道を、清貞は封書を袖にねじ込み、無言で登っていた。文面など、すでに覚えている。彼の署名も判をもって添えられていたのだ。命じる言葉は丁寧で、逃げ場はひとつもない。

「全室検分、帳簿一冊残らず改めよ。霊符、護符、祈祷にまつわる不正の兆あらば、その場にて押収し、然るべく処断すべし。」

祓いの祝詞ではなく、取り締まりの条文が、彼の頭の中で幾度も反芻される。唇の裏側に残るのは、塩を噛んだような味だった。

昼下がり。ギルド通りの陽が最も強くなる刻限を見計らったかのような頃合いに、鎧の留め金が鳴り、槍の石突きが板戸を叩いた。月峰屋の暖簾が、軍靴の風で高くめくれ上がる。

「月峰屋――! 霊関与品取調べの御用である。戸を開けい。」

通りの両側で仕事を装っていた者たちが、一斉に手を止めた。桶を抱えた水売りも、魚籠を提げた子供も、目だけを動かして坂の上をうかがう。

宿の中では、まだ朝餉の片付けが終わったばかり。膳を拭いていた女中が布巾を取り落とし、炊き場の老婆が竈の火を弱める。帳場では、悟里香が墨の乾ききらぬ帳面を静かに閉じて顔を上げた。

戸口に掲げられた封書の割り紐が、清貞の手で無造作に引きちぎられる。その仕草ひとつに、迷いの気配は見えない。ただ、その眼差しが暖簾の奥の暗がりへと向いた刹那、かすかに揺れた。

命じる紙は、もはや言い訳でも盾でもない。――それを持つ腕こそが、刃であると、彼は誰よりよく知っていた。

見物を装い、桶や荷籠を抱えた町人たちの視線が、釘のように月峰屋の戸口へ打ちつけられていた。暖簾をくぐった兵どもの足音が、板の間を一歩ごとに荒く鳴らし、廊下の静けさを踏みにじる。

「奥の間、押し入れまで改めよ。戸棚はこじ開けてかまわぬ。」

清貞の声が、乾いた板札のように響く。その命が下るたび、鎧の袖が柱にぶつかり、戸棚の閂が無慈悲に叩き折られた。兵たちは蔵の長持をひっくり返し、米俵の紐を刃で裂き、隠し底がないかと指で板を叩く。女中部屋では、娘たちの箪笥が引き出され、畳の縁までめくられた。

帳場に積まれていた帳面は、ひと巻きずつ荒々しく解かれ、すずりの墨が飛び散る。「宿泊人 氏名」「炭鉱組 人数」と書かれた行をなぞる兵の指先が、ところどころ、霊符代や供え物の記載に止まり、勝手な勘繰りを宿の中にばらまいてゆく。

清貞は、ひとつひとつの命令を口にするたび、喉の奥に、かつて祝詞を奏上したときの節回しが、歪んだ影のように蘇るのを感じていた。山の社で、「家々を護り、道行く者を守らん」と誓った折の文句が、兵に向かって「探れ」「壊せ」と告げる舌先と、同じ口から出ている。

廊下の端では、悟里香が客の前に頭を下げ、静かに道を空けていた。彼女の背に突き刺さるような視線を、清貞も感じる。だが彼は、ただ封書を袖口から少し覗かせ、そこに押された印を見せるように立つしかない。

――これは私の命ではない。ただの職務、ただの執行だ。

そう心の中で繰り返すたびに、胸の内側で木札がひび割れるような音がする。かつて社殿の前で結んだ誓紙の文字が、一つずつ煤け、読み取れぬ黒い滲みに変わっていく心地であった。

同じ刻限、町の坂筋から谷底の坑口まで、「抜荷狩り」と書き立てた巡邏が、一筋の箒のように押し寄せていた。槍先で荷籠をつつき、札入れをひっくり返し、川沿いの小屋からは星人の走り使いが二人、鉱夫くずれが三人、縄目をかけられて引き立てられる。

「ただの使いに過ぎん……!」と叫ぶ声も、社方役人の唱える半ば祝詞じみた詮議の詞にかき消される。塩と炭とを混ぜた水を舐めさせ、焚きしめた護摩札の煙を鼻先に押しつけ、「名を申せ」「誰に導かれた」と、調べは霊障祓いの体を取りつつ、責めの具と化していた。

口々に搾り出された名は、やがて一つに寄り集まる。「夏代白――山道を知り抜いた、影の案内役よ。」そう書きつけた調書が、いくつもいくつも積み上がってゆく。坑道崩れの折の噂話も、酒席で漏らした愚痴も、すべてが一人の「黒幕」に縫い合わされ、「落盤を呼び、心を惑わす不逞の徒」としての影法師が、紙の上でふくれ上がっていった。

その一方で、「和合大祭」と銘打たれた豪奢な触れが城下に流れた。三日三晩の振る舞い酒と、著名祈祷師を招いての「大祓」が約され、「山川の霊も人も、ここに調い直すべし」と、絵入りの刷物が辻に踊る。だが、その裏手の路地や社頭の影には、ひそかに手配書が貼られた。「月峰屋関係者」「山道案内人」「霊障風説の元と疑わしき者」――名指しこそ避けながら、「見次第召し捕るべし」と小さく記されている。香の煙と太鼓の音に紛れ、縄と札だけが静かに数を増していった。

祭の提灯が吊られ、太鼓の音がまだ試し打ちの調子で谷にこだまするさなか、鉱夫長屋や行人町では、ほとんど同じ刻に戸板が蹴り破られていった。月峰屋の裏庭では、水汲みをしていた悟里香の従弟が、「反霊扇動」の嫌疑とやらで縄を打たれ、抵抗した腕には棍棒が無言で振り下ろされる。湯殿では、細々と書付を運んでいた書生が裸のまま引き立てられ、行き交う客は湯気越しに目を伏せた。山道案内の仲間の一人は、鉱滓置き場脇の路地でうつ伏せに組み伏せられ、そのまま谷底の鉱山蔵舎へと引きずられてゆく。叫び声を上げた女房は、口に布を噛まされたまま地に崩れ落ち、残された子らだけが、鎧の音の遠ざかる方角を呆然と見送っていた。

月峰屋の中庭に、見慣れぬ縄と札の匂いが満ちたのは、夜半過ぎであった。

「ここより奥、立入り止め――霊乱調査中。」

社兵の一人が、墨のまだ乾ききらぬ木札を、井戸端の柱に打ちつける。祓具ではなく、封鎖の印としての御幣が、白くひらひらと揺れた。悟里香は、桶を握ったまま一歩も動けない。従弟はすでに地に押し伏せられ、うつ伏せの背に膝を食い込ませられている。

「待ちなされ、彼はただの水番にて――」

声を出したのは悟里香だと、後になって思い返してもわからなかった。ただ、次の瞬間には、槍の石突きが畳を叩き、「女将、静まり候え」と、鋭い声が飛ぶ。声の主は、門口に立つ清定であった。

鎧の威儀を崩さぬまま、彼は一礼だけを形ばかりに寄越した。

「月峰屋女将。公儀並びに社中の命にて、この裏庭、当分の間お預かり仕る。霊扇動の嫌疑、ここを経て集うと聞き及ぶゆえ。」

「嫌疑……? うちの者が、何を――」

問う言葉は、最後まで形にならなかった。従弟の口に布切れがねじ込まれ、「霊説紛擾、聞き込みあり」と、誰に聞かせるでもない調子で書役が書きつけを読み上げる。「山川の霊を惑わし、坑夫らをそそのかし、和合大祭を乱さんとする企てあり」と、あり合わせの詞が塗り重ねられてゆく。

悟里香は、足を一歩でも踏み出せば、この場の均衡が易々と崩れるのを、肌で知っていた。月峰屋には、「中立」の名がある。その名があるからこそ、鉱夫も行商も、社人も武士も、同じ膳を囲んできた。けれど今、その名札は兵の手で裏返されようとしている。

「女将、御身らの取り調べは、追って城代より沙汰ある。今宵は、ただ通路を閉じるのみ。」

清定の言は、あくまで官命の文句をなぞるに過ぎぬ。だが、その眼差しは一瞬だけ、従弟の歯を食いしばった横顔をかすめ、すぐに逸らされた。悟里香は、その一瞬の揺らぎを見逃さない。

「……ここは、谷の口だ。兵に荒らさせては、霊も人も落ち着かぬ。せめて、井戸と竈の神札だけは、剥がさぬでいて下され。」

努めて平らな声で告げると、清定はわずかに顎を引いた。

「井戸神の札までは、命にはござらぬ。」

それだけを残し、彼は踵を返す。兵たちは、従弟を挟んで立ち上がり、縄を引きながら裏木戸へと向かう。中庭を横切るその足音が、いつもは米俵や味噌樽を運ぶ若い衆のそれと、あまりに違うのが、耳に痛かった。

口を開けば、名を呼んでしまう。名を呼べば、その名ごと、帳簿の「霊扇動」の欄に縫いとめられる気がした。悟里香は、ただ両の手の指を桶の縁に食い込ませ、自らをその場に縫い留める。

――月峰屋は、誰の陣にもならぬ。

そう言い聞かせて守ってきた坂の中腹の一軒が、今や「霊乱調査中」の札一枚で、片側を切り落とされている。通いの女中が廊下の陰から、震える肩を押さえて覗きこみ、常連の鉱夫が片方の草履を履きかけた姿のまま固まっていた。誰も声を上げない。上げれば、次に縄がかかるのは自分だと、知っているからだ。

裏木戸が開き、鎧の音が夜気の中へと吸い込まれて消えた。その瞬間、月峰屋の中に、これまでとは違う静けさが降りた。客の笑いを包むための静けさではない。言葉を呑み込み、息を潜めるための、重たい沈黙であった。

その沈黙の中で、悟里香はようやく桶を手放し、膝が床につく音さえも憚りながら、竈の神棚に向き直った。竈に掲げた小さな札は、まだ変わらずそこにある。だが、その下で煮える町の運命は、今や一夜にして、別の味に変わりつつあった。

噂は、声ではなく、戸口に残る血と、空いた座布団の数で広がっていった。坑夫長屋では、租税取り立ての折に、帳面を盾に夫をかばった女房が、一太刀にて胸を裂かれ、その場で息絶えたと囁かれる。帳場町では、組頭付きの書記が「誤解だ、少し話を――」と手を振りながら路地を駆けたまま、兵の長槍に行く手を塞がれ、人足らに押し潰されて足だけが見えなくなったという。湯屋では、湯上がりの客の一人が、腰紐も締めぬうちに「ちと御用」と肩を取られ、番台の女が目をそらした刹那には、もう暖簾の向こうに姿がなかった。

誰も「殺された」とは言わぬ。ただ、「見かけぬようになった」「湯呑の数が合わぬ」と、膝を寄せ合って唇を震わせる。どの路地にも、ひとつふたつ、戻らぬ者の草履や手拭が残り、そのたびに、残された者らの胸の内に、ほどけぬ縄のような怖れと悔恨の塊が増えていった。

その夜、ひそかな受け渡し場所に誰も現れなかったのは一度や二度ではなかった。三度、四度と期日を違え、詩形を変え、符丁の季語をずらしてみても、返歌はどこからも届かぬ。約した寺子屋の裏庭には、踏み荒らされた土と、破れた草鞋の片方だけが残っていた。別の連絡家の土間には、囲炉裏の灰に半ば埋もれた血の跡と、壁から引き剥がされた御札の白さが、妙に目に痛かった。

星人の隠し書院にて、星人は地図の端に静かに墨を足す。一人、また一人と、名の上に黒い横線が重ねられてゆくたび、筆先がかすかに震えた。線は死を意味せぬ。捕縛、転向、監視付き――いずれにせよ、その経路はもはや「沈んだ」と見なさねばならぬ。

「半ばは、焼かれたか。」

己の声が、紙の擦れる音よりもか細く響いた。送った詩のうち、どれが誰の手で読み替えられ、今ごろ誰の口からどこまで漏れているのか。思いを巡らすほどに、書院の壁は狭まり、山の中枢へ通じる線が、地図の上から一本また一本と消えてゆくようであった。

それでも筆を置くことは出来ぬ。失われた筋を囲むように、残された道筋で新たな環を描き直す。鉱夫組合の末端、行商人の連なり、月峰屋の厨房を通る耳――脆く、細く、もろもろの命運に乗る細線ばかりで織り直すほかないと、彼は悟る。

「急かねばならぬ時節に、手が半分もがれたか。」

悔恨は喉元まで上りかけたが、彼はただ、机の端に置かれた古き霊契の写本に目をやり、静かに息を吐いた。崩れゆくのは己の網だけではない。谷そのものの縫い目がほどけかけている――そう自らに言い聞かせつつ、星人は次なる詩形の符丁を、黒々とした墨で考え始めた。

夏代は、荷車曳きの口から「連れが生きたまま蔵番小屋へ運ばれた」と聞いた瞬間、胃の底が冷えた。あの男の舌の上に、自ら案内した抜け穴の数々が並ぶさまが、嫌でも脳裏に浮かぶ。拷問台の下で、一本一本、坑道の名をこぼしてゆく光景が、耳鳴りと共に押し寄せた。

その夜、山肌を写した手製の地図を二つ、囲炉裏の火にねじ込む。墨線が炎に呑まれ、密かに刻んだ合図の印が、ぱちん、と音を立てて裂けた。煙の匂いが、かつて崩れた坑道の土煙と重なり、背筋を汗が伝う。

夜明け前には、長屋裏の藁小屋から荷倉の二階へ、夕刻にはまた別の湯屋の物置へと、寝床を変える。誰の目も信じぬよう、自らの足跡さえ踏み消すように。仲間、誓紙、口約束――そのすべてが、ひと息で裏返る札に見えた。

残ったのは、山の匂いと、追いすがる巫女霊の気配と、「今宵も生きて明けるか」という一つの算盤勘定だけであった。

宿屋仲間の札寄合はぱたりと途絶え、坑夫らも、誰がどこまで聞かれているか測りかねて、あからさまに口を開くことを避けるようになった。路地裏の片隅で、二人きり、声を絞ったやり取りがあるばかりである。その頭上を、巡邏の数は日ごとに増し、辻ごとに貼られる検分札は黄ばんだ紙の層をなして重なっていった。

気づけば、星人らの網は目の前でほぐれ、仲間と呼んだ顔ぶれは谷じゅうに散り散りとなり、互いの所在も確かめがたくなる。残ったのは、自らの足音ばかりが大きく響く沈黙と、「大祭」と名付けられた催しが、実のところ誰の終わりの口火となるのかという、鈍い予感だけであった。

検分の夜は、谷一帯の灯がいつもより早く細り、月峰屋にも、煤けた鎧のきしむ音が坂を這い上がって来た。刻限を告げる梵鐘がまだ鳴り終わらぬうちに、清貞は門口に立ち、脇差と数珠を帯びた影を背に従えていた。

「霊障取締りの御触れは、すでに読んでおろうな、悟里香どの。」

表向きは柔らかな声であったが、目はもう内側の闇を値踏みしている。悟里香は、膝をついて頭を下げるほかない。今日は避けられぬと覚悟していた。だが、まさか隊を率いるのが、この男自身であろうとは。

「身の内に疚しきことあらば、この場にて明らかに致せ。」

清貞の合図一つで、兵らは靴音荒く土間に雪崩れ込んだ。布団ははぎ取られ、箪笥は倒され、湯殿の桶までひっくり返される。宿の中に、客の息を殺した気配と、梁に結んだ護符の小さな震えが満ちる。

悟里香は、奥座敷と台所の境に立ち、ひとりひとりの動きを目で追う。隠し棚も抜け穴も、祖母の代からの工夫はとうに自分の掌にある。だがその夜、兵の一人が裏の貯蔵部屋で呻くような声を上げたとき、胸の内で何かが冷たく捻れた。

「隊長、これは……。」

土蔵へ続く狭い通路の先、乾し椎茸や樽酒の並ぶ棚の陰に、見慣れぬ小箱が置かれていた。開かれた蓋の内には、帳面三冊。ひとつは、見覚えのない仕入れ帳――名も聞いたことのない薬種屋の印が押されている。もうひとつは、茶屋や浴場の名が列ねてあるが、欄外に細かな符牒じみた印。最後の一冊は、薄鼠色の紙に、山の霊脈の名と祭祀の禁を記した「山霊取扱之覚」と題された写本であった。

「……こんなものを、貴殿の蔵で見つけねばならぬとはな。」

清貞の声は低かった。悟里香は一歩進み出て、首を振る。

「隊長、そのような帳面、存じませぬ。ここは従業員以外、そう易々とは……」

言い終える前に、兵のひとりが書付の一節を読み上げた。「封ぜられし石戸の月 開けば血銀の利あり」――近頃、密かに出回っている戯れ歌と同じ文句であった。帳面の欄外には、小さく月峰屋の屋号を象る印が、後から押しつけたように滲んでいる。

悟里香は、喉がひゅ、と鳴るのを自覚した。自分の手がどこかでこの印判を持ち出され、夜半のあいだに押されたのだと理解するのに、それほど時間は要さなかった。だが、そのことを口にしたところで、誰が信じよう。

「霊書の無届け所持、ならびに不審なる取引記録。」清貞は、帳面の角を指で弾きながら、兵に向かって言った。「御公儀の触れでは、これは皆、謀反と霊乱の端緒と見なされる。」

短く「はっ」と声が揃い、紙と革紐が荒々しく掴まれる音が続いた。兵たちは、棚の隅からほこりを被った古壺を引きずり出し、その中からまで同じ調子の書付を「見つけ」出しては、次々と畳の上に広げていく。

悟里香の眼には、それらの古壺が昨日まで空であったことが、眠気まじりの下働きの顔と共に、ありありと浮かんでいた。だが、清貞の視線が一度だけ彼女の顔をかすめ、その奥に、言葉にできぬ疲弊と、計算された諦念がよぎったのを見たとき、悟里香は、抗弁の言葉を飲み込んだ。

「月峰屋が、谷の乱心の巣とはのう……。」

どこからか、ささやくような兵の声が漏れる。そのささやきは、程なくして検分札の文言となり、翌朝には「邪書・邪具押収 首謀の嫌疑あり」として、町角の掲示板に貼られることになるのであった。

翌朝、まだ炭焼きの煙が谷に沈む刻限、宿仲間の集会所には、きしむ戸を押し開ける音もまばらであった。帳場役の老宿主が震える手で触書を読み上げると、「月峰屋」の二字に、場の空気がびくりと揺れた。

「同業一統、霊乱の嫌疑を受くる者と縁を絶ち、清浄を明らかにすべし――、とよ。」

墨のまだ乾ききらぬ公印が、紙面の端でねっとりと光る。誰も口を開かぬまま、ただ畳の目を見つめていた。やがて年長の女将が、「苦しゅうあるまい、悟里香どのも、御家のためと思うて……」と、誰にともなく言い訳めいた言葉を落とした。

その日のうちに、組頭二人と役人一人が月峰屋へ上り、戸口の上に打ちつけられていた宿仲間の紋札を、ぐい、と引きはがした。木が裂ける鈍い音が、土間にいた女中や客の胸を打つ。

「月峰屋は、当分之間、組合外扱い。――本日より、臨時世話掛けを置く。」

連れて来られた「世話掛け」は、帳場に座り慣れてもいぬ若い男で、腰には役所の短刀、袖口には見慣れぬ印が縫い込まれていた。表向きは「手伝い」であると告げられながら、その視線は、帳簿と出入りの客筋とを計る秤そのもののようである。

往来の宿仲間が戸口を通り過ぎるたび、誰もが軽く会釈はするが、かつてのように暖簾をくぐりはしない。目礼の角度は浅く、言葉は「お達者で」の一つさえ惜しむほどに短い。悟里香は、中庭の井戸端からそれを見ていたが、呼び止める声を喉の奥で飲み下した。

暖簾の揺れが止むたび、風鈴の澄んだ音ばかりが、妙に大きく聞こえた。

ほどなくして、穂使人の側にも、目に見える綻びが走った。ひと月も持つはずの連絡路が、二晩続けて検問に塞がれ、誰にも告げていないはずの中継小屋が、朝には縄目と封札に巻かれている。書状を託した若い坑夫の行方が知れぬまま、同じ印を結んだ隠し蔵から、次々に押収の噂が届いた。

「……ここまで手の内を読まれておるとなれば。」

月峰を見下ろす隠し書見の間で、穂使人は、地図に幾重にも引いた朱の線を、ひとつ、またひとつと無言で墨で塗り潰した。火皿の上では、符丁を忍ばせた往来帳や、霊脈を書き写した絵図巻が、ぱちぱちと音を立てて灰へと変わっていく。

「済まぬ。」

誰にともなく呟き、筆を執る手で、幾つもの名を線で断ち切る。山上の集会所、川向こうの賄い方、坑内で口入れをしていた下役――それぞれの「組」は、ある朝を境に、一切の合図も文も届かぬ孤島と化した。

それが生かすための断ち切りであると頭では知りながら、穂使人の胸には、灯を自ら消して回る盗人めいた後ろめたさが、じわりと染みていくのであった。

夏代は、谷中の辻ごとに貼られた高札に、自らの名と似絵を見た。〈儀礼妨害・落盤扇動・霊乱唆し〉――読み上げる声は、鉱夫の怨嗟と兵の号令に重なって響く。旧知の飲み屋も、賄い小屋も、彼を「知らぬ」と扉を閉ざした。穂使人筋の使いは途絶え、裏山の抜け道さえ、役人の足跡で汚れている。夜ごと、追っ手の気配と、潰れた坑道で死んだ者らの呻きが、眠りの隙間を噛み砕いていった。

召し手は役所の小役人ではなく、社頭から下ったと称する書付であった。「霊道攪乱に通じたる者を庇い立つ疑いあり」と、墨痕鮮やかに記されている。逆らえば家財没収、奉公人の身柄は兵の預かり――そう淡々と告げる口ぶりの冷たさに、悟里香は、喉奥まで込み上げた言葉を石のように呑み込んだ。

月峰屋の座敷には、清めと称して兵と社家の書記が日替わりで詰めることとなり、出入りする者ごとに名と用向きが帳面に記される。調べの名目で清算帳を広げさせられた座敷の隅には、清定の鎧を着た清貞が控え、問いただす声はあくまで礼を保ちながらも、一つひとつの答えの揺らぎを逃さぬ鋭さを帯びていた。

「これより先、怪しき噂、怪しき客を見聞きしたならば、しかと余さず申し出るよう。」

そう言って差し出された起請文に、悟里香は筆を取り、指先の震えを押し殺して名を記した。書き終えた紙面に、役人が無造作に押しつけた朱の拇印がじわりと滲み、月峰屋は「霊障嫌疑につき監看中」と記された。中立を貫いてきた暖簾は、その一行によって音もなく裂かれ、従うか、共に沈むか――選べる道は、もはや二つきりであると悟里香は知った。

起請文に名を連ねさせられたその日、ことさらに人通りの多い昼下がりを選んで、「達し」の読み上げは行われた。

月峰屋の土間に面した街道側、簡素な高座が据えられ、社家の書記が二人、役所からの役人が一人、帳簿と印箱を前に座る。その横に、悟里香の名を偽りなく記した起請文が、わざと人目につくよう立て札に貼り出されている。

「――右、月峰屋、霊道攪乱および霊障隠匿の嫌疑につき、当分の間、霊務監看の処分に付す。」

読み手の声が土間の梁に反響し、門口の外にまで染み出していく。買い出し帰りの賄い女房が足を止め、鉱夫たちが肩越しに覗き込み、常連の行商は、荷籠を背負い直してから、何も見なかったように目を逸らした。

「当主、前へ。」

促され、悟里香は板の間に膝をついた。役人の差し出した筆は、穂先に油でも塗ったかのように重い。すでに名を書いたはずの手が、再び起請文の余白に、「本日確かに達しを拝受仕り候」との定型句を、ゆっくりと綴らされる。

「指を。」

低い声に従い、脇に控えた書記が印肉の皿を差し出す。悟里香は、右手の親指を、どろりとした朱に沈めた。冷たいはずの墨は、妙にぬるく、皮膚の皺という皺にまで染み込む気がした。

紙面に押し当てられた一印は、先ほどまで白かった「月峰屋」の三文字を、血の池のように囲む。〈霊障嫌疑につき監看中〉――その下に、赤い輪がじわじわと広がり、乾くそばから暗い色へと沈んでいった。

「これにて、達しの旨、衆人環視のもとに申し渡し済みたり。」

書記がそう宣したとき、土間にいた者たちは、一斉に視線を伏せた。誰も声高に冷やかしはしない。ただ、いつものように湯気と笑いが立ち上るはずの座敷の方を、ちらりと一瞥し、それから用もないのに外へ出て行く者が、三人、四人と続く。

帳場の隅では、奉公の娘が、盆を抱えたまま固まっていた。悟里香は、その肩越しに、表の街道を往く旅姿の一団を見送る。彼らは、門口に張られた札と、朱に濡れた親指印を一目見るなり、小声で何事か囁き合い、踵を返して隣の小宿の方へと吸い込まれていった。

それはただの一組に過ぎぬ。されど、ああいう足取りが、これから幾度、戸口の前で折れ、暖簾に触れぬまま遠ざかっていくことか――悟里香には、まだ鳴ってもいない床板の軋みが、耳の奥で次々と消えていくように思われた。

「御苦労。以後、達しに背くことなきよう。」

役人の型どおりの言葉に、悟里香は、深々と頭を下げた。額が板の間に触れた瞬間、背後の土間で、誰かが小さく舌打ちしたような音がした。人のものか、梁に棲む小さなものかは、振り返っても確かめられぬ。ただ、そのかすかな不平の音さえも、この家と共に、朱の印の輪の内側に繋がれてしまったかのように感じられるのであった。

「御身の護りのためだ。」

そう言って、清貞は土間の上り框に、昼夜交代の兵二人ずつを据えた。腰に帳面を提げ、胸甲をきしませて座り込むその姿は、月峰屋の土間を――かつて鉱夫も行商も社家も、ひとまず鎧を脱いで言葉を交わせた場を――しらじらとした徴発所に変えていった。

朝餉の茶一杯にも、「どこの組か」「今朝の坑はどの筋か」と矢継ぎ早の問いが刺さる。奉公の娘が宿帳を差し出せば、兵の一人が無言で覗き込み、もう一人が筆を走らせる。湯気の向こう、隅の卓で、鉱夫仲間がひそひそと顔を寄せた途端、その上に影が落ちる。

「声が小さいな。もっと、はっきり。」

そう言って、兵は何も書かぬまま、ただ頁の端に印をつける。それが何の印なのか、誰にも教えぬ。帳場に座る悟里香の耳には、紙をめくるかすかな音が、鎖の鳴る音にも似て聞こえた。

「今宵の空きは?」

旅装の三人組にそう問われ、悟里香がいつものように部屋の数を告げるより早く、兵が一歩、前に出る。

「名と出立の地、それから滞在の理由を。」

問いは柔らかく、目だけが笑っていない。三人は互いの顔を見合わせ、一人が苦笑いを浮かべて書付を差し出した。兵は受け取った紙をちらりと透かし見てから、帳面に同じ名を写し取り、その端を、わざと音を立てて折り目づける。

「用心のためだ。霊障続きゆえな。」

そう言い添えれば、客の方が頭を下げる。疑われているのは誰なのか、境目は薄く曖昧になり、土間に足を踏み入れる者は、皆、どこか己の靴裏を気にして埃を払うようになった。

夕餉時、常連の鉱夫たちは、いつもの隅の卓を避け、兵の死角を探るようにして腰を下ろす。ひとつ笑い声が上がれば、すぐさま鎧の金具が鳴り、視線がそちらへ滑ってくる。普段なら「今日はよう掘れたか」と軽口を飛ばす悟里香も、口を開きかけては、兵の手元で動く筆先を見て、言葉を飲み込むしかない。

土間の片隅には、清めと称して据えられた小さな香炉がある。線香の煙は細くまっすぐに上がりながら、天井の梁に届く前に、兵の兜の縁に遮られて、うすく滲んで消えていく。かつて「中立」の証のように揺れていた月峰の紋入りの暖簾は、今や兵の背に押しやられ、出入りするたび、鉄の袖に擦られて、わずかに色を失っていった。

やがて、「協力の証」と称して、悟里香は帳場の隅に据えられた卓へと呼び立てられるようになった。清貞の見届けのもと、社家の書記が筆を構え、「近頃、誰がどの座敷で、どのような話をしていたか」と、穏やかな声で一つひとつ問いを重ねていく。

「ただの世間話にござりました。」

そう答えれば、「では、その世間話を」と促される。誰が笑い、誰が眉をひそめ、どの名が、どの坑のどの筋と口にしたか。湯気の向こうで交わされた他愛のない愚痴さえ、書記の筆先にすくい取られて、墨の筋に変わっていく。

「こたびの崩れの折、その場におったは誰ぞ。」

問われるたび、悟里香は、胸の内で「名を出すな」と叫ぶ顔と、「言え」と睨む朱の印とに挟まれた。黙れば、「達しに背く疑いあり」と穏やかに告げられる。しぶしぶ出した名が、薄い紙の上で黒々と太るのを見届けるほかない。

数日のうちに、その紙束は役所へ運ばれ、翌朝には、常連の鉱夫のひとりが、ふらりと土間に現れぬ日が続くようになった。昨夜まで笑い合っていた若い賄い男も、「実家から呼び戻されました」とだけ言い残し、帳場に挨拶もなく消えた。

「おかみさん、あの晩の話も……書かれたんですか。」

残った奉公娘が、一度だけ唇を震わせて問うた。悟里香が答えを探すより早く、土間の兵がこちらを一瞥し、娘は、熱い茶釜に指先を当てたかのように、さっと目を伏せる。

それからは、誰も、悟里香の目をまっすぐに見ようとせぬ。湯飲みを受け取る手は礼を欠かさぬが、礼の終わるより先に視線だけが逸れていく。背を向ける者の肩越しに、「あれに余計なことを言えば、次は自分の名が紙に載る」という怯えが、薄い煤のようにまとわりついているのが、悟里香には、痛いほどよく見えた。

締め付けは、銭勘定の欄だけでなく、家の景色からもじわじわと色を奪っていった。急に嵩んだ御用税、香の焚き忘れひとつで科される「霊務怠慢」の罰金、米や炭の通行手形の不自然な遅れ――どれも達しの文言どおりでありながら、月峰屋ただ一軒に殊更重くのしかかる。

算盤をはじき、何度目かの溜息を胸の内に押し込んだ末、悟里香は、床の間の飾り棚に並ぶ蒔絵の重箱に目をやった。曽祖母の代から祝い事のたびに出してきた、月と波の意匠の朱と黒。その蓋を、指先で一度、二度なぞってから、静かに箱ごと抱き上げる。

「……これも、働いてもろたと思えばええ。」

そう言って笑おうとすると、喉の奥が少しだけ痛んだ。翌朝、行きつけの古道具屋の棚に、月峰の紋を小さく隠すようにして並べられたそれを見つけた奉公娘が、何も言わずに目を伏せたのを、悟里香は見なかったふりをする。

同じ週の暮れ、裏方を長年支えてきた年寄りの賄い夫婦を、帳場の隅へ呼ぶ。

「お二人には、よう働いてもろうた。……けれど、この有様でな。」

口に出した途端、言葉は砂を噛むように味気なくなる。二人は互いに顔を見合わせ、小さく頭を下げた。

「おかみさんのせいやおまへん。時節でござんすわ。」

慰めるようなその言い草に、悟里香は、かえって胸を締めつけられた。暇を出すというより、「ここを手放した」と告げられたのは、自分の方なのだと知りながら、笑みだけは崩さぬよう、唇の端をきゅっと持ち上げる。

賄い場の片隅から、古い膳や火鉢がひとつ、またひとつと姿を消し、夜更けの土間に残るのは、灯りを落とした竈と、兵の鎧の鈍い光だけになった。かつては家族のように行き交っていた声も足音も、今はどこかよそよそしく、宿帳の行を埋める名だけが、以前と変わらぬふりをして並んでいる。

「月峰屋は、よう保たれておる。」

そう評する者があれば、悟里香は、いつもの商い口調で「おかげさまにて」と微笑む。そのたびに、空になった棚と、去っていった背中の数を、算盤の玉に置き換えるように頭の中で数え直しながら。

雨に濡れた鎧から、じわりと土間に冷えが染みてくる晩だった。清貞は無言のまま、封蝋の押された達しの巻物を帳場に置き、「月峰屋ゆえ、頼めることだ」とだけ告げる。細かな文言など読むまでもない。「星人」「夏代」「封ぜられし石の歌」――その名や言葉に耳した折は、密かに書き付け、役所へ差し出せという命だ。兵らの視線が背に突き刺さる中、悟里香は、手をつき深く頭を下げるほかない。その額の先、囲炉裏の火は小さくはぜて、かつて旅人と鉱夫が肩を寄せて暖を取ったあの温さを、どこかよそ事のように揺らめかせている。炭のはぜる音が、今は告げ口の合図のように聞こえた。ここはもう、霊と人を慰める火ではない。政の耳が据えられた焚き口だ。この火のまわりで交わされるどのささやきも、誰かひとりの身代わりを差し出さねば守れぬ世になったのだと、悟里香は、喉の奥の苦さとともに悟る。どの道を選ぼうとも、誰一人、傷つかずに済む先など残っておらぬと知りながら。

その日、土間に吊した風鈴は風もないのに鳴らなかった。代わりに響くのは、鉄の柄で畳を叩く鈍い音と、楔を打ち込む木槌の乾いた響きばかりである。

「ここも、上げよ。」

清貞が短く命じると、兵たちは遠慮も見せず座敷の敷板に指をかけ、てこのようにこじる。長年、湯気と人いきれを受けて艶を増してきた板が、いやいやと鳴くように反り返り、やがて、ばきり、と骨の折れる音を立てて剝がされた。

開いた口のように黒く覗く床下からは、煤けた梁とともに、古い紙包みが顔を出す。祖母の代から節目ごとに貼り替え、余りを大事に包んで置いた護り札だ。稲穂と月を描いた古筆の線を、若い兵が荒い指でなぞり、鼻で笑う。

「こいつぁ、随分と古い手だな。」

「禁ぜられた文言は含まれぬか。読み上げよ。」

命じられた書記が、墨の薄れた祝詞を一字ずつ追う。そこには「豊穣」「無事」「火除け」とあるばかりだが、兵らの目は、何か企みの種をこそ探している。札をひねり回すその手付きは、故人の手紙を盗み読みする泥棒よりなお無作法であった。

床下に隠したものなど、悟里香にはない。あるとすれば、それは、代々の女たちが爪を立てて守ってきた「ここは誰の肩にも偏らぬ宿」という名もなき誇りだけだ。その板が一枚、また一枚と剝がされ、埃と一緒に廊下へと蹴り出されていく。

柱の傷も、敷居のすり減りも、これまでは「ここを通った者たちの歳月」として、愛おしく目に映っていた。今は、そのひとつひとつが「検めの都合に合わせて壊され、数えられ、記録されるべき物」として扱われている。自分の体の骨を一本ずつ触られているような寒さが、足裏から這い上がってきた。

「おかみ。」

兵のひとりが、祖母の筆跡の札をひらひらと掲げる。「これは、どの祠の流儀だ。」悟里香は、喉の奥に貼りついた何かをはがすようにして答える。

「山の……昔の約定の折に、山社から賜ったものでございます。」

その名を口にした途端、札は、ただの紙切れと化したかのように、無造作に畳の上へ放られた。兵の靴裏が、その上を平然と踏み越えていく。囲炉裏の火が、その一瞬だけ、ぱちりと高く火花を上げた。だがそれは、怒りか、嘲りか、もはや見分けがつかない。

「月峰屋は、中立を謳うゆえ、人の出入りも多い。……その分、目も光らねばなるまい。」

清貞の声音は、あくまで事務的である。だが、その言葉の端に、「ここはもう、政の側の道具だぞ」と印を押すような重さがあった。

帳場の棚からは帳面が引き抜かれ、宿帳の端は荒くめくられて、宿泊客の名と日付が読み上げられる。そのたびに、土間の空気が少しずつ冷たくなる。これまで「ここで一夜の安らぎを得た証」であった墨跡が、「取り調べの手掛かり」に変わっていく音が、紙の擦れる気配に紛れて聞こえる気がした。

女中たちは、命じられるままに箒を置き、身を脇へ引いている。顔は伏せているが、その肩の強張り具合で、「おかみが政に名簿を渡す宿」と、いつか噂されるであろう未来を、すでに見てしまっているのが悟里香にはわかる。

――これで、誰の側にも立たぬ顔は、保てぬ。

そう思い至った瞬間、胸の内で何かがからりと音を立てて崩れた。これまで、「商いの口上一つで、どちらにも礼を失さずに済ませてきた」と信じてきた日々が、床板の割れ目からするすると逃げていく。

今この場で、どれほど低く頭を下げようとも、誰が見ても月峰屋は「清貞の兵に土足で踏み荒らされた宿」であり、「達しひとつで、床下まで暴かれる場所」となった。その印象は、貼り札よりも長く、この町に残るだろう。

囲炉裏の火は、なお小さく揺れている。だが、その周りに集う者は、もはや旅人と鉱夫だけではない。目に見えぬ政の耳と、帳尻を合わせるための冷たい指が、いつでもこの火を囲んでいる。悟里香は、そのことを骨身にしみて悟った。これから先、誰がどんな声でここに愚痴をこぼそうと、その言葉の半分は、あの書記の筆先へと吸い取られていくのだと。

その夜、「達し」の噂と一緒に届いたのは、折り癖も新しい奉書ではなかった。星人の隠し座敷には、粗い手で丸められ、指の血でぽつぽつと斑をつけられた紙片が、灯のそばへ転がされる。封も印もない。だが、そこに滲んだ赤と震える筆跡だけで、どの詰所で、どのような問いが繰り返されたかは察するに足りた。

星人は、紙をひろげる前から、掌でその重みを測るように息を詰める。書き慣れた者の整った字ではない。爪を剥がされ、指の骨を捻られた者が、歯で筆を噛みしめるようにして記した線だ。乱れた文の端に、「月峰」「抜打の改め」「夏代」といった語が、不自然に太く、にじんでいる。

彼は机上の地図に手を伸ばし、山の稜線と坑道をなぞっていた筆を、そのまま霊脈の印へと滑らせる。墨で描かれた精細な筋が、今は土の下を走る気の流れではなく、「一刻の猶予」を稼ぐたびに折られていく誰かの指の骨のように見える。一本の線を迂回すれば、その分だけ、どこか別の名が町の帳場から消える。慎重さを誇りとしてきたこれまでの手回しが、もはや「生かす」ための知恵か、「見捨てる」順番を選ぶための方便か、判然としない。

「遅らせよ」と記した自らの書状の文言が、今は「もう待てぬ」と呻く者の血にまみれて戻ってくる。その紙片を炭火の上にかざす指先が、わずかに震えた。霊と人との折り合いを量るはずのこの部屋が、いつの間にか、折れた骨と途絶えた声の帳合い場へと変わりつつあることを、星人は、地図の上に浮かぶ薄い霊路を見つめながら思い知らされる。どの線を選び、どの線を切るのか。そのたびごとに、誰の名が、この町から静かに消えていくのかを。

同じ週、町角ごとに「抜打ち御改め」の札が貼られたころ、夏代は詰所の土間の隅で、血の滲んだ唇から自分の名が吐き出されるのを聞いた。板戸一枚隔てた向こうで、誰かが歯の根を鳴らしながら、「山道を知るのは、夏代だ……崩しも、奴の仕込みだ」と、割れた声で繰り返す。否定の言葉は喉まで上がるが、飲み込むほかない。ここで怒鳴れば、「口封じに戻った」と書付に添えられるだけだと知れている。星人の側へ走ろうと、政の側に膝を折ろうと、そのどちらの帳面にも、自分の名の横には「次の落盤と共に埋めるべき咎人」と、もう書き込まれている手応えがあった。逃げ道という名の坑道は、すでにどれも、崩す楔を打たれている。

達しの文言を、清貞は抑揚なく読み上げる。だが紙の端をなぞる指先だけが、僅かに汗ばんでいた。ひっくり返される布団一枚ごと、帳面を抜かれるたびごとに、胸の上に石が積まれていくような息苦しさが増す。それでも没収目録の端に署名するほかない。脳裏では、数珠玉をつなぎ合わせた借金紐の玉が、止むことなくかちり、かちりと鳴り続けている。ここで筆を止めれば、自分の名が次に読み上げられる札に書き込まれるだけだと、祈祷で覚えた理屈とは別の冷たい算盤が告げていた。

その頃、谷川じゅうに「和を祈る太鼓」の音が鳴り渡る。だが山裾では、その拍子に合わせるように、封じられたはずの深坑へと、鉱夫たちが黙って駆り立てられていた。祭り囃子を合図にした「総押し込み」だと悟るまでに、三人とも、息を一つ呑むより他はない。

月峰屋の土間で、悟里香は帳場の玉を指で弾きながら、その音の裏に、上乗せされた年貢と抜打ち改めの足音を聞く。星人は隠し座敷で、太鼓の拍を霊路の脈動に重ね、今この刻を越えれば、山そのものが背を向けると知る。詰所の土間の隅で膝を抱える夏代は、祝祭の響きと、自分の名を咎人として唱える声とが、同じ調子で胸板を叩くのを聞くばかりだ。

ここまで引き延ばしてきた逡巡は、もはや彼らを庇う楯ではない。己の胸の内から、静かに刃となって突き立つものだと、三人はそれぞれの場所で噛みしめる。どちらへ身を翻すかを選ぶということは、誰の名を、どの霊筋を、切り捨てるかを同時に選ぶことだ――その覚悟だけが、今や残された唯一の路であると。

抜打ち改めの札が門口に打ちつけられてから、まだ刻も経たぬというのに、月峰屋の土間は、もう見慣れた家ではなくなっていた。木履の泥を払う間もなく踏み込んだ兵たちが、畳を捲り、箪笥の引き出しを片端から引き抜き、帳場の下に隠し棚がないかと、床板を拳で叩いては耳を澄ます。年季の入った桐の小引き出しが、力任せに引き千切られ、内側から裂ける乾いた音が、悟里香の歯の根にまで響いた。

「ここは中立の宿だと、いつも仰せでしたなあ。」

帳場の前に立つ清貞が、わざとらしい間の空いた声で告げる。だがそれは彼女に向けたものではない。彼の視線は、背後に立つ隊長――清貞自身の鎧姿と寸分違わぬ紋をつけた男に、縋るように、それでいて悟られぬように流れていた。悟里香は、算盤の玉を一つ、指先で弾く。からん、と小さな音がして、散らかった部屋の中で、それだけが不自然に整った拍を刻む。

布団を引き剥がされた若い鉱夫が、「女将さんに、こんな真似を――」と声を荒げたのは、その拍のすぐ後だった。振り返りざま、兵士の手甲が、鉱夫の頰を横殴りに打つ。歯の折れるような音と共に、少年の身体が畳の上に崩れ落ち、血の筋が青い寝具にじわりと広がった。

「やめて下さいまし。」

悟里香は、一歩前に出て、深々と頭を下げた。その額は、古くからの贔屓筋が贈ってくれた、月と松の紋付きの帳場板すれすれまで下がる。突き上げてくる怒りは、喉元まで熱く泡立つが、それを声にはしない。代わりに、畳に映る己が影の中で、別のものが静かに固くなっていくのを感じていた。

「お役目に異存はございません。ただ、宿の客筋に、これ以上の怪我人を出されませぬよう……谷川じゅうの働き手が減れば、御用の鉱も運べませぬゆえ。」

言葉は殊更に低く、柔らかく選ぶ。頭の位置は決して上げない。だが伏せた睫毛の裏で、兵たちの立ち位置、槍の向き、清貞の額に浮いたうっすらとした汗の粒まで、一つも見落としてはいなかった。

中立を楯にしてきた年月が、今、逆手に取られている。そのことを責めてどうなるものでもない。宿札に刻まれた「誰の側にもつかぬ」の四文字は、達しひとつで、「誰でも斬り捨ててよい」と読み替えられるのだと、彼らは示しに来たのだ。

ならば、と悟里香は、深く垂れた頭の内側で、別の文字を、静かに書き換える。「誰の側にもつかぬ」と記してきた同じ札に、見えぬ墨で、一画だけを足す。「誰の側にもつかぬふりをして、守るべき名を選ぶ」と。

――この家を壊す手が、どこから伸びているのか。帳場を荒らす兵の列の向こう、借金札を束ねる者と、年貢を上乗せする者と、そのさらに上で笑う顔。

玉を弾く指に、ほんの僅か、力がこもる。からん、と二つ目の音が鳴る。その拍に、自分の中で何かが「こちら側」へと倒れた感触があった。

「清貞様。」悟里香は、まだ頭を上げぬまま、静かに名を呼ぶ。「御札にお書付なさる物の中に、山の霊を、余計に怒らせるものが混じってはおりませぬか。祭りの太鼓も、聞こえておりますゆえ。」

問いかけに込めたのは、抗議ではない。彼の算盤勘定と、祈祷で覚えた薄い恐れとを、ほんの少しだけ揺さぶる楔だ。ここで誰に膝を折るかを選ぶことは、そのまま誰を山の底へ押し込むかを選ぶこと。その理を、軍装の上からでも感じ取れる男なら――わずかでも、隙が生まれる。

中立の宿の女将としてではなく、一つの路を選んだ者として。悟里香は、背筋を折ったまま、初めてそう自覚していた。

祭礼の幟と煤けた洗い張りが風に鳴る路地裏で、夏代は背を壁に貼りつけていた。頭上には「和を祈る太鼓」の鈍い響き、足元には鉱粉を吸った泥。向かいの戸口から、ちぎれたような肩で出てきた顔なじみの運び屋が、唇だけで彼の名を形づくる。

「……詮議場でだ。崩れも、霊騒ぎも、みんな“夏代の仕掛け”って、歌の文句みてえに繰り返してた。」

笑おうとした喉が、鳴らない。崩れを起こしたのは、もっと上の算盤と印判だと知っている。だが達しに字を刻む手が、「山荒しの怪物一人」を欲しがっているのも、よく知っていた。太鼓の拍に合わせるように、見えぬ指が彼の輪郭をなぞり、「替え玉」にちょうどよいと印を押していく。

そのとき、背後の闇が、ひやりと首筋を撫でた。

――聞いたろう、夏代。

声にはならぬ女の息が、耳の内側で言葉になる。原香が死んだ坑道で最後に吸いこんだ粉塵の匂いが、鼻腔の奥でよみがえった。自分の名が怪物の唄に乗せられるたび、彼女の指が、足首にからみつくように強く締まる。

逃げるなら、今だ。誰にも告げず、山を一つ越え、名を捨てて、別の札に紛れ込む。それを計る冷たい勘定が、長年の癖で頭の中に並ぶ。

だが、怪物に仕立て上げられたなら、その顔で噛みつき返す手もある。谷川じゅうの詮議場と札元に、「夏代が山を崩す」と信じ込ませた筋を逆手に取り、ほんとうに――崩すべきところだけを選んで。

指先が、無意識に罠縄の結び目を探る。太鼓の音が一拍、空白になったように感じられた。その隙間に、原香の囁きと、自分の息が重なる。

――一人で消えるか。追われる身のまま、刃の方へ踏み出すか。

闇の中で、夏代は歯を食いしばり、初めて後者を、真面目に秤にかけた。

その夜の月峰屋、土間から座敷まで、低い卓のあいだから囁きが這い回っていた。抜打ち改めの手順、霊具と決めつけられ押収された護符や香の名、夜明け前に引き立てられていった文使いの顔ぶれ。誰も声を張らぬのに、「御用」「お咎め」「札場」といった言葉だけが、湯気の上を冷たく渡っていく。

悟里香は、一度、静かに戸を閉めた。格子戸がはまる音が、外の祭太鼓と座敷のざわめきとを、ぴたりと断ち切る。やがて灯を少し落とし、疲れ切った鉱夫や口入れ人、組頭たちの座る輪に、同じ濁りのない酒を一杯ずつ注いで回る。

「――さて。」

膝をつき直し、帳場女将ではなく、同じ一人の町人として、細く通る声を出した。

「皆様。嘆願書だの、穏やかな口上だのを、まだ“道”だと信じておいでですか。山の底へ、灯りも持たされずに歩かされるのと、どこが違いましょう。」

静まり返った座敷に、誰かの喉が鳴る音だけが落ちた。悟里香は一人一人の顔を見た。煤に焼けた頬、筆だこだらけの指、家族の名を背負う額の皺。

「今まで通りを選ぐも、一つの覚悟。だが――見ぬふりの札に、自分たちの名を書き込ませる覚悟かどうか、今宵、はっきりとお決めなされませ。」

外では「和を祈る太鼓」が鳴り続けている。その拍にかき消されるほどの低さでありながら、その問いかけは、座敷の隅々まで、ゆっくりと沁みていった。

広場を見下ろす蔵座敷の縁先で、星人は袖を合わせ、ただの一町人を装っていた。下では忠遠が「和解」と銘打つ大祭を宣し、太鼓と紅い行燈の列が、祝詞めかした口上と共に霊の加護を約すると囃し立てる。その影で、札場から回された新しい割り付けには、旧来なら封じられるはずの「禁りの層」へ、丸ごと一組、二組と鉱夫達の名が押し込まれていた。

合図のはずの咳払いをしに来ぬ文記役。代わりに届いたのは、社坂から転げ落ちた若い侍典の亡骸と、口をつぐんだ神官たちの所在なげな視線――それだけだった。その報せを聞いたとき、星人は、これまで積み上げてきた細工と逡巡が、ただ相手に刃を研ぐ刻を与えていたのだと悟る。鉱脈図に引いた慎重な線が、一条ごとに、町人と霊とを同じ穴へ追い込む縄になっていたことも。

祭礼の行燈が山霧ににじみ、狐火のようにゆらめく下を、鉱夫たちの列が、底の見えぬ坑口へと黙って吸い込まれてゆく。季節に似合わぬ白々とした空の下で、悟里香も、夏代も、星人も、それぞれ別の場所に立ちながら、同じ細い道に追い込まれていた。なおも算盤を弾くように慎重さへ逃げ込めば、そのためらいの隙を忠遠に使われるだけだと知っている。だが踏み出せば、崩すべき柱と、巻き添えになる命とを、己の手で選ぶことになる。一手ごとに、誰かの暮らしが谷底へ落ちる。その中には、己の名も、きっと含まれていると、三人とも、ようやく認めざるを得なかった。


The Silence Between Chants

飢えは、ときおり腹の内側を爪で掻くように押し寄せてくるが、星占いの凶兆の一つを聞き流すがごとく、彼はそれをやり過ごした。戸口の傍らには、朝に誰かが差し入れた冷や飯と沢庵の膳が、白く固まり、薄く油膜を張った茶とともに置き去りにされている。握り箸も添えられたまま、手を付けられずに。墨壺の縁には乾いた墨が黒い瘡蓋のように固着し、机上の紙には、途中で止まった筆が打ちつけたような荒い筆致だけが残っていた。

階下の古い秤倉から、決められた節回しの小さなノックが、板壁を伝ってかすかに響く。三度、間を置いて二度──仲間にだけ通じる呼び声だ。耳はそれを正確に数えながらも、彼の指は紙の端をただなぞるばかりで、身体は微動だにしない。音がやがて諦めたように遠のくと、ようやく彼は肺の奥に溜めていた息を静かに吐き出し、目の前の文面へと意識を押し戻した。

「応えれば、その瞬間から、彼らも巻き込むことになる。」

声にならぬ呟きが喉の奥で砕ける。筆を取れば、己が過ちを文字として刻み付けることになる。沈黙を守れば守るほど、その沈黙自体が、ひとつの決断として形を持ち始めてしまう。それが、たまらなく恐ろしかった。

ふと、脇に積んだ古記録の束に目が止まる。山の神と初代領主との間に交わされたという、あの「共栄」の条文。薄い和紙の上で墨線がゆらりと揺れたように見え、彼は瞬きも忘れて凝視した。疲れ目か、あるいは、訴えかけているのか──そんな愚かな考えを、首を振って追い払う。

しかし、視線をそらそうとしても、文言のいくつかが胸の内で勝手に蘇る。「季節の巡りに逆らうなかれ」「地脈を裂きてはならず」……自らが長らく読み込み、武器として振りかざしてきたはずの文句が、今は裁きの言葉として牙を剥く。

再び、下から小さな衝撃音が一つ、二つ。今度は合図ですらない、棚か箱が動いた音に過ぎないのだろう。それでも彼は反射的に肩をこわ張らせ、灯心を細めた灯を一瞬、手で隠した。闇が部屋を満たし、紙と墨の匂いだけが濃くなる。暗がりの中で、自らの呼吸が異様に大きく響いた。

「もし、ここを焼けば──」

その思いが、初めてはっきりと形になる。机の脇には、封じ札や香炉と並んで、油を含ませた縄が巻いてある。万一の退去に備え、資料を縛るために用意したものだ。だが、束ねるための縄は、そのまま火を走らせる道にもなりうる。彼は伸ばしかけた手を途中で止め、握りこぶしを膝の上に落とした。

どこまでが用心で、どこからが逃避なのか。その境界が、空腹と疲労に滲まされて判然としない。耳鳴りの向こうで、町の方角からかすかな太鼓の音が届いた気がした。 dawn 前の炭焼きの合図か、それとも夜警の拍子木か。判断できぬほど、この部屋は外界から切り離されている。

「時を違えたのは、やはり私か……。」

低く漏れた言葉は、厚い壁と結界によってすぐさま押し潰され、誰の耳にも届かぬまま空気に溶けた。応えなかったノックの数だけ、彼の沈黙は重さを増してゆく。腹を締め付ける空虚さより、紙の上に残された未完の線のほうが、なお鋭く彼を責め立てていた。

行灯の淡い灯の下で、彼は同じ図を幾度となく引き写していた。坑道の筋を黒で、地脈と霊の流れを朱で、その傍らに「事故」と記された場所へは、小さな十字を、ためらいながらも正確に打ち込んでゆく。紙を重ねれば重ねるほど、黒と朱と十字が、ある一角へと寄り集まっていくのが嫌でも浮かび上がった。そこは、かつて自分の注記が「ここより先、季節の巡りを待て」と告げていた箇所ばかりだった。

喉の奥から、鉄錆のような吐き気がせり上がる。筆を持つ指が震え、墨線がわずかに揺らいだ。視線は何度も紙端の片隅へ引き戻される。そこには、来たるべき季節重なりの日取りが、小さく、しかし迷いのない筆致で書き込まれていた。その数字を見つめていると、山そのものが、己の引いた線に沿ってぱっくりと割れ、黒い坑道が朱の地脈とともに口を開け、死者と怒れる霊とを、一斉に地上へ吐き出す光景が、ありありと脳裏に広がる。

「この日付を定めたのも、私だ……。」

そう思った刹那、紙の上の十字が、まるで供養の印ではなく、処刑台の杭であるかのように見えた。自らの手で打ち込んだ印が、一つ一つ、誰かの喉元へ打たれた楔に変わってゆく。指先から体温が抜け、握っていた筆が今にも滑り落ちそうになるのを、彼は力づくで堪えた。

若き日の、自信に満ちた筆致で清書した祖契の写しが、もはや紙の上におとなしく伏していようとしない。視線を外した刹那に墨線がさざめき、「人の欲」と「霊の忍耐」とを結びつけた条が、判読不能な異形へと身をよじらせる。欄外に細々と書き添えた、ささやかな「代替の儀」や「改訂案」は、今やただの増長に見えた。一つ一つの注記が、支え石をそっと抜き取られた穹窿のように、いつ崩れ落ちてもおかしくない脆さを帯びている。

彼は不意に、文面の上へ親指を押し当てた。破り捨てるでもなく、撫でるでもなく。己が破戒者ならば、この紙は火傷のような罰を刻みつけるだろう──そんな子供じみた期待を、半ば本気で抱きながら。だが、和紙は冷えたまま沈黙し、代わりに内側から焼けるような熱が、胸骨の裏側でじりじりと広がってゆくばかりであった。

壁を巡る護符の一字一画さえ、いまは圧し掛かる鎖のように思えた。己の理を守るために幾重もの結界を張り巡らせたこの小部屋を、坑夫や若い禰宜たちは一度も知らぬまま血を吐いて倒れていった。その事実が、墨の線より濃く胸に焼きつく。静謐であるはずの空気は、崩落の後に満ちる粉塵のごとく薄く喉を削り、肺に入るたび、慎重さを装って臆病を隠したあの夜の評定が蘇る。「証を待て」「時を見よ」「まずは他家の動きを」──上座に並んだ男たちの、よく通る声と澄ました指先。誰かが先に流すはずだった血潮を、都合よく計算に入れていたのは、自分もまた同じであったと、いまさらながら思い知らされる。

窓隙から吹き込んだ夜風が、一番上の図面をさらりとめくった。紙と紙とが擦れ合う音は、通夜の座をよぎる喪服の袖のように落ち着きなく、彼ははっと顔を上げた。細い窓を覗き込む闇が、そのまま山の眼窩であるかのごとき錯覚に襲われる。たちまち、この狭い書斎は策を練る隠れ家ではなく、封じられた供犠の間へと姿を変えた。石に守られるのではなく、石そのものの前に、最後に取り違えられた生贄として横たえられているのは、自分ひとり。墨と図と、音を吸い込む結界で積み上げた自製の墳墓の奥底から、彼の手はようやく、己とは無縁のような気配で、火皿のそばに積まれた巻物の一隅と、じっと待つ炎の気配へと、伸びていった。

火打ち石をつまんだ拳に、血の気がすうっと引いてゆく。掌の中の小さな石片は、本来ならかすかな火花ひとつ呼ぶに足るばかりの軽さであるはずなのに、いまや死罪状の重しのごとく指の骨をきしませた。わずかに震えた手首の先で、油皿の光がちらりと走る。筆箱の漆に、深山の闇を薄く溶かしたような鈍い光が貼りつき、その隣で糸で括られた巻物の束が、静かに、しかし逃れようのない縄目のように影を落とす。そこに閉じ込められているのは、ただの文字ではない。人と石とがかわした約束が折られた折々の息づかい、そのたびに見捨てられた坑夫たちの名もなき呻き、季節を違えて掘り進められた坑道で、怒りを飲み込んだまま黙した山の気配。すべてが、紙と墨の間に薄く、しつこく挟み込まれている。

この指先ひとつで、それらを無きものとすることができる。そう思った途端、火打ち石はますます重くなった。石と石とを打ち合わせる、そのささいな衝突が、幾百の喉からあがる叫びの号砲に聞こえてくる。もし火をつければ、ここに積み上げた禁断の坑道図、抜き取られた護符の記録、祝詞を省いた「簡略儀」の日付と署名、かつては当然とされた休坑日の掟──それらすべてが、いともたやすく炎に巻かれ、形を失ってゆくことだろう。

一度火が回れば、この隠し書斎の空気はあっという間に墨と焦げた絹糸の匂いで満ちる。その匂いは、かつて山裾の古い祠で嗅いだ、焼べられた誓紙の匂いに似ているのかもしれない。だがあのときは、新たな契りのための清めであった。今回は逆だ。ここで燃やされるのは、霊との約束を記した古き条と、それを踏みにじる策とを、同じ棚に並べてしまった自分自身の年月である。

火を放てば、田島殿の役所の目に触れる証は、灰以外には残らぬ。山と人とのあいだに交わされた、最初の、そして最後のまっとうな約定が、いかようにねじ曲げられてきたかを示す線も点も、風にさらわれてしまうだろう。そうなれば、己の企てなど、初めから何ひとつ存在しなかったことになる。蘆戸の片隅に生じた、取るに足らぬ墨汚れ──帳面役が袖でひと拭いすれば消えてしまうほどの、みすぼらしい染み。それが、自分の名と、その名に寄り添ってくれた者たちのすべての行いの、世における痕跡なのだと、想像してみる。

「ひとかけらの火で、すべてはなかったことにできる。」

喉の奥でそう呟いた声は、己のものとも思えぬほど静まっていた。だが指先は、なおも火打ち石を離さない。燃やし尽くした先に待っているのは、ただの空白か、それとも──山の忍耐がついに尽きたあとの、言葉も交わせぬ闇か。そのどちらであるかを見届けぬまま、ただ身命を守る側へと退くことが、果たして赦されるのかどうか。彼は答えの出ぬまま、石と油と紙とを結ぶ微かな距離を、息を詰めて見つめ続けた。

ひとつ火花を散らせばよい──そう言い聞かせる。「ひと息、指を滑らせるだけでよい」と。そうすれば、密かに写し取り、重ね、盗み見、時に血の滲むような口利きで集めた禁制坑道の図や、略され偽られた祭式の記録、かつては当たり前であった休坑日を命じる古き掟書きの写しは、すべて薄い煙となって梁の闇へとほどけてゆく。田多尾殿の帳場から、不穏な墨のしみ一つ消し去るように、反逆の企ても、名もなき坑夫らの嘆願も、初めから「なかった事」として帳消しにできる──彼はそう理屈を積み上げる。

だが瞼の裏にゆらぐ炎は、地図や名簿だけを焼くのではなかった。巻頭近く、山の神と人とが初めて交わした古い条文の余白まで、舐めるように照らし出す。供物だけでなく、「忘れざること」をも求める荒い筆致の一文。その記憶さえ、自らの手で灰にするというのであれば、この火はもはや証拠隠しではない。田多尾と変わらぬ、約を踏みにじる穢れそのものになるのだと、胸の奥で誰かが低く告げた。

思いがそこまで至ったとき、彼はふと悟る。この書架を沈黙させるとは、ただ己の身を守るために跡を絶つことではない。田多尾の手勢が押し入って巻物を奪い去るよりも、さらに徹底して、山と人とのあいだにかつて在った「まっとうなかたち」を、世の目から抹消する仕業なのだ、と。公儀の帳面には決して記されぬ、正当な採掘の先例も、山が一度はうなずいたという証も、ここで火にくべてしまえば、「そんな約束は初めから無かった」と言い張る側の物語だけが残る。やがて生まれてくる者たちは、田多尾の敷く苛烈な掘り方を、疑いようもない「成り行き」として呑み込むほかなくなるだろう。山と折り合いをつける別の秩序がありえたこと、それを信じて血を流した者たちがいたことさえ、誰一人として知らぬままに。彼は、自らの指先がいま握っている火打ち石こそ、その「別の世のすじみち」をこの世から断ち切る刃なのだと思い知り、喉の奥に乾いた鉄の味を覚えた。

未来の目から、山と人とのあいだに別の道筋が在り得たという証そのものを奪い取る──その仕打ちは、役所の手入れよりもなお冷酷であろう。正しき採掘の先例も、かつて山が首を縦に振った痕跡も、ひとかけら残さず闇に沈めてしまえば、後に生まれる者らは、田多尾の掘り方こそ天の定めと信じ込まされ、異なる秩序を思い描くよすがさえ失う。そう気づいた途端、彼は、いま自分が消そうとしているのは証拠ではなく、「別様に在り得た世」の記憶そのものだと悟り、胸の底が薄く凍りつくのを覚えた。

火打ち石を握った手が、卓の上にからんと触れて音を立てるだけで、火は起こらなかった。その一拍ぶん空いたところへ、冷気が隙なく流れ込む。己はもはや追い詰められた謀反人ではない──ただ一時あずかる書庫番にすぎぬと、細く悟る。嵐のただなかで自分という器は砕け散るやもしれぬ。それでも、ここに記された言葉と、山腹を貫く道筋と、神々との結び文だけは、なお先へ手渡さねばならぬのだと、指先に重みを噛みしめた。

まだ暁とも呼べぬ薄明かりのころ、行人町の霧は煤けた屋根のあいだでまだ色を持たず、ただ灰のように沈んでいた。その灰に、自ら溶け込むような顔で、里加は土間から中庭へと足を踏み出した。夜のあいだに走った地鳴りで割れた敷石は、いつもより冷たく、素足の裏からじわじわと痺れのような痛みを伝えてくる。湿った木と消えかけの灰──つきみ根屋の朝ごとに鼻を打つその匂いさえ、きょうはどこか捩れていた。湯気と煮出し味噌の頼りがいのある温さではなく、もっと細く尖ったものに薄められたような、ひやりとした金属の気配が、肺の奥に刺さってくる。

源泉の湯気の白さとも違う、煤煙とも違う。中庭の真ん中、古い石組みの井戸の縁が夜明け前の暗がりに口を開け、その割れ目から、あり得ぬ色が滲み出していた。昨夜の地揺れで石輪はひび割れ、何枚かはずれて傾き、そこから零れ出すのは水のきらめきではない。里加は思わず立ち止まり、冷えた息をのみ込む。井戸の口から立ちのぼるのは、火でもなく、灯でもなく、ただ「光」と呼ぶには生ぬるい、馴染みのない蒼白であった。

かつて祖母が夜更けに語った、節気を違えた霊火の話が、ふと脳裏をよぎる。地の底で迷った月影が、行き場をなくして地上へ滲み出ることがあると笑っていた、その声色までが耳朶に甦る。だが目の前のそれは、笑い話にくるまれた昔語りから滑り出てきたものではない、と里加の背筋は知っていた。昨今、井戸端でひそひそと囁かれる噂──「山の筋が狂った」「下のものらが怒っている」──そんな言葉が、霧の向こうから手探りで彼女の喉を掴みにくる。

井戸の口から滲み出すその蒼白は、火とも灯籠の明かりとも違い、早くも遅くもない脈を打ちながら、土の底に溜まり過ぎた月影が、ひび割れを探してじわじわと漏れ出してくるかのようであった。夜鳴りの裂け目を伝い上がるうちに、霧は穏やかな白さを失い、どこか病んだ銀色に染め替えられてゆく。軒先から落ちる梁の影は、庭の土壁にねじれて伸び、見慣れた柱や桟が、まるで別の建物の骨組みであるかのように歪んで見える。

戸口に貼られた墨書きの札が、その光にあてられているあいだだけ、紙の繊維ごとざわりと逆立つのが、里加の目にははっきりとわかった。風はない。それでも呪詞を書き込んだ線が、魚の背びれのようにかすかに震え、角からふやけた紙が自分から身を捩るように、きゅうと丸まっては戻り、また丸まる。まるで、あの札ばかりが、ほかの者には触れぬ何かの息づかいを、ひとりでに感じ取っているようであった。

土間口や縁側の柱のかげに、ひとり、またひとりと人影が吸い寄せられてゆく。湯番の女は手拭を握りしめたまま、「とうとう黄泉場の目ぇに、はっきり止められたんだよ」と、歯の隙間から呟いた。板場頭の男は、肩に掛けた前掛けをいじりながら、「さっきの地鳴りのときだ、下から声がした。女将さんの名を呼んでたぞ」と鼻にかかった声で言い、すぐに自分の言葉に怯えたように口を噤む。

「だから言ったじゃないか」と、帳場係の細い男が、周りを盗み見つつ声を潜めた。「旦那方に楯突く鉱夫なんぞ、いつまでも囲い込んでるから、井戸守りも愛想を尽かすんだ。山の下のものらだって、いつまでもつきみ根屋ばかり庇いきれやしないさ。殿さまの怒りと、どっちに付くか決めろと、こうして印を立てに来たんだろうよ。」

目のまわりを赤く腫らした下女が、井戸の縁を避けるようににじり寄り、「…もう、ああいうお客は、お断りしたほうが…」と、喉の奥で言葉を濁した。奥坑から上がってくる痩せぎすの男たち、欠けた銀片で勘定を済ませる者、印形と帳面の数字がどうにも噛み合わぬ廻り書役、妙に舌の回る書生崩れ──そうした顔ぶれを思い浮かべるたび、女中は肩をすくめる。「見張られてるって、皆、言ってます。ここに居着いてちゃ、巻き添えを食うばかりだって…」

その囁きが、つきみ根屋の土壁よりも深いところへ、するりと染み込んでくる。里加の胸の内で、きゅう、と空洞をなぞるような冷たさが立ち上がった。自分の差配ひとつで、この家の者たちを、望みもせぬ破滅の縁へと引き寄せているのではないか──そんな思いが、初めて、はっきりと形をとって顔をもたげる。

記憶が、蒼い光を裂くように胸の底からせり上がった。つい昨秋も、この庭の土に膝をつき、井戸水と女房たちの涙で袖口をぐっしょり濡らしながら、紙に包んだ小銭を、ひび割れた節くれ指へと押し込んだではないか。焼き場から流れてきた煙が髪にまとわりつき、「もう一番方だけ掘れば、子どもらに腹一杯食わせられる」と、かすれ声で笑っていた男たちの面影が、湯呑み越しに幾人もよみがえる。──つきみ根屋があるうちは飢えさせねえ、と、酒臭い息で言い切ったその誓いが、いまも耳の裏で生々しく鳴る。その重みが背骨を内側から押し起こし、里加は下女のほうへ顔を向けた。「ここを、殿さまの算盤座敷になぞ致しませんよ」と、土間に沁み入るほど静かな声で告げる。「どんな光が底から昇ろうと、この戸は、飢えた口と迷う魂のために開けておきます。」

その夜、泊まり客のほとんどがようやく寝静まり、帳場の帳面には新たな御検視の封印がまだ生々しく朱を滲ませていた。裏木戸を引き、里加は中庭へ出る。夜気は、炭焼き場の煙と、どこか土の深いところから吹き上げてくるような冷えをまじえ、吐く息は白くほつれながら井戸のほうへ吸い込まれていく。

罅の走った井戸縁の傍らに膝をつき、里加は腰籠から新しい札束と墨壺を取り出した。濡れた石肌に指先を当てると、ひやりとした感触の下で、かすかな震えが脈のように伝わる。──今度、ここを押さえ損ねれば、このつきみ根屋も、炭夫たちが「近よるな」と囁きあうばかりの、打ち捨てられた祟り宿に変じるやもしれぬ。そう思い定めてから筆を取る。

刷毛ほどの細筆に墨を含ませ、一枚ずつ、湿り気を帯びた紙片を押し当てては、たん…と静かに筆を落としてゆく。山の名、川の名、古くから伝わる鎮めの文句。筆先はわずかに震えていたが、それは手元の覚束なさではなく、自分の施しうる術が、こまやかな札と拙い口上に限られているという、よく知った事実の重みのせいだった。太い札では殿さまの御朱印も、検非違使衆の目付も止められぬ。だが、ささめくものらの怒りぐらいなら、ひと冬分はここに絡め取っておけよう──そんな算段を、胸の奥で固く弾き直す。

「……今さら、目を逸らしたとて、下から伸びてくる手は消えませんからね。」

誰に向かうともなく、唇の内側だけで呟く。耳を澄ませば、遠く坑口のほうから、まだ宵番を終えぬ鉱夫たちの罵り合う声が、かすかな金属音と一緒に風に乗って運ばれてくる。あの声がふっと途絶えたとき、この井戸も、家も、町も、ただの殻になる──その想像が、墨の黒さより濃く、胸の底に沈んでゆく。

札を貼り終えた指先を、小さく合わせて額に寄せる。紙一枚、墨一筋の軽さでしかないこの守りが、それでも今夜、この家と飢えた者たちの寝息を包む幕になるようにと、静かに念じながら、里加はもう一度、割れ目の走る井戸の口を覗き込んだ。

袖の端が、罅だらけの縁石をかすめた刹那だった。井戸の底で淡く滲んでいた光が、ふいに息を呑むほどふくらみ、割れ目の隙から冷えた水気のようにふわりと立ちのぼって、里加の両の手と中庭の敷石一面を、薄い霜を流したような蒼さで洗い上げる。灯も星も色を失い、闇そのものが白く裏返るような一瞬、馴れ親しんだ石目はすうっと輪郭をほどき、代わりに、円の中にまた円が沈み、その周りから髪の毛ほど細い線が幾筋も射してゆく、かすかな模様が浮かび上がった。

ひび割れが勝手に生んだ亀裂ではない。のみ先で一度は刻み込まれ、幾度もの改築と漆喰の塗り重ねに半ば呑まれながらも、なお消え残ったものの気配がある。霜柱を踏んだときのような細かな震えが膝から背へと這い上がり、里加は息を詰めたまま、光の輪郭がわずかに揺れては、石の古い意匠をなぞり直してゆくのを、見逃すまいと身を固くする。

その刹那、里加の胸裏に、別の夜の光景がぱっと裏返るように咲いた。まだ検分札も増えぬ頃、帳場裏の小座敷で、旅の歌詠みと名乗る痩せた客が、墨の沁みた袖口を気にもとめず、一冊の細い冊子を文机の上にひろげていた。山川の名も入らぬ、丸と線ばかりの不気味な絵図──だが彼は、それを「人の廊と、ものらの径とが、許されて触れ合う場の印」と、静かな声で言った。輪の中に輪、その外縁から、髪の毛ほどの線が放射する印形。今、井戸石の上に浮かぶ模様は、それとあまりに似すぎていて、肌が粟立つ。つきみ根屋の中庭は、たまたま薄くなった綻びではない。古く定められた、出会いの口なのだと、遅れて悟りが、喉の奥まで込み上げてくる。

恐れの形が、胸の内でそっと向きを変える。もしこの井戸口が、ほつれた傷ではなく、もとより定められた「辻」なのだとすれば──底から脈打つ光は、生き人を打つ呪いの鞭ではない。疎まれ、手順を抜かれた殿様方の乱暴な祭祀と、食うにも困る町人どもの願掛けが幾重にも泥のように積もった、その下からなお、きちんと応じる手を探して伸びてきた、合図か、あるいは諫めの声なのではないか。誰か、古い約束の文言をまだ言い損ねずにいる者を呼びあてようとするさまを思い描いたとたん、冷えはそのままに、足元だけがかすかに定まり直した。

墨の香りをふくむ掌を、里加はそっと冷えた刻み目に当てた。ひやりとした石の下で、氷柱の奥にこもる水音のような、ごくかすかな応えの脈が指先をくすぐる。ここが人目から隠されたまま残されていたということ自体、つきみ根屋を「狙い目」ではなく、「手の内」に変えるのだと、喉の奥で何かがはっきり形を取った。山のものらと、坑から這い上がる煤まみれの衆と、帳場の上座に座る殿様までもが、いずれ嫌でもここを辻として向き合わされるかもしれぬ──そう思い定めたとたん、行灯札よりも重たいものが、背筋に一本通る。井戸の光は退き籠もる合図ではない。この町の怯えと、忠興様の欲深さを、秤にかけ直させるために差し出された、ぎりぎりの駆け引きの場。そう見なすと決めて、最後の札を結び終えた里加は、膝を伸ばしながら静かに息を吐いた。

夜明け前の路地は、炭塵に夜露が混じって、踏めばぬるりと靴底を奪う。夏代は、そんな泥を嫌うでもなく、犬のように腰を低くして動いていた。家々の障子の隙間から、ほの白い灯がもれているたび、その明かりが皆、自分一人に向けられた目玉のように思えて、肩の筋が固くなる。

「幽霊連れの山猟師が、また町に潜り込んだらしいぞ」「首一つで銀三枚だとよ」──そんな囁きが、戸口から戸口へ、煙のように追いすがってくる。聞きとがめぬふりをして通り過ぎながらも、夏代は、言葉の端々に、もう噂ではなく、札の文言として書きつけられた値踏みの重さを嗅ぎ取っていた。炭問屋の二階窓、酒樽の陰、濡れ縁の影……人影が身じろぎするたび、誰かが自分の背に矢を番えている錯覚が、皮膚の裏をなぞる。

「幽霊付きの穢れ者なら、斬っても祟りはそいつの方だろうさ」「ああいうのは、生きたまま売った方が高くつく」──笑い混じりの声が、背後でひそひそと弾ける。耳を塞いでも、代わりに別の声が聞こえるだけだ。潰れた坑道、石の崩れる音、その下から咳き込む女の声。「夏代……まだ、そこにいるのか……」

ぞくりと背を走った冷気は、夜気のせいではなかった。振り返れば、闇の奥、雨樋の影になった土間の上に、煤にまみれた白い指先が、ぬらりと一瞬浮かんでは消える。人には見えぬそれに、自分だけが、犬歯の根元まで凍るような寒さで打たれる。

(……追いつかれる前に、どこかで手を打たねばならぬ)

そう思うたび、頭の中で、もう一つ別の勘定が弾かれる。忠興様の私兵どもの耳に、ある貴人の「隠れ家」のことをそっと流せば──その報せ一つで、首札の値はきっと帳消しどころか、余りが出る。遠い藩へ逃げるための紙札も、仮の名も、手に入れられるかもしれぬ。

だがその算盤を指で弾くたび、決まって、冷や水をぶちまけられたように、背骨の奥まで冷えていく。闇に紛れて匍匐するその足取りは、獲物を追う猟犬ではなく、鉄の首輪を引きずる野良犬そのものだと、誰よりも自分が知っていた。

せまい路地の先、土蔵と社塀のあいだに切り取られた闇は、行き止まりのように見えた。だが、そこには既に先客がいた。痩せぎすの体を板塀に預け、色の抜けた詰襷を肩にかけた若い役目人──清定配下の下っ端「目」であることを、夏代は一目で悟る。狐のように尖った面差しが、まるで旧知にでも会ったかのように、にやりとほころんだ。

「おやおや、山猟師殿。こんなところで道草とは、景気のいいこったな」

調子だけはぬるりと温く、目だけが獲物を測る氷の色をしている。男は、路地の出口を塞ぐように一歩踏み出し、肩の紐を指で弾いた。

「ご心配めさるな。首を取りに来たわけじゃない。……ただな、忠興様がお心寄せておられるんだ。『ある御方』の、ちと風通しのよい隠れ家に、な」

名は出さぬくせに、「隠れ家」という一語の重みだけを、わざと夏代の胸元へ転がしてくる。続けざまに、唇の端だけで笑いながら、指を一本立てて見せた。

「耳寄りな話を一つ運ぶだけでな……借金だの首札だの、面倒な文はきれいさっぱり。遠国へ渡る路銀も、守札も、ついでに坊主の安堵の印まで、まとめて面倒見てやろうというご沙汰だ」

薄闇の中で、銭の山、船の舳先、改められぬ身分証の紙片が、次々と舌の上に描き出される。男はわざとらしく肩をすくめ、「名は要らぬ、印だけで足りる」などと軽口を添えた。

夏代は、背の土塀に湿り気を感じるほど追い詰められた姿勢で立ち尽くしながらも、その口上の裏に潜むものを嗅ぎ取っていた。忠興の名を旗に立ててはいるが、目の前の男自身も、こうして噂を餌に誰かを売れば、自分の首の綱を少し緩められると踏んでいるのだ。

それでも、「ある御方」「隠れ家」といった曖昧な言い回しの奥に、東の斜面の、今は使われぬ計量所、その裏の板戸のことが、ぬめりと姿を現し始める。細い路地に籠もった炭の匂いと、役目人の声が、吐く息にまとわりついて離れなかった。

男が一歩、靴音も立てぬほどにじり寄り、「通行手形、舟賃、それに坊主のご祈祷まで付けてやろう」と、指折り並べてみせるたび、その一語一語が、夏代の喉の奥に石を詰め込んでいくかのようだった。

「……星人様の、書物蔵だ」

その七文字が舌先までせり上がり、歯の裏に貼りつく。東の斜面、廃れた計量所、帳簿の山の裏に隠れた板戸──頭の中で、夜の町の絵図が、鼠走るような速さで繰り返しなぞられる。そこからここまでの路地の折れ曲がり、見張りの「目」の動き、自分の首札の額と、遠国へ逃げる舟の渡し賃。そのすべてが、心臓の鼓動一つごとに、銭勘定の珠のように弾かれては、裏返されていった。

(言えば、生き延びられる。言えば……また、誰かが坑の下で潰れる)

胸のうちで、その二つの声が、荒縄のように軋みながら絡み合う。喉は渇ききっているのに、唾を飲み込もうとするたび、「書見所」という言葉だけが、棘のように引っかかって降りていかない。男の甘ったるい口上は、耳朶のすぐそばで蜜のように垂れ続け、それでも夏代の舌の裏は、冷えた鉛を噛まされているかのごとく重く固まっていた。

次の瞬間、路地の空気が、誰かが見えぬ水面を撫でたようにひやりと反転した。吐く息が白くほどけ、石畳の上にうっすらと霜の華がひろがる中、彼女はそこに「まとまって」現れた。土埃に固まった黒髪、崩れた礼装の白衣には、坑道の染み水が古い血のような色でこびりつき、喉元から胸元にかけては、岩に押し潰されたときの皺と裂け目がそのまま残っている。

目だけが、崩れた坑の闇をそのまま封じ込めたように、底なしに黒い。

役目人の眼には、その姿ははっきりとは映らぬ。ただ、夏代の瞳の奥に、あり得ぬ歪みが一瞬、逆さに揺れた。自分の肩越しに、土に埋もれた女の顔がこちらを覗き込んでいるかのような異様な像を、稲妻の閃きほどの短さで見てしまったのだ。

「ひっ──」

喉の奥で潰れた悲鳴とともに、骨の芯まで氷を流し込まれたような寒気が、男の背骨を爪でかき上がる。指先から血の気が引き、肩に掛けていた詰襷が、急に鉛でも縫い込まれたかのように重くなった。

「……ちっ、穢れやがった路地だ」

強がり半分、呪い半分の吐き捨てを残し、役目人は夏代の肩をかすめるようにしてよろめき退く。足袋が霜を踏み砕く音を立て、振り返ることもなく、狭い路地の闇の奥へと逃げ去っていった。残されたのは、石の面にまだらに残る白い息と、そこに静かに立ち尽くす、春香の冷たい輪郭だけだった。

霜の気配が石畳からすぅと引き、春香の眼だけがなお瞬きもせず夏代を縫いつけていた。背を土塀に滑り落としながら、彼はようやく骨の芯で悟る。星人を忠興に売ったところで、己を縛る綱は断たれはせぬ。ただ締め直され、亡霊には新たな怨みの種をくれてやるだけだ、と。

「……犬っころの紐を、首から腰に巻き替えるだけか」

ひび割れた笑いが喉で折れ、震える手の甲で顔を荒くこすり上げる。春香は何も言わぬ。ただ、その冷えだけが、嘘への一歩ごとに増すだろうことを、皮膚の裏から示している。

夏代は塀から身を剥がし、貴人の棲む東の坂とは逆の闇へと足を向けた。星人の「書物蔵」を売らずに済む道──知っている坑道の抜け穴、借金の証文に縛られぬ者、忠興にも忠興の「目」にも頭を下げぬ筋──そうした顔ぶれの中で、自分の知っている路と話を、どう切り売りすれば、また新しい裏切りを積み上げずに済むのか。

(星人様を売らずとも、まだ銭になる話はある。……鉱の下で潰れた連中の上に、これ以上、石を積むな)

脳裏で、崩れた坑の土音と、春香が潰えたときの息づかいが重なり、足取りはなお覚束ない。それでも、夏代は峠道へ通じる裏堀端、そして町外れの、星人派でも忠興派でもない顔をひとつひとつ思い浮かべ始めていた。

夜明け前、川霧の白さがまだ空へと昇りきらぬうちに、夏代は組合坂裏の細い路地を、壁と影とを撫でるように抜けていった。巡邏役の提灯が角ごとにぶらさがり、油煙の輪のむこうで、社の標(しるし)が朱に濡れている。縄に結ばれた紙札のあいだから、春香だけに触れる冷たい舌のようなものが、すう、と這い出てきては、彼の耳殻を撫でて消える。

「……黙ってろ」

誰にも聞こえぬほどの声で吐き捨てると、返事の代りに、肩口の辺りが一段と冷えた。春香は怒っているのか、急かしているのか、それともただ見届けているだけなのか。分からぬまま、夏代は息を詰め、組合通り裏の曲がり角をひとつ、またひとつとやり過ごす。

やがて、坂の向こうに、月峰屋の黒い屋根が塊になって浮かび上がった。表口の格子はまだ閉ざされ、軒の行灯も灯りを落としているのに、奥の中庭からだけ、月影とも鬼火ともつかぬ淡い光が、煙のように天へと流れ出している。

井戸の縁に、藁縄を幾重にも巻きつけた即席の封(ふう)に、紙の護符が数知れず貼りつき、その一枚一枚が、風もないのに震え、白い羽虫の群れのようにばたついていた。その中央の口縁には、深い亀裂が走り、そこから漏れる光が、石畳の上に薄青い輪を描いている。

井戸端にひざまずく女の背が、その光の中に黒い影として浮かんでいた。

解けかけた藍の手拭いから、乱れた髪が頬へこぼれ落ち、仕事で荒れた両の手には、まだ巻ききらぬ麻縄の束が抱え込まれている。衣の裾は井戸水で湿り、土埃と煤がうっすらと付着しているのに、その背筋だけは、糸を張ったように真っすぐだった。

「……東山様、川の神様、……月峰の主(あるじ)さま……」

口の中で転がすように紡がれる古い祈りは、とぎれとぎれで、ところどころが思い出せぬのか、言葉の継ぎ目で眉間に皺が寄る。だが、手は止まらぬ。結び目が石の縁に食い込むたび、縄のきしむ音が、まだ夜の底に沈んだ町中へと、低く沁みこんでいく。

ふいに、井戸の底から、ぽたり、ぽたりと水の滴る音がした。続けて、聞き慣れぬ、空洞を叩くような微かな響きが、ひとつ。

夏代の足裏まで、それが伝わってくる。春香の気配が、背後で濃くなった。霜の膜が、彼と土壁とのあいだに薄く張りつく。

(間に合うかどうかなんざ、知ったことか……)

自らに吐き捨てるように心で呟き、彼は月峰屋の裏手へと回り込んだ。勝手口の戸口の上に吊された小さな鈴が、誰も触れていないのに、かすかにチリ、と鳴る。

夏代は、拳を握りしめたまま一度、深く息を吸った。提灯も、役目人も、この場にはいない。ただ、自分と、井戸から漏れるあの白い光と、そして、首筋に這い寄る亡霊の冷気だけ。

「ここで売ったら、俺はもう本当に、戻れなくなるぞ」

喉奥でそう形にした言葉は、声にはならなかった。代わりに、拳がそっと戸柱を叩く。小さく、一度だけ。

中庭の光が、わずかに揺れた。

戸柱を拳で叩いた感触が、骨の奥でじんと響く。返事はない。代わりに、井戸の方でふっと気配が変わった。

縄のきしむ音が止み、祈りの言葉も途切れる。次の瞬間、勝手口の戸がすっと開き、月峰屋の女主人の顔が、白い光の余韻を背にして覗いた。

細い眼差しが夏代を射抜く。その手には、いつの間にか帳場の脇に立てかけてあるはずの短い棒が握られていた。

互いに、一息分ほどだけ、黙って見合う。井戸の青白い光が女の頬を斜めに撫で、外の煤けた朝闇が、夏代の影を長く引きずる。

二人のあいだの敷居の上だけ、白い息が薄く凍りつき、誰にも見えぬ女の吐息が、曇り硝子のように境を描いている。

夏代は、ゆっくりと両の掌を上げた。指の間に何も挟んでいないことを、灯もない闇に見せつけるように。

「──連れもなし、見張りもなしだ」

擦れた声が、戸口の木枠にざらりと引っかかる。数晩ろくに寝ていない喉は、言葉のかたちをうまく保てない。

「東の坂の奴らに渡す話じゃねえ。……あいつらの詫び札にもならねえ類だ」

口にした瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなる。だが、胸の内側で凍りついた春香の気配が、ひときわ強く締め付けてきた。

中庭のどこか、封じた井戸の底から、こん、と乾いた音がひとつ、石を叩いた。

女主人の眉がわずかに動く。握った棒の先が、彼の胸のほうへ半寸ほどだけ傾いた。

「……危ない荷なら、ここを焼き場にはさせませんよ」

低く抑えた声に、夜気の冷たさとは違う、ぴんと張った気配が混じる。

夏代は、喉の奥で笑いとも咳ともつかぬ息をこぼした。

「焼き場にしちまうには、惜しい道筋が何本か。……金にも、命の逃げ路にもなる穴の話だ。あんたの耳にだけ、通したい」

そう告げると同時に、戸口の敷居を跨ぐでもなく、一歩引くでもなく、その場に沈むように膝を折り、頭を垂れた。

春香の冷えが、うなじから背骨へとすうっと下りる。否は許さぬ、とでも言いたげに。

月峰屋の女主人は、すぐには戸口を開け放さなかった。

細めた眼で、夏代のやつれた頬の骨ばり、継ぎ接ぎだらけの狩衣の脇にこびりついた泥、そしてその視線が、自分の肩口あたり──生きた者の影などない一点──へ、何度もすべっていく様子を、ひとつひとつ撫でるように確かめる。

その沈黙のあいだにも、井戸の方では淡い光が揺れ、貼りつけた護符が、風もないのにぱしん、と幟のように鳴った。ぞくりとする冷気が、戸口の隙間から差し込んだと同時に、彼女はようやく顎だけをちいさくしゃくる。

「……こちらへ」

勝手口脇の簀の子から、屋根付きの裏縁へと短く合図する。

土間を一歩入れば、煤と湯気と味噌の匂いが、夜気と入れ替わる。奥の客間はすでに灯を落とし、裏廊下だけが、竈の残り火と行灯の弱い明かりに、くすんだ橙の帯を引いていた。

彼女は自分の立つ位置から半歩だけ離れた柱に、何気ない手つきで帳場用の短棒を立てかける。その距離なら、指先ひと振りで掴める。

「──猟師としてか、抜け荷の道案内としてか」

抑えた声が、煤けた梁に沿って滑る。

「それとも、もっと厄介な名で呼ばれる筋の話を、今ここで持ち込んだのか、夏代殿」

問いは穏やかでありながら、返答ひとつで、そこから先を切る覚悟も含んでいた。井戸の底から、再び、こん……と、乾いた音がした。

背を土壁に預け、春香という見えぬ重みを両の肩に食い込ませたまま、夏代は息の切れた言葉で取引を並べ立てた。町外れの廃蔵の、帳簿部屋の裏に忍ばせた細工戸、その先にある学問貴人の隠れ間の場所と、そこへ通う足取りの癖。詰所の帳面に載らぬ横穴や、番所の札が利きにくくなる刻限、決まりきった巡邏の抜け目。

だが、口にする報いは、小判ではない。

「……終いになったら、この町を抜ける紙と、河向こうまでの手筈を。

それと……」

喉の奥で一度、声が引っかかる。春香の冷たさが、肩から心臓の裏までじわりと沁み込んだ。

「……一度でいい、死人の手前で、筋の通ることをさせてくれ」

落とした言葉は、約定というより、憐れな願掛けのように、土間の闇へ転がった。

砂を噛んだような沈黙ののち、悟里香は、俵桶の縁に添えた指先で一度だけ木を叩いた。それを合図にするように、井戸のほうで青白い明かりが、すう、とひと息細る。

「……あの旅の歌詠み殿へは、わたくしから通詞を立てましょう」

そう言って、釜残りの飯に湯をさし、粗塩をひとつまみ指先で弾き入れると、ひびの走った椀に盛り、夏代の荒れた手に押しつけた。

「腹が鳴っていては、山も闇も道を違えます」

彼は礼も言えず、ただむさぼるように飯をかき込む。湯気が、うっすらと春香の輪郭をなぞるように揺れ、女主人の横顔をかすめて消えた。

土間の片隅、帳場への引き戸越しに、墨と紙の匂いがかすかに漂う。まだ姿を見せぬ学問貴人の影が、この狭い裏口まで延びてきたかのようだった。

「月は、もうすぐ欠けに入ります」

悟里香は、言葉とも独り言ともつかぬ声で呟く。

「次の満ち際までに、皆、立つ場所を決めねばなりませんね」

夏代は、空になった椀を両手で抱えたまま、うなだれて笑った。そこに愉快の色はない。ただ、逃げ場を焼き切る覚悟と、遅すぎた詫びの苦さだけがあった。

井戸底から三度目の、こん……という音が響く。

その微かな合図を、三人とも、それぞれの胸のうちで、約束の拍と受け取った。


Moonrise Over the Kurokawa

月見根屋の座敷では、「御恩返しの宴」が今にもこぼれ落ちそうなほど膨れあがっていた。徳利は絶え間なく行き交い、誰かが景気づけに祭り唄の一節をうたい出すたび、他の者が曖昧に笑っては途中で声を濁す。その笑いと唄の隙間に、乾いた不安が細い糸のように張りつめている。盃を置く音ひとつ、障子の開け閉めひとつが、いつもよりわずかに硬い。

悟利香は、いつも通りの柔らかな笑みを口元にたたえ、盆を抱えて卓から卓へと渡っていた。だが、ひとつ盃を満たすごとに低く囁かれるのは、七号坑で軋む支柱の噂、祈祷もされぬまま延長された通気坑の話。湯気の立つ餃子を載せた新しい盆を置くふりをして、彼女の視線は一瞬だけ奥座敷へ通じる廊下の影を確かめる。その先で、屏風一枚隔てた「別の宴」が静かに育っているのを、店の骨組みごと感じ取っていた。

炉端では、紋付きの袍を着た若い社人が二人、やや上ずった声で冗談を飛ばしていた。笑いにかこつけて、ひとりが漆塗りの膳の裏に指先を滑らせ、小さく折り畳まれた紙片を一枚貼りつける。それを受け取るのは、煤けた喪帯を締めた鉱夫の未亡人だ。彼女は膳を下げるふりをして紙片を袖口に吸い込ませ、そのまま何事もなかったように台所口へと消える。息子二人は、今宵も最下層の交替番に入っている。紙片一枚が、生きて戻れるかどうかの重みを帯びていた。

梁は、人と熱気の重みでわずかに軋み、吊るされた月と松の絵灯籠が細かく震えた。その震えに応じるように、柱に隠した護符がかすかに鳴る。耳を澄ませなければ聞き取れぬほど微かな囁きが、古い木の芯から立ちのぼる―この家に縛られた小さな火の霊と井戸の霊が、やがて来る一線を知りたがっているかのように。

「奥の間が少々詰まっておりますので、こちらの方は、もう少しお詰め願えますか。」

悟利香は、いつもと変わらぬ口上で客を座らせながら、その目は人の渦の流れを測っていた。鉱夫頭がひそひそと卓を移り、曇った目をした若者たちが同じ隅に固まり始める。祭り飾りに紛れて柱に括られた紐を辿ると、その先は裏口と、山裾へ抜ける細い路地へ通じている。ひとたび合図が飛べば、酒席はただの宴から、山を締め上げる鎖の手元へと変わる。

笑い声と盃の触れ合う音の奥で、月見根屋そのものが、客の息遣いと同じ調子で呼吸をしていた。もてなしと謀りごとの境目が、今宵かぎり薄紙のように透けている。その紙一枚を破るのは、誰の一声か、どの震えか――家の梁も、張られた札も、じっと聞き耳を立てているようであった。

屏風で仕切られた奥の座敷では、敷かれていた藁筵が端へ追いやられ、低い卓の上に帳面や粗い坑道の走り書き、飲みかけの盃が無造作に散らばっていた。行灯の灯は押し殺され、紙障子に映る影だけが、ひそひそと蠢く。

行司役の組頭や行商上がりの組合代が、煤まみれの前掛けのまま肩を並べ、節くれ立った指で、通い慣れた鉱車の道筋や交替番の刻限を、こぼれた酒の上からなぞってゆく。「ここで一度、鎖を外せば……」「いや、ここの楔は去年の落盤で打ち直した。」そんな押し殺したやり取りに、盃の底で鳴る鈴のような不安が混じる。

夏代は、古びた狩衣を着崩した夏代が、煤けた手で汚れた地図を広げ、細い通気坑の線を、傷だらけの拳でとん、と叩いた。かつて自分が密荷を通した抜け道だ。

「ここなら、見張りの札もねぇ。風も、俺の頃と変わらんはずだ。」

「馬鹿言うな。」向かいに座る、腹の出た古参の坑夫が、低く吐き捨てるように言い、煤の下から覗く目だけを鋭くした。「この支柱はもう腐ってる。お前が案内したあとの年に、二人呑まれたんだ。今夜通るなら、縄を二筋は張れ。」

そのやり取りを、悟利香は敷居際に膝をつき、膳を支えながら聞き流すふりをしていた。表向きは、控えめにお辞儀をして新しい皿を卓へ滑らせる女将にすぎぬ。その内心では、出入りする顔と名を一つひとつ帳面のように繰っていく。ひと声かければ一小隊ごと掻き集められる現場頭、下口の詰所に妻子を置く若い監督、祭りの太鼓が乱れた途端に尻ごみするであろう気弱な組長――誰が最初の叫びで腰を抜かし、誰が震えを噛み殺して前に出るか。

屏風の向こうに漏れ来る賑わいと笑い声が、ここでは遠い。低く抑えられた声が幾筋もの細い糸となって絡まり合い、「今宵、この屏風を一歩くぐれば、ただの宿の客ではなくなる」という共通の覚悟を、互いの喉元に押し当てていた。越えてはならぬと教えられてきた領分――領主への背きと、山霊への非礼。そのどちらにも片足を掛ける刹那を、酒の匂いと煤の匂いが、重く見守っていた。

谷あいの灯がまだ淡く瞬きはじめた頃、東の斜面の奥まった隠し間では、細長い窓隙からの冷えた夜気が、紙と墨の匂いに薄く混じっていた。細人の主は、手の中の硯を一度持ち上げ、掌でその重みを量る。今宵という夜そのものの手触りを、石の冷たさに問うているかのようであった。

膝前に広げられた山の絵図は、彼の端正な小筆による注記と、薄闇に紛れて通ってきた鉱夫たちの荒い指跡とが幾重にも重なっている。崩れやすい炭層に引かれた赤丸、かつては山霊を憚って休坑としたはずの道筋に、粗い×印が幾つも被さっていた。その上を、かつての協約文から抜き出した古語が、静かな怒りのように細く流れている。

星人は筆をとり、一筋だけ、他より濃く囲んだ坑道へと墨の先を落とした。多田男が、古き契りと幾度もの凶兆を退けてまで、密かに掘り延ばさせた隠し筋である。彼は、年号、開鑿の日付、祭祀を省いたまま押された印判の名、飛ばされたはずの供物の品目――それらを一つひとつ、穏やかな条文の形に包みながら書き連ねていった。

外から見れば、それはただの愚直な嘆願書にすぎぬ。古い山社の掟を引き、役所言葉で謙って「一夜限りの閉坑」を求める文言。だが、その行間に滲むのは、ひと振りで喉元に冷たく触れる刃であった。いつ、どの祭礼を誰が怠ったか。どの札に虚偽の印が捺され、どの社前で酒樽が割られぬまま積み上げられているか。名と日付と場所を、逃げ場のないほど細かく、重ね書きに織り込む。

最後の一行を引き終えたとき、彼は墨の乾きを確かめ、文末に半ば隠すように家紋を崩した印を据えた。まだ柔らかな封蝋の上に指を押し当てる瞬間、その指先には、己がただ清貧の学者として傍観していた頃にはなかった熱が宿っていた。

「これで、逃げ道は同じだな。」

誰に聞かせるでもなく、低く漏らした声が、書棚と古い巻物の間に沈んでゆく。社兵頭・清貞を追い詰めるこの一巻は、そのまま自らの頸木でもある。もし彼が怯えよりも従順を選ぶなら、告発の矢は、山の怒りとともに、自身とあの男とを同じ赤い墨で貫くだろう――そう悟りながらも、細人は筆先を洗い、静かに硯に蓋をした。

文を封じ終えると、細人は、これまで幾度かささやかな伝令役を務めてきた若い社人を呼び入れた。貴人としてではなく、古式に通じた師として、膝を対して言い含める。

「この巻は、暮れ六つの鐘が鳴り終えたのち、社兵頭・清貞殿の手に直に渡せ。他の目の届かぬ場所でな。言伝は要らぬ。ただ、旧き山社の掟に則り、坑を守る社前に詣でるごとく、深く一礼して差し出せ。」

若者の眉がわずかに震えるのを見て、細人は、あえて声を落とした。

「封を破ることは、ただ人の咎にとどまらぬ。山の底に名を記された者として、社の帳面からも消されよう。お前の家の辻祠も、その灯を失うやもしれぬ。」

父母の名や、谷はずれの小さな祠の話を、さりげなく差し挟む。若い社人は、喉を鳴らしながらも、やがて深く一礼し、巻を袖に滑り込ませた。積み上げられた古い勘定帳の陰に身を消すその背を見送り、細人はふたたび窓隙へと向き直る。

谷の底では、行人町に沿って灯籠の花がひとつ、またひとつと開いていた。その向こう、闇に口を開けた坑口の裂け目だけが、月明かりを拒むように黒く沈んでいる。広場からの太鼓の音が、胸の鼓動とずれながら重なり合うのを聞きつつ、彼は誰に聞かせるでもない祈りを唇に乗せた――清貞という男の、面子と信仰への怯えが、多田男への従順よりもなお強くあれ、と。

谷底の坑口では、祭囃子の名残が山を這い上がり、番所の締まりをじわじわと崩していた。増員された詰め番たちは、焚き火の傍らに固まり、掌を火にかざしながら、「月峰屋の膳は今夜は鯛だとよ」「一番に酔いつぶれて清貞さまに引きずられるのは誰か」と、銅銭を弄んで賭けを交わす。坑から這い出す霊気に煽られ、松明はぱちぱちと不規則に爆ぜては揺らぎ、その明かりが、古い木札の護符に一瞬だけ浮かび上がる。新しい紙札の下に押し込められ、半ば朽ちた「此より下、秋月の夜は休坑」と墨書きされた板が、煤の陰でひそかに光を返すのを、誰も見ない。

「今夜みてぇな重い空気で、底の番まで回すなんざ、親方衆も欲が深ぇ。」古手の兵が、肩当てをいじりながらぼそりと漏らすと、若い兵たちは鼻で笑い、「山霊だの季の移りだの、年寄りの言い草だ」と槍帯を締め直し、祭の酒をどこで回し飲みするかに心を遣う。その背後では、鎖鳴りと車輪の軋みが絶えず闇へ吸い込まれ、帳場前の板壁には、さきほど書き換えられたばかりの出勤札が静かに掛け直されていた。名札の並びは、ほんの二つ三つ入れ替わっただけ。だがその細工で、落盤の癖を知る老練な組は地上に残され、多田男に忠を誓った若い精鋭たちだけが、今宵の月を見ぬ深さへと送り込まれていることに、まだ誰も気づいていない。

社兵頭の私室に灯る行灯は、油の減りかけた火がかすかに揺れ、帳場の紙障子に煤けた光の輪を描いていた。谷底の坑口を見下ろすその間で、清貞は、肩を丸くして珠算盤の上に指を置いたまま、控えの書吏を睨むでもなく見つめる。

「……出勤札の付け替えが乱れておる。今一度、番割を洗い直せ。」

わざとらしい難癖に、若い書吏は眉をひそめかけたが、すぐに平伏して帳面を抱え直し、「ははっ」と退いた。引き戸が音を立てて閉じ、廊下の足音が遠ざかるのを待ってから、清貞はようやく、机端に据えた小さな木箱に手を伸ばした。

封蝋に押された家紋は、墨色の行灯明かりにもなお、きっちりとした筆遣いを思わせる。何度か往来の噂に聞いた、「町を行く物静かな風狂の歌人」の名が、封の裏に細く添えられているのを見て、清貞の喉がひとつ鳴った。

「星人……。」

指先にわずかな汗を感じながら、彼は爪で蝋を割った。ぱきりと乾いた音が、狭い室内に鋭く響く。巻紙を静かに広げると、最初の数行は、拍子抜けするほど古風な季節の挨拶と、収穫の安穏を寿ぐ定型の文であった。だが、三行目の途中から、筆の運びが目に見えて締まりを変える。

「……坑第七の三、臨時掘り下げにつき、略式祓を以て済ませし件。」

静かな文言の中に、血肉のある数字が紛れ込む。登録帳には決して記されぬはずの支線の符号が、ひとつ、またひとつと現れ、それぞれの末尾には、清貞自身がかつて香煙の霞む社務所で押した印判の、朱のかすれ具合までが、筆画で写し取られていた。

「なぜ……。」

思わず漏れた声は、油の匂いとともに天井へ消えた。紙上の文字は、まるで古い裁許状からそのまま抜き書きされたかのように、契約の文句を一字一句違えず並べている。そこには、削ったはずの一文――「祭日を一日省き、供物を半ばに減ずる」――まで含まれていた。あの折、帳場の火にくべたはずの写しが、いま再び、眼前に蘇っている。

さらに下に続く行では、「不幸にも右の証文が流出した場合における、社中裁断の所管」として、彼が決して関わりたくなかったはずの上宮と、遠国の巡検役所の名が、丁寧に、しかし逃げ道のない順で挙げられていた。いずれも、清貞が借財の塗り替えに頼ろうとしていた「顔」の主たちである。

その瞬間、足下がかすかに揺れた。ごく短い震えではあったが、梁がみしりと鳴り、天井板の隙間から舞い落ちた細かな埃が、ひらひらと巻紙の上に散る。白い粉が墨跡にかぶさり、まるで焼け跡に降る灰のように、黒い文字のいくつかを一時的に曇らせた。

清貞は、息を止めたまま、その灰塵を指先で払った。指の腹に乗った埃の感触が、不意に、あの日、略式の祓で済ませた坑口から立ちのぼる冷たい気配と重なり、背筋をひやりと撫でてゆく。行灯の火がふっと細り、また持ち直した。彼は反射的に、数珠を繋いだ左手首を握りしめる。珠が、かち、と鳴った。机の上の硯が、微かに震えて水面に輪を描く。

「……山が、聞いておると申すか。」

誰にともなく呟いた声は、紙障子に吸い込まれ、谷底の闇へと沈んでいった。巻紙の末尾に、まだ読まれていない文が重く垂れ、そこからこれ以上目を逸らせぬことを、清貞は悟っていた。

末尾の数行は、恐ろしく平明であった。比喩も、婉曲もない。

〈次の秋月合せの夜、その間のみと雖も、坑最深部に旧来の閉山・封鎖の作法を復せよ。さもなくば、右に写したる諸証文の副本を、遠国巡検所ならびに上宮の長老方へ奉呈す〉

ただそれだけのことが、清貞には、刃を喉に当てられたよりも冷たく響いた。

「……借財の振替も、社格の取り成しも、すべて道が潰れる、か。」

口の中で転がした言葉は、自嘲とも呻きともつかぬ。数珠の玉が、無意識の指の動きにつれて、かち、かち、と小刻みに鳴る。そのたびに、彼の顎は固く結ばれ、こめかみに浮く血管がぴくりと跳ねた。

今夜こそが、外郭の倉を満たす「霊銀」の山を築くはずの刻――その夜半に、坑を沈黙させる。多田男の顔を思う。笑みを崩さぬまま、ふっと眼の笑いだけが消える様を想像し、清貞は無意識に喉を鳴らした。

同時に、別の顔も脳裏に浮かぶ。社格高き老神職たちの、声を荒げず、ただ瞼を伏せるだけの断罪の気配。経帳の上に並ぶ、自らの名に引かれる一本の墨線。金勘定の帳がいくら整えられていようと、社の帳面から抹消された者に、これから先の立ち居振る舞いがあろうか。

外から、くぐもった怒鳴り声と、槍の石畳に落ちる甲高い音が聞こえた。直後に、足下を舐めるような震えが走る。壁に貼られた新しい護符に、細い亀裂がすうっと走り、墨の「守」の一文字を、斜めに断ち割った。

「……山は、急けという。」

清貞は、静かに巻紙を巻き戻しながら呟いた。指先の震えは、もはや迷いだけのものではなかった。

決意が、もはや逃げ道を探す逡巡ではなく、追い詰められた者の固い絶望へと形を変えるのを自覚しながら、清貞は脇間の小太鼓を打たせた。「霊障届の急増につき、至急評定」と口実を書き付けた札が、廊下を駆ける小姓の手で配られてゆく。

ほどなく、鎧の肩当てに神職の襷をかけた腹心たちが、低い卓を囲んで膝を揃えた。清貞は余計な前置きを削り、乾いた声で命を下す。

「今夜より暁にかけ、坑口ごとに完全な式次第での閉鎖祓を行う。門前の結界書きはすべて坑口へ回せ。多田男殿の倉を固める巡邏は、中止だ。」

「しかし――」と言いかけた若い副将を、彼は一瞥で黙らせる。

「山脈全体の震動の型が変わった。上宮旧記の先例に照らせば、『霧鳴り三度』の夜は、人の守りより封じの儀を優先せよとある。違えるなら、社も我らも同じく呑まれよう。」

口にした「先例」は、巻物の片隅にしか記されぬ曖昧な一節に過ぎぬ。だが、さきほど机を震わせた微震と、貼り札を割った亀裂が、その虚ろな文言に骨を通していた。

沈黙ののち、古参の一人が低く答える。「御意。霊灯と香を倍に求めまする。」

うなずいた清貞の前で、一同は額を畳に擦り付けるようにして拝し、音も荒く立ち上がった。眠りこけた書記を揺り起こし、鎧の上から式服を羽織り、鎖の鳴る手で枷ではなく香炉と札束を掴みにゆく。その背を見送りながら、清貞は数珠を握る手に力をこめた。

「縛るのは人ではない。今宵だけは、底の口だ。」自らに言い聞かせるように、かすれた声でつぶやいた。

月見の団子と焼き魚の匂いが漂い、三味線のゆるい音が廊から洩れてくる。悟里香は客席を回りながら、笑みの端だけで合図を飛ばす。盆を運ぶ若い給仕には、「酔わせても荒らすな」と一言だけ耳打ちし、厨房には「鍋の蓋を三度叩いたら、裏口を閉めよ」と命じてある。側間の障子は半ば開け放たれ、あえて外の喧噪と灯りが差し込むようにした。誰の耳にも祭り囃子しか届かぬよう、しかし輪座の中の低い声は、畳の目一つぶんも外へ漏れぬように。背戸のそばに立つ古手の女中は、指の節で木戸をなぞり、決められた拍子の稽古を、客には聞こえぬほどの小さな音で繰り返していた。

座敷が詰まり始めるにつれ、「ただの酒宴」という薄皮は、湯気に溶ける霧のようにしだいに消えていった。煤に黒ずんだ手に晒の包帯を巻いた坑夫たちが、白足袋に羽織紐を垂らした組頭や帳付たちと、肩を触れ合わせて座る。坑内で罵り合い、賃金場で睨み合ってきた相手と、今は同じ膳を囲む。夏代らの手勢は、初めは壁際一列に腰を下ろし、背を柱につけたまま、出入口と窓の位置ばかりを測っていた。

悟里香は、あえてその列の前に進み出て、口上もなく、組頭たちに注いでいたのと同じ徳利を手に取ると、冷えた盃へととくとくと酒を落とした。「同じ釜の煙を吸う衆だもの」とだけ言って、卓の中央に徳利を置く。いやでも視線が交わる位置だ。帳付の一人が舌打ちしかけて飲み込み、夏代の配下の若い一人が、訝しげに鼻を鳴らしてから、無言でその酒をあおった。小さな、だが決定的な最初の頷きが、場を横切る。

悟里香は座布団の端に膝をつき、飾り気のない言葉で切り出した。

「今さら引き返すなら、それも宜しゅうござんす。ただしその晩から、名簿も貸付帳も、殿の方で締め直されましょう。坑の口も金の口も、息の入る隙間がなくなる。」一度、部屋の隅々まで視線を走らせる。「ここに膝をそろえた顔は、皆、もう帳面の行間に名前を書かれている。今夜、動けば、御用方の帳にも、山の帳にも。」

「山の……帳。」誰かが復唱し、どっと笑いが起こりかけて止まる。笑いではなく、喉の奥で折れた声だ。

「霊銀を掘り抜いた筋は、みな様の脛の下を這っている。怒ったものが、どちらの首筋を噛むかは、もう選べませぬ。」悟里香は、言葉尻をやわらかくせずに言い切った。「この座敷から立つ時には、それぞれの家だけでなく、名と血と、山への顔向けまでを、ひと繰りにして括る覚悟を、しておくれなんし。」

しばし、箸の触れる音さえ消える。油障子の向こうで、三味線が一の糸を外し、すぐに持ち直す。そのわずかな狂いが、座中の胸をひやりと撫でていった。

最初に大きく息を吐いたのは、左頬に坑木の古傷を持つ壮年の坑夫頭だった。「どうせ、このままでも押し潰されるならよ。」と、低く呟き、膝の上で拳を握る。「せめて山の前で、こちらから名乗って潰れようじゃねえか。」隣の帳付が、顔をしかめながらも頷く。「貸付の帳は、己の手で書き直す他あるまい。」と、紙の上の墨ではなく、自分の喉を締めるような声で言い添えた。

夏代は、壁にもたれたまま、薄笑いを浮かべた。「逃げ道を賭場から先に潰しておきやがる。」と、悟里香にだけ聞こえる声量で言い、盃を二度、卓に軽く打ち付ける。「……いいさ。うちの連中も、一度くらいは、表の札に名を出してみるのも悪かねえ。」

低い罵り声、短い祈り、実家の老父母や子の名を呼ぶ小声が、あちこちでさざ波のように立つ。やがて、そのどれもが一つの調子に合わさるように、黙ったままの頷きに変わっていった。投げ出された掌が、隣の拳と一瞬だけ触れ合う。手の甲に走る炭の皺と、筆の墨の染みと、盗人紐の擦り傷が、互いに確かな温度を持って伝わる。

寺からの夜半の鐘が、遠くで三度、山肌に跳ね返ってきた。その響きの中で、この座敷に膝を折る者たちは、誰一人として、もう「客」ではなくなっていた。社兵の閉鎖の祝詞が坑口で始まるのと歩を合わせるように、それぞれの胸の内で、何かが静かに、あるいは荒々しく折り畳まれ、別の形で結ばれてゆく。今宵、山の底口に線を引く清貞の決断と、坂の上の主の高殿を揺らすことになる騒ぎとに、自らの名を縫い付ける覚悟を、誰もが暗黙のうちに引き受けていた。

鶴の紋を染め抜いた直垂をまとい、頬のこけた使番が、旅塵を払おうともせず月峰屋の敷居へずかずかと足をかけた。巻物を高く掲げ、「殿下ご直達 () 」と声を張り上げかけたその刹那、正面の引き戸が、すう、と内から一息に引き払われる。

座敷の灯りと湯気と、酒と味噌の匂いが、夜気のなかへ呼気のように溢れ出す。その光の枠の中に、紺の前掛けを締めた悟里香が、きちんと襟をただして立っていた。彼女はまず、敷居の内側ぎりぎりで膝を折り、額が板戸に届かんばかりに深く頭を垂れる。そのあまりの低さに、使番は踏み出した足を思わず引き、形ばかりの会釈を返さざるを得なくなる。

「これは、炭谷奉行所付 御用伝達役・□□様にてあらせられましょうや。」

顔を上げた悟里香の声は、驚くほど静かで、よく通った。名と役を正しく言い当てられ、使番の目がわずかに細まる。

「当月、御触れにて『中秋月見の節』と、明白に祭礼日として記された夜……」悟里香は、あくまで丁寧な言い回しで続ける。「そのさなかに、坑夫方を坑口へ召し出だす御用とは、鉱夫組合、あるいは旅籠組合の定めし条文、いずれの何条何目に拠られまするや。」

「なに?」使番は鼻で笑った。「条文だと。 山の口も、人の口も、結局は多田男様の御意一つで開きも閉じもいたそうぞ。祭りだの霊障だの、そんな口実で逆らえると思うては困る。」

楼下の土間に、かすかなざわめきが生じる。座敷の方から、膳を置く手がひととき止まった気配が伝わるのを、悟里香は足裏で感じ取った。彼女は一歩も引かず、かえって袖口に指を入れる。

「左様に仰せなら、こちらも『口実』ではなく、書き付けにてお目に掛けとうござんす。」

するり、と紺の袂から現れたのは、角がすり減り、紙端の黄ばんだ薄冊子だった。表紙には、細いが確かな筆で「鉱夫・旅籠両組合連署規定写」と記されている。月峰屋の帳場の引き出しに、代々しまわれてきた争論用の控えである。

悟里香は、その場で立ったまま、器用に親指で頁を繰り、迷いなく一箇所を押さえた。引き戸は開け放たれたまま、背後の座敷の灯が、紙面の文字を銀墨のように浮かび上がらせる。

「ただいまの御達しが、もし坑内召集にかかるものにて候わば, , 」と前置きし、「鉱夫組合規定、第七条、二の目。」と、はっきり条を告げる。「『登録祭礼日中、日没より明け六つまでの刻、いかなる名目といえども坑内強制召集を禁ずる』。」

使番の眉がぴくりと動いた。

悟里香は、重ねて頁を送る。「また、旅籠組合側規定、第四条、三の目。」と指先で行をなぞりながら読む。「『祭礼日を襲う異常の徴、社家これを「相乱れ」と告ぐる折には、宿泊客の安全を第一とし、坑口への送り出しを止むべし。これを妨ぐる上意あらば、両組合同筆にて本領へ訴え出づるを許す』。」

細い路地にまで響くよう、しかし騒ぎ立てるのではなく、一字一句を噛み分けて声に出す。そのたびに、油障子の向こうで、膝を揃えた坑夫や帳付たちが、互いの顔を見交わす。これまで井戸端や飯場で、半ば伝説のように囁かれてきた「権利」の文言が、今、墨の匂いとともに耳へ落ちてくる。

悟里香は、最後に、ひと際ゆっくりと別の頁を開いた。「さらに、両組合と領主家との締結書より抜き候。」と断り、「第五条。」と読み上げる。「『社家の発する異常警告を無視し、なお坑内労働を強い、そのうえ禍事これに続くときは、その責は直ちに領主家に帰し、補償および沙汰は、本領評定所において公開のうちに決す』。」

「, , 『公開のうちに』。」と、悟里香はその言を、わずかに声を強めて繰り返した。

路地の空気が、冷えたように張りつめる。背後の座敷では、誰かの吸い込んだ息が、畳の上で軋む音と同じくらい、はっきりと聞こえた。使番は唇を歪め、「そんな古ぼけた紙切れ () 」と言いかけて口を噤む。古傷だらけの鉱夫の手と、帳付の墨に染まった指が、障子の隙間からわずかにのぞき、そこに書かれた文字を追っているのを、彼もまた視界の端で捉えてしまったからだ。

使番が、鼻先で笑いを弾かせた。「多田男様のご意向が、祭だの何だのという口実より下にあろう筈がなかろうが。」と、わざとらしく声を張る。

悟里香は、その嘲りを、まるで湯のみの縁に立った泡を見るように眺めただけだった。「口実かどうか、ただ今、確かめとうござんす。」と、静かに言いながら、紺の袖の内へ指を滑り込ませる。

するりと現れたのは、幾度も開かれた痕のある薄冊子。角は丸くすり減り、糸綴じの間から、古い糊の匂いがほのかに立つ。表紙の「鉱夫・旅籠両組合連署規定写」の文字に、使番の目が一瞬だけ留まる。その一瞬を逃さず、悟里香は、人前で帳場仕事をする時と同じ、落ち着いた手つきで頁を繰った。

「こちら、鉱夫組合規定。」と前置きし、「第七条、二の目。」と条を確かめてから、開け放たれた戸口の外と内、両方へ聞かせるように読み上げる。「『登録祭礼日中、日没より明け六つに至るまでの刻、いかなる名目といえども坑内強制召集を禁ずる』。」

路地に流れ込んでいた祭囃子が、ふっと遠のいたように感じられた。土間にしゃがみ込んでいた若い坑夫が、はっと顔を上げる気配が足裏から伝わる。

悟里香は次の頁へ指を滑らせた。「社家より『相乱れ』の告知ある折については……。」と小さく前置きし、「第八条、一の目。」と続ける。「『社家これを異常と認むる間、坑口従事を休止し、地上安静を守るべし。これを破りし命令は、たとい上意と称するとも、組合はこれに従わず、異議を申し立つるを得』。」

「上意と称するとも。」その一文を、悟里香はわずかに力を込めて繰り返した。

障子の向こうで、炭に汚れた手が、無意識に拳を握る。これまで井戸端で「昔の紙切れだ」と半ば笑い話にされてきた文句が、今、墨の匂いと共に、耳朶を打つ。

さらに、薄冊子の後半へと頁を送ると、紙がかすかに軋んだ。「領主家との締結書より。」とことわり、「第五条。」と指で押さえる。「『社家の異常警告を黙殺し、なお坑内労働を強い、その後禍事これに続く時は、その責は直ちに領主家に帰し、補償ならびに沙汰は、本領評定所において公開のうちに決す』。」

「『公開のうちに』。」悟里香は、路地の石畳にまで沁み込ませるつもりで、その言葉を明晰に繰り返した。

路地裏で覗き見ていた子どもが、思わず口を押さえる。隣家の戸の陰から、女房衆が顔を半分出し、耳をそばだてる。座敷の奥では、帳付たちが、互いの顔を見交わす。噂でしか知らなかった「条文」が、今、誰もが聞き逃せぬ声として、夜気の中に刻まれていく。

使番は、鼻で笑い、「条文の曲解にてござろう。」と声を荒げた。「そのような文句は、御領主家の御意に従うことを妨げるものにはなり申さぬ。」

悟里香は、ただ首をかしげた。「曲解かどうか、ここに見届け人が居りんす。」と、背後の座敷へ視線だけを送る。「今宵の席には、鉱夫組合、旅籠組合、それぞれの年寄衆が三名ずつ、お運びくださっておりんすが。」

畳の上で衣擦れの音がし、灰の混じった白髪を丁寧に撫でつけた男と、年季の入った羽織紐を締めた女房衆が、静かに敷居際まで進み出た。胸には、簡素ながら正式な組合の襷がかかっている。

彼らはまず、悟里香の肩越しに、座敷の方へ軽く頭を下げる。それからようやく顔を上げ、しかし使番に向けては、礼ではなく、確認するような眼差しを投げた。

「たしかに、その文言、この老骨も若い頃に筆を取って連署いたした覚えがござる。」ひとりの老人が、からからと乾いた声で言う。「今ここで、祭礼日中に客を力ずくで坑口へ引き立てるとなれば……組合規定違反にてあるばかりか、社家の『相乱れ』を踏み越えての霊怠慢。その双方、広く本領中へ訴え出でられる筋目にござる。」

「霊怠慢。」その言葉に、路地の陰で聞いていた女房が、小さく身じろぎする。社家筋にとっては、怠慢は怨みと同じくらい重い罪であると、子どもの頃から言い聞かされてきた語だ。

使番は、「ば、馬鹿な。たかが宿の女将風情と年寄りどもの寄り合いで……。」と言いかけて、ふと口をつぐんだ。路地の両側の戸口から、煤けた顔や、白足袋の爪先が、じっとこちらをうかがっている。近くの長屋の陰では、夏代の手勢の一人が、柱にもたれたまま、何げなく膝の上で掌を返している。その指の間で、木柄の下緒が、かすかに鳴った。刃は見せぬままだが、「ここにも耳と目がある」と示すには十分だった。

座敷の奥では、膳を持った若い衆が、静かに膝をついている。その肩越しに、坑夫頭や帳付たちの視線が、障子越しにまっすぐこちらへ注がれているのを、使番は肌で感じた。

「……承知つかまつった。」と、ようやく搾り出すように言う。「本件、殿下におかせられても、ただいまの条々、相違なきやお伺い立て候。祭礼の席を乱す意図あらず。今宵は、念のための御達しと心得られたし。」

言葉の端々に、無理にととのえた礼儀が滲む。使番は、巻物を乱暴にならぬよう、しかし素早く袖に収めると、踵を返した。背筋は板のように伸びているが、足取りには、来た時のような威勢はない。

その背が路地の闇に呑まれてゆくまでのあいだ、誰一人口を利かなかった。やがて、角を曲がる足音が完全に消えると、月峰屋の土間に、ほう、と押し殺した息が一斉に戻ってきた。

悟里香は、その音を背に受けながら、まだ外へ向けたままの薄冊子を、そっと閉じる。紙の端が擦れ合い、小さな音をたてた。それは、この町のどこか別の帳場で、今夜新たに書き込まれるであろう名と、秘かに響き合っているようでもあった。

多田男の使番が坂を駆け上がるより早く、月峰屋の前口で交わされた言葉は、湯気と祭囃子に乗って町じゅうへ散った。 Noble Ridge から御駕籠が揺れつつ下りて来る頃には、すでに坑口まわりの灯籠には紙垂が結わえられ、月見の幟が、不穏な影となって地に揺れている。祝詞を上げるべき社家を素通りし、御行列はそのまま、清貞の兵が囲む坑口前で止まった。踏み荒らされた土の上には、古式の紋をなす白墨の輪が、いつもの通い路を無造作に断ち切っている。多田男は、帳面を繰る時と同じゆるやかさで駕籠から現れ、肩口に香の煙をまとわせたまま、しかし声だけは鋭く張った。

「いかなる次第にて、この吉き夜、鉱音の絶えたるや。――説明、致せ。」

最も auspicious な夜、と、異国めいた語まで添えて。

清貞の名を呼んでの正式な召しだしに応じ、悟里香は坑夫たちの列から、一歩ずつ土を踏みしめて前へ出た。煤で曇った灯の中、彼女の地味な女将着は、多田男の錦に比べれば見劣りしたが、襟元の小さな紋は、背後に並ぶ胸元と同じ組合の印であった。

白墨の古い輪と、領主の刺繍下駄とのあいだ――踏み荒らされた地面に、悟里香は膝をつく。だがその身の置き方は、願いを乞う者ではなく、条目を預かる者のそれであった。低く通る声で、まず鉱夫組合の契約文言を引き、「今宵は登録祭礼日にして、社家より『相乱れ』の告知あり」と、いましがた使番の前で読み上げた条を、あらためて主君の耳にも届ける。

続いて、祖母の膝のもとで覚えた古い季節の誓約を、文語と口伝の言い回しを織り交ぜて口にする。「月重なりて霊脈あふるる夜は、坑口これを閉ざし、人を地上に留むべし。しかるのちに富を求むるは可なり。これを破りて掘り進み、禍事起これば、その科、ただちに領主家に帰す」と。

言葉はあくまで穏やかだが、一つひとつを「違えし条」「怠りし儀」と、書き付けの項目に仕立ててゆく。多田男の名を呼ぶことなく、誰を罵ることもなく、ただ筆先のように冷たく、「御家が自ら認め押印せし契約」と「山河の神々との古約」との、二つの帳を並べて見せる。

「本日、深層への出役を命ぜられしことは、これら両方の掟に背き候。」と、悟里香は頭を垂れたまま言った。「ゆえに、月峰屋女将・悟里香、鉱夫・旅籠両組合年寄立ち会いのもと、ここに異議を申し立て奉る。」

それは叫びではなく、訴状の読み上げだった。霧の向こうで、清貞がわずかに眉を動かし、坑夫たちの胸元の紋が、一斉に月光を返す。社家から預かった紙垂が、秋の夜気にかすかに鳴る。

多田男が、この場を「無礼」と切り捨てる道は、ない。彼が日ごろ盾としてきた「筋目」と「御評定」の言葉が、いまや逆に彼をこの輪の中へ縫いとめている。沈黙すれば義を捨てたと笑われ、怒声を上げれば、条文と古約を前にした逆上と見なされる。

土煙の向こうで、山の腹から、わずかに低い鳴動が応える。白墨の輪の外側で揺れる灯籠の火が、見えぬ風に引かれるように一斉に傾き、坑口の闇の奥で、青白いものが瞬いた。呻くような岩鳴りとともに、秋の霊気が濃くなり、その場にいる誰もが、山そのものの視線が、このやりとりを見届けているのを、肌で感じた。

山は、最後の灯の届く回廊を背にした途端、音という音を呑みこんだ。夏代たち数人の足が砂利を踏む気配さえ、すぐ背後の闇に吸い込まれていく。残るのは、自らの呼吸と、じわりと迫りくる岩肌の圧だけだ。

彼らは、帳面にも地図にも記されぬ通風坑を辿っていた。案内となるのは、はるかひとりの淡い光――水底から滲む月のような、青白い、頼りない明滅のみ。先頭を行く彼女の影は、足も衣も持たぬのに、濡れた跡のような冷気だけを石床に残して進んでいく。

枕木に打ち込まれた古い支柱は、ところどころ黒く朽ち、鉱水を含んだ滴を、ぽたり、ぽたりと落としていた。その一滴ごとに、石に沁み出た銀の筋が、月脈のように細く光る。壁からは、半ば溶けた祠が飛び出している。かつては坑夫らが手ずから積んだ石の社だろうが、今は滓土に埋もれ、札は焼け焦げ、あるいは粗野な爪痕のような傷で裂かれていた。多田男の差し向けた急拵えの掘削隊が、ただの障害物としか見なさず、肩で押し、車で擦り潰していった痕だ。

はるかが、その穢れた祠の脇を通り過ぎるたび、通路の空気はぴんと張り詰めた。閉ざされた坑内の熱気に満ちているはずなのに、夏代の吐く息は白く凍り、頬の汗が一瞬で冷え固まる。見えぬ指先で背骨をなぞられたように、怒りと嘆きが、一本の弓を限界まで引き絞る弦の震えとなって彼の脊を走った。

「……ここも、か。」彼は思わず低く呟く。

応える声はない。だが、はるかの輪郭が、刹那ふるりと揺れた。濡れ髪の隙間から覗く横顔が、燃え尽きた御札と、崩れた賽銭皿に一度だけ向く。その光が、割れた皿の中の小銭に触れた途端、さびついた銅が、ほんの一瞬だけ新品のような色を取り戻したかと思うと、すぐに黒く沈んだ。

後ろを行く連れのひとりが、喉を鳴らした。「おい、夏代……引き返した方が――」

「黙れ。」夏代は振り向きもせず、囁きで切り捨てた。「ここで声立てりゃ、起こさなくてよいもんまで起きる。」

実のところ、彼自身、足を止めて膝を抱え込みたい衝動に駆られていた。眠れていない夜が何年も続き、夢とも現ともつかぬ声に追われてきた身だ。それでも今夜の冷えは、いつものものとは違う。はるかの気配が、彼の罪をなぞり返すように濃く、確かな形を帯びていたからだ。

「……急げと、そう言うんだな。」夏代は、前を行く青白い背に向かって、誰にも聞こえぬほどの息で問う。

はるかは振り返らない。ただ、その光が一度だけ強く脈打つ。まるで「そうだ」と頷いたかのように。山の奥から、遠い太鼓の音が、岩を通してかすかに伝わってきた。祭り囃子と、地鳴りと、その境が、次第に分からなくなってゆく。

下り勾配は、帳面にも札にも名を持たぬ斜路であった。踏み出すごとに、足裏から、岩そのものの鼓動が、遠い祭太鼓の拍に合わせて、鈍く、重く伝わってくる。呼吸を整えようとするたび、その鼓動は胸の内側からも返事をし、夏代の肋を内外から同時に叩いた。

壁には、髪の毛一本ほどの罅が、無数の蛇のように走っている。その隙間から、湿った冷気とともに、囁きが滲み出していた。かつて坑口で誰かが歌っていた打ちこわしの唄、組合の寄り場で笑い混じりに語られた「一揆」の小唄――そうしたものが、言葉の形を失い、ただの嗚咽と呻きにひしゃげて、耳の奥に直接触れてくる。

聞き覚えのある名も、まじる。「庄蔵」「お福」「辰五郎」……酒席で武勇伝めかして聞き流してきた、潰れ坑の亡者たちの名だと、遅れて気づく。

やがて、通路はふいに喉を広げたように開け、粗末ながらも節目の広間と知れる空間に出た。床は、かつての供物で埋もれている。割れて口を開いたままの盃、柄の折れたつるはしの刃、煤けて解けかけた注連縄。どれも一度は誰かが山への詫びに置いたものだが、その多くが、あとから通った台車の車輪に踏み潰され、あるいは、手っ取り早く運ぶためにと、縄を一刀のもとに断たれて放り出された痕を晒していた。

はるかは、その乱雑な供え物の間を、音もなく抜けていく。青白い燐光が、倒れた盃の縁に触れるたび、こびりついた酒が一瞬だけ新しい香りを取り戻し、すぐまた酸い臭いの闇に沈んだ。

彼女が足を止めたのは、広間の奥、ただの岩肌に見える一角の前だった。そこだけは、他の壁と違い、蜘蛛の巣のような新しい罅に覆われている。亀裂のあいだからは、冷えた息とともに、黒ずんだ布切れや、かすれた墨跡の端が覗いていた。板札のかけらに、古い組合印の一部と、見慣れぬ紋が重なっている。

「……ここか。」

夏代は喉の奥で言い、掌を岩に当てた。指先の下から伝わるのは、今掘り進めている新坑の震えではない。もっと古く、もっと深いところで、押し込められた何かが、身じろぎする気配だった。多田男が帳簿に載せぬまま密かに伸ばさせた横坑が、よりにもよって、先の一揆の封じ墓に噛みついたのだと、骨の髄まで思い知らされる。

岩肌の向こうで、誰かが息を吸うたびに合わせるように、粉塵が床からふわりと浮き上がった。螺旋を描き、腕とも脚ともつかぬ輪郭となって、封じの石から外へと押し出されてくる。夏代は、星人から渡された書付の文言を、文字としてではなく、骨に刻まれた手触りとして思い出した。

――この奥に眠るは、ただの骸にあらず。人と神との初めの掟を記した板札、朱塗りの巻物筒、それを守り死んだ者らの息である、と。

だが、梃子でも楔でも、この岩戸を無理にこじ開ければ、半ば眠りについていた声が、いっきに剥がれ落ちる。祈祷も盟約も追いつかぬ、ただの怨嗟の嵐となって、坑内も町も呑み尽くすだろう。

それを避ける術は、ただひとつ――星人の走り書きは、にじんだ墨でこう結んでいた。「かつての裏切りに、身を刻まれし生きた印を要す。その者を楔として、古き傷口をつなぎとめよ」と。

他の者たちは、いつでも駆け戻れるよう壁際に身を貼りつけ、握る灯の火を細かく震わせていた。ひび割れた岩肌は、内側から押し広げられるように膨らみ、吸いこまれるように凹み、見えぬ掌と額と爪が、一斉にそこへすがりついているとしか思えぬ動きを見せる。

その前で、はるかが初めて、完全に夏代の方へと身を返した。これまで水面越しのように揺らいでいた輪郭は、今はひと筋の乱れもなく、沈んだ川底から引き上げられたばかりのような白い顔が、あまりに明瞭にそこにあった。濡れた髪が頬に張りつき、唇は青く固く結ばれている。

その瞳の奥に、夏代は、崩れ落ちる梁と、火薬煙に満ちた坑道を見た。彼女が必死に導こうとして導けなかった坑夫たちの、土と血に詰まった喉、最後まで外の空気に届かなかった指先。自分が「まだ持つ」「ここなら安全だ」と軽く口にした、その一言の先に開いた裂け目の、具体の形が、何度も何度も映し返される。

はるかの視線は、そこから逃げるように別の夜へも彼を引きずった。札付きの商人と握った闇荷の契約、神札を踏み破って拓いた抜け道、見つかったときには他人の名を告げて自分だけ潜んだ茂み。見ぬふりをしてきた全ての近道が、細い糸となって彼の胸と背に巻きつき、呼吸を締めあげる。

背後の岩の向こうで、押し込められた声たちの圧が、一気に高まった。耳ではなく、頭蓋そのものが震音を飲みこんで割れそうになる。うめきとも祈りともつかぬざわめきが、ひとつの問いにまとまりかけている――ここで、誰が、自らを楔として差し出すのか、と。

夏代は、一歩、罅だらけの岩肌へ踏み出した。冷えきった石に両掌を押し当てた瞬間、皮膚が針で刺されたように焼け、掌紋の一本一本が罅へ吸いこまれていくのを感じる。

「――谷川夏代。山道案内、抜け道売り、裏切り人だ。」

喉を擦る声は、背後の者たちには震えの唸りとしか聞こえまい。しかし岩の内側では、その名がくぐもった鈴のように幾度も反響し、彼自身の耳にも別人のもののように響いた。

「お前を坑に導き、置き去りにし、名を偽って生き延びた、あの夏代だ。逃げようとしたこの足も、忘れようとしたこの舌も、残りの年も……はるか、お前の鎖として、ここにくくりつける。」

谷川を出ぬこと、二度と酔いで記憶を曇らせぬこと、見て見ぬふりをせずに山と人との間を計り続けること――一つ一つを、逃げ道を塞ぐ楔として口にする。言葉が終わるたび、指先からじわりと血がにじみ、罅の闇へと引きこまれていった。

鉄と煤の味が舌に広がる。染みていく血潮に応じて、岩の唸りは次第に節を持ち、荒い喘ぎから、深く長い呼吸へと変わっていく。はるかの影が、灯の光を遮るほど濃くなりかけ、ふいに布の裏側へ指を差し込むように、夏代の胸の内へと反転して沈んだ。

冷水を丸ごと飲み下したかのような寒気が、喉から肺へ、背骨へと走る。骨の髄の奥で、彼女の視線がひらりと向きを変え、坑の奥ではなく、麓の町とそのさらに上――星人の印した、あの隠し部屋の方角を見据えるのが判る。

「……好きにしろ。」

呻くようにそう呟いたとき、ひび割れた岩肌が、大きく息を吐くようにたわんだ。見えぬ手で撫でられたかのように罅がひと息に繋がり、固く閉ざされていた面が、長年の戸板のようにきしみを上げて、内側へと押し開く。

冷えきった空気が、坑道へ流れ出した。死者の部屋にしみ込んでいた線香の香と、古い墨の乾いた匂い、長く閉ざされた骨壺の粉じんの気配が、祭太鼓の音と入れ替わるように夏代らの頬を撫でる。

闇の向こうには、板札と巻物筒が、粗末な棺のように積み上げられていた。初めの盟約を記したと伝わるそれらが、ようやく生きた目に晒される瞬間を待っていたかのように、月光なき地下で、かすかな白さを帯びていた。

崖下の闇が、まだゆっくりと口を閉じきらぬまま、うしろで湿った息を吐いていた。封が解かれたばかりの反乱墓所は、岩の裂け目を通して冷えた香煙を吐き出し続け、その白さが、坑夫たちの胸からあがる吐息とまじり合って、足もとの空気を淡い靄に変えてゆく。

煤に塗れた坑夫ふたりは、崩れかけた棚から板札と巻物筒を抱え出すたび、指先でそっと埃を払っては、粗末な背負い枠へと band で縛りつけた。ひとりは腕に古傷があり、震える手を隠すように顎を固く結び、もうひとりは歯を食いしばりながら、割れ物を扱う職人のような慎重さで荷を重ねていく。

若い書役見習いは、初め一本も担げぬかのようにその場に固まっていたが、星人の筆跡を思わせる細い字が、巻物の端からちらりと覗いたのを見た瞬間、喉を鳴らして一息飲みこみ、自ら手を伸ばした。巻筒を胸に抱きこむと、細い肩がみしりと鳴る。それでも彼は、震えをごまかすように、紐をきゅっと結びなおした。

年寄りの社僧は、捧げ持った灯を足もとに置き、唇で古い祝詞の断片をなぞりながら、荷の重さと人の数を静かに見積もっている。彼の耳には、さきほど岩の向こうから押し寄せた無数の声がまだ残響しており、その名残を宥めるように、胸元の数珠を指でひと玉ずつ送り続けていた。

「ここまでで、四十巻ぶん……いや、もっとだな。」煤顔のひとりが、荒い息の合間に呟く。

「文言は、途中で崩れても、写せるうちに写します。」書役見習いが、わざと平静を装った声で応じた。「今日は、外の月にだけ、見せればよろしい。」

崖道へ向かう足場は、もともと鉱石の荷運びのために穿たれた急坂で、ところどころ板が朽ち、釘が浮いていた。彼らは、それぞれ背中に括りつけた枠のぐらつきを確かめあいながら、一歩一歩、谷川の町の方へと身を運び始める。

夏代は、わずかに遅れてその列のうしろについた。胸の内で動くものの重さに、足が自分のものではないように感じられ、一歩踏み出すたびに、山肌が微かに違う顔を見せる。右の掌を岩壁について、ざらりとした冷えと、そこに沁みこむうす灰色の霊気を確かめるように撫でると、その指先を通して、はるかの視線が上へ上へと吸い寄せられているのが判った。

「……ああ、判ってる。」

声になったかどうかも定かでない呟きが、歯の隙間からこぼれる。はるかの眼差しは、坑の奥ではなく、山腹のさらに上――星人が地図の片隅に密かに印した、あの隠し書見の方角を射抜いている。死者の息で満ちたこの地下から、まだ息のある者たちの集う場所へ、文言を運べとせき立てる。

背骨の内側を、冷たい指先がなぞるように走る。彼女はもはや、夏代の背後に立つ影ではなく、骨の中に沈んで口を結び、そのかわりに彼の足を動かしている。踏み外せばすぐ谷底へ滑る狭い山道の縁で、その導きは奇妙なほどに確かだった。

崖の折れをひとつ曲がるごとに、遠くの太鼓の響きが、わずかずつ輪郭を変えて伝わってくる。谷の底から、微かに人いきれの波と、鉦の音、喧騒にまじるざわめきが立ちのぼる。あの音の集まる先で、月に晒された文言が、どのように町と山とを縛りなおすのか。夏代には、その全てを見通す目はなかった。

ただ一つだけ、岩の内側も外側も、同じ問いをこちらへ向けているのが判る――いまさら引き返す道はないのだな、と。

「ないさ。」

今度ははっきりと、そう口にした。吐いた息が白く立ちのぼり、うしろの裂け目から流れてきた香煙とゆるやかに混じり合う。その白さを背に押しやりながら、夏代は、前を行く背中と、背負われた古い巻物の山を追って、山道を登り続けた。

谷川の町の頭上で、祭囃子はいつしか浮き立つ調子を失い、太鼓の音は皮の裏から誰かに押さえつけられたような、不安のこもるうねりへと変わっていた。黒川沿いには、月を映さぬ霊霧がむくむくと盛り上がり、腰のあたりまでの白さが、川灯籠と橋の欄干とをまとめて呑みこんでゆく。

谷川下坑口では、その白さを背に受けるようにして、清定が自ら兵の列を押し分け、一段高い枠木の上へと進み出た。袖を紐で括り上げ、鎧の板がきしりと鳴る。喉は、これまで何度も「略式」でごまかしてきた祭文の煤で荒れていたが、それを押しひらくように息を吸いこむと、若い頃の師が「今どき、割に合わぬ」と笑って封じた、あの完全閉鎖の祝詞を、一句ずつ引きずり出した。

「山の心よ、川の脈よ、石に耳持つものらよ――」

忘れたふりをしてきた古い名が、意外なほど淀みなく舌からこぼれ落ちるたび、坑口のまわりに打ち棄てられていた祈願板が、軋むように震えた。梁に釘打ちされた新しい護符は、端からじわりと黒く焦げ、風もないのに紙が反り返る。だが燃え尽きることはなく、やがてその黒が裏へ抜け落ちると、紙面の内側から、淡く冷たい光がにじみ出した。

「本日これより、谷川下坑、全ての口を閉ざす――」

清定の声に合わせるように、坑の闇は、深く眠る巨獣が胸いっぱいに息を吸いこむかのように膨れ、次いで、内に溜めていたものを一度に吐き出した。坑口という坑口から、濃く重たい霊気が、白い煙となって押し寄せる。灯の火を容易く呑みこみそうなその靄のなかに、土をまとった肩や、角に似た影がちらりと身じろぎし、誰が見ても判るほどあからさまな「視線」が、兵と坑夫とをまとめて見下ろした。

「下がれ。これ以上は、人の足場ではない。」

清定が、刀でも槍でもなく、数珠を握りしめた右手でそう告げると、彼の背後で並んでいた若い兵たちは、互いに顔を見交わしながら、一歩、二歩と自然に後退った。祭のために詰めていた社人たちも、思わず額ずくように膝を折り、喉の奥で古い詞を反芻する。

額に煤をつけた坑夫のひとりが、震える声で呟いた。「……こんな閉じ方、親父の世代でも見たことがねえ。」

その言葉に、ざわりと人心が揺れる。だが今度のざわめきは、ただの恐怖ではなかった。山が本気で口を閉ざしたとき、人がそこへ踏み込むことが、どれほど分不相応か――その重さを、誰もが同じ喉の奥で飲みこみはじめていた。

貴人町の高みでは、まだ太鼓の音も霊霧の白さも、障子越しの灯にやわらいで届いていた。多田男は、帳場に並ぶ算盤と朱印の列を指でいじりながら、清定が「完全閉鎖」の詞を唱えたと耳打ちされても、最初は眉をわずかにひそめただけだった。

「……あの男が、そこまで派手な真似を?」

苛立ちを、すぐさま勘定へと組み替える。反乱か、それとも、より高く買い叩く口実か。ひと呼吸ののち、彼は膝を払って立ち上がった。

「下坑の“私の”筋を開け。 productivity と信心、両方のためとな。」

私兵と雇いの祓い役が、提灯の列をなして山腹を降りてゆく。禁制の支道の口には、古い藁縄が、薄汚れた歯茎のように垂れ下がっていた。誰かが形ばかりの礼をしてくぐろうとした瞬間、その縄が、噛みしめた奥歯を鳴らすような音を立てて一斉に張りつめる。

紙札が、風もないのにぶるりと震え、次の刹那、青白い火花を散らして内側から潰れた。鎧の男がひとり、ふたりと、見えぬ棒で全身を打たれたかのようによろめき、喉を掴んで膝を折る。声にならぬ喘ぎが、甲冑の隙間から泡立つように漏れ出した。

三人目が、白目を剥いたまま、まるで土の手に肩を押さえつけられたように、乾いた砂利の上へぺたりと叩きつけられる。息を吸おうとしても胸郭が潰され、肋の一本一本がきしむ音だけが聞こえる。祓い役たちの口から破れた祝詞がこぼれたが、その詞は、坑口の闇に届く前に、見えぬ重さに踏み潰された。

見物に集められていた荷車引きや坑夫たちは、その光景を目にした瞬間、誰に合図されるでもなく、一体となって後ろへどっと退いた。禁忌の「死者を嗤うな」という言い伝えが、ただの年寄りの小言ではなかったと、霊気の冷たさと喉の渇きのなかで、皮膚の裏まで思い知らされる。

「……山が、怒ってる。」

誰ともなく漏れた呟きが、霊霧とともに列の端から端まで走り抜けた。

人垣がどっと退いたあと、坑口のまわりには、生皮を剥がれたような空白がぽっかりと生まれた。松明の炎と霊霧の白さとが、その窪みに取りついて、互いの色を噛み合いながら揺れている。

そのざわめきの外縁をなぞるようにして、行人町の斜面から、新たな列がゆるやかに降りてきた。粗末な旅装ではなく、地味ながらも紋の入った直衣をまとい、袖口にはいつもの墨の痕がかすかに残る。星人――いや、もはや放浪の詩客ではなく、一人の公然たる貴人としての星人であった。背後には、黒塗りの文箱を抱えた若党たちが数歩おいて続く。

霊の光がまだ薄い場所まで進むと、星人は足を止めた。箱から取り出された一本の長巻は、墓所の土を含んだ黄ばみを帯び、巻き紐を解いた途端、冷えた黴と線香のような匂いをふっと吐き出す。その気配に、前列の社僧がふと息を呑んだ。

星人は、坑口の正面に据えられた小さな祠と、その脇に群がる煤顔の男たちとに、等しく深く一礼する。そのまま顔を上げずに、静かに息を整え、巻物の端を両手で支えながら口を開いた。

「此処より下、三十と四尋――神々の座す処、人の鋤つるべからず。」

一行一行、古い詞が読み上げられるたび、周囲の霊霧が、ごく僅かに脈打つように明滅する。星人の声は怒号ではなく、紙と石とに沁みこんだ約定を、そのまま空気のうちへ引き写すような調子だった。

「深き枝筋ごとに、侵せし殿主は、銀十箱と米百俵を山と人とに償うべし。三たび犯せば、家督を奪われ、名を碑に刻まれん。」

坑夫たちは、耳慣れぬ格式ばった言い回しにもかかわらず、「銀」「米」「家督」といった語に、思わず顔を見合わせる。掘り進めば進めるほど自分らが奪われるばかりだと信じてきた山底に、もとより「取り立てられるべき側」があったのだと、初めて知るような顔つきだった。

星人は、ちらと巻物の末尾へ視線を落とし、最後の条文を、ひときわはっきりとした声で告げる。

「山の息と人の息、季ごとに共に休まざれば、契約は打ち切られ、鉱は全て封ぜらる。殿主は、投下の金子よりも先に、坑夫の飯と屋根とを案じるべし――これを背く時、山はその名を呑み、末代まで返さず。」

「末代まで返さず」という言葉が夜気を渡ると、霊霧のうちにぼうと浮かんでいた石の肩が、ゆっくりと頷くように沈み、坑口の闇の奥から、ざり…と砂利を踏むような重い同意の音が響いた。

星人の声が律を刻み、言葉が法と霊気とを縫い合わせてゆくあいだ、悟利加は、まるで月峯屋の座敷を見回るときのように、人垣のあいだをすり抜けた。膝を抱えていた若い坑夫の手に、急ぎ温めた薄酒の椀をそっと押しつける。「指の震えを、山に見せるでないよ。」煤けた額に囁くと、別の方では、霧のうちに半ばだけ現れた石の面を凝と見あげかけた古参頭の髷を、さりげなくぐいと引き下ろす。

「目を合わせるは、祭りの招きのときだけさ。今は、あちらは“数”を数えておられる。」

子どもを抱きしめて立ちすくむ女たちには、祖母から聞き込んだ言いつけを、短く区切って噛んで含めるように告げた。

「怖い、と口に出すと、その形のものが寄ってくるよ。唾を吐くでない、威張り口もご法度。山が耳を澄ましておられる夜だもの。肩のうしろが冷えたら、一度だけ、言葉なしでお辞儀なさい。」

素直に頷いた娘の背を軽く叩き、逃げ腰になりかけた荷車引きの男の肘を、彼女はさりげなく列のほうへ押し戻す。ばらばらに震えていた呼吸が、次第に同じ拍子を取り戻し、怯えに浮いた目つきの奥へ、別種の色が沈みはじめた。銀箱の数では量れぬもの――自分らの命と汗に、もとより約定された値があったのだと知った者の、静かな怒りの色である。

斜面の上から、多田男の張り上げる声が、霧を割って降ってきた。「閉鎖中の者どもは、賃を削る。逆らう者は追い出す。腹が減れば、山の祟りどころでは――」

その脅しの文句は、谷に落ちる前に、悟利加の動きで組み替えられた人垣に吸いこまれた。誰ひとり、声の方へ顔を向けない。煤けた背中が一斉に、坑口と星人の巻物と、その奥にうごめく霊の影へと向けられる。腰を折る角度は、逃げのそれではなく、山と約定とを正面から見据えるための、頑なに礼を失わぬ構えだった。

「聞こえなんだふりをするでない。ただ、誰の言葉を選ぶかを、山に見せるんだよ。」

悟利加の低い一言が、杯のぬくもりとともに隣から隣へと伝わり、多田男の号令は、張りぼての幟のように、夜気のなかで所在を失って揺れた。

坑口を囲む輪は、じりじりと締まりながらも、一歩だけ、粗末な板机のまわりに空白を残した。その空隙が、この夜ただ一つの「座敷」だと、誰もが本能で悟っていた。行人町の方から響いていた太鼓は、いつしか拍を外し、問いかけるような間を置きはじめる。祭りか、弔いか、まだ決まらぬままの鼓動である。

悟利加は、足の裏に土の冷たさを感じていた。炭塵を吸いこんだ地面の下で、まだ鎮まりきらぬ何かが、浅く息をしている。人の視線と霊の気配とが、同じ一点――鉱車板を二枚並べて急ごしらえした「評定の卓」――へと、重たく沈んでくるのがわかった。

多田男が現れたとき、付き従う兵は、驚くほど少なかった。鎧の音も、幟のはためきもない。肩で風を切る代わりに、彼は香の匂いをまとって歩く。その背を、清定が遠巻きに見据えていた。兵のほとんどは、清定の命で、鉱夫たちの列のあいだに散らされている。「騒擾に備える」との名目で。だが誰の目にも、今や槍先が守るべきは、殿主の権威ではなく、この場の均衡であることは明らかだった。

斜面に掛けられた提灯の明かりが、岩肌に長い影を二重三重に描き出す。ひとりひとりの背に寄り添う黒さの横に、もうひとつ、ひと回りもふた回りも長い、歪んだ影が、霊霧の溜まる社標のまわりで濃くなってゆく。坑口から吹き上がる風がないにもかかわらず、紙垂だけが微かに震え、影の際が、そのたびゆらりと揺れた。

悟利加は、卓の端に控えながら、目線をそっと走らせる。炭ぼこりに濁った眼差し、荒縄で縛られた手首、祈り串を握りしめる社僧の指先。そのすべてが、山からの「見届け」の下にある。選ぶ言葉一つで、この夜がただの乱妨沙汰にも、代々を縛り直す契りにもなる――その重さを、彼女は月峯屋の帳場を切り盛りしてきたときと同じ冷静さで、静かに計りはじめた。

星人――いや、今この場では、正嫡の殿中の一員としての星人は、座に就かなかった。祠列と坑口の注連縄とのあいだ、土のうえにただ一本の柱のように立ち、若党に運ばせた権判の巻を幾筋も卓の上に繰り広げる。端ごとに載せられた生の鉱塊が、その紙を押さえつけるたび、ざらりと冷たい音を立てた。

「一つ。」と、彼はゆっくりと言葉を切る。「開山の折、山の座と人の座とのあいだに、刻まれし約を、ここに再び呼び起こす。」

口上は、落ち着き払った古調の言い回しであった。だがそこに織りこまれるのは、ただの昔語りではない。春の芽吹き前に走った霜のこと、夏の盛りに炉端で咲いた白い氷華のこと、放置された社標が、ここ数夜、勝手に青く燃え上がったこと――その一つ一つを、彼は条文と条文のあいだに挟み込んでゆく。

「この凶兆、皆、旧き約を破りし徴なり。」

一条ごとに、空気の重さが指一分ずつ増すのが、誰にでもわかった。背後の社火は、いつのまにか黄を捨て、青白い刃のような炎となって、紙垂の影を鋭く刻む。星人が、とうとう口を落とした名に、前列の男たちがどっと息を呑んだ。

「山腹裏手、帳簿に記されざる“乙三ノ深手”。」

顔を伏せていた者でさえ、その呼び名だけは知っている。いつからか「言うべからず」とされ、日当にも名の上がらぬまま、班ごと呑み込まれた坑――戻らぬ仲間を何人も持つ者の喉から、抑えきれぬうなり声が漏れた。

「証は、ここに。」

星人は、別の巻の一部を静かに繰り返し見せる。多田男の花押と、社印とが、黒々と並んだ紙片。表向き閉鎖とされながら、裏で掘り継がれてきた深手の記録であった。多田男の顔は、遠目にはいささかの崩れも見せない。ただ、袖の中に隠した指先が、袂の絹をきしりと鳴らすほど強く握りしめられていることを、近くに控える者だけが見た。

清定が、一歩、卓と坑口とのあいだへ進み出た。祭礼用の朱漆はところどころ煤に曇り、神官垂の白も灰を吸っている。飾り立てた行列の顔ではない。山裾から見おろす長屋の縁側にまで届くよう、澄んだ声で、彼は自らの「社兵頭」としての誓詞を、一字一句、古式どおりに唱えあげた。

「社令に背きし時は、その身、その家、その名をもって贖う。」

厳めしい文言のあと、彼はわざと息を切り、坑夫たちの言葉に崩す。

「今宵ここで書き直す約に名の出た坑は、ひとつ残らず、拙僧この手で鎖を掛ける。明日から先、抜け穴を見つけた者は、まっ先にこの清定の襟首をつかめ。山に突き出される覚悟で、お役目つとめよう。」

ざわ、と音もなく人垣が揺れた。多田男の顔色をうかがう目は、もはやほとんどない。視線は、卓上の巻物と、清定の首筋の数珠と、その奥でうねる霊火だけを追っていた。

「社の法は、殿の都合より前からここにある。拙僧は、その古き方に従う。」

それは、刃を抜くよりもはっきりとした決別だった。殿主への「不敬」を、社への「順礼」と言い換えたその一言で、鉱夫らは、ただの騒ぎではない「道理」のかたちを与えられたのである。

肩をすぼめていた背が、次々と伸びた。鍬も槌も、握り直される。だがそれは振るうためではなく、証人として掲げるための手つきであった。鉄の光が、社火と月とを受けて、うすく輪のように連なり、山の息が、そのあいだを通り抜けていった。

交渉そのものは、豪壮とはほど遠い。ただ、じわじわと肉に食い入る小刀のように止むことがない。悟利加は、行人宿の衆も台所の娘らも目に入る位置に座し、「季ごとの休山は何日か」「社が掟どおり掘り止めを命じ得る場はいくつか」「すでに山に呑まれた者の家に、殿の蔵から幾人ぶんの米と銭が回るか」と、一つずつ数で問い詰めてゆく。星人の古言めいた条文を、「これなら何夜ぶん、布団が空かずに済みます」「月峯屋の帳面なら、この行にこう記せます」と、飯と帳場と布団の数え方に引き直して聞かせるのも、彼女の役であった。多田男が絞り出す譲歩――祭礼日に合わせた減産の割り付け、山祠が指を差した坑道の封鎖、名を出してはならぬ横坑の帳外し――は、そのたび真新しい紙に書き起こされる。星人の細筆の花押、清定の朱の社印、そして悟利加が襟元に縫い込んだ行人宿組合の印を写した小さな判が、同じ紙面に並ぶたび、坑口まわりの空気が、ひと呼吸ぶんずつ、別の時代へとずれていくのがわかった。

花押を入れる段になって、谷あいは耳鳴りがするほどに静まり返った。多田男は巻付をじろりと追い、次いで顔を上げ、人垣を一巡りする。煤に曇った頬、唇を噛みしめる女房衆、顎を固く結んだ清定、襟元を崩さぬ悟利加のまなざし――そして、社火の奥で瞬く、かたちの定かならぬ影。彼は、星人にも、人々にも頭《こうべ》を垂れぬよう気をつけながら、しかし峯のほうへだけ、わずかに首を傾けた。それは山への礼とも、敗北ともつかぬ所作であった。筆が走り、印が紙に押しつくと同時に、祠列の火は一斉に沈み、ついで刃先のように高く噴き上がる。闇の稜から細い突風が突き刺さり、幟をはためかせ、足もとから古い鉱塵をさらってゆく。坑口を囲む者らは、笑い声とも嗚咽ともつかぬ声をあげて膝をつき、ある者は黙って土を掴んだ。その指先にあるのは、もはや一人の腹を満たすための山ではなく、古い掟へと引き戻された「分け持つべき地」であった。


What the Mountain Leaves Standing

最初の数日は、「誰が何を握るのか」を組み替えることだけで過ぎていった。

古い行灯に油を継ぎ足し、煤のまだらに残る旧紋を布で拭い落としてから、急ごしらえで掛け替えられた新たな幟の下、旧ギルド会所の大広間に人々が詰めかける。床几の列の中央、低い卓の上には坑道図の巻物が幾重にも広げられ、その隅には香炉と、祈祷師たちが持ち込んだ霊文の刻まれた小石が円を描いている。

「第三十二下層、ここだ。」鉱夫頭が指を突き、節くれ立った手に墨が滲む。「この先は、死人の数が多すぎる。封じねばならん。」

「だが、銀脈はまだ, , 」役所書記が口を挟もうとしたところで、細い咳払いがそれを断ち切る。細身の礼服をまとった星人は、あくまで穏やかな調子で言葉を継いだ。

「古き契状に曰く、『霜脈の下は、人の手を入るべからず』。ここを越えた採掘が、すでに盟約破りであることは、諸君も図を見れば明らかであろう。」

その一角で、悟里香は他の宿の女将たちと並び、証人として黙って座していた。膝の上で指を軽く組み、誰の顔も正面からは射すまいとしながら、声の揺れと沈黙の重さだけを聞き分ける。彼女の足元には、月嶺屋から持参した小さな護符箱が置かれ、その蓋には煤けた家紋がかすかに光っている。

「封鎖すべき坑は封鎖する。」縁側近くに陣取った清貞が、きつく結んだ口を開いた。鎧の袖から覗く数珠が、震える指先でかすかに鳴る。「だが町の腹を空かせるわけにもいかん。上層の幾つかは、完全に閉じずとも () 」

「『祭期ごとに息を止めよ』と、山霊との古文には。」星人が静かに遮る。「季節の休み無く掘り続けたのは、我らの過ちだ。」

沈黙。やがて、鉱夫の列から、煤にまみれた男が一人、膝で前へと滲り出た。

「じゃあ、こうしちゃどうだ。」田畑言葉混じりの荒い声が、帳場の梁に反響する。「深層は、春と秋の節目以外は完全に封をする。その代わり、その節目には、祠衆と俺らで一緒に降りる。儀礼のやり方は、あんたらが指図してくれりゃいい。」

祠の長老が眉をひそめる。「汝らの靴音は、霊脈を乱すと、昔より, , 」

「乱されて困るのは、もう、人だけじゃねえって話だろう。」と、別の鉱夫が低く笑った。「なら、一緒に聞きに行こうや。山の機嫌ってやつをよ。」

清貞は唇を噛み、やがて深く一礼した。「……その案、我が隊も従おう。新たな掟に、役目を縛られるのなら、いっそはっきりとした方が良い。」

悟里香は、その一礼の角度と間の取り方に、男の苦い覚悟を読み取る。借金の鎖は、たやすく切れはしまい。だが、少なくともこの場では、彼は山に背を向けてはいない。

会所の外では、煤煙混じりの風が幟を鳴らす。走り使いの少年たちが、墨のまだ乾かぬ触書を胸に抱えて駆け出してゆく。足袋が石畳を打つたび、細かな石炭塵がぱっと舞い上がり、かつて忠雄の影とささやかれた黒い粉は、今や新しい文言の後を追って、峠番所へ、川辺の祠へと散っていく。

「月嶺屋には、どういう役目が回ってくると思う?」同じ列の老女将が、悟里香の耳元でささやいた。

「さあ。」悟里香は小さく笑む。「今のところは、ただ、皆が顔を合わせられる場所を、きちんと整えておくだけですよ。」

その言葉の裏で、彼女は既に頭の中で帳場の配置を組み替え始めていた。次の会合のために一番奥の間を空け、見張り役を誰に立て、どの柱に新しい護符を結ぶか。山の気配と、人の息遣いとを、同じ屋根の下でどうやって釣り合わせるか, , 新しい掟は、会所の中だけでは終わらない。

外の空はまだ煤に霞んでいる。それでも、行き交う走り使いの影が伸び縮みするたび、谷川の町の輪郭が、わずかに別の形を取り始めているように、悟里香には思えた。

新たな触書のもとで、深層はもはや掘り場ではなく、山入りの儀の場と定められた。

松明の列が、しめ縄の下をくぐって山腹へと蛇のように伸びてゆく。先頭には鈴と塩を捧げ持つ祠衆、その後ろを、横木一本一本のきしみで方角を言い当てられる古参坑夫たちが、煤けた手で岩肌をなでながら続く。足音は、かつての荒っぽい号令ではなく、節拍をそろえた詠唱に合わせて進む。

崩落した坑道口ごとに行列は止まり、帳場で写し取られた名簿が広げられる。読み上げられる名は、倒れた仲間のものだけではない。旧い記録から掘り起こされた、前の一揆で穴の奥に封じられた者たち、名も残らぬ「無縁」の死者までが、紙札に筆太く記され、一つ一つ、冷気の漏れる亀裂へと押し込まれていく。

「……今度は、こっちから先に声をかける番だ。」と、夏代の痩身が、誰にともなく呟く。耳を澄ませば、岩の向こうから、とん…とん…と、かすかな応えが返ってくると言う者もいる。以前のような爪でひっかくような乱暴な音ではなく、脈を測るような、ゆっくりとした間合いの打音――山そのものが、外へ逃れようとする手を拒むのでなく、こちらの言葉を確かめるように耳を寄せているのだ、と囁く声もあった。

星人は、その報告を書き留めながら、霊脈図の余白に小さく朱点を打つ。深みへと続く道は封じられたままだが、その封は、ただの木戸や石塊ではなく、名を呼び交わす往還として、少しずつ別のかたちを帯び始めていた。

地上では、旧き政のしるしが、一つずつ、ため息まじりの手つきでほどかれていく。

夜明け前、番所の木戸は鬨の声もなく外され、釘抜きの音だけが霧に吸われる。燃やして憂さを晴らすこともできように、それをせず、板は反故にならぬよう寸法を揃えて積み上げられ、やがて川にかかる小橋の補強材となり、祠の垣となる算段だ。

「柱の面、全部洗い直せ。」清貞の声が、かつての罵声より低く落ち着いて響く。命じられた兵たちは、鎧の札をきしませながら墨桶を運び、これまで目をそらして駆け過ぎた結界柱の前に並んで膝をつく。

煤にまみれた鉱夫と肩を並べ、ぎこちない礼をしてから、筆を取る手が震える。祠の書記が、古い巻物を片手に、うねるような曲線の一画一画を示すたび、粗い指と節くれ立った指とが同じ木肌の上をなぞっていく。

「そこは、もう少し息を長く。」老書記が囁くと、若い兵は思わず呼吸を合わせ、線がわずかに柔らかくなる。言葉少なな作業場に、墨の匂いと数珠の微かな鳴りだけが満ちる。

慣れぬ礼筆はぶきっちょで、何度も書き損じては上から書き直される。それでも、ただ命じられるがままに通り過ぎた年月の上に、「見て、触れて、名を知る」という別種の習いが、薄紙のように一枚また一枚、静かに重ねられていった。

星人はもはや「旅の詞客」ではなく、一人の公然たる当事者として谷川を歩く。昼は社の縁に膝を折り、老巫や若い鉱夫から、崩れた坑で見た光や、胸に残った不吉な夢の話を一つひとつ聞きとる。夕刻には月嶺屋の暖簾をくぐり、帳場近くの席で酒盃を手にしながら、口数少なく各宿の組頭や坑夫頭の愚痴と打算を受け止める。脇の小座敷では、悟里香が障子を引き、湯気とざわめきが遠のくのを確かめてから、彼の前に新しい紙束と磨き直した硯をそっと置く。星人は筆を執り、震えで墨筋の乱れた古き契約文を横に並べて、新たな規定を書き出してゆく。ある条には「霜降りの夜、山気乱るる時は、坑を悉く閉ざすべし」と古文調の文句が連なり、別の条には、鉱夫の家々の米蔵が干上がらぬよう、上層の稼ぎの日数が算木のように冷静に刻まれている。とん…とん…と遠くで山が小さくうなれば、そのたびに筆先は宙で止まり、「ここまでならば」と山と人との折り合いを探るように、行間がわずかに広くなる。飢えと畏れ、そのどちらにも偏りすぎぬよう、紙の上の黒い線は、谷川のこれから数年の呼吸そのものを形づくる綱となっていった。

週があらたまりゆくごとに、人々は山の機嫌を量って、この賭けの成否を占うようになった。夜ごと、行人町の行灯の下を霧が低く這い、ふと人影めいたかたちを結んでは、何事もなかったように薄れ去る。封じられた坑口からは、ぶお、と冷気が吐き出され、吊るし札や錫の鈴を震わせるが、もはや見えぬ嵐の悲鳴はない。口に据えられた盃や握り飯は、翌朝には静かに消えていて、ひっくり返った器も、叩き割られた賽の石も見当たらぬ。その変化を、社方は「聞き耳を立てているだけだ」と言い、坑夫は「まだ怒鳴られていない」と苦笑する。谷川の往来は少しずつ動き出す。追い立てられる足音ではなく、用心深く拍子をとるような歩みで、一日ごとに「ここまで働いてよいか」と山へ問いかける。その問いには、まだはっきりとした災いの返事が落ちてはこない。

鉱と社との帳面が、ようやく同じ卓の上で開かれるようになったのは、その頃からである。

行人町の行灯が油の底を見せはじめる頃、行人宿の書記と社家の書生が、肩を並べて墨壺を挟み、「何番坑、誰それ組、何日まで」と小声で確かめ合う。片方の紙には銭勘定がびっしり並び、もう片方には、朽ちかけた社蔵の巻物を写した古風な文言――「朔望の日は地を穿つべからず」「霜夜に深く入ることなかれ」――が、ところどころ黒々と書き足されている。

机の脇には、まだ若いのに煤に焼けた坑夫頭と、片足を曳く古い木場師が、腕を組んで座っている。

「ここを、ひと刻分、短くできぬか。」

木場師が節くれだった指で番付の一行を叩くと、書記が算盤を鳴らし、社の書生が古文の行間を指でなぞる。

「この筋は、山気が荒いと記されておりまする。危険手当を一割、上乗せ…いや、二割か。」

「二割だ。」若い坑夫頭が言い切ると、行灯の火が小さく揺れ、誰も異を唱えなかった。

翌朝、行人町の辻々に貼り出された触れ紙には、これまで見慣れぬ文句が並ぶ。

「〇番坑・△筋、交代四つ刻までとす」「旧木場頭、坑口支柱見分役に任ず」「傷病者、道具番・湯番として召し抱え…」

炭塵に咳き込みながら紙を見上げた男が、

「俺たちみたいな半端者でも、名のある役が回ってくるってわけか。」

と、まだ信じきれぬ顔で笑う。腰を痛めて引退した古参が、新調の前掛けを締め直し、坑口の横木や楔を、若い衆に「ここを噛ませろ」「節目を避けろ」と叩いて回る。片腕を失った者が、道具蔵で鎌や鎚の刃を撫でながら並べ、湯屋の炉の火を見守る役となる。

休坑日の朝、谷底に響くはずの鉦の音は鳴らない。その代わり、社の青銅の鈴が、ゆるやかな風にちりん、と鳴る。いつもなら坑へ追い立てられていた子らが、その鈴の下を追いかけっこして走り抜け、母らは戸口からそれを眺めている。ふと、あまりの静けさに顔を見合わせ、

「変なもんだな。山が寝てると、人の耳の方がそわそわする。」

と苦笑がもれる。

火床に供えられた線香の煙は、かつてのようにせき立てられることなく、梁の暗がりへとゆっくり昇ってゆく。名を呼ばれぬまま埋もれた者たちのために焚かれる香でありながら、そのたゆたう白さは、谷川の暮らしがようやく息継ぎを覚えはじめたことを、薄く告げていた。

祭礼は、もはや怯えた囁きの陰でなく、日の下へ姿を戻しはじめる。

かつて忠雄が、二度目の坑番の太鼓代わりに押し通した仲秋の祭りは、いまや河原一面に、ゆるやかに長い一日をひろげている。黒い水面には紅い灯籠の列が揺れ、その向こう、谷底の坑口はすべて、新しく撚り直された注連縄に固く閉ざされている。坑札には「休」と朱が打たれ、どの宿の張り紙にも、山気休めの日が真っ赤な印で戻ってきた。帳場の裏にひそかに書きつけられていた符丁は、もはや要らぬ。

悟里香の店では、若い手代たちが、祭と休坑日にあわせて膳の出し入れと湯番の刻を繰り直すことを覚えてゆく。夕餉の膳は、追い立てるように運ばれるのではなく、祭囃子の間をぬうように静かに配られる。月嶺屋は満室に近い賑わいでありながら、追い詰められた喧騒はない。坑へ降りる刻に脅かされぬ男たちは、盃の縁を指でなぞりながら、ひと息ごとに山風の匂いを確かめるように、いつもより長く座にとどまる。

「今宵は、下へ行かんのだな。」

煤けた顔の誰かがぽつりと言えば、向かいの者が笑って、

「行ったら叱られるさ。山とお上と、両方にな。」

と応える。笑い声の底には、まだ抜けきらぬ緊張が細く残るが、それでも盃の酒は、以前よりゆっくりと減ってゆく。小座敷では、女房たちが子らに団子を分け与え、障子の向こうからは、遠い鉦と太鼓の音が、まるで山の寝息をうかがうように、低く谷を渡ってくる。

それでも、山は山なりの帳面を、はっきりと晒していた。

町並みを見下ろす斜面には、新しい板碑が棚田のように積み重なり、刃の新しい檜の色も、日と煤とで日に日に褪せてゆく。香は絶えず焚かれ、その白い筋は、ここ数月の、狂ったような掘り立てに呑まれた者たちの名をなぞる。男も女も、若い者も老いた者も――その死が重なって、初めて星人の古文書と山霊の怒りは、忠雄の手を折るだけの重みとなった。

清貞は、いくつかの葬りに、鎧直垂のまま姿を見せる。あまりに晴れがましい軍装の下で顎を固く結び、線香の火に照らされながら、かつて自らの印判ひとつで坑へ送り込んだ者たちの、妻や母や幼子が、祭主たる兵僧に深々と頭を下げるのを受けねばならぬ。彼がこのところ続けている贖い――公の場での読経と謝罪の辞、封じられた坑筋、削られた利息や帳消しの借金――それらはたしかに幾人かの暮らしを支え直しはしたが、谷の端で板を削る棺桶師の手仕事を、止めるには足りなかった。

山の帳場には、まだ空きは多すぎるのである。

町のかたちは、抜け落ちた者らの穴ぐちに合わせて、じわりと歪みはじめる。

家の柱であった者を失った家筋では、「地上勤め」の振り替えや、細々とした扶持金だけでは、どう算盤を弾き直しても暮らしが持たぬ。夜明け前、道具蔵から古い鑿や鉈がひっそりと持ち出され、嫁入りの折に誂えた小袖や、先祖伝来の御札・御神酒徳利までもが、顔見知りの古道具屋へと流れてゆく。やがて、荷を小さくまとめた家族が、川舟の出立の刻を見計らって、誰に見送られるでもなく、川下へと背を向ける。

月嶺屋では、そうした筋の者たちが、出立の前夜に帳場へ座し、ふだんより几帳面すぎる礼儀で勘定を納めてゆくのを、悟里香が見送る。言葉少なに膳代と宿銭を払う指先は、名残を惜しむのでも、縋るのでもなく、ただ「ここで借りは残さぬ」と自らに言い聞かせるように固い。翌朝、その一間はがらんと空き、廊下には、しばらくのあいだ、子らの駆ける足音が幽に残り続ける。掃き手の小女たちが、「さっきまで、誰かがここで笑っていたような」と顔を見合わせ、悟里香は、箒の先でその気配をそっと追い出すふりをしながら、胸の奥に重い石をひとつ増やす。

かつて「捨て場」と呼ばれた貧民長屋では、様子が逆さまに変わる。板戸に釘を打ちつけて主を失った小屋がぽつぽつと現れる一方で、別の棟には、片腕や片脚をなくした者たちが、新しく据えられた長椅子や道具棚の間に身を落ち着けている。道具番・湯番・支柱見分役――名ばかりでない役目と、雨風をしのげる寝床を与えられたことへの安堵はたしかにある。だが、湯屋の焚き口で薪を割るたび、坑木を叩くたびに、「もう少し早く、これがあれば」という思いが、切断面のうずきと一緒にじわりと差し上がってくる。

「ありがてえこったには、違いねえがな。」

夜番の合間に、片足を棒で支えた男がぽつりとつぶやけば、隣で縄を綯っている若い女が、

「その足を持ってったのも、同じ山と同じお上だものね。」

と、火床を見つめたまま応える。笑いにも涙にもなりきらぬ言葉は、低く長屋の梁にひっかかり、外から流れ込む谷風と一緒に揺れる。

谷川の町は、そうして、出てゆく背中と、新たに座り直す躯とを両方抱え込みながら、形を変えてゆくのである。

帳場と墓原のあいだで、人は、墨では消えぬ勘定と取っ組み合いを続けている。

夏代は、己れで図を引いた穴蔵の縁を、いまさら恐る恐る踏みなぞる男のように町を歩く。忠雄を縛った証文の噂は、坑夫たちの間で「助けた」と「売った」を半分ずつに割って伝わる。短く会釈する者もいれば、口をきかぬまま視線だけを落とす者もいる。かつて彼が「近道」と称して案内した坑筋が、幾度も死路へと変わったことを、谷は忘れていないのだ。

灯の届かぬ路地の端や、小さな祠の玉砂利の向こうでは、遥香の影が、もう血に濡れた怒りではなく、冷えた水気のような気配となって、彼の横顔を測る。言葉を発さぬその沈黙は、「まだ済んではいない」という秤の皿であり、夏代は、肩越しに一度も振り返らぬまま、その重さだけを確かに感じて歩く。

その頃、東の斜面の隠し書院では、新しい掟と協約が、墨の匂いを重ねながら積み上がってゆく。星人の筆は淀みなく走るが、一枚書き上げて印を押すたび、その紙の下に、封じられた坑道と、石に挟まれたまま名を呼ばれぬ骨が横たわっていることを、指先が覚えている。彼は巻物を束ねながら、「勝ち得た先」が、清らかな白紙ではなく、決して線を引き消せぬ名簿の上に、かろうじて敷かれた一枚にすぎぬことを知っているのであった。

封鎖の最初の日々は、その後のすべての調子を決めた。

薄い朝靄の下、社の幟と行司旗とに見張られながら、坑夫たちは鎚を置き、手桶の水で黒煤をこすり落とし、もっとも深い坑口の前に張られた注連縄の列へと、無言で並んでゆく。縄の内側では、社人たちが低く節を引いた経を抑えた声で唱え、その脇で、星人が、掘り起こされた古き人霊契の文言を、一条ごと、はっきりと読み上げる。

「此より下は、夏土の息を侵すべからず――」

掠れ気味の古書体を、彼は一字ごと噛み砕いて現の言葉に移し替えた。誰も、板と紙切れだけで欲の流れをせき止められるとは思っていない。ゆえに封は、目に見えるかたちで、身体を通して行われる。

坑口に打ち渡された板戸の前には、谷の上下の家々から運ばれた川石が積まれる。指の跡も新しい丸石には、煤で名字が記され、白紙の名札が、その横に細かく打ちつけられてゆく。そこには、既に坑に呑まれた者たちの名もあり、まだ地上に残る者らの名もある。子らが震える手で父の名をなぞり、老婆が、読みの覚えのない古い字を、社人に訊きながら写す。

「おらの爺さまも、ここの約定に名を連ねていたんだとよ。」と、ひとりの坑夫が、煤に汚れた口元を引きしめて呟く。

「だったら尚のこと、破れねえな。」と、隣の若い者が応じ、互いの掌を、板に押し当てる。掌の跡は、乾くと白く浮かび上がり、あたかも山肌に新たな印判を押したかのようであった。

封じられた坑は、ただ「使わぬ穴」ではなく、小さな路傍の社として扱われることになる。谷の組ごとに日を割り振った番帳が作られ、「坑守」の役が定められた。今日の番は誰それの組、明日はどこの長屋――炊き場の女も、片腕を失った元掘りも、順繰りにそこへ詣でる。

朝夕には、塩と白米が少しずつ供えられ、湯番が汲んだ清水が、古びた盃に満たされる。誰かが、山から拾ってきた小さな青松を挿し、誰かが、坑木の切れ端を削って「止」と刻んで立てる。線香の煙にまじって、炭と湿った木の匂いが、静かに立ちのぼった。

社人だけでなく、行司役のギルド書記も、その場に立ち会う。彼らは、封鎖の証文を読み上げると同時に、今後この坑に手を付けようとするなら、どの社に、どの組合に、どの顔触れの承諾が要るのかを、皆の前で指折り示す。

「今日ここで名を記した者は、山の上にも、帳場の上にも、二度と誤魔化せぬぞ。」

その言葉に、列の後ろで腕を組んでいた清貞の側仕えの若い同心が、無意識に背筋を伸ばす。かつては見回りの者らだけがちらりと覗き込んでいた禁坑が、今や町の目と手の届く「境の場」として、晒し出されたのであった。

誰よりも、その変わり目をまざまざと感じていたのは、月嶺屋の帳場に座る悟里香である。封鎖の日取りが決まるたび、坑夫の女房たちが、粗末な祝儀袋に小銭を包み、「うちの石も、忘れず置いてきておくれ」と、泊まり込みの夫に託してゆく。子らは、月嶺屋の中庭で拾った白い小石に顔を描き、「山の神さま、見てて」と笑う。

その笑い声の裏で、山は静かに、押し寄せてくる欲と恐れの勘定を見ている。封じられた坑口は、谷に刻まれた新しい「境目」となり、そこから町の内側へと、別の歩き方と働き方が、じわりと染み込んでいったのであった。

境目から沁み出すようにして、新しい日廻りが、町のうちがわへ延びていく。

週に一度の坑内見回りは、最初こそ「社人の顔も立て、組の面子も潰さぬ」ための折衝ごとであった。だが、汚れた上着の坑頭、墨に袖口を染めた社人、帳簿を抱えた組頭書記が、一本の灯を分け合い、低い坑道を肩をすぼめて進むうち、それは次第に、ひとつの「点検の式」と化してゆく。

腐れた坑木や淀んだ悪風の溜まり場だけでなく、冷えた渦や、古い札がひそひそと鳴る鉱脈の継ぎ目でも、彼らは立ち止まる。紙の上では見えぬ「山の機嫌」の揺れを確かめ、地図の余白に、朱と藍、煤の薄墨とで、それぞれ別の印を重ねてゆくのである。

「ここの筋なら、あと一尺は追える。」と、目利きの坑夫が顎をしゃくれば、

「霜月までは、触れぬと約したはずだ。」と、社人が古い約定の条を指でなぞる。そのあいだを取り持つようにして、組頭書記が、

「掘るならば、どの祭礼を繰り延べ、どの社の印を新たにもらうか――帳面にも、はっきり残さねばなりませぬ。」

と、冷えた坑壁に背を預けながら淡々と言い添える。

ときおり、清貞配下の若い与力衆が、鎧の音を殺して同行する。彼らは多くを語らぬが、腰の符札と顔役から預かった印箱が、「ここの線を越えて勝手に掘れば、ただでは済まぬ」と静かに告げていた。

そうして、「旦那衆の内証の帳場」で決まっていた坑筋の行き先は、徐々に、「誰の目にも辿れる印判の道筋」を要するものへと変わってゆく。新たに穿たれる一本ごとの坑道に、人の名と社の名、祭礼の日付と供物の分まで、細かく書き手が付き添うのが、いつしか当たり前となったのであった。

東の斜面の、役所帳簿の名目では「危険建物」とされた旧秤場蔵は、いつしか、この変わり目の静かな心臓となっていった。表向きには、雨に撓んだ棟木と、歪んだ梁が「いつ崩れてもおかしくない」と書き立てられている。だが、山の端の大工組の中から、星人と手を結んだ者たちが選ばれ、夜更けのあいだに内側から桁を継ぎ、楔を打ち、新しい貫を隠し入れる。外から眺めれば、板壁は相変わらず灰色にくすみ、雨垂れの筋が黒く走るばかりであるのに、足を踏み入れれば、見えぬ骨組みだけが、ひそやかに息を吹き返しているのであった。

奥の隠し書院も、かつての「謀りごとの隠れ場」から、「物事を運ぶための帳場」へと、ゆっくりと衣を替える。机の上には、坑ごとの日当と休坑日を細かく書き分けた分厚い賃銀帳、書き直しの跡で墨のにじんだ労役規定の控え、祭礼日の印と掘削予定とを線で結んだ図が重ねられてゆく。かつては巻物筒の底に忍ばせていた山霊契約の古文も、今や禁制品ではなく、「参照すべき約束事」として、算盤枠と硯のあいだに堂々と広げられる。

「ここの祭を一つ繰り延べれば、何人分の口米が途切れるか。」と、鉱山方出身の書記が珠を弾けば、

「だが、この条をまた曖昧にすれば、夏土さまの機嫌は、前と同じ筋へ戻ってしまう。」と、社人が古文書の端を指で叩く。そのあいだで、星人は、凍えた墨を温めるように筆先を転がしながら、

「飢えさせず、怒らせず――どこまで引き下がり、どこから踏みとどまるか。ここより先は、数字だけでは測れぬところです。」

と、静かに言葉を置く。

集う顔ぶれも、もはや学者と密偵ばかりではない。坑頭や炊き場役、若い社人に、月嶺屋から呼ばれた下働きの娘まで、日ごと番を替えて机端に座り、それぞれの現場の息遣いを、紙の上の線に重ねてゆく。かつて「見つからぬため」に掛けられた結界は、今度は、人の気の昂ぶりを和らげ、眠気を追い払い、無用の口論を霧のように薄めるよう、文言を書き換えられた。

壁の棚に積まれた巻物と新しい帳簿とが、山から吹き下ろす冷たい風にぱらりと鳴るたび、この小さな書院は、谷全体の勘定と祈りとを、ひとところに束ね直しているのだと、そこにいる者たちは、息をひそめて感じるのであった。

きっかけは、坑内見回りに付いて回る若い書記のぼそりとした提案であった。「これだけ印を増やすなら、読む口も増やさねば」と呟いたのを、側にいた下っ端の社人が面白がって拾い、月嶺屋の帳場で悟里香が、湯番の合間に「子ども相手なら、うちの座敷がよろしかろう」と、さりげなく背を押したのである。

そうして始まった夕刻の寄り合いは、最初こそ「読み書きのできる者の、気まぐれな手習い」にすぎなかった。飯をかき込んだ子らが、まだ湯気の立つ頬のまま、座敷隅の低い卓を囲む。鉱夫長屋の薄汚れた綿入れと、行司町の小ざっぱりした半纏と、貴族坂の端に住む下女のまだらな袂とが、畳の上で不器用に肩を並べる。

行灯の明かりに浮かぶのは、川砂を広げた木枠の上を、小さな指が「一、二」となぞる影であり、墨のまだらな筆先で、「悪風」「薄岩」の二文字を、何度も何度も書き損じては笑う顔である。子らは、山の中で聞きかじった「危ねえ場所」の話を、競うように口にしながら、札に描かれた記号と、自分たちの言葉とを、ゆっくり結びつけてゆく。

やがて、戸口から覗き込んでいた年寄り坑夫や若い手伝い掘りが、「そんな印より、鼻で嗅いだ方が早え」と鼻白んだような口を利きつつ、いつの間にか卓の端に腰を下ろす。筆の持ち方もおぼつかぬ大きな手で、彼らは、「ここで口笛を吹くと、どうしても音が出ねえ」「この節理の筋を越えると、鎚の音が鈍る」と、自らの勘を言葉と印へと置き換え始めるのであった。

幾月かが過ぎるうち、ばらばらだった手立ては、山と共に暮らすための「文法」のようなものへと編み直されていった。坑夫たちは、賃銀包みだけでなく、番割り表や見回りの控えを家へ持ち帰る。子らは、噂に頼らずとも、その紙切れを眉を寄せて読み解くことができる。坑壁に細かなひびが走ったとき、見慣れぬ冷えが坑道の一角に沈んだとき、社人が白墨で記した小さな符が、まだ鎚も振り切れぬ年季の浅い手にも、一目で「ここから先は、山の気分が変わる」と告げる印として見分けられるようになる。ぼやきは闇の中で零れ落ちる代わりに、拙い字でも板札や紙片に書き付けられ、坑口から、内側を固められた「公儀の危険家屋」へ運ばれ、そこから、やがて月嶺屋の広間へと流れ込む評定の席へと差し出される。仕事の終わりと冒涜の始まりの境い目は、少しずつ、貴人と社人だけのものではなくなり、いつか悟里香が「当たり前の口上事」としてさばくことになる駆け引きの、見えない種となって、町じゅうに静かに蒔かれていった。

表向きには、悟里香の働きぶりは、さほど変わらぬようにも見える。相変わらず、東の空が白むより先に起き出し、米櫃の底を竹杓で鳴らし、薪小屋の束ね方を確かめ、味噌桶の縁にひびが入っていないかを撫でて回る。だが、今ではその脇に、町評定の控えが、魚問屋の納品札や酒屋の送り状と同じように、当たり前の顔で並ぶようになった。どの夜に、どの坑の代人と、どの社の使いと、どの役所書記が同じ卓につくのか。次に火の粉の上がりそうな揉め事は何筋か。彼女は、湯気の立つ茶をすすりながら、その名と順番を頭の中で何度も並べ替えておく。

朝の帳場で、奉公人たちに言い含めることも変わった。単に「お客人には頭を下げろ」「声を荒らげるな」といった躾だけでは足りぬ。

「あの坑頭衆の組合世話人と、社務所の若いのとは、今夜は座敷の両端だよ。途中の膳は、口数の少ないのをはさみな。」

「こちらの社人さまは、まず塩を一つまみ指先でつまんでからでないと、酒をお出しするでないよ。順が逆さまだと、あの方だけでなく、背後の方々の顔色も変わる。」

「先だって、番割りの件で怒鳴っていたあの掘りの代表には、戸口をくぐる前に、『ここでは山の外の話をなさる』と、にこやかに耳打ちしておきな。」

そんな細々とした指図が、今では湯番や膳運びの仕事の一部となっている。

月嶺屋の「中立」は、かつては暗黙の了解に過ぎず、「あそこでは誰の側にもつかぬ」と噂される程度のものであった。ところが、評定の場が重ねられるにつれ、その曖昧さは、かえって危ういものになってゆく。誰の盃にも、同じだけ湯気が立たねばならぬ。誰の言葉にも、最低限の耳が傾けられねばならぬ。悟里香自身も、いつしかそれを「守らねばならぬ掟」として、心の内に書き改めていた。

「ここは、山の口でも、役所の口でもありません。」と、帳場の奥で彼女は若い者に言う。「ここをまたぐときは、腰に差した恨みも、肩に担いだ威光も、一ついったん戸口に預けておくのです。」

その言葉は、奉公人に向けた教えであると同時に、自らへの戒めでもあった。外から押し寄せる勢いに呑まれぬように。どの卓に、どれほど炭火を置き、どこで湯を差し、水を打つか。その見えぬ配分こそが、今や月嶺屋の看板そのものであり、町じゅうが、彼女にそれを守らせようとしているのであった。

評定の夜ともなれば、月嶺屋の座敷には、いつしか祭礼に似た層のある秩序が満ちる。山裾の長屋から煤を纏った坑頭が現れ、社町からは白衣の若い社人が、紙束を抱えた組合書記が、まだ乾ききらぬ墨の匂いを引きずって上ってくる。まれに、貴族坂の家中が一人、袖口だけは改まった小姓風情で顔を出し、畳の目を見下ろすような眼付きで辺りを測る。

悟里香は、その一人一人を、まるで火除け石でも据え直すように、卓へと導いてゆく。口の荒い坑頭の左右には、口数は少なくとも肝の据わった年寄り掘りと、理屈で話す書記を置く。社務所と役所筋が真正面から睨み合わぬよう、間に「ただの帳付け役」を挟み、誰の膳も、誰の盃も、見た目に遜色のないよう配分する。

盃には、空にも溢れにもさせぬほどの酒を、絶えず注ぎ足し、言葉の刃先が鋭くなり始めれば、朗らかな笑い声とともに湯呑み茶を差し入れる。「組合規定では () 」「社中の申し合わせでは, , 」と、軽口めかして公儀の条目を口にし、腰にある柄に手が触れようものなら、「ここでは鉄の代わりに言葉を振るうていただきますよ」と、やんわり笑って手を払う。その一つ一つが、山の気配を乱さぬための、彼女なりのささやかな鎮物であった。

その評定と評定のあいだの隙間にこそ、彼女の役目の重さは沈む。ある晩、遅い膳を前にぐずぐずしていた社人が、「あの第四鉱の掘り下げは、節気から外れておりましょう」と、椀の縁を指で撫でながらぽつりともらす。悟里香は相槌も控えめに聞き置き、翌日の控えに「山気、例年と違う由にて精査を望む」とだけ淡く書き足し、組合書記の持ち帰る束に紛れ込ませる。

昼下がりの中庭では、洗い張りをたたむ坑夫の女房が、「新しい番回りじゃ、子らが三日、肉の匂いも知らんのです」と、ため息まじりにこぼす。その言葉も、未収の勘定と同じ具合に帳場の片隅へそっと仕舞われ、夜ふけ、星の欠け具合を見計らいながら立ち寄った星人の使いに、「腹を空かせた手は、鎚より先に石を投げますよ」と実務の話として差し出される。

彼女の口上はいずれも、「かくあれ」と命じる形にはならぬ。ただ、「こう見えております」と、事実の端を示すだけだ。それでも、そうした小さな見聞きが幾筋も重なれば、いつしか町が「ここまでは呑むが、ここから先は呑まぬ」と線を引く、その輪郭を、静かに描き替えてゆくのであった。

祭礼は、もはや客足で懐を潤す日というより、新しい取り決めが果たして骨まで通っているかを試される日となった。中秋の名月を控えたある夕刻、悟里香は土間奥の細い通い廊下で、社務所の小者たちと向かい合う。山の社に供える新酒の本数と、河原の灯籠流しの刻限、それに合わせて坑口を閉じる「休み番」の割り振りを、評定で決まった紙片と見比べてゆく。

「こちらの戸主衆は、この刻で湯止めにいたしましょう。井戸神さまへの火鎮めの祝詞は、その少し前に。」

彼女はそう言って、月嶺屋の竈祓いの祝詞帳の頁をめくる。竈と井戸に結びついた小さな霊たちの名を、山の神、川の主と同じ息継ぎで唱えられるよう、順番を静かに入れ替えるのだ。座敷では、その工夫が見えるように、囲炉裏端に小さな榊立てを増やし、行灯の火を社町の灯と歩調を合わせて落とす。

道中商いの連中が、「せっかくの収穫時に、坑も市も閉めては稼ぎが逃げます」と口を尖らせれば、悟里香は膳の端に手を添え、穏やかな笑みのまま首を横に振る。

「あの夜、社前の石段まで冷たい火が走ったのを、お忘れかな。あれ一つで、三年分の稼ぎが土に戻るところでしたよ。」

言葉こそ丁寧だが、その声色には揺らぎがない。山の機嫌と人の腹を天秤にかけた末の「ここまでは譲らぬ」という線を、彼女は自分の口から外さぬようにしていた。

いつしか人々は、月嶺屋を「飯屋」ではなく、「あらゆる義理がいったんここをくぐらねば形にならぬ場所」と見なすようになっていた。坑夫頭は、新しい番割りの草案を手に、「この時刻回りで、ここが回せますかね」と、あくまで店の都合を問うふりをして座敷に腰を下ろす。祝日明けの休坑日が、紙の上でそっと削られていれば、悟里香の眉がわずかに動くことを、彼らは知っているのだ。社の若い典侍たちは、「この札を、どの柱に掛ければ、掘り子衆も少しは目をやりますやら」と、半ば冗談めかして台所口に顔を出す。彼女が「湯殿へ向かう角」と指させば、その夜から、煤だらけの手が札の前で一瞬だけ止まる。休番明けにふらりと寄る清算役の兵たちは、鎧を脱いだ肩をこわばらせたまま、「検分をきつうすれば、客足はどうなりましょう」と、酒の勢いを借りて問うてくる。「帳場の懐より先に、山と人の息を詰まらせれば、結局は荷も細るでしょう」と、悟里香はただ事実を述べる調子で返すにとどめる。自分を「頭」と呼ぶことは決してない。それでも、膳の置き場所ひとつ、祝詞の頁をめくる順番ひとつに、町全体の重みが、じりじりと寄りかかってくる気配を、日は増すごとに骨の奥で感じていた。かつて座敷の敷居から外へと争いをこぼさぬために磨いた勘は、いまや、湯殿から坑口まで続く脆い和(やわらぎ)を支える柱となりつつある――利の勘定や、恐れに押されてきしむその木目に、ひずみが走る前に、指先で探り続けねばならぬ、と。

秋も本格の冴えを見せはじめ、夜明けの橋板は白く凍り、吐く息が淡い霧となって欄干の間をさまようころ、町に敷かれた新しい秩序は、悟里香の帳場からは見えぬところで、じりじりと擦れを生じはじめていた。

耳に入るのは、あくまで欠片にすぎぬ。浜方から上ってきた布問屋が、膳を下げに来た小女の背に隠れるように、「谷川も丸うなったもんだ」と、あざ笑うように呟く。いつもなら銀を少し噛ませた延べ棒を運ぶ馭者頭が、今はただの黒い炭俵の荷札を撫でながら、「これじゃ鈍い車輪で遠駄をさせられてるようなもんだ」と、盃の縁に歯を立てる。文使いの小僧は湯殿口で、凍えた足を叩きながら、「南のどこぞのお殿さまが、減り荷のお沙汰を聞いて、茶碗をひとつ叩き割ったんですと」と、いかにも得意げに吹聴する。

女湯と男湯の湯気のあいだでは、顔立ちは霞んでも、声色だけは隠れない。行商人たちが、帳場の目を逃れたと思う刻限を見計らい、木桶に背を預けて、「契状を書き替えられては、こちとらの利も薄くなりますわ」と、低く言葉を交わす。そこへ、「社家衆の差し出口が過ぎるからだ」「組合衆が威張りくさりよって」といった言い回しが、遠慮がちではあるが、湯気の合間に、じわじわと挟み込まれてゆく。

「祝詞ひとつ増やすたびに、こっちの桁が一つ消えるような心持ちですわい」と、ある夜には、旅籠を転々とする米問屋が、湯上がりの肩に手拭をかけたまま吐き出した。別の者は、「山の機嫌を取るのは結構だが、浜の機嫌が損なわれりゃ、いずれ塩も米も痩せてくる」と、誰にともなく投げかける。

悟里香は、そうした愚痴のひとつひとつを、その場で受け止めも、打ち消しもせぬ。ただ、湯殿口から座敷へ戻る足どりを、ほんのわずか重くする。帳場の隅、炭火の赤を映す勘定札の列の向こうに、自分の手の及ばぬところで、細い糸が少しずつ軋み、解けかけている気配がある。その軋みが、再び山の裾を鳴らすほどの大きなひび割れへと育つ前に、どこまで耳と目を伸ばせるか――それが、いまの月嶺屋の女将に課せられた、見えぬ貸し借りであった。

その遠い圧は、荷車の軋みや船板を叩く波に乗って谷川へ戻り、やがては東の斜面のはずれ、使われなくなった計量蔵の裏に潜む細い一室へと、墨の香りに包まれた形で流れ込んでくる。ある朝、雪雲が山の端にへばりつきはじめたころ、細長い巻物がひと巻き、またひと巻きと、目立たぬ顔つきの家僕の手で運び込まれた。封蝋に押されたのは細長い家紋、筆蹟は、礼節をわきまえた清冽な流れのように乱れがない。

「旧き御契約を今さらに正す、其方の至誠、まこと目覚ましきものあり」
「人と神々との間に、新たな秩序を打ち立てんとする慧眼、遠き館にても、賞翫つかまつる」

一行ごとに、ほめ言葉は過不足なく添えられている。だが、行間には、仄暗い水脈のような別の文言が潜む。

「もし、山上よりの年貢・献銀の流れ、いささかでも細る事あらば――」
「かねてより諸事に通じたる某従弟、かの地の政道を一手に預かる器量と、人々も申す由」

名を明かさぬ「従弟」「一門衆」が、さも「万一の備え」であるかのように、にこやかに紙面へと差し込まれている。祝詞に似せた仮名まじりの婉曲な言い回しで、谷川の采配が「試み」であり、「いまだ定まらぬ局」として語られているのを、星人は見逃さない。

低い机の前に座し、薄い冬の日を背に受けながら、彼は硯の水がわずかに凍りかけているのに気づく。窓の狭間からは、町の上に張りつめたような白い空と、坑口から立ちのぼる黒い煙とが、墨絵のように重なって見えた。その下で、名も知らぬ掘り子たちが、新しい休み番と山の掟のあいだを行き来している。

「此度の仕組み、都の座敷では、いかなる肴の脇に並べられておることやら……」

誰に向かうともなく呟き、星人は巻物をもう一度たぐる。遠い城下の夜会では、山の霊の名も、谷川の坑夫の名も、一つとして膳の上に上ることはない。ただ、「献上高」「勘定」「面目」といった言葉だけが、金箔の灯りの下で行き交う。そこへ、自身の名と「例外的な試み」という評が、酒肴の一つとして添えられている光景を、彼はありありと思い浮かべる。

硯の脇には、谷川の坑道と霊脈とを重ねた自筆の図が広がっている。その上を、親族の筆が運んだ「もしも」の一文が、冷たい風のように吹き抜けてゆく。山と霊とのあいだに結び直した新しい紐は、いまや遠い親族たちの膳の上でも引かれ、測られ、切り替えの算段さえ囁かれている――星人はそのことを知りながら、指先で静かに地図の端を押さえた。ここで手を離せば、紙の上だけでなく、谷の底の石組みまで、別の手で組み替えられるのだと。

坑口脇の詰所と、帳付小屋の狭い畳の上では、安堵と誘いとが、いつも連れ立ってやって来る。清貞の首を絞めていた借財の縄は、たしかにいくらか緩んだ。だが、月ごとの決算に筆を入れるたび、勘定帳の紙肌には、なお細い赤の筋がいくすじも走る。

ある夕べ、風が出て、門灯の油皿がかすかに鳴るころ、海浜筋の豪商方からの「使い」が訪れた。身なりはさりげなく上等、口ぶりは終始やわらかい。温めの酒を交わし、他愛もない浜の景気話や、南の港で流行る唄の節くれを語り合ったのち、そやつは、何気ない手つきで、一枚の折紙を卓の上へ滑らせた。

「ここのところ、谷川では、お山と社家衆のご機嫌を取り過ぎておられるとか。おかげで、あぶれた荷がいささか出ている由。――もし、そのような“余りもの”があれば、帳面を煩わせず、浜方で、しかるべき筋を通してさばかせてはいただけますまいか」

紙には、もっともらしい言い回しで、「過ぎたる制札の歪みを正す微調整」と記されている。だが、その下段に記された銀高を追ううち、清貞は喉の奥まで冷たくなった。その一筆だけで、勘定帳の赤は、見事に拭い去られる――そう読める額だ。

差し出された折紙の上に、清貞の手が宙に止まる。目の端には、壁に掛けられた新しい誓詞札が映る。山の霊前に、掘子たちの命と汗を守ると誓わされた文句が、墨の黒で静かにこちらを見返している。新たに結ばれた掟に、己の名を連ねたその夜の、冷たい石段の感触も、まだ足裏に残っていた。

「……“余り”の荷、とな」

思わず零れたその一言に、使いは唇だけで笑みをつくる。

「どのみち、山中には積もってゆくばかりの埋もれ銀。社家衆の札とお取り決めの都合で、陽の目を見ぬなど、かえってもったいない話にございましょう。谷川のお役目を、少しばかり浜まで延ばすだけのことにて」

卓の上には、酒の匂いと、紙の匂いと、新しい鉄具の油の匂いが、重なってのしかかる。清貞は指先で、卓板の節目を一つひとつ数えながら、頭の中では、まったく別の勘定を繰っていた。救われた掘子の数、山裾で減った香の煙、星人と交わした密やかな約束の言葉。そして、今ここで印を押せば、どれほど容易く、それらすべてが「仕方のない例外」に変じてゆくかを。

沈黙は、灯芯の焦げる音さえ聞こえそうなほど濃く伸びる。向かいに座る使いの笑みは崩れぬまま、眼だけが、張られた弓の弦のように鋭く細められていた。清貞は、その視線と、山の奥から絶えず届く無言の気配とのあいだに、己の身一つが引き裂かれているのを、痛いほど自覚していた。

新しい掟の得を、一番こうむっているはずの若い掘子衆のあいだにも、不満はまず冷やかしの形を取って顔を出す。月嶺屋の広間、満月の夜に板敷きが足の裏で鳴るほど埋まると、若い者らは盃を打ち合わせ、「吉日だの相生だの言って、せっかくの脈を寝かせるなんて、山の石が暦でも読むんですかい」と、どっと笑いを起こす。
「岩ん中の銀が、朔だの望だの待ってくれるもんかよ」
誰かがそう囃し立てれば、周りの者も肩で笑い、盃の縁を指で弾く。だが、その輪の端では、頬に古傷のある古手掘りが、膝の上で手を組んだまま、低く答えるのだ。

「石は暦を読まんが、山は読む。……あの折の崩れを、忘れたか」

辰の刻に坑口から運び出された、板のように固まった仲間の顔。忠雄の最後の無茶掘りの夜、坑の奥で、誰も鳴らしていないはずの鎚の音が、耳の奥でひびき続けたこと。霊札が焦げ、風もないのに灯が寝たあの晩を、彼らはまだ骨身に覚えている。
「一週に一晩、飲み代が減るくらいで、命が一つ多く家へ帰るなら、安い勘定だ」

しわがれた声でそう言うと、若い者の笑いは、どこか所在なげに揺れ、盃の音も一瞬、間を置く。広間の隅では、笑いの波と、ひそやかな肯きとが、畳の目を伝って別々の筋を描きはじめる。悟里香は、燗徳利を運ぶふりをしながら、そのさざめきが、慎み深い用心と、昔ながらの「掘れるうちに掘れ」という癖とに、ぎりぎりのところで揺れているのを感じ取っていた。

散り散りの囁きと持ちかけ話は、やがて一つの縞模様となって悟里香の耳に絡みつく。ひび割れた盃の底に浮いた月影や、季節はずれの霜の筋を読み取ったあの夜と、同じ肌寒さが背筋をなぞる。帳場の陰から、湯殿の湯気の向こうから、借り座敷の夜更けの口論の切れ端から、恐れの記憶さえ薄れれば、人の手はすぐに危うい常道へ戻ってゆく、そのなじみ深い流れを感じるのだ。

その晩、彼女は一人、中庭に立っていた。井戸端の石はうっすらと白く、山裾を包む闇の上から、細かな雪が音もなく降りかかる。見上げれば、月峰山の黒い肩が空の灰色と溶け合い、その下に、封じられた坑口と、新たに交わされた山との誓紙とが、目に見えぬ印となって折り重なっている気がする。星人があの隠し書院で何度も筆を入れた文言が、今も冷たい岩肌の奥で脈を打っているはずだと知りながらも、悟里香は胸の内でそっと呟いた。

人の交わす約束など、階段の木口と同じく、踏まれればすり減り、やがては木目さえ見えなくなる。霊とて、捧げものが形ばかりになれば、いずれ飽き、あるいは遠ざかる。山は、さらにその上をゆく古さで、掘られ、鎮められ、また掘られた幾度もの巡りを、黙して見てきた。今は、たまたま静けさを選んでいるに過ぎぬ――足裏にひやりと噛みつく石の冷たさが、「忘れたなら、また思い出させてやる」とでも言うように、谷川の全てを突き上げているのを、悟里香は逃げずに受け止めた。

祭の鐘が鳴り出すには、まだいくらか間があった。悟里香は、帳場の灯を落とし、勝手口の閂をそっと外す。広間の方からは、昨夜まで居着いていた浜方商人のいびきが、まだ遠雷のように続いている。板戸を開け放さぬよう、身を細くして抜け出ると、裏坂の空気が、肺の奥まできりりと刺した。

行灯はすでに穏やかに絞られている。行人町の軒先に吊られた月模様の紙灯籠は、格子の内で炭火をくすぶらせ、白い紙肌に、うっすらと橙の心を浮かべている。その脇を通るたび、吐く息が細い糸となって伸び、灯籠の淡い明かりを掻き消すように揺れた。肩に掛けた竹籠の中では、酒瓶と折詰の器が、雪の上の足音に合わせてかすかに鳴る。

石段を下り、路地の角を折れれば、河端の小祠が見えてくる。かつては、誰の目も盗んで、夜更けにそっと賽銭を滑り込ませた場所だ。今は違う。社前の石畳は掃き清められ、昨夜のうちに撒かれた塩が、白く筋を引いている。拝殿の内では、まだあどけない顔立ちの若い小僧が二人、袖を枕にうずくまり、寝息を立てていた。香炉の中には、燃え残りの香がほんのりと赤い芯を抱え、細い煙が梁の方へとたなびいている。

悟里香は、足を止めて一礼し、籠の中から、小さな干栗の包みを取り出して榊の根元にそっと置いた。指先に、石の冷たさがじかに移る。あの頃は、ここへ来るたび、「どうか月嶺屋を、子らを」と心の中で早口に繰り返したものだ。今は、一言ひと言を選ぶ余裕がある。山と川とに、新たに結ばれた誓いが、この小さな社にも届いているのだと、昨今の社家衆の動きから察しがつくからだ。

顔を上げれば、空は灰を溶いたような色をしている。谷の縁から、冬静めの朝の光が、まだ遠慮がちに覗き込んでいた。山裾の屋根々々に積もった雪は、薄く、しかし均(なら)されて白い。人の手の跡よりも早く、夜のうちに降りてきた静けさが、谷川全体を一枚の布のように覆っている。その布を踏み破らぬよう、悟里香は再び籠を抱え直し、鉱口の方へ続く坂道へと、雪をきしませながら登り始めた。

耳を澄ませば、町の奥でかすかに戸の開く音がし、どこかの井戸から桶の軋む音が応える。だが、まだ祭太鼓も、呼び鳴らしの鈴の音もない。山と人とのあいだで、新しい「静けさ」の名を確かめる、その一刻だけが、細く長く伸びている。

谷底の低い鉱口の縁には、いつもの喧騒が、きれいに拭い取られたように無い。車輪のきしみも、人数改めの怒鳴り声も聞こえず、あるのは、雪に吸い込まれる松明のぱちぱちという音と、凍りかけた川が底で擦(す)る、かすかな水音だけだ。

新しく綯い直された注連縄は、社家衆と坑夫の女房衆とが肩を並べて指を動かしたものだ。霜に半ば埋もれながら、紙札とともに、干し柿や塩を包んだ小袋、子どもの手で削ったらしい不格好な木像(きぞう)が、ところどころで白さに色を差している。吐く息を止めて見れば、その一つ一つに、名も告げられぬ祈りが結び付いているのが、冷えた空気の張り具合でわかるようだった。

忌み坑は、分厚い杉の角材で口を塞がれ、その一面に、細かく詰めた筆がびっしりと墨の森をなしている。星人はすでにそこにいた。肩に積もった雪を気にも留めぬ風で、袖の内には、どこにでもいる書き役のように、細長い巻筒を一本、差し込んでいる。

清貞は、少し離れたところに立っていた。鎧は蔵に置き、今日は祭祀のときのような地味な法衣だけをまとい、手首には、使い込まれた数珠が一本、黒光りしている。指先は、かつて帳面の勘定に追われて震えたそれとは違い、じっと凍てた空気を測るように静まっていた。二人のあいだを結ぶものは、もはや勅命でも貸し借りの証文でもなく、この封じられた闇を、二度と無茶な手で開かぬという、まだ形になりきらぬ一つの覚悟だけであるように見えた。

悟里香は、封(ふさ)がれた坑口の縁に膝をつくと、薄い足袋の底から、湿りを帯びた冷えが、すぐさま骨まで染み込んでくるのを感じた。息を細く吐きながら、持参した小さな盃を両手で包み、角材の根元の固く凍った土にそっと据える。酒は、注ぎたてのときよりも一段と色を失い、氷の気に透かされて、淡く青白く見えた。かじかんだ指先で折鶴の翼をなでつけ、雪に埋もれぬよう脚を整える。紙の隅には、月嶺屋の小さな紋が、煤けた灯りの下で鈍く光った。

少し脇で、星人が細長い巻紙を解く。貴人として命じる調子ではなく、幾度も読み返し、言い淀み、ようやく自分の舌に馴染ませた言葉を、確かめるように拾い上げてゆく口振りだった。古い契(ちぎ)りの文言に、坑夫たちの名と、今では祀る者も少ない坑道神たちの称号とを一つひとつつなぎ合わせてゆく。そのたび、雪に埋もれた人垣のどこかで、肩がかすかに揺れた。そこに己や亡き仲間の名を聞き取った者もいたのだろう。

最後の一節が冬空にほどけかけたとき、清貞が一歩前へ出る。今日は軍装ではなく、祭祀用の地味な法衣に身を包み、胸の前で組んだ両手に、火打石と火打金を静かに収めていた。かつて借金の証文に震えた指とは別人のように、その動きは落ち着き払っている。打ち合わせた石のあいだから、豆粒ほどの火が飛び、差し出された線香の先に吸い込まれた。ぱち、と小さな音がして、薄い炎が花のようにひらく。立ちのぼる煙はしばし真っ直ぐに伸び、それから、封じられた闇の口へ、ゆっくりと身を屈めるように曲がっていった。

谷が、ふいと息を呑んだようになった。風は落ち、川のせせらぎさえ、氷の下で湿った鼓動のようにくぐもる。その削(そ)がれた静けさの底で、最初の「コツ」が来る──柔らかいのに、たしかな角を持った音だった。遥かな昔に投げかけられた問いに、山の奥で巨大な手が、今ようやく応じたかのように。しばしの間を置いて、また一打、また一打。岩を砕く暴れ槌ではなく、柱を据えるための、寸分違わぬ槌音のように、間合いを測りながら続いてゆく。忌み坑を支える梁(はり)に沿って、狐火めいた青白い帯が、すっと走った。古い木目をなぞり、かつて誰かが刻みかけて消えた文字を探る手つきで、細く素早く往(い)き過ぎると、すぐにまた、淡闇に吸い込まれてゆく。三人は、気づかぬうちに同じように息を止めていた。悟里香の胸裏を、祖母から聞いた折々の言い伝えが駆け抜ける。青は戒め、青は赦(ゆる)し、青は底知れぬ深さ。どれなのかを、山は教えない。ただ、ぶっきらぼうな相槌(あいづち)だけを返す。「聞き届けた」と、そう短く告げるだけのように。

町へ下り着くころには、空は冬の淡金にほどけ、祭礼の鐘が、間を置きつつゆっくりと鳴り始めていた。行人町(ぎょうにんまち)では戸(と)が一枚ずつ跳ね上げられ、湯気と、寝床のぬくもりを含んだ気配が路地へ吐き出される。親たちが正装(せいそう)と作法を急かすより早く、子らは雪へ転げ出た。裸指を真っ赤にしながら、白さの上に線を引き、渦を刻む。

辻のゆるく折れるところで、悟里香は歩みを留めた。一人の小僧が、月嶺屋の戸口に掲げた護り紋の曲線を、覚え描きに雪へなぞっている。その隣では、友だちが「違(ちげ)え、坑口の新札(しんさつ)みてえに、もっと角立てねえと」と口を尖らせ、指先で鋭い角と折れをつくる。二人の笑い声は、鐘の音よりも澄んで高く、遊びと真剣さとを一つにして響いた。

悟里香には、その稚(いとけな)い書きなぐりから先行きを読み取ることはできない。ひびの入った盃の筋目と同じく、それはただの跡にすぎぬのかもしれぬ。けれど、路一面に広がってゆく模様は、戯(たわむ)れ半分の手つきでありながら、覚えたばかりの祈(いの)りを、雪という紙に試し書きしているようでもあった。

煤(すす)と霊(たま)の影をまだ濃く宿した町が、その上からそっと身じろぎをする。恐れに押しつぶされていた拍(ひびき)とは違う、頼りなくも新しい拍子が、湯気と鐘と子どもの声を束ねて生まれつつあるのを、悟里香は胸の奥で聞いたような気がした。やがてこの子らが、山と取り引きをする番(つが)い手になる。そのとき彼らが差し出す言葉が、いま、赤くかじかんだ指で、雪の上にゆっくりと覚えられている。